ふたりしか勝たん向こうに見えた人影に紫鸞は唇を緩めた。ふたりいる、と気づいたときには欄干に手を掛けて彼らの観察を開始していた。眩い髪色は離れていてもすぐ分かる。一方で隣の黒い髪も被っている帽子のおかげで判別は簡単だ。
荀彧と郭嘉、彼らの名を口の中で密かに呟く。どちらも華がある。紫鸞は最初「華」という意味を理解し切れていなかったが共に過ごす内に段々と分かってきた。単なる見た目だけのことではない。所作や言葉遣いから伝わってくるそれを、最も簡単に、且つ的確に表現するとしたら華というひとことに辿り着くのだろう。
目のいい紫鸞には彼らの表情が読み取れた。互いに微笑んでいる。さすがに会話の内容までは分からないが回廊の途中で話しているのだから誰かに聞かれても困らない程度の雑談なのだろう。心なしか空気が柔らかい。どこかへ向かって歩いていたのにいつの間にか彼らの足は止まり、話に夢中になっているようだ。
無意識に紫鸞は腕を組んで二人を眺めていた。何があるという訳でもないのにうんうんと深く頷く。鍛錬に向かうはずだった己もすっかり立ち止まってしまい、不思議と目が離せない。
「……別に話しかけに行っても大丈夫だと思うけど」
怪訝な顔と声で、賈詡が紫鸞の隣にやって来る。彼が近付いていたことは気配で気付いていたため驚きはない。
「別に、用事はない」
「そうだとしてもあんたなら歓迎されるでしょうよ」
「邪魔をするつもりもない」
「いやぁ……あの感じなら大した会話じゃなさそうだから……参加してきたら?」
何かを疑う眼差しを変えないまま賈詡が勧める。手にしている竹簡を肩に置きそっと顎で荀彧たちの方を指す。
紫鸞も賈詡も臆する性質ではない。立場上、賈詡は敢えて一歩引く場面もあるのかもしれないが少なくとも紫鸞は遠慮したり躊躇したりすることはなかった。この軍における人間関係はかなり良好といっていい。
「だからといって、二人の間に割って入りたくはない」
「あっははぁ、寧ろ行った方がどっちも喜ぶんじゃないの」
恐らく賈詡の言う通りだ。この場を離れて荀彧と郭嘉の近くに行けば紫鸞から声を掛けずとも向こうから親しげに呼んでくれるのだろう。実際にそういう経験は幾度も経てきた。
けれども経てきたからこそ、紫鸞は今ここから動きたくはなかった。
「荀彧が好きだ」
「へっ、は、えぇっ?」
「郭嘉のことも、好き」
「あ、あぁー、そういう……いや、驚かさないでくれ」
ぺちん、と情けない音を立てて賈詡は自らの額と目の辺りを手で覆った。それが外れると何とも言い難い、生温い視線を紫鸞へ寄越す。
「どちらのことも大切……二人のことはそれぞれ好き、だが」
「……うん」
「二人が一緒にいるところを見ていた方が心が落ち着く」
「ふぅん……そりゃ、良かったね」
全て事実で偽りはなく誇張もしていない。曹操の下に来てからもう何度も軍師たちと酒を酌み交わした。鍛錬の後に武官らと食事を摂ることもあるが回数で言えば郭嘉達と出かけた方がそれよりも勝る。軍議の際にも軍師から直接指示を貰うことが増えた為、必然的に彼らのことを目にする機会も多くなっていった。
「皆、郭嘉の身体のことを心配していただろう?」
「あんな体じゃあね」
「荀彧は、特に。戦に郭嘉を連れていく時は結構詰められた」
「あー……そういやあの二人は同郷だっけか」
それを自慢するような人ではないが荀彧は誇りに、そして大事に思っているのだろう。彼が思う以上に彼の郭嘉への心配や戸惑いは強く、深くて根深い。
「易水でのことも、覚えているか」
白狼山の戦いを終えた後、郭嘉の身は限界だった。帰還の途中で立ち寄った易水の地で合流した面子の中に賈詡もいたのだから当然記憶に残っている。まだ過去のこと、と割り切るには新鮮過ぎる一件だ。
「倒れそうになった郭嘉を真っ先に支えにいったのが荀彧で……」
「勿論覚えてるよ。まさかあんな寒い場所で飲んでるとは思わなかったからね」
「見たか?あのときの荀彧の顔」
凄かった、と零した感想は思いのほか熱が入っていた。ふらつく郭嘉を抱えて助けたことは紫鸞も経験がある。しかしあの雪の日に駆けつけた荀彧の、見たことのない緊迫した表情はかなり衝撃的だったのだ。
「とても肩を借りて居眠りをするような人には見えなかった」
「……待って、荀彧殿って紫鸞殿の肩で仮眠とってるの?」
問いに対して頷くと賈詡は下唇を突き出す。
「それに郭嘉も郭嘉で……荀彧に抱えられたときの方が何となく嬉しそうだった」
同郷だからなのか慣れ親しんだ相手だからなのか、力の抜けた体を完全に預けている郭嘉は紫鸞の知る限り最も弱々しかった。病のことを必死に隠していたとは思えないほど荀彧に抱えられているときは甘えているようにも見えた。状況を鑑みればあの時点で誤魔化しても無意味だろうが珍しい態度が妙に印象に残っている。
「そこは落ち込まないの?」
「何故?」
気落ちする理由がない。新しい側面を知れたのだから喜ばしい、と答えれば賈詡は微妙な顔つきで笑った。
「ま、張り合ったって勝ち目はないだろうし」
「そう思う」
「いや冗談なんだけどさ……あんたも、色々拗らせている側の人間なんだ」
拗らせている、と繰り返す。確かにこれまで抱いたことのない感情が紫鸞の中に芽生えていた。以前であれば顔見知りに会えばひとまず挨拶は交わしていたというのに、二人に関してはその気が起きない。決して後ろ向きな意味ではなく邪魔をしてはいけない、触れてはいけない領域のように思ってしまうからだ。
「拗らせ……?」
「うん」
黙り込んだ紫鸞は賈詡から視線を外し、未だ向こうで会話を楽しんでいるであろう二人に目を向けた。変わらない様子でお喋りに興じている。どちらも落ち着いた声量の持ち主だからやはり何を話しているかまでは聞こえないが温和な雰囲気なのは分かった。
「いいんじゃない?迷惑かけてる訳じゃあないんだし」
「そうか」
「というか紫鸞殿、どこかへ行く予定じゃなかったの?俺はもう行くけど」
竹簡を持ち直した賈詡はまだやるべき仕事があるようで肩を竦めてみせた。そろそろここを離れろ、と暗に促してくれているのだろう。しかし紫鸞はまだ動く気分にはなれなかった。
「可能な限り……眺めていたい……」
呆れと驚きと、信じられないものを見たと言わんばかりの表情で賈詡は口の端を痙攣させた。これを「見守る」と呼んでいいのか分からないがそこに居るのに無視して立ち去るのは紫鸞にはまだまだ難しい。
「あ。気づかれた」
ぼんやりとした顔のまま賈詡が呟く。その指摘通り、荀彧と郭嘉二人揃って紫鸞たちのいる方へ手を振っている。無視する訳にもいかないと賈詡は一瞬だけ右手を上げて応える。立ち尽くすこちらをどう思っているのだろうか、紫鸞は中途半端に手を上げて合図を送った。左右に振るものの変な照れが出てしまい、おぼろげで微風すら起こせない。ぎこちなくて頼りない動きに賈詡が失笑したのが聞こえた。
「行ってしまったね。急ぎの仕事ではなさそうだけれど」
「ええ。私達も少々、立ち話が過ぎましたね」
郭嘉が手を振ると賈詡は軽い反応だけ返して去ってしまった。一緒にいた紫鸞もまた控えめながら手を振り返してくれたがいつまでも留まってはいられないようでこちらを何度か振り返りながらもその場を後にした。彼らが一緒にいた理由は不明だが郭嘉たちが気づいたときにはこちらを見ていたから、紫鸞らも何やら言葉を交わしていたのだろう。
「どうかしましたか」
微笑ましく感じ口元を緩めていたところを荀彧に指摘される。笑い声は漏らしていないのに瞬時に郭嘉の表情の変化を悟るのだから大したものである。機微に聡い彼は若干覗き込むような姿勢で郭嘉を見ていた。
「紫鸞殿も賈詡も、馴染めているようで良かったな、と思ってね」
元々は敵であった人物と、記憶喪失のためその実態が不明瞭だった者、特に後者の紫鸞は「刺客の一味ではないのか」とあらぬ疑いをかけられたこともあった。結果的にどちらも問題なく、むしろ曹操軍に大きく貢献しているため今となっては要とも言える存在だ。
「そこまで心配しているようには見えませんでしたが」
「うん、まぁ、正直大して脅威とは捉えていなかったよ。根拠はないけど上手くやっていけそうな気がしたんだ」
もう小さな後ろ姿になってしまった紫鸞を見ながら彼と出会った頃を思い出す。比較的無口で表情の変化も緩やかなのに、却ってそれが功を奏したのか瞬く間に皆に馴染んでいった。戦場においても日常においても彼がいることが当たり前になっている。
紫鸞に助けられた人間は大勢いる。郭嘉もその内のひとりで、こうして穏やかな談笑を楽しめているのも彼のおかげだ。
「郭嘉殿こそ」
「うん?」
「貴方こそ、元気になってくれて本当に良かったです」
揃って紫鸞たちがいた方角を見ていたが同じ頃合いで視線が戻り、かち合う。黒く優しい瞳が郭嘉を見つめている。凛々しい眉も相まって荀彧の発言は常に説得力があった。
「一時は本当にどうなるかと……あの寒い易水での日は忘れたくとも忘れられません」
「大袈裟だよ」
郭嘉が苦笑いを浮かべれば荀彧はしっかりと首を左右に振る。
「私が支えなければ頭を打ち付けていたかもしれないんですよ」
「えぇ、そういう意味で忘れられないの?」
「そういう意味も含めて、という話です。あの状況で怪我を負ってはあまりにも郭嘉殿が……」
それ以上は言いたくない、と荀彧は話を止めた。郭嘉もまた聞きたくはなかった。憐れみを持たれたくないというより、単に彼からの小言を避けたいがためである。ふとした瞬間に説教臭くなってしまうのは年齢の差なのか、同郷という括りがあるからなのか。
「それじゃあ、私達も行こうか。貴方と一緒ならどれだけ時間を使っても叱られないだろうけど」
冗談交じりに言えば違った方面から小言が来るかと思いきや案外荀彧は小さく頷くだけであった。散々立ち話をしていたが暇な身分ではない。息抜きが済んだのなら早々に戻った方がいいだろう。
「……郭嘉殿」
「どうしたの」
「その……少しゆっくり歩きましょう」
手の甲に触れる革の感触に喉の奥が引き締まった。たまたまぶつかったのではなく故意に当てられたのだと分かった瞬間、背筋に痺れが走っていく。加えて、彼の引き延ばすような物言いが郭嘉の心を落ち着かせた。
互いの手の甲を合わせたまま指を絡めさせる。通常とは反対の向きで繋ぐ手は歪だが郭嘉は嫌いではなかった。