放射熱 いろいろなことが自分にも多くの変化をもたらした年が終わり、新しい年が始まったころ、三井サンは部を引退した。
それにしてはしょっちゅう「バスケット切れた」とかいって部に顔を出すので、復帰したばかりの花道のメニューを安西先生と三井サンと三人で相談したり、口ではなんだかんだいうクセに面倒見がいいので他の部員たちのことも相変わらず見てくれるのでいなくなった感じはまだしない。ちょっと部活に来る頻度が減っただけ、みたいな感じだ。
体育館に変わらずあの人がいるだけでなんだかホッとしてしまう自分がいる。そんな自分のことを認めざるを得ない。
今となっては周りから見ても『仲のいい先輩と後輩』で、それは否定するところではない。けれど困ったことに自分のテリトリーに三井サンは思った以上に入り込んでしまっていて自分でもどうしていいかよくわからなくなっていた。
この人は結局去っていく人だ。中学生だった自分の前に現れて去っていったみたいに。
また、置いていかれてしまう。歳が違うんだから当たり前だろって思うんだけど、いなくなってしまうことは変わらない。
この明るく誰に対しても分け隔てのない人は大学に入ればそこでまた新しい人間関係をあっという間に作り上げ、自分のことなど忘れてしまうだろうと思う。
大学にもバスケット好きで集まってくる人たちがいる。それこそ同じように推薦で来る人もいるだろうし、入部テスト受けてでもバスケットやりたいような人も来るんだからバスケバカのこの人と気の合う人も多いだろうし。
こうやって繋いできた関係がわりとあっさり切れてしまうのだろうと思うとなんだかやるせない気持ちになった。
今まであまりそういう気持ちになったことがない。上の代の先輩とか卒業すんだな、くらいで。もう会うことないだろうな、とかそんなあっさりした感じだった。
あと何回こうやって一緒にバスケしたり、一緒に飯食ったり、くだらない話で馬鹿みたいに笑ったりすることができるのかってぼんやりと考えるたび、そういう存在を持ってしまった自分のことを密かに呪った。
一月半ばを過ぎたころ、安西先生と三井サンが一時間くらい遅れてやってきた。
安西先生は笑顔だったし、三井サンは安堵したような表情で安西先生の話に頷いていた。
ヤスが「先輩、大学推薦決まったのかも」と小声でいう。それを聞いていた花道が「ミッチー!決まったんか!」とデカい声でいったのでヤスは慌てた。
三井サンは親指を立てて見せ、破顔した。
良かったですね!と皆が声を掛ける。胴上げするか?って花道が聞いている。流川ですら乗り気だったけど安西先生の「まだ正式に決まるには面接と論文がありますからね」という言葉に潮が引くように静かになり「ミッチー頑張れよ」と「マジで頑張れ」「頑張ってください……」という心配の声のほうが多くなって三井サンは「お、おう……」と真顔になっているのを少し離れたところから見ていた。
大学決まりそうなのは本当に良かったって思ってるのに自分でもどうしようもない。寂しさみたいなものが勝つ。せめてそういうのは表には出さないようにしていたい、と背筋を伸ばす。三井サンがオレに気付き、他の部員に「練習しろ、練習」といって部員たちを散らしこっちに向かって歩いてきた。こういうときこの人気付くんだよな、と思う。オレがどうしているかってことをちゃんと把握している。本当によく見てる。
「宮城」
「あ、オメデトウゴザイマス」
「まだ決まってないけどな!」といってデカい声で笑った。
「……アンタ卒業しちゃうんだね」
「そりゃ当たり前だろ」
「……これ以上親泣かすワケにもいかないしね!」
そう言って笑って背を向けて走り出し、他の部員の中に混じるのを視線が追いかけてくる。この人のイヤなところはもうひとつあって、なるべく平静を装う自分の本心を見抜いてくるところ。
ずっと輪郭をはっきりさせずにいた感情にはちゃんと名前があった。たぶんずっと好きだった。いい先輩としてとかそういうことじゃなくて好意よりもひとつ先の感情だった。
だから寂しい。置いていかれてしまうことが。いずれたくさんいる友人のひとりになってしまうことが。
□■□
秋から冬になっていく間、宮城と二人でよく一緒に帰った。
どうでもいいような本当に他愛もない話をしてよく笑った。
宮城は二人でいるときは少し幼く見えた。普段は無駄に喋らないのに冬になるころにはだいぶ口数が多くなった。下らない話をしては変なところでツボにハマりずっと笑い、それを見ていてつられて笑って酸欠になるくらい二人で笑った。
過去の断片を少しずつ持ち寄ってはポツポツと話し少しずつお互いのことを知っていく。自然と足が遠回りして海沿いを歩いた。どちらもなにも言わなかった。
海風は寒く、手がかじかむ。寒い寒いと言いながらマフラーを巻いた首を竦め肩が触れるくらいの距離で歩いていく。人影のない海岸沿いは住宅街よりも更に暗くお互いの表情もよくわからないのに相手が笑っているとわかった。そのくらい近くにいた。
沖縄で産まれて育ったこともそのとき聞いた。中学生のとき転校初日に絡まれて殴られた話とか憤慨している俺に「アンタも殴ったでしょ」と宮城が言い、一瞬、呆然と立ち竦んでしまった俺の手を引き歩き出し「もう、それはいいよ。オレも殴ったし」と振り返らずに言った。
その宮城の手は冷たくて、その手を解き、深呼吸してその冷たい手を握り直した。
なにか適当な理由をつけたかったけれどなにも思いつかず、言葉にはならない感情が手のひらを通して少しでも伝わっていればいいと思っていた。
確かに短い時間だった。何ヶ月でもない。それでもなにかを約束するには足らず、茶化して終わるには長すぎた。俺の引退を境にその時間を失い、中途半端にあの日々が二人の間にぶら下がったままになってしまった。
なかなか人の言葉を信じない宮城は、なにをどう言えば信じてくれるのかってずっと考えていた。
□■□
「なにやってんの三井サン、風邪引くじゃんよ!」
部室に戻ってきた宮城の第一声はそれだった。
「……おうお疲れ。寝ちまったわ」
待っていた理由を「寝てた」ってことにするかと思ってはいたのだが本当に眠ってしまっていた。確かに体が冷えている。宮城が自分の上着を渡し、取り敢えずそれくらいしかないからちょっと羽織ってなよ、と言う。
サイズの合わない上着を肩から掛けて座っていると宮城が自分のマフラーをぐるぐると俺の首に巻いた。
まったく大事な時期なのに……と親のような言い方をした。
「お前と一緒に帰ろうと思って」
「言ってくれればもっと早く上がったのに」
「断るだろ。なんか理由つけて」
わかってんだよ、そのくらいのことは。そう言うと宮城は舌打ちをした。
「舌打ちすんな」
「ほんとよく解ってるよね、オレのこと」
「そりゃそうだろ」
「そうなの?」
着替え終わり、練習用のTシャツを軽く畳みながら宮城が俺を見る。
ふう、とひとつ息を吐き「知ってんだろ、俺がお前のこと好きなの」
失くす痛みをイヤというほど知っているから失くしてしまうようなものを持ちたくない。
ミーハーに追いかけている分には失くすことはないからそのくらいがいい。好きなことを堂々と口にできるし振られたとしても何日か心が痛いだけで終わる。
そうやって予防線を貼りながらこの人とは関わってきたのにいつの間にか傍らに立っていてまたそうやって勢いで口にしちゃうのかよ。
この人は「来年はよお」とかそんな話をすぐする。「夏になったら」とか。そういう話になるといつも適当に相槌を打った。そうするといつもお前は先のこと約束すんの嫌いだよな、って言う。そんな話したな、って夏になってひとりでここを歩くときすごく寂しくなるだろうなって思うからそういうのが好きじゃないだけで。約束するのが嫌いなんじゃなくて。そういうことをサラッと口にしてしまうアンタが羨ましくて、そういうところが好きだったから余計にできなかった。
「そういうことをなんで言っちゃうんだよ」
「このまま終わりにできねえからだろ」
「……このまま終わったほうがいいこともあるでしょ」
「お前はそう思うのか?」
うん、とは嘘でも簡単に言えない。そのくらい絆されているのだと思う。
黙っていると見慣れた大きな体躯が目の前に立って顔よりもよく見たと思う手が上着を差し出す。
「宮城、どうなんだよ」
「……そう思うよ」
すごく小さな声になってしまった。
「そっか」
これで終わる。そう思ったとき安堵を覚えるよりも先にひどく寂しくなり俯いたまま唇を噛んだ。
「バーカ!そんなんで納得すると思うな。そんな簡単に終わんねえぞ俺は」
「そんな返事ある?」
想像とまったく違う言葉が返ってきて思わず顔を上げると伸びてきた腕に抱き寄せられていて冷えた制服越しによく知っている心臓の音を聞いた。
「アンタもまたいなくなっちゃうじゃん。いなくなってオレのこと忘れる」
そう口にすると泣きそうになった。
「またってなんだよ。前世の記憶かなんかあんのか?俺は卒業するし大学行く……まだ決まってねえけど。それに俺がお前のこと忘れるわけねえだろ。そんなこと言ってっと毎日電話すんぞ」
「……毎日はイヤだ」
「クッソお前ほんと」
そう言って三井は笑った。
「宮城、そうやって駄々こねてむくれてヤダって言えよ。俺にはちゃんと言えよ」
「……オレ、面倒くさいんだよ」
「知ってんだよそんなことは」
「アンタが大事なものになっちゃったら失くしたとき悲しいからイヤだったんだよ」
「失くす前提で話しすんな。そもそも失くさねえ」
この人のこの揺るぎのない強さはどこから来るんだろう。一度こうと決めたら他が見えなくなる頑固さを強さをいうならこの人に敵う人はいないんだった。
「ほんとアンタさ」
「あ?」
「好きだよ、オレ。アンタのこと」
そう言いながら宙ぶらりんになっていた両手を背中に回して力いっぱい抱きしめた。
こんなのいつ以来だろう。兄弟をカウントしないなら初めてか。
頭の上で「……おう」ってちょっと嬉しそうな声が聞こえた。
心臓はいつも正直に鳴るから言葉で伝えきれないことを教えてくれる。寒い夜の海岸沿いで手のひらから伝わった熱がオレの心臓を鳴らしたみたいに。