甘い棘荒北家の小さな庭は冬の花が咲いている。
色とりどりに並べられたプランターに寄せ植えられている花や植物は小さな森のようだ。絵を描くことが好きだったというお母さんは丁寧に小さな森を作り、色のない季節を自分の色で染める。
見たこともない鮮やかな緑に手を伸ばすと、指先にちくりと痛みが走った。
葉に隠れてよく見えなかった茎には小さな棘が所々に付いていた。刺したのは小さな棘だった。
手折られるのを厭がるようだなと、自分の指先に血が滲むのを見ていると「なぁにやってんだよ」と荒北が呆れたように言う。
気が付かなかった、そういうと「これ、小さい棘あんだヨ」と俺も昔これの棘刺した、とその鮮やかな緑を見て言う。だけどこれ、キレイな色の花咲くんだぜ、と花の名前などほとんど知らない荒北家の息子は言う。
荒北は顔を上げて周りを見渡す。そして血の滲む指を自分の唇で食んだ。熱い舌の感触が伝わって息を飲む。そんな俺を見て荒北は悪戯をした子どものように笑った。
静岡に送る荷物をまとめる、と荒北が部屋に戻るのを見送り、血の上った頭を冷やすのにやりかけの寄せ植えを見ていると、入れ替わりに出てきたお母さんが「真護君、こういうの好きなの?」と聞く。
「やったことがないんですが、好きだと思います」
そう答えるとお母さんは笑った。何か笑われるようなことを言ったかな、と自分の答えを反芻する。
「ごめんね、そうじゃなくて」とハサミを取り、虫の付いてしまった葉を切り取る。慎重だなと思ったから。お母さんはそう言った。
靖友は口から先に生まれてきたみたいなところがあるでしょう?口が悪いし」
それは肯定せざるを得ない。はい、と頷くと「ねえ」と呆れたように笑う。
「真護君は自分の気持ちを一回確かめてから口に出すなって思ってね」
どうして二人が一緒にいるのかなんとなくわかるような気がしたと言われて、答える言葉を失くす。パチンと音がして葉が落ちる。
靖友は、とお母さんは続けた。
「早くに家を出たからなのか性格なのか、それは今でもわからないんだけど」
パチンとまた音がする。
「いろいろなことをひとりで解決しようとする。本心は誰にも言わないんじゃないかって思ってきた。誰かに言えたらいいと、そういう人がいたらいいとずっと思ってた」
野球で肘を痛めた時、わずかな希望を繋ぐようにあちらこちらの病院へ行った。最後の大きな病院で、先生に今までのように野球はもうできないと言われた時も何も言わなかった。
やるまで信じないという顔をしていた。
あれだけ打ち込んだものを失うことが、どれだけつらいのか想像がつかなかった。これ以上、つらい思いをしないで済むようにといろいろなことを言ったけれど、靖友が欲しかったのはそういう言葉ではなかったんだろうなって今ならわかるんだけどね、とそこまで言って「真護君、ごめんね」と相手が息子の友人だったと思い出したように言う。
そして、今日は少し暖かいね、と話題を変えるように呟いた。
なんとなくだけれど、この人もその思いを誰にも言わなかったんじゃないかと思った。
ただ黙って、混乱する息子の感情の粒を拾おうとしていた。でも親子だから叶わないことがある。それはよくわかった。親子だからこそ上手く伝えられないことがある。怒るくらいのエネルギーがないと感情を伝えることができない。口を噤んでしまう。そして感情的になった親子は言わなくていいことを言い合う。
そして荒北はここを出て、福富に会うまでずっと混乱の中にいたのだろう。自分はひとりで味方など誰もいないと思いながら。
今、荒北は誰のことも恨んだりしていない。運命を呪うこともない。福富が言った「前を向け」という言葉は荒北の中に一生残り、支え続ける。
「荒北は昔の話をあまりしません」
そういうとお母さんがうん、と小さく頷いた。
「でも家族の話はします」
妹がいること。ケンカをすること。お父さんは忙しい人だったこと。それでもよく話を聞いてくれたこと。お母さんが誕生日にはケーキを焼いたこと。植物の名前をよく知っていること。アキチャンがどれだけ可愛いのか。ときどき、思い出したように話す。
自分があまり家族の話をしないから遠慮しているような気がします。その言葉に、お母さんはいろいろな感情も言葉も冷えた空気と一緒に飲み込んだように見えた。そういうところも荒北によく似ていた。しなやかに強い。だから人に優しいのだと知っている。
本当はもっと知っている。
高校時代の馬鹿騒ぎや気の遠くなるような練習も、勝った喜びも負けた悔しさも。今、どんなふうに笑い、どんなふうに怒るのか俺は知っている。
その姿は、指を刺した小さな棘のようにゆっくりと心の奥深く刺さっていく。自分の心の内側に深く刺さって溶けてしまった。そしてそこからビアンキに似た浅葱色のような水色に染まっていってもう、それを止めることができない。
そうだ、と思い出したようにお母さんが言い、球根を出してきた。
「これ植えよう」と俺にいくつか渡す。
二人で小さな鉢に球根を植える。何色の花が咲くのか忘れてしまったとお母さんが笑う。小春日和の日差しの中で、見よう見まねで植えていく。土と肥料を混ぜながらお母さんが言う。
「連理の枝って知ってる?」
たしか漢詩に出てきたとしか憶えてない、そう言うと理系だもんね、とお母さんが笑う。
「別々に並んで生えている木があってね、そのそれぞれの木の枝は繋がっているっていう伝説にある木のこと。長恨歌に出てくるの」
うっすらとした記憶しかない。
悲しい詩なんだけどね、現世では叶わないけれど生まれ変わったら連理の枝か比翼の鳥になりましょう、ってそういう願いを書いた部分があるのよ、と言いながら丁寧に球根を植えていく。
「真護君、そういう人を見つけたら離しちゃ駄目よ」
手を止めずにそう言った。
「それがどういう形でも。友達でも恋人でも」
そう言って俺の顔を見た。
どれくらいのことがこの人には見えているのだろう。自分が今、とても不安な顔をしているのではないかと思うと顔を逸らしたくなる。それを察したかのように「この花が咲く頃、また遊びに来てね」と言った。
その時、この人はもしかしたらいろいろなことに気付いていて、それを受け入れようとしているんじゃないかってそんな気がした。勝手にそう思った。
だからその言葉に、ただ頷いた。
それを見てお母さんは穏やかに笑う。
そしてしばらくかかって二人でいくつかの球根を植えた。
荷造りに飽きた荒北が庭に出てきて、俺とお母さんを見て「お前、なにやってんの」と笑った。
帰る前に夕飯を、というお母さんの言葉に甘えて皆で夕飯をいただいてから帰ることにした。
荒北の荷物は意外と多く、近所のコンビニから宅配便を出しにいったくらいだった。
妹たちは賑やかで、帰る兄の姿に慣れているのか「次はいつ頃来るの」と聞いている。荒北は「普段、そんなこと聞かねえじゃねえか」と言い返す。
妹たちは顔を見合わせてうん、と頷く。そしてこちらを見て「お兄ちゃん来なくてもいいので真護君また来てください」と言った。
荒北は飲んでいた牛乳でむせた。
俺は「またお邪魔します」と荒北の家の人たちに挨拶をする。
「いつでもどうぞ」とお母さんが言う。アキチャンは俺の隣に座っている。またね、と言って頭を撫でた。お父さんは息子を見送るのが寂しいと、いつも靖友が帰る頃になると酔っ払って寝てしまうのだとお母さんが呆れたように笑う。
玄関先で上の妹がこそっと「お兄ちゃんのことよろしくです」と言った。その顔は真剣で、家族を思うその気持ちが伝わってくるような気がした。
頷いて手を振ると玄関で皆が手を振る。
暖かい光が包んでいるような荒北家を出るとしばらく忘れていた冬の冷たい空気が肌を刺す。荒北は照れ臭いのか、もうとっくに庭に出ていた。
「帰ろうぜ」と荒北が俺の顔を見た。
それはもう「お兄ちゃん」でも「息子」でもなく、いつもの荒北靖友だった。
駅までの長い歩道橋で立ち止まった荒北が指を差す。
「あっちにグラウンドがあってさ、練習帰りにいつもここ通った」
そう言って、車のライトが川のように流れていく国道を見下ろす。
「小学生くらいだったかなァ、いつか野球選手になっていい車乗りてえなって思ってたんだよネェ」と笑う。
夕暮れ時に家に帰る途中、ここで車を眺めてあんなのがいいとかさァ、そんなことばっかり考えてた。
「もう、要らねえけど」そう言って一度こちらを振り返った。
昨夜、ユニフォーム姿の写真を広げて一緒に見ていた。
写真の中の荒北は無邪気で楽しそうに笑っていた。
またいつかあんな顔をして笑うことがあるだろうかって思いながら、冷たい風で乱れる黒い髪を見ていた。
直そうともしない。
今、表情も変えず何を整理しているのだろう。野球の記憶や家族のことか。嬉しさや悔しさ、まだ片付かない感情をどうやって自分の中の引き出しにしまうのか。
俺にできることは何もない。
自分の感情は自分でしか整理できない。
それが言葉になって外に零れてしまう時がきたら、一緒に掬いたい。
分けるというならできるかぎり受け取りたい。
心に入る量には限界があるから。
風で乱れて顔にかかった髪に指を伸ばす。
されるがままの荒北は何も言わない。
下りの新幹線は最終の少し前で、駅前の歩道橋にはあまり人影もない。
箱根の寮に帰る前、いつもこんなふうにここで何かを整理したのだろうかと、ふとそんなことを思う。
上の妹は「いつも切羽詰まっていた」と言っていた。
福富への恩に報いるために心急いだのか、それとも彼らと一緒に走りたかったのか。たぶん自分のために。自分がそこにいる意味をもう一度確かめるためだったのだろう。それは自分も同じだった。形は違えど、ただ自分自身がそこにいる意味を知りたかった。
ほんの一時間で箱根の寮に着く。いつもの口も態度も悪い荒北靖友に戻るためにひとりこうやって身体を冷やしたのかと思うと、ひどく切ないことのように思えた。
そんなことを言えばきっと怒る。
それでも今は一緒にいて、その冷えた身体を支えることができる。
それはきっと荒北にとっても同じで。
今はお互いひとりではない。お互いが必要だと知っている。
そして手を伸ばして口を開いてその気持ちを伝えることができる。
だからその手を伸ばすまでゆっくり見守っていたい。
感情の引き出しにいろいろなものをしまい、いつものように振り返るまで。
不意にこちらを振り返った荒北が、シャツの袖を引き歩き出した。
新横浜の歩道橋近くにあるお世辞にも綺麗とは言えないエレベーターに乗り込む。
一番奥に寄りかかるように二人で立つと、荒北が掴んだままのシャツの袖から手を離し手指を絡めた。棘を刺した指をそっと撫でる。
胸の奥で音がしたような気がした。
この三日の間に何度も理性の糸は切れて綻び、その糸をなんとか結び直して過ごした。
冷えた指を握り返すと鏡を見ているような、たぶん今、自分もこんな顔をしているだろうという切羽詰まった表情でこちらを見上げる。その表情をもう少し見ていたい、そう思った刹那、慌てた様子でスーツの男性が走り込んできた。
まさか停まっていたエレベーターに人がいるとも思わなかったのか、びっくりした様子だった。お互い絡めた指をそっと離す。
スーツの男性は新幹線の時間が迫っているのか、それどころではないというように腕時計を見ている。紙袋には資料と思しき書類と土産の箱が二個無造作に突っ込まれていた。
エレベーターが動き出して一階で止まる。
男性は走りだし、こちらを振り返ることもなかった。
帰りたいところがあるのだな、と知りもしないのに勝手な共感を憶える。
荒北はすぐに扉を閉めてもう一度、上を記したボタンを押した。
ドアが閉まった瞬間に俺は荒北の腰を引き、頬を寄せる荒北は背中に腕を回す。
冷えた身体に血が巡るのがわかる。
冷たい耳朶に唇で触れると小さく息を吐くのがわかった。
軽く歯を立てた荒北の耳朶が赤く染まるのを見ながら、溢れてくる感情が普段重い口を開かせる。
「俺は荒北とずっと一緒にいたい」
横浜でも静岡でも、北でも南でも。たとえば別の国にいたとしても。
何度も「一緒じゃないほうがいいんじゃないか」とお互いに言ってはその度考えた。漠然と、そのほうがお互いに幸せなのではないかと思ったから。
だから簡単に約束なんてできない。
でももうそんなふうに考えるのは無理だった。
俺は荒北と越していくすべての時間が欲しい。それがただのエゴだとしても。
方法はいくらでもあるだろってよく荒北が言う。その言葉の裏にあるすべての意味を信じたい。
自分以外の誰かと約束することを。そして、その相手を信じたい。
エレベーターはひと気のない二階に着き、ドアが開きまた閉まった。停まったままのエレベーターの中で、荒北は少し驚いた顔をして何かを言おうとして止め、開きかけた唇を俺の唇に押し付けた。そして抱きついたまま、「もう俺は決めてた」とそう言った。
これから先、どうなるかわからない。何を言われるのかも。
けど母さんにはお前を、お前には俺の家族を会わせたかったんだってそう言って「なんでなんだろうなァ、こういう気持ち」と照れたように笑った。
何かが自分の中から溢れ出しそうだ。
言葉を絞り出そうとしても出てこない。
涙が出そうだった。
最終前の新幹線の車内には人も疎らで、真後ろの席には誰もいなかった。通路を挟んだ反対側のサラリーマンらしき男性は、酔っ払って足を投げ出して眠っている。斜め後ろにいる女性はイヤホンをして本を読んでいた。
いつもそうするように窓際を荒北に譲り、少しリクライニングシートを動かそうとすると荒北がそれを制した。
どうした、と問う前に荒北がもたれかかってきた。よく知っている体温を感じた。触れた部分から温かいものが自分の中に入ってくるようだ。
誰にも見えないと荒北はもう気付いていて、ねだるような目で俺を見る。それに抗うことができず、いつも繭の中にいるような時にしか触れることのないその薄い唇に唇を重ねると荒北が「珍しいねェ」と笑った。
「荒北が」とそこまで言ったところで「俺のせいかヨ」と可笑しそうに笑ったのでなんとなく恥ずかしくなって黙った。
耳元で「もうすぐ着くからそれまでいい子で待ってろヨ」と荒北が言う。
苦笑してその顔を見るとなんだか嬉しそうだった。俺たちはあんなに賑やかで暖かい家にいても、あの狭くてうるさい部屋に帰りたいんだって思った。
あの狭い部屋が今は『帰る場所』だ。
それがどこになっても俺たちはこうやって何回でも二人でそこへ帰っていくのだろう。
動き出した新幹線の車窓を見つめながら荒北が「疲れたろ?」と聞く。
「一緒に行けて嬉しかった」
そう言うと荒北が「俺もだヨ」って笑った。荒北はもたれかかったまま流れていく夜景を眺めている。
遠ざかっていく街の灯りを見つめながら『連理の枝』の話を思い出す。
暖かくなる頃咲くという球根は、何色の花を咲かせるだろう、そんなことを思う。
お前が植えてたの、クロッカスだぜ」と不意に荒北が言う。
春に咲くよ、そう言う姿は「また来なさい」と手を振る人によく似ていた。