夏が始まる一日降り続いた雨は止むこともなく、天気予報は明日、明後日も傘のマークをクルクルと動かしていた。アパートの入り口に大家さんの孫が作った七夕の笹が飾ってある。願い事が多い年頃なのか短冊が山のようにぶら下がっていたが、俺の部屋には同大量の洗濯物がぶら下がっていた。
そのとても広いとはいえない部屋に集まるのは自転車部男子3人。
待宮の彼女である佳奈ちゃんは「楽しそうだけど、ほんの少し暑苦しい感じするね」と笑顔でいっていた、という報告と実家から届いたというスイカをぶら下げて待宮が初めて家にきた。
ぶら下がった洗濯物を見て「確かにまあ……」と呟く。
待宮だからまだこのくらいで済んでいると思っていい。
荒北が来ればこの3倍くらいの言葉数で罵られることだろう。
とりあえず近所のコインランドリーにいくことにして洗濯物を妹に勧められるまま持ってきたランドリーバッグに詰め込む。
待宮はアロハシャツにビーチサンダルだった。
オレの18年間の人生でたぶん一番ラフな格好で家を訪ねてきたのは待宮だろう。
ラフというか一番なんていうかこう……と考えているとキッチンから「金城ォ、包丁どこ?」と大きな声がした。
ツール・ド・フランスは今日が初日で、もうずっと前からこの日は夏の始まりだった。
ロードレースで季節を感じ月日を数える。
部室で「夏がきたって感じがするよな」と荒北がいった。
「そうだな」と笑うと待宮が「ここからが夏じゃのぉ!」と勢いよくロッカーを閉めながらいう。もう少し静かに閉めらんねえのかと怒る荒北と誂うように笑う待宮はどちらもうるさい。
縁というのは不思議なものだな、と回る洗濯物を見ながら思う。そういうことをいうと荒北は「ジジイかよ」と笑うが。
それぞれが別々の場所で同じことを感じていたことも、今はこうして同じ部屋に集うこともやはり不思議なものなのだ。
スマホが震えて荒北が着いたことを知らせるメッセージが届く。
なにか買っていくものはあるか、と送ると「肉」「肉」がそれぞれから返ってきた。
メッセージだけなのになぜかうるさい。
ただ、オレがもう慣れただけなのかもしれないがそのうるささは嫌いではなかった。
一番近くのスーパーで唐揚げと焼きそばを買い、洗濯物と一緒に抱え、小雨がずっと降り続く中家に帰る。ドアを開けたら待宮の赤いビーチサンダルが丁寧に揃えてあり、見慣れたスニーカーが見慣れた感じでその横にくしゃっと並んでいた。
『飯だけは炊ける』荒北が「飯炊いといたゼ」と寝転がったままいう。
待宮のスイカは切ってきちんと冷蔵庫にしまわれていた。
「金城、コイツよおくるんか」
と待宮が荒北を指差す。
「何回かきたな?」
「ソーネ」と荒北がいう。
「なんでだ」
「妙にこの家のこと詳しい」
「ハァ?米のあるとこくらい誰だってわかんだろ」
「皿とかの場所も知っとった」
「……待宮、なにがいいたい」
「……ワレらだけ……ワシも誘えよ……」
荒北が鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしている。オレは真顔で頷いた。
予報通り雨に止み間はなく乾いた洗濯物をベッドに広げ、小さなテーブルの上に持ってきたものを並べる。焼きそば、唐揚げ、スイカ、白飯。メチャクチャだった。全員で「なんだこれ」「栄養とかサァ、どうなのヨ」「なんかもうちぃとあるじゃろ」とめいめい文句をいいつつテレビ画面に映るヨーロッパの町並みを見ながら「行ってみてえ」「今、チラっと映った子可愛いのう」「暑そうだな」とまためいめい勝手な感想を述べる。
静かになった居間のテレビの前で一人熱くなっていた去年の自分がチラリと脳裏を過っていく。
「ぼうっとしとると荒北に食われるぞ」と待宮がオレに焼きそばを取り分けた皿を差し出す。
唐揚げはあそこのが美味いんじゃ、と店の名前を教える。「それあとで送ってヨ」といった荒北に「ワシ、連絡先しらん」といった二人がスマホを取り出し連絡先を交換する。
「グループチャット作った」と荒北が置きっぱなしだったオレのスマホを投げ、確認するよう促す。それを確認している間に待宮が「野菜が足りん」と冷蔵庫の中にあったキャベツを刻み、一品増えた。
待宮がいうには刻んだだけのキャベツは一品のうちに入らないのだそうだが。
オレたちはお互いのことをまだよくは知らない。皆それぞれ違うところから集まった。
ただ共通していることがある。
『ツール・ド・フランス』が夏の訪れを知らせるレースだということ。
そして日々少しずつチームになっていく。
レースは雄弁だ。
言葉で説明するよりも多くのことを語る。
どんな人間で、どういう正義を抱いているか。賢さ。そして狡猾さも雄弁に語る。
十分に人を理解することなどできはしない。せいぜい知ったような気持ちになることくらいのものかもしれない。
巻島の後ろ姿を思い出す。オレはどれくらアイツのことを知っていたのだろう。
それでも知ることはできる。これからでも。知ろうとして初めて始まる。
「金城、なんか今日ボヤっとしてねえ?」と荒北がベプシの入ったコップを差し出す。
それを受け取りながら「少ししみじみしていた」というと「だからジジイだっていわれンだ」と笑った。
その笑った顔を見ながら、いつも目つきも悪ければ、口も悪い荒北が笑うとほんの少し幼い感じになる、と思うくらいにはもう知っている。
ぼんやりとその横顔を眺めていたのだろう。
荒北が「なに」と少し小さな声でオレに聞いたときレースが動いて「よっしゃ!」と待宮が叫ぶ。
知りたいと思う。もう始まっていると自覚する。
けれど知りたい理由がなにかまだよくはわからない。
夏が始まろうとしていた。