向日葵インターホンは壊れてだいぶ経つ。
不動産屋にはにゃぁゆぅたような気がするけど、なかなか合わん予定を擦り合わせとるうちにどうでもようなってそのまま。
うちに来る奴はあまりいないんじゃ。金城か荒北か。あとは部の先輩がたまに。げにたまに。
じゃけぇ今、ドアをガンガン叩いとるんはたぶん荒北で「いンだろォ」の巻き舌はチンピラのようでなんてゆうかこう、ご近所にぶち印象が悪い、ワシの。
慌ててドアを開けると予想通り荒北で、ワシの格好を見て「なんか着ろよ」と呆れたように言う。
「なんじゃワレ、いきなり来てそれか」
荒北はレンタカー会社の記された鍵を見せ「出かけんぞ」と言った。
隙を見て黙ってドアを閉めようとしたんじゃ。が、きしゃっと荒北の足でドアは押さえられとる。
荒北は「諦めろ」ってニヤッと笑った。
外の熱を含んだ風が部屋の中に入ってくる。蝉の声が体感温度をまた一度上げた。
これ以上、抵抗したところで荒北は連れの金城よろしく諦めることはない。
その辺にある適当なシャツとハーフパンツ、ワンショルダーを掴む。
荒北の首にワンショルダーを引っ掛けて、ハーフパンツを履き、シャツを着ながら外に出た。
八月も終わりに近づいているというのになんでこがぁに暑いんじゃろと荒北の後ろをついていく。
坂を登り切ったところにある駐車場に置いた車の後部座席から金城が顔を出した。前々から思うちょったが金城はガキみたいなところがある。
車はでかい男が三人で乗るには少々手狭で、
「なんでまたこげにこまいのにしたんじゃ」
そう言うと金城と荒北が口を揃えて「値段」って言った。
金城が渡したコンビニの袋からベプシを取り出しながら
「で、どこいくんじゃ」
そう聞くと金城が「向日葵を見にいこう」と笑った。
金城ファンの女子が聞いたらたぶんこのひと言で落ちる子がいるじゃろなと思いながらサンドイッチの袋を開けた。
荒北はナビの設定を終えて「運転すんの久しぶりだなァ」とか言ってる。
どこだか知らんけど無事に着きますようにってひいばあちゃんに祈った。
♢♦♢
待宮は呉に帰って戻るとしばらく家に閉じこもってあまり外に出てこなくなる。
大学一年の夏、それを知った。
今年もそれは変わりなく、バイトのときだけはしぶしぶという感じで家から出てきて、終わったら真っ直ぐ帰ってく。
近くに住んでいる以上、すれ違えばおう、とか挨拶はする。でもそれだけ。一年中きてる金城の家にも立ち寄らない。
「あいつは生きてるのか」と金城が真顔で聞くくらい顔を見ない日が今年も続いた。
ホームシックのようなものだろうっていうのはわかる。
金城はあまり実家に帰りたがらないし、俺はもう長く家から離れて暮らしているから二人ともそこまでになってしまうことがピンとこない。
夕飯時、金城が「今日も来なかったな」と待宮の分の食器をしまう。
「なにか気晴らしになるようなことがあるといいんだが」と言う。
「気晴らしねえ…」
「荒北、キャベツも食べろ」
「食ってんだろォ?」
当たり前のように二人で夕飯を食べながらふと思うのは、俺はこいつと会わなかったら待宮と同じように箱根のことを思うのだろうかってこと。
「金城はさァ、もしこうやって一緒に飯食ってなかったらもっと千葉帰りたかったりすると思う?」
キャベツにマヨネーズをかけながらなんとなく聞いた。
どうだろう、そう言った金城は納豆をかき混ぜていて俺はその続きの言葉を待った。
納豆をかき混ぜている金城をしばらく見ていたような気がする。
「俺はお前と会わなかったら、ってことを考えたことがない」
扇風機だけが首を振っていてあとは全てが止まってしまったような気がした。俺は息をするのも忘れてた。
「大学で会わなくても必ずどこかで会ったと思うから」
そう言って照れもせずに笑い、納豆に青のりをかけている。
なんでこいつはこういうことを、納豆かき混ぜながらさらっと言うんだろう。
だいたい答えになってねえ。
金城が手を差し出すからなにか意味でもあるのかと思わずその手を握ると、不思議そうな顔をして「マヨネーズ貸してくれ」と言った。
コーヒーを淹れて、録画したツール・ド・フランスを見ていたら金城が
「そう言えば待宮にあんな向日葵咲いてるの見たことあるか?って聞かれたな」
ツール・ド・フランスはレース自体も面白いものだけど、コースの風景は美しく、向日葵が咲き誇る中を選手が走って行く光景は一度見たらなかなか忘れられない。
「あ、なんかそういうとこあるって聞いたなァ」
それがことの始まりだった。
調べてみたらロードでも行ける距離だった。でも待宮を連れ出すなら車のほうがいい。
免許取ってから片手で数えるくらいしか運転してない俺。まだ車の免許を取っていない金城。
待宮は地元へ帰ればよく運転してるらしいし、二人運転できればなんとななるってことで車を借りることにした。
レンタカーは夏休みで少し割高だった。俺たちは財布を突き合わせて車を選ぶ。とりあえず安いやつ。走ればいいくらいのっていう話をしながら予約して、あとは当日、待宮を部屋から引っ張り出すだけだった。
金城は楽しそうで「コンビニになにか買いに行くか?」って言い出した。
夜中なのにと「なんだヨ急に」って笑うと「荒北と遠出するのは久しぶりだろう」とニコニコしている。
遠出って言ったって片道三〇分くらいのもんだ。だけど今日はもうまったく勝ち目がないような気がする。
嬉しいでも悲しいでも、真っ直ぐな感情には勝ち目がない。それは金城が俺に教えたこと。
浮かれている金城を見るのは面白い。
こんな姿を今までどうやって隠してきたんだろうって思うこともある。
♢♦♢
紹介された文章をそのまま信じるのならば向日葵を見るには少し遅いらしい。
レース中に流れていくフランスの景色は美しい。
そんな景色はテレビの中で見たことしかない。待宮の気晴らしになればと三人で見に行くことにした。
よく小さいことで揉めても、待宮のことを一番心配しているのは荒北だと思う。波長が合うというのが一番しっくりくる。どこか少し似ているような気がする。
「俺、あいつ呼んでくンヨ」と言ったのを見送って、いささか狭い車内で背を伸ばす。
帰りたいところがある者だけがわかる感情は俺には少し縁遠い。
帰れば帰ったで楽しい。会いたい人だっている。家族のことを心配していない訳じゃない。
でも今は、必要をあまり感じない。自分で思っているよりも薄情なのかもしれない。
今の俺にはここでの生活が全てだった。
そう思うことは自分にとって自然なことだけれど、人よりもそういう部分が過剰なのは自分でもわかっていた。それが荒北にとって負担にならなければいいと思う。
荒北はよく言う。
「俺は十五歳で家を出たから横浜の家は俺の家なんだけどあんま実感がない」
だからたぶんどこででも生きていけるような気がするって言う。
それは荒北と俺の中で共通する部分でもあった。
どこにいてもそれなりに生きていけるような気がする。
どこにいても生きていけるけれど、それは裏返せば、なにに対しても執着しないで生きることも出来るということ。
ずっとそう思っていたけれど、荒北に会って少し変わった。
もし一緒ならいいと思う。
お互いが学生じゃなくなっても、掛け布団を取ったとか取らないとかそんなことを言い合っていたらそんな毎日も面白いものなんじゃないかってそんなことを考えることもある。
毎日は今とかわりなく楽しいことばかりじゃないだろう。けれど大概のことでは壊れたりしないような気がした。
確信に近い思いなのか、それとも自分の願いなのかはっきりわからない。
今の生活の中ですら執着していることは数えるくらいしかない。
荒北がいれば大概のことはもういいような気がした。
本人に言えばバッカじゃねえの?ってあの口調で言うだろうけど。
♢♦♢
エアコンをつけると明らかにスピードが遅くなる車に、でかい男が三人乗ってどこまで行くかっていうと、俺たちが住んでる辺りから少し国道を下った辺りにある向日葵畑だった。
何千本もあるらしいけど、もう時期が少し遅いからどのくらい咲いてるかわかんねえな、って金城とも話した。
まあ、咲いてなきゃまた来年行けばいいんじゃねえかなって。
そうやってまた次の約束をする。それを繰り返して少しずつ時間が積み重なってく。
隣から待宮の「あっ」とか「こわっ」とかそういう声が聞こえる。待宮はあからさまに緊張しててなんか腹立つ。
金城はいそいそとシートベルトして飲み物あけたなと思ったら寝た。
待宮は「金城はイメージギャップありすぎるじゃろう」と言う。
昨夜、浮かれてたのか遅くまで起きてた。そのせいだろうって思ったけどそれはまあ、金城のイメージとかそういうのがあるんで黙っておくことにした。
金城は基本的にしっかりしてる。背筋を伸ばして立ってればちょっと怖いくらい。でもほぼ毎日一緒に生活してると頼りないところもある当たり前の大学生だった。
そういうところをあまり隠さなくなってきたように思う。
金城の格好良さは肩肘を張ることと同義で、無理にでもそう在ろうとしたことからできあがっているところがあるようにも見えた。
だから俺は今の金城のほうが好きだ。
ややこしいことは毎日たくさんあるから、俺や待宮といるときくらいは気楽にそのままでいたらいいと思う。
「これが金城じゃったんだろな」待宮がしみじみと言った。
「すぐ鳩出そうとするしな」
「あの鳩、普段どこにおるんじゃろな」
「それ絶対言わねえの」
「…わかったら教えてくれや」
「なんで小声で言うんだよ、やめろヨ、怖ええから」
待宮がワシら知らんと食うとるんじゃないか?と真顔で言い出した頃、ナビが左折しろと告げて目的地にもうすぐ着くことを知らせた。
その音に目を覚ました金城が「あ、俺寝てた…」とすごく残念そうに言った。
もう咲いてないかもなどとあまり期待していなかった向日葵畑は圧巻だった。
盛りの頃はもっと咲いていたという。一部はもう刈り取られた跡があって、来年またそこに種を蒔くのだと入り口で係の人が教えてくれた。
俺も荒北も待宮も最初は呆然とその向日葵を眺めていた。
自分たちも小さいほうではない。向日葵は同じくらい丈がある。もっと大きいものもある。
「これみんな太陽のほう向いとるんじゃなあ」と待宮がしみじみ言う。
向日葵には匂いがない。
でも今ここにいると確かに香るものがあった。
日射しは今日も相変わらず強く、海のほうから吹いてくる風は熱を含んでいる。
夏の匂いだった。
練習ばかりしていた中学時代も高校時代もこの匂いの中を走った。
テレビの中、フランスを走る選手たちも夏の匂いの中を走っているのだろう。焼けるような日射しの中を毎日何百キロも走る。
そんなことを思いながら向日葵を見上げていると待宮が「ちょっと写真撮ってカナに送るわ」と言ってスマホを握り先に歩いていく。
「来てよかったんじゃないか」
そう言うと荒北が横で頷いた。
順路は向日葵畑の中を通るように設計されていて、二人でのんびりとコースを歩いた。夏休みらしく家族連れ、カップル、友達と思っていたよりも賑やかだった。
周りから見ると自分たちはなんに見えるんだろうって少しだけ複雑な気持ちになる。
背の高い向日葵の間を歩いていると向こうの順路を歩いている人はほとんど姿が見えない。
姿が見えるときは背の高い男性で、今、向こう側に見えているのは男性の二人連れだった。
別に珍しいことじゃない。そう思って安堵する自分と、友人として扱われることをなんだか腹立たしく思ったりと自分でもどうしようもなくモヤモヤとした気持ちになった。
「なんか気になんの」立ち止まって荒北が言う。
「どういうふうに見えるのかって、思ったんだ」
どうせそんなことだろうと思った、と荒北は笑う。
「俺はもうどうでもいいなァ。周りがどう思っても俺たちが知ってりゃいいから」
先輩に仲がいいと誂われようと、よく行く定食屋のおばちゃんに「いいお友達よねえ」とか言われても別にもうどうでもいい。
「俺は知ってるし、お前もよく知ってんだろ」
そう言いながら日射しに手をかざす。
こうやって不安の中をゆらりと流れてしまいそうになるとき、いつも「他人はいいじゃん、別に」って荒北は言う。
俺が荒北に貰うものはたくさんある。けれど俺は荒北になにができるだろう。
「手でも繋ぐ?」
荒北が茶化すように言う。
今は誰かに説明する必要がないからいい。誰かに説明しなきゃならなくなったらそうしよう。
「夜のほうがいいな」
そう言うと荒北が呆れたように笑った。
「そがぁなんは二人のときにしてくれっていっつも言うとるじゃろ…」
のんびり歩いているうちに待宮が追いついていた。振り返るといつものように眉間に皺を寄せていた。
♢♦♢
着いたときから潮の匂いがしたくらい海が近い。そろそろ帰るかって話になったとき、待宮が「海が近いからちぃと寄って行こう」ってそう言った。
俺は少し迷った。
金城は「そうだな」と即答した。
向日葵畑をあとにして海岸までを記した標識を見ながら歩いた。
獣道みたいなところを歩いていくと急に目の前が開けて海が見えた。
待宮は海に着くと深呼吸して今日はありがとうさんと言った。
「半年なんかすぐだヨ」
そう待宮に言う。
「別にここがイヤなわけじゃないんでぇ?」
「わかってんよ。そのうち慣れる」
三年いればもうそこが自分の故郷みたいな気がしてくるって。でもそれには必要なものがある。
「井尾谷とかカナちゃんとかさ、そういうのないけどさァ、一応俺らもいるし」
自分でも言いながら尻すぼみになったのがわかった。
待宮が珍しく真面目な顔をして
「あいつらはあいつらじゃ。お前らはお前らでどっちも大事なんじゃ」って言った。
そんな会話のあと、しばらくお互い黙ってた。
たぶんお互い恥ずかしかったんだと思う。
しばらくして待宮が、
「金城は海くるとなんか変じゃのぉ」
と言った。
「三〇分くらいはなんも喋んないネ」
年末にカナチャンが静岡にきて、四人で海に来たときもそういうことがあった。
「なんかあんだろ」
「聞かんのか」
「聞いて答えるようなことだったら、言うだろ」
「荒北はこがぁなときばっかしゃぁあれじゃな、妙におとなしいけぇ。野獣の名が泣くわ」
なんて言い返そうかって考えてた。でもまあ、ハズレてないところが自分でも情けない。
「われらぁなんちゅうかもう、元気よう咲いてろ」と待宮が言う。こう、くたぁっとならんと。そう早口で言いながらワシ、先に車戻っとるけぇ車の鍵貸してくれって俺に手を出し、
「金城、腹減ったけえ帰ろう」と声をかける。
海を見ていた金城が振り返った。
「ワシにお前らがおるなら、お前らにもワシがおるってことじゃけえな」
「心強いこって」
「もんのすごい心強いって思うてええんで?」
気晴らしに連れてきて心配されてんじゃしょうがねえなあ、って空を見上げると、目を焼くような強い日射しを照りつける太陽しかない夏の空だった。
「あれ、待宮は?」
「元気に咲いてろってさ」
「え?」
金城は次の言葉を待ってる。
なんて言おう。
お前は海来るとなにをいつも思い出してンの?
答えたくないならいいんだけどさ。いややっぱヤかな。
それはわりと長いこと胸の中に溜まってた。根が生えてしまいそうだったその言葉を吐き出そうと息を吸い込むと、よく知ってる夏の匂いがした。