きみ笑うことなかれ雲のおかげで今夜の空は随分暗い。しかし風があるため時折月が顔を出す。吹く風が運んでくる香りは仄かに甘く、花の匂いがした。春が近い。いい夜だと主は笑って顔を上げて薫る風を楽しんでいるようだった。
「だいぶ暖かくなりましたね」
郭嘉がそう声を掛けると曹操は深く頷いてから杯をよこしてくれた。飲めと、その目が語っている。微笑みを返して有難く頂戴しようと口元へ持っていった瞬間、慣れぬ芳香が鼻をくすぐった。
「安心せい、毒は入っておらん」
「勿論承知しています。ですがこれは一体」
「交易の品よ。わしも飲んでみたがこれがまぁ、なかなか癖になる」
目尻を下げながら語るそれに偽りはないし、疑うつもりも一切ない。ただどこか悪戯っぽい笑みだ。悪童っぽさの抜けない主の笑顔を指摘するとまた笑い返されてしまった。諦めた郭嘉も苦笑を返し少々覚悟を決めてから杯に口をつけた。
流れてくる液体は芳醇で確かに酒だ。ほど良い温度で舌ざわりも滑らかで、郭嘉は上品な刺繍が施された織物を思い浮かべた。喉を通れば体が一気に火照る心地がする。後味は香辛料のような複雑な何とも表現し難いものだった。
「ああ、本当だ。これはクセになりそうですね」
「気に入ったか」
「ええ」
さらに飲めと追加を注がれる。遠慮なく戴くものの、やはり曹操の笑い方が気になって仕方がない。単にこちらを酔わせようとして勧めてくるだけではないような引っ掛かりを覚える。
「私ばかりでは申し訳ないです。曹操殿こそもっと召し上がってはいかがです」
やんわりと追従を断りながら曹操の杯へと目をやった。満たして差し上げようと手を伸ばすもかわされて、よいよいと楽しそうに押し返される。
「おぬしに飲ませたいのだ。こういった味は好きであろう」
「それは、そうですが」
「なら遠慮などせず、わしに構わず飲み干せ」
夜風が吹く。先ほどまで香っていた甘い花の香りは今はもう分からない。すっかり酒精に飲み込まれてしまって曹操と郭嘉の間には異国の香りしか感じられなかった。
飲めと言われれば、飲む。策を講じろと言われれば献策するのと同様に主に言われたことは何の疑問も抱かずこなしてきた郭嘉だが、考えてみれば軍事や政務以外でそんな命令をされた経験はない。だからこその違和感なのだろう。酔っ払いの戯れにしては所作がしっかりしている、けれども目的をはっきりと言わない彼も珍しい。
「……残りを全て飲むには強過ぎるかと。いくら私でもこんなに沢山摂取しては、どうにかなってしまいますよ」
この身が酒で満たされて漬けられた果実のように全身に染み渡ったとしても一向に構わないが、訳も知らずに飲まされ続けるのは釈然としない。
降参だと、困ったように微笑んで杯を置くとすかさず曹操がそれを取った。機嫌を損ねたかと一瞬身構えるがすぐに打ち砕かれる。肩を大きく震わせたかと思えば声を上げて笑われて、曹操は郭嘉の肩を幾度か叩いた。
「すまんすまん。何、わしはこの酒の香りが気に入ってな」
「では尚のことご自身で召し上がっては……」
「だからな、郭嘉。散々おぬしに飲ませればその身からこの香りが香ってくるかと思ったのだ」
は、と間抜けな声が漏れてしまった。慌てて口元を押さえる。何を言い出すのだという驚きと、改めて頭の中で整理して感じてきた恥じらいがあっという間に全身を駆け巡っていく。
「たとえ散々浴びるように飲んだところで、香ってくるのは酒臭さだけですよ」
悟られないよう咄嗟に言葉を返したが曹操の笑みは止まない。
「ん?そんなに恥じることもないであろう、郭嘉よ」
「恥じていません。意地悪が過ぎますね、曹操殿。どうなっても知りませんよ」
言うや否や、郭嘉は曹操の手の中にある杯を奪った。再度この異国情緒溢れる酒に口をつけ流し込む。先ほどよりも勢いよく傾ければ瞬時に喉を通り体内の奥へと落ちていき、どんどん熱くなっていった。
「誰もそこまで疾く飲めとは言っておらぬ」
「いいえ、知りません。知りませんよ曹操殿……明日、荀彧殿辺りにでも、怒られればいい」
余りにも豪快に飲み干したものだから流石の曹操も目を見開いていた。一方で急激に酒精の濃度が上がった郭嘉は呂律も怪しく、もはや敬う言葉も忘れてふらふらと主へと寄りかかった。呪詛よろしく厳しい軍師の名を出しながらも蕩ける目元でじっと曹操を見つめる。
「ほら、曹操殿。もっと。飲ませてください」
「全く……どうなっても知らぬのは、おぬしの方よ」
郭嘉はこれまでに感じたことのない強い酩酊の中、僅かに感じられる主の香りに静かに寄り添った。