宿題 背中が温かい。そう知覚した瞬間、意識がぐんと浮上していく。
深い夢の淵から誰かに引き上げられるような、いつもの感覚。
あとは重い瞼を開ければいい。大きく伸びをして、寝台から抜け出ればいい。
そう分かっているのに、たとえ無意識でもそれが出来ないのはきっと――。
「おはようございます、晶」
背後から聞こえてくる、どこか眠そうな声。
抱き枕よろしく、がっしりと背後から抱きすくめられた状態で迎える朝は、一体何度目だろうか。
「お、おはようございます、ミスラ」
握りしめられた手は、まだ繋がったまま。賢者の導きで睡眠を得ることは出来ても、なかなか熟睡することが出来ないミスラは、いつだって晶より先に目覚めている。しかし、晶を無理矢理起こすことも、先に起きて部屋を出ていくこともなく、こうして晶が起きるのを待って挨拶をしてくれる。
「よく眠れましたか?」
「まあ、それなりに。何度か蹴られましたが」
「うっ……すみません」
恐縮する晶に「まあいいですけど」と囁いて、繋いだ手にぎゅっと力を入れる。それどころか起き出そうと身じろぎする晶をぐいと引き寄せて、長い足まで絡ませて引き留めてくるから、本当にたちが悪い。
「ミスラ! 二度寝しようとしないでください!」
「どうしてですか? 今日はあなた、何の予定も入っていないでしょう」
そういうミスラは朝食後から合同訓練が入っているはずなのだが、どうやらサボる気満々のようだ。
「昨日からネロがいないから、カナリアさんを手伝って朝ご飯を作る約束をしてるんです」
「はあ……」
人間は気軽に約束をしますね、と呟いたミスラは、渋々といった様子で手を離した。あまりごねないところを見ると、昨夜は比較的しっかりと眠れたのだろう。
腕の力が緩んだ隙をついて身を離し、寝台から抜け出した晶は、いまだ寝転がったままのミスラを振り返って、小さく息を吐いた。
――どうして、こういうことになったんだろう?
***
《大いなる厄災》と戦った魔法使い達の魂に刻まれた《奇妙な傷》。その症状は様々だが、ミスラのそれは「不眠症」という形で現れた。
一通りの安眠法を試してもまるで効かず、魔法による強制的な睡眠ですら効果がない。攻撃を食らって気絶する方法は有効だったようだが、昏倒と安眠は明らかに別物だ。
結局のところ、オズの提唱した『賢者の力で寝かしつけ』作戦が功を奏し、ミスラはようやく眠れない夜から解放された。それ以来、事あるごとに寝かしつけをせびられている。
当初は寝台の横に椅子を持ってきて、座った状態でミスラの手を握っていた。まだ賢者の力を使いこなせているわけではないので、成功率は良くて四割といったところだったが、一度眠ってさえしまえば、ずっと手を繋いでいる必要はない。成功しても失敗しても「おやすみなさい」と挨拶をして自室に戻り、残っていた仕事を片付けてから眠る。そんな日々を送っていた。
状況が変わったのは、晶がうっかり風邪を引いた、あの時からだ。
その日は討伐依頼が長引き、魔法舎へ戻ってきたのは夕食の時間をとうに過ぎた頃だった。
ネロが残しておいてくれた夕飯を食べたあと、自室で報告書をまとめていたところに、ミスラから寝かしつけの要請を受けた。若干の押し問答の末、「面倒だからここで寝ます」と晶の寝台を強奪して寝る体勢に入ったミスラに、仕方なく仕事を中断して寝台の横に椅子を引き寄せ、いつものように手を握った――ところまでは覚えている。
「何故そんなところで寝ているんです?」
呆れたような声に、はっと飛び起きようとして、ぐらりと揺れる視界に思わず目を閉じた。まるで石を詰めこまれたかのように重い頭は、動くとガンガンと痛んで、熱くて――ああ、これは。
「熱があるじゃないですか」
再び布団に倒れ込みかけた上半身を支えてくれた手は、ひんやりと冷たくて。
「すみません……昨日、そのまま眠ってしまったみたいで」
きちんと椅子に座っていたはずが、いつの間にか寝台に突っ伏す形で眠り込んでしまったようだ。まだ長袖でもすこし肌寒い季節なのだから、薄着のまま何も掛けずに朝まで眠りこければ風邪の一つも引くだろう。
「まったく、面倒だな……」
そう言いながらも、てきぱきと毛布でぐるぐる巻きにされて、問答無用で担ぎ上げられる。
「フィガロに診せればいいですか」
「はい、そうしていただけると……。すみません」
いい大人なのに、体調管理すらまともに出来ない己が情けない。
しかも、今日は久々のお休みだった。ネロが朝ご飯にパンケーキを焼いてくれて、朝食後はリケやミチルと読み書きの勉強をして、昼過ぎからはクロエの買い物に付き合う予定もあったのに。
ああ、昨日書きかけだった報告書だって終わっていないし、討伐依頼の詳細も賢者の書に記しておかなければ。やりたいこと、やらなければならないことばかりが思い出されて、どんどんと胸が苦しくなる。
熱のせいだろうか、普段はしっかりと胸の奥にしまい込んでいる様々な感情が溢れて、今にも決壊してしまいそうだ。
「なんで泣いてるんですか」
言われてはじめて、自身の瞳から熱い涙が溢れていることに気づく。
「すみません……ちょっと……自分でもよく分からなくて」
「そんなに苦しいですか。氷でも出します?」
呪文もなく出現させた氷の塊を顔面に押しつけられて、ぎゃあと悲鳴を上げる。
「ミスラ、冷たいです」
「熱があるんだから冷やした方がいいんでしょう」
やり方は雑だが、それでも彼なりに気を遣ってくれているのだと分かる。でも今は、その優しさすらも苦しい。
「大丈夫です、ただの風邪です。少し休めばすぐよくなりますから……」
譫言のように繰り返す晶を、どこか困惑したような瞳で見つめたミスラは、歩調を速めてずかずかと階段を降りていった。
***
「うん、風邪だね」
笑顔で断言するフィガロの、その目がまったく笑っていない。
幸いというべきか、熱で朦朧としている晶には、その冷ややかさが伝わっていないようだった。
「ごめんなさい……」
「賢者様が謝ることじゃないよ。誰だって季節の変わり目には風邪くらい引くさ。さあ、横になって。少し眠るといい。早く良くなるように、とびきり心を込めて魔法をかけてあげる」
短い呪文を紡げば、晶はあっという間に眠りに落ちた。その体にそっと布団をかけ、額に冷たく絞った布を乗せてやってから、さて、と振り返る。
「ミスラ。お前が眠れなくて苦しんでいるのは同情するけど、それに賢者様を巻き込んだ挙句に風邪を引かせたというのは、さすがに見過ごせないよ」
「俺のせいじゃないでしょう。この人が勝手に椅子で寝落ちて風邪を引いたんだから」
悪びれもせずに答えるミスラに、やれやれと肩をすくめる。
「分かってないね。こんなことが続いて賢者様が衰弱してしまったら、お前もまた眠れない夜に逆戻りだよ」
「じゃあどうしろって言うんです? 俺が起きている状態なら、布団を掛けるくらい出来ますけど、こっちは寝てるんですよ」
「そうだな……。例えば、誰か付き添いをつけるとか――」
「部屋に他の魔法使いがいる状態で眠れるわけないでしょう」
いかにミスラといえど、睡眠時は無防備になる。いくら部屋に強固な結界を張っても、相手がはなから部屋の中にいれば意味はない。ミスラを害することが出来る魔法使いはごく限られているものの、警戒しないという選択肢はあり得なかった。
それに――眠るまでの暇つぶしに、他愛もない話をする時間を邪魔されたくない。そんな言葉が零れそうになって、はたと口を押さえる。
「どうした?」
「いえ……何でもありません。ところでその人、いつになったら元気になります?」
「お前じゃないんだから、そんなにすぐ回復するわけないだろう。怪我と違って病気は厄介なんだよ。下手に自己治癒力を高める魔法をかけると、病気の原因になっている『悪しきモノ』まで活性化する。だからよほどの緊急事態でない限りは対処療法しかない。今なら、熱を下げて、痛みを和らげて、よく眠れる魔法をかけてあげることくらいしか、俺に出来ることはないよ」
「そんなの、薬を飲ませるのと変わりないじゃないですか」
「魔法は万能じゃない。こと、生き物にかける魔法に関してはね。そりゃあ、無理矢理治すことは出来るよ。でもそれは命を削る荒療治だ。賢者様の寿命を縮めてまで風邪を治したい? 違うだろう」
というわけで、と椅子から立ち上がったフィガロは、枕元の小机に置かれた洗面器をぴっと指さした。
「額の布、こまめに交換してあげて。俺はネロに頼んで、何か消化のいい食べ物を作ってもらうから」
白衣を翻し、颯爽と部屋から出て行きかけたフィガロが、ふと扉のところで立ち止まる。
「それとミスラ、お前に宿題だ。賢者様が体調を崩さず、かつ賢者様自身もしっかり休息が取れる状態で、眠るための力を借りる方法を考えておきなさい」
「なに先生面してるんですか、気持ち悪い」
「うわ、傷つくなあ。俺はほら、みんなに慕われる、優しいフィガロ先生だよ?」
パチンと片目を瞑ってみせたフィガロは、罵声が飛んでくる前にさっさと部屋を出て行った。音もなく扉が閉まって、静寂が部屋を支配する。
取り残されたミスラはしばし呆然としていたが、ふとフィガロの指示を思い出し、空いた椅子にどっかりと腰を下ろした。
深い眠りについた晶の寝顔は、先ほどまでに比べてだいぶ安らかだ。それでも、腫れた目元には涙の痕が残っていて、そのせいだろうか、普段よりも幾分幼く見える。
体調が悪い時は誰しも弱気になるものだ。そう教えてくれたのは大魔女チレッタだ。
ミスラ自身は滅多に体調を崩さないから、その感覚が分からない。チレッタも強い力を持つ魔女だったから、体調不良で寝込んだりはしなかったが、初めての子供であるルチルを身籠った時、そしてそれから数年後にミチルを身籠もり、北の双子から予言を突きつけられた時、珍しく感傷的になっていたのを覚えている。
心が弱ると、普段は胸の奥に押し込めているものが溢れて止まらなくなる。でもそれは決して悪いことではなくて、ずっと押さえ込んでいた感情はいつか爆発してしまうから、時折こうやって涙を流して発散した方が体にいいのだと、彼女はひとしきり泣き喚いたあとに教えてくれた。
「あなたも……色々と抱え込んでいたんですね」
ミスラの知る賢者・真木晶は、いつだって笑顔で、一生懸命で、目の前の問題に誠心誠意取り組む人間だ。己の力不足を理解しており、せめて少しでも役に立てるようにと、夜中まで勉強をしたり資料に目を通したりしていることは、魔法舎の誰もが知っている。
恐らくはミスラの寝かしつけを快く引き受けてくれるのも、分かり易く「自分が役に立てること」だからなのだろう。同じ理由で夜のオズに力を貸しているのが、何となく気に食わないのだが。
そう――彼はいつだって「自分がこの世界に存在する意味」を探しているようだった。
賢者と呼ばれ、わがままな人間と傍若無人な魔法使いの間で板挟みになりながら、日々の任務に忙殺されている晶。彼がもう少し若く、怖い物知らずの子供だったなら。あるいは、何事も楽しめる余裕があるほど年を重ねていれば、また違っていたのだろうが、彼はまだ、ルチルやカインと同世代の若者だ。
自身が何者かも分からず、世間に認められるほど突出した能力もないのに、一方的に重責を負わされて。
明るく振る舞う裏で、やりきれない思いや苦しみが積み重なっていった結果が、この涙の痕なのだろう。
一度泣けばすっきりするのだとチレッタは言っていたが、あの大雑把でいい加減な魔女と違って、晶はそれなりに繊細だ。ちょっと涙が零れた程度では、気分が晴れないかもしれない。
さて、彼が喜ぶものは何だろう。やはり猫だろうか。
(捕まえてくるのも面倒だな……)
だったら変身魔法で猫になってやるのもありか、などと考えたところで、不意に小さな呻き声が聞こえた。寝台に視線をやると、何やら苦しそうに身じろぎした晶の額から、絞った布がずり落ちたところだった。
こまめに交換してあげて、というフィガロの言葉を思い出し、枕元に落ちた布を取り上げる。洗面器の水がすっかり温くなっていたので氷を足してやり、十分に冷たくなったとことで布を浸して、しっかりと絞った。
「こんなの気休めでしょう」
そうぼやきつつも額に布を乗せてやると、寝苦しそうだった顔がほんの少し緩む。そのことに何故かほっとしながら、汗で頬に貼り付いた髪を払ってやると、その手を不意に掴まれた。
「晶?」
起きたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。熱を帯びた手に力は入っておらず、簡単に振り払えるはずなのに、どうしてかそうする気になれず、逡巡した後にその手をそっと――いつも彼がしてくれるように、優しく握り返す。
「あなたが元気になってくれないと、俺が困ります」
自分自身に言い聞かせるような言葉が聞こえていたのだろうか。小さく笑ったような気配がして、再び静かな寝息が聞こえ始めた。
***
「ご迷惑をおかけしました!」
深々と頭を下げれば、食堂に集まっていた賢者の魔法使い達は、めいめいに労りの言葉を投げかけてくれた。
「迷惑なんてかけられてない。心配はしたけどね」
「すっかり元気になったようで何よりじゃ」
「お主が倒れたと聞いた時は血の気が引く思いじゃったがのう」
「でも、無理は禁物だからな」
「そうそう。しばらくは依頼への同行とか、訓練の見学は控えてね。暖かくして、夜更かしもしないこと」
四方八方から念を押され、えへへと頬を掻く。
結局のところ三日ほど寝込むことになった晶だったが、さすがにフィガロの治療は的確だった。加えてミチルが特製の薬を作ってくれたので、むしろ倒れる前より調子がいいくらいだ。
「しばらくは胃に優しいものを出すけど、無理しないで、きつかったら残せよ、賢者さん」
「ネロの作ってくれたご飯を残すなんて勿体ないこと出来ませんよ」
「いや残せよ」
「大丈夫ですよ、余ったら俺が食べますし」
ふああ、と大きな欠伸をしながらそう請け負ったのはミスラだ。晶が昏々と眠り続けた結果、ミスラの方はこの三日間、一睡も出来ていないはずで、いつもなら不機嫌のどん底にいるはずなのだが、不思議と今日のミスラはさほど機嫌が悪そうに見えない。もっとも、徹夜が続くと逆に目が冴えてくるらしいから、すでにその段階に到達してしまっているのかもしれない。
「あのミスラ、今日は予定がないので、もしよかったら昼寝とか――」
朝食を終えたタイミングでそう提案してみると、宣言通り晶が食べきれなかったおじやの残りを平らげていたミスラは「いいですね」と頷いた。
「ちょっと試してみたいことがあるので」
「試してみたいこと、ですか?」
「ええ。宿題です」
およそ似つかわしくない単語を聞いたな、と思った瞬間、二人の背後に空間の扉が出現する。
「行きましょうか」
「ええっ、今すぐですか!?」
まだ片付けもしていないし、と言いかけて、ちょうど厨房に続く扉から顔を覗かせたネロが「今日はいいから」とばかりに手を振ってくれる。すみません、と拝む仕草で返したところで、今度は食堂から出て行こうとしていたフィガロと目が合った。
「今日の賢者様の仕事は、ミスラを寝かしつけること。他の誰にも出来ない、極めて重要な役目だ。頼んだよ」
寝不足のミスラをこれ以上放っておいたら、魔法舎が吹き飛びかねないからね、と軽口を叩いてみせるフィガロに、空間の扉に片足を突っ込んだミスラがムッとした顔で振り返る。何か言い返そうと口を開き掛けた瞬間、フィガロはにこり、と満面の笑顔を向けた。
「宿題。ちゃんとやってきたんだ。偉いね」
「……」
「これだけは言っておくけど――壊すなよ」
「……あなたじゃあるまいし」
「ああああ、あの、宿題って一体……」
頭上を飛び交う剣呑な会話に怯える晶の腕をぐいと引いて、「さっさと行きますよ」と扉を通り抜ける。繋いだ先は当然、魔法舎一階にあるミスラの部屋だ。
「あのミスラ、宿題って……」
おずおずと問いかけてくる晶を一瞥し、静かに呪文を唱えれば、一瞬で二人の服が寝間着に替わった。
「わっ……魔法って、本当に便利ですね」
未だ魔法に慣れていない晶は、ミスラにとっては取るに足らないような魔法であっても、いちいち感動してくれるから、何だか気分がいい。
「晶」
「は、はい!」
「フィガロに言われたんですよ。あなたが体調を崩さず、かつあなた自身もしっかり休息が取れる状態で、眠るための力を借りる方法を考えろって」
「そんな……あの時は俺がうっかり椅子で眠りこけたから風邪を引いただけで……。俺のせいなんです。ミスラは悪くありません」
慌てたように手をぶんぶんと振り、そう断言してくる姿を見ていると、何だか胸の奥がもやもやする。
賢者・真木晶は自身のことよりも他者の痛みや悲しみを優先する、そういう傾向がある。
そもそも、突然この世界に召喚され、右も左も分からない状態で、それでも魔法使い達に寄り添うことを選んだ人間だ。
なんでも、彼が元いた世界には魔法使いがいないらしい。それどころか身分制度がなく、誰もが対等に生きられるのだという。だからだろうか、彼は魔法使いと人間を区別しないし、一国の王子や貴族、はたまた世界最強と謳われる魔法使いとも対等に会話が出来る、この世界では希有な存在だった。
その屈託のなさと、時折見せる芯の強さ。弱いくせに他人を庇おうとするのは無謀にもほどがあるが、妙に肝が据わっているのが、見ていて面白い。
しかし、何もかも一人で背負い込もうとするのは、本当に悪い癖だ。
「晶。あの時、泣いていたのを覚えていますか」
熱に浮かされていたから覚えていないかと思ったが、ばつが悪そうな顔をしたところを見ると、しっかり覚えていたようだ。
「その……。みっともないところをお見せしました……」
「はあ? みっともないとは言っていませんよ。体が弱ると、心も弱るんでしょう? チレッタが言っていました。心が弱ると、いつもは心の奥底に押し込めていた気持ちが、溢れて止まらなくなるんだと」
なんでも自分のせいにして、抱え込んで。
それを押し隠して、笑顔を作って。
一度溢れてすっきりしたのかと思えば、またもや背負い込もうとする。
「あなたが弱ると、俺が困ります」
「ええ、はい……そうですよね。だから」
もっとちゃんとしないと、と答えようとした晶を遮って、ミスラは得意げに言い放った。
「だから、あなたが弱らないで済む方法を考えました」
意外な言葉に、思わず目を瞬かせる。
「ミスラ? それはどういう――」
「だから、宿題ですよ。あなたが寝込んでいる間に色々と考えたんです。俺が眠れて、あなたも休める方法を」
そう言って寝台に滑り込んだミスラは、何故か真ん中ではなく壁際に寝そべって、空いた空間を指し示した。
「要するに、あなたがちゃんと布団に入って眠ればいいわけでしょう? 俺の横で、手を繋いで寝ればいいじゃないですか」
「ミスラぁ!? 色々考えた結果がそれですか!?」
フィガロも、まさかミスラの出した結論が『添い寝』に落ち着くとは、思ってもいなかっただろう。
「はい。これが一番効率がいいと思って」
というわけでどうぞ、と手招きされても、はいそうですかと簡単に頷けるわけもない。
「いやあの! 俺、寝相悪いですし!」
「構いませんけど」
「俺が構います! というか、ええと……いい大人がその……添い寝をするというのは、気恥ずかしいというか……!」
親が添い寝してくれたのも幼い頃の話だし、修学旅行や部活の合宿で雑魚寝をしたことならあるが、それだって同じ布団で寝たわけではない。
「? あなたの世界では、誰かと眠ることはないんですか?」
「そういうわけではありませんけど、夫婦とか親子とか、仲のいい兄弟とか、あとその……恋人とか。ごく親しい間柄でないと、なかなかそういう機会はなかったと思います」
例えばほら、スノウとホワイトとか、ルチルとミチルとか! と分かりやすい例を挙げてみるが、ミスラには今ひとつ響いていないようだ。不思議そうに小首を傾げ――思いがけないことを口にした。
「俺とあなたも、それなりに親しい間柄だと思いますけど」
「――え?」
思わず呆気に取られてしまってから、何とか自分の中で納得のいく説明をひねくり出す。
「えっと――賢者と、賢者の魔法使いという間柄が、っていうことですか」
見えない絆で結ばれ、今は魔法舎で共同生活を送る二十二人は、確かに端から見れば因縁浅からぬ関係ではあるが、それを「親しい」という言葉で括ってしまっていいのだろうか。
「いいえ」
静かに首を横に振って、鮮やかな緑の瞳がまっすぐに晶を射貫く。
「俺は今まで、ずっと一人で生きてきました。こんな風に、すぐそばに他人がいるような生活は、生まれて初めてです。まして、寝ている時に誰かが近くにいるなんて、ちょっと前までは考えられませんでしたよ」
北の魔法使いは総じて孤高の存在だ。厳しい環境が馴れ合いを許さない。
「ただまあ……寝る時にあなたが隣にいて、手を繋いで、他愛ない話をする時間は、悪くないと思います」
悪くない。それはミスラにとって最大級の賛辞であることを、晶は知っている。
「長く生きてきましたけど、そんな風に思ったのはあなたが初めてなので。そう思えるのは、俺とあなたが親しい間柄になったからなんじゃないですか」
「そっ……そう、なのかもしれません、ね?」
何やら言いくるめられている気がするのだが、困ったことに晶は反論の言葉を持たない。
この世界に召喚されて、ずっと無我夢中で走り続けてきた。
賢者様と褒めそやされて、身勝手な期待を押しつけられても、自分はただの一般人、それも異世界人だ。魔法使い達のように強大な力を振るうことも出来ないし、この世界のこともよく分からず、それどころか文字の読み書きすらまともに出来ない現状では、一人の人間として生きていくことすら難しい。
結局のところ、賢者・真木晶はあやふやでどっちつかずな、実に曖昧な存在で。
だからこそ、自分がここにいる意味を、いつだって探している。
そんな日々の中で、唯一確証を持って出来る「賢者らしいこと」――その筆頭がミスラの寝かしつけだった。
「……俺、ミスラが「手を握って下さい」って言ってくれることが、嬉しいんです」
勿論、仕事を中断させられるのは困りものだし、力が不安定すぎて、毎回きちんと眠らせてあげられないことにも負い目を感じている。
それでも。
「ミスラがそう言ってくれるたびに、ここにいていいんだって、そう言われてる気がして」
はあ? と言いたげな顔で見上げてくるミスラに、慌ててばたばたと手を振る。
「あっ、すいません勝手なことを。でも、俺はそう感じるし、それがとても嬉しいので。えっと、こういうのもその、親しくなったってことに……なるのかな」
はあ、と深い溜息を吐いて、ミスラはおもむろに右手を伸ばしてきた。咄嗟にその手を掴んだ途端、ぐいと引き寄せられて寝台の上に倒れ込む。
「うわっ!」
「まったく……くだらないことで悩んでますね。誰かの言葉がないと自分の居場所を確保できないんですか?」
「お、俺はミスラみたいに強くないので! いつだって迷うし、いつだって不安なんです!」
どこか開き直ったような言葉に、ようやくいつもの元気が戻ってきたことを確信して、「あはは」と軽快な笑い声を上げたミスラは、改めて晶を寝台に引っ張り上げると、ぽんぽんと自分の隣を示した。
「あなたの居場所はここです。俺が決めました」
有無を言わさず晶を隣に寝かせ、その手をぎゅっと握りしめる。
「俺はあなたが隣にいるとよく眠れるし、あなたは居場所があると安心するんでしょう。なら、これが最適解です」
自信満々に言い放ち、瞼を閉じる。
「では、そういうことで」
「いやあの! 本当にこの状態で寝るんですか!?」
「おやすみなさい、晶」
すっかり寝る気満々のミスラは、もう目を開けようともしてくれない。
数分も経たないうちに静かな寝息が聞こえていて、珍しくあっさりと賢者の力が発揮できたことを理解した晶は、眠りに落ちてなお離そうとする気配のないミスラの手を、そっと握り返した。
「おやすみなさい、ミスラ。――ありがとうございます」
俺に言葉をくれて。俺に居場所をくれて。俺に、優しさをくれて――ありがとう。
「あなた、寝相が悪すぎるんですよ」
一時間もしないうちに目が覚めたミスラの機嫌は最悪で、叩き起こされた晶は心底恐縮しつつも「だから言ったじゃないですか」と精一杯の弁明を試みる。
手を繋いで寝る体勢は、寝相がいい者同士なら何の問題もないかも知れないが、やたら動き回る晶はすぐ手を離してしまうし、あまつさえ手や足をばたつかせて、隣に寝ているミスラを起こしてしまう――ようだ。自覚がないので分からないが、叩き起こされた方はばっちり覚えているので言い逃れが出来ない。
「俺、ものすごく寝相が悪くて、朝起きたら頭と足の位置が逆さになってたり、寝台から落ちてることもしょっちゅうですし、布団や枕は大体どこかへ飛んじゃってるし――」
思えば早くに親と布団を分けたのも、修学旅行で一人だけ布団を離されたのも、この寝相の悪さが原因だった。
「仕方ない。身動きできないように、魔法で固めてあげましょう」
魔道具を取り出そうと右手を掲げるミスラの腕に、大慌てですがりつく。
「やめてください、ごめんなさい! 寝ている間のことには責任取れません!」
「まったく、折角よく眠れそうだったのに……」
地獄の底から響くような溜息を吐いて、がしがしと頭を掻く。
「分かりました。寝方を変えましょう」
「はあ……どんな風にですか」
「あなたが動かなければいいんですから、やっぱりこうじゃないですか」
躊躇いもなく正面から抱きしめられて、思わずぎゃああと悲鳴を上げる。
「うるさ……静かにして下さいよ」
「ミスラ! この姿勢はちょっと!」
傷跡の残る胸板を押し返して身を離そうとするが、晶の力で振りほどけるような、そんなやわな相手ではない。
「駄目ですか? ああ、確かに手は繋げないな」
そういう問題ではない。そういう問題ではないのだが、手が繋ぎにくいのは事実だ。その方向で諦めてもらおう。
「そうです、これだと手を繋いで寝るのは難しいですから!」
「こうすればいいんじゃないですか」
無駄な抵抗を続ける手をはし、と掴み、指を絡ませる。
「これなら離れないと思いますけど」
「俺が気になって眠れません! というか近すぎです!」
「あなた、俺の顔好きじゃないですか。よく見えていいんじゃないですか」
「確かにミスラは格好いいですけど! 見てて惚れ惚れしますけど! この距離は刺激が強すぎます!」
面倒な人だなあとぼやきつつも、どこか満足げなミスラに、自分が何を口走ったか気づいて、かあと顔が熱くなる。
「いえあの……お世辞とかじゃなくて、心からそう思ってるんですけど、面と向かって言うのは、照れますね」
真っ赤に染まっているだろう顔を見られたくなくてごろんと背中を向けたら、そのまま背後から抱きすくめられた。
「ミスラ!?」
「ああ、これなら寝心地が良さそうだ」
まるで抱き枕のように抱え込まれて、あまりの密着度に声のない悲鳴を上げる。
「ほら、こうやって繋げば、手も離れないでしょうし」
腕を撫でるようにして晶の手を探り当て、甲側から握りしめる。ついでに長い足がのしかかってきて、足の動きまで封じられた。
「これなら、あなたがどんなに暴れても押さえ込めます」
「そうかもしれませんけど……お、重い……」
「親愛の重みです」
しれっと言い放って、ふああと大きく欠伸をする。
「今度はちゃんと朝まで、寝かせてくださいね」
「朝まで!? 駄目ですよミスラ、ちゃんと昼には起きてください!」
「嫌です」
抱きしめる腕に力を込めて苦情を封じ、漆黒の髪に顔を埋めて、ふふと笑う。
「落ち着く匂いです。よく眠れそうだ」
「俺は落ち着かないです……」
「そのうち慣れますよ。ではおやすみなさい、晶」
「うう……おやすみなさい、ミスラ」
色々と諦めて抱き枕に徹する覚悟を決めた晶だったが、背中越しに伝わってくる体温と、頭のすぐ上で聞こえてくる安らかな寝息に眠気を誘われて、どんどん瞼が重くなっていく。
そうして気づけば、丸一日眠りこけて、次の朝を迎えていた。
久々に長く眠れたことで、目の下の隈が若干薄くなったミスラは、いつもよりも爽やかな笑顔で笑っていて。
「賢者様はいい抱き枕になりますね」
朝食の席でさらっと言い放ったことで、食堂中が大騒ぎになったのは、言うまでもない。
***
気持ちの良い風が吹き抜ける午後、魔法舎の中庭を散策していたフィガロとルチルは、綺麗に整えられた芝生の片隅に一際鮮やかな色彩を放つ一角を見つけて、おやと目を細めた。
「あら、あんなところにミスラさんが寝てますね」
相変わらず寝不足を引きずっているミスラは、隙あらばどこでも寝ようとするので、庭に転がっていようが廊下に寝そべっていようが、もう慣れっこだ。
「また賢者様を巻き込んで。困ったヤツだな」
よく見れば、ミスラの腕の中に賢者の黒い頭が見える。最初は抱き枕扱いに抵抗があったらしい賢者も、最近ではすっかり慣れてしまったようで、こうして一緒に寝落ちている姿をよく見かけるようになった。
「ふふ、まるで猫ちゃんが二匹、丸くなって寝ているみたいですね。かわいい」
「猫ちゃんねえ。赤い方はどう見ても獅子か豹だと思うけど」
「賢者様は黒猫ちゃんですね」
これは書き留めておかないと! と手にしていたスケッチブックを広げようとするルチルに、そっと待ったを掛ける。
「折角気持ちよさそうに寝てるんだ。邪魔しちゃ悪いよ」
「それもそうですね」
スケッチブックを抱え直し、ふふ、と楽しそうに笑う。
「ミスラさんと賢者様は、本当に仲良しですね」
「うんうん。仲がいいのはいいことだよね」
たとえそれが、長い人生のほんの一瞬、束の間の出来事だったとしても。
一度結ばれた縁はきっと、どこまでも続いていくから。