銀の禅譲、金の簒奪 生きている。
生きているということは、起きているということだ。
「……D、おはよう、ございます」
私が円卓の露台へ根を生やしてから、それなりに経った。まさか比喩表現でもなく、本当に木の根を自分が生やす日が来るなんて、狭間の地を訪れた頃の私は夢にも思わないだろう。
今は一体、いつだろうか。寝ぼけまなこでDを見つめれば、彼はサッとフェイスプレートを下ろし、感情を読ませない鎧の中へと引っ込んでしまった。
「あの、D」
そのまま体も帰ってしまう。すぐ近くの大祝福にとどまっているようだが、私に追いかける術はなかった。
――熱い、唇が。私の体の中で確かな燻りを感じるのは、今やそこだけである。
半屍と称される肉体。下半身は、とうに眠ってしまっていた。上半身もいつ冷めるかといったところで、雪濃い森の冷気に晒されたような古い殻は、常に強い眠気を運んでくる。
それでも私がこうして生きている――起きているのは、ひとえにその熱のおかげだった。
初めては、いつだったか。あの勇敢でお人好しな褪せ人に、全てを託した後だったことは覚えている。
私は、深い眠りに落ちた。直感的になんだかまずい眠気だったのでできる限り抗ったが、努力むなしく意識を手放したのだ。時間的にどれくらいのものだったのかは、分からない。
ただ、苦しさが。
銀色の中で、溺れる。
のに、轟々と燃える金色が、それを許さない。
息継ぎをしないと、死んでしまう。
そう恐ろしくなった頃合いで、私は目を覚ましたのだ。眼前には生白い肌に、金にも銀にも見える細い髪を垂らした……Dの素顔が、いっぱいに広がっていた。訳も分からず大きく息を吸えば、ふつりと一本の糸が切れる。それは私の唇とDの唇を繋いでいた、頼りない白銀の橋だった。
あの時のDは、確かに動揺していたと思う。今にも割れそうな薄氷の瞳を揺らして、傷ついたような顔をしていた。心当たりはないが、息と共に吸い込んだ罪悪感を和らげるため反射的に謝罪をすれば、Dは弾かれたようにフェイスプレートを下げる。D、と声を掛けても彼が振り返ることはなかったが、覚醒しだした脳が私に状況を告げた。
彼は、眠っていた――死んでいた、私へ。蘇生の息継ぎを、即ち――酸素を簒奪する深い口付けを、施してくれたのだということを。
気づいてから、私の感情は滅茶苦茶である。Dにまずは感謝をと思ったが、彼はとっくに円卓を出ており、行き場のない残り火を拠り所にするしかなかった。
そうだ、確かに、この熱は。彼との口付けの名残であり、そして。
凍りゆく私の躯を溶かす、生の炎である。
そのようなやり取りが多分、何度か続いた。表現が曖昧なのは、私が彼の蘇生を全て受け取れているのかさえ不明瞭だからである。日に日に眠気は強く昏くなっていき、私の根はシーツで覆い隠せない程に成長していた。
「……ふ、は…」
今日も、なんとか生きている。というか、生かされている。私はそろそろ、苦しくなってきていた。
「D、ねえ、D……」
掠れた声で必死に呼びかければ、珍しくフェイスプレートを下げないでいてくれている。じぃっと見たDの口元も、私の口元も、拭いたくなるくらいには濡れていた。もう、それほど激しい交わりでないと私は目を覚まさないのだろう。
それは、きっと。彼の望む、命の形ではない。
「いつも、ありがとう。でも、ね……ふふ。穢れてしまいます、よ」
かろうじて生きている表情筋を動かして、得意な笑顔を作って見せる。一瞥を寄越したDは、かつて飽きるくらい聞かせてくれた長い溜息を吐いた。
やり取りはあれで終わりだったが、以降Dは私が目を覚ますたびに、少しの会話を許すようになる。冗談を言えば、昔のように返してくれる日もあった。
それは死に向かう、最後の舟旅。今日も金ピカで銀ピカな船頭は、淵へと落ちそうな舟を必死に戻してくれていた。
「……この世で、最も。濃い、接触とは。何か、ご存じですか」
「……まさか、口付けではあるまい」
「ええ、その通り、です」
Dが鎧越しでもわかるくらいに、意外そうな顔をしている。
なんだ、この男は。彼が自分の考えうる最も濃厚な接触で私を死の淵から引き摺りだしていると自負していたのかと思うと、たまらない気持ちになった。
だが、本題はそれではない。
「顔を、見せて……」
Dは少々渋ったが、ややも粘れば私の願い通りにフェイスプレートを上げてくれた。じぃっと彼の顔を……いいや、彼の瞳を、見つめた。
「ついに気が触れたか」
「何度目、ですか、それ。違い、ますから……ね、D。貴方も、私の目を、見てください」
「……ん」
導きを失った瞳が、ぶつかり。褪せた水晶から発せられる光が――深く、深く。私の根のように、歪に絡まっていく。
「答え、わかり、ました?」
「……わかった。あいつにも焼き付けるから、ずっとそうしていろ」
あいつとは、もう一人のD……彼の弟のことだ。Dは二人いて……ダリアンとデヴィンは二つの肉体に二つの意思を持っているが、与えられた魂は一つだけらしい。私はデヴィンに会ったことはないけれど、ダリアンが"こう"ならデヴィンもきっと"ああ"なのだ。
「……ここ、に。肉体が死んで、魂だけの、半屍がいます。この魂、お渡しできたら、良かったのに」
「そんな穢れた魂は、必要ない」
知ってます、と笑えば、Dが首を横に振った。意外な反応だったので彼の言葉を待っていたら、Dは再び私で目を焼きながら口を開く。
「お前にはまだ、意思が残っているだろう。まっさらな魂であればまだしも、お前のそれは星が浸み込んでいて、金にも銀にもなれぬ。そのようなもの、Dには不要」
「D、」
「……お前は、お前の道を往くのだろう」
彼との道は二度と交わらないのだと、言葉にしたのは私が先だ。
そうだ、その通りだった。もう、旅の終わりが見えてきている。
「星といえばだ」
Dが星の話をするなど、珍しい。眠る前の子守歌として、申し分ないだろう。
「星見の魔術師の肉体は、仮初だと。石に魂を移すことで不滅、と聞いたが」
……これは、全くの予想外。一体誰から聞いたのやら。そんなDの嫌いそうな、黄金律から外れに外れた異端を、殴られるのを覚悟で伝えられる人物は相当のお人好しに違いない。
「おや、貴方、そういうの。お嫌いかと、思って、黙って、いたのに」
「……ロジェール」
起きたばかりだというのに、また瞼が重くなってきた。本能的にわかる。もう、次はないのだと。
であれば。魂が樹に還る前に、済ませてしまわなければ。
「ご安心、ください」
酷く、重く、寒苦しい。世界は沈み、眼前に夜が広がっていく。
「アレは、魂の移植を、見守ってくれる、騎士がいてこそ。成り立つ、ものですから」
「……、」
「私には、もう。騎士など、おりません、ので」
願わくば次は、異端など存在しない世界で会いたいものです。
おやすみなさい、ダリアン。