地獄でも手は繋げる 閉店後の雷麺亭には、水の流れる音だけが静かに響いていた。
最後の客が残した餃子を捨ててから生ゴミ用の袋の口をきつく縛る。残りの後片付けと明日の仕込みと。今からするべきことを頭の中にぼんやりと思い浮かべながら、晴臣はひとり静かにいつものルーティンを辿っていた。
「……」
振り返った先、視界の中でにこにこと人好きのする笑みを浮かべた男に晴臣はちいさく息を吐く。十年前と変わらぬ姿で立つ『相棒』は、幼い子どもがするようにひらひらと嬉しそうに右手を振った。
「……飯でも食いに来たのか」
呆れを滲ませ、晴臣は静かにそう言葉を落とした。もちろん、そんなわけないとはわかっているけれど。否、きっと彼の行動に明確な理由なんて端から存在しないのだ。それが自身の作り出した『幻影』であるなら、尚更。――すくなくとも、晴臣は九頭竜智生をそういう男だと認識していた。
案の定、智生は可笑しそうにくつくつと笑みを零しながら静かに首を横に振ってみせた。けれど、だからと言って何かを口にするわけでもなく、黙ったままおいでおいでと手振りだけで晴臣を引き寄せる。
頭に巻いていた布を外し、晴臣は彼の方へ歩みを進めた。手を伸ばせば触れられるほどの距離まで近付いて、じっと目前の美しい男の相貌を見つめている。
――お前は、俺の宝物だよ
彼の言葉を何度も夢に見た。甘い毒のように全身を蝕むそれを晴臣は死ぬまで抱えて生きるのだ。いつまでも智生の影に縛られて、呼吸と同義だと思っていた音楽さえ手放した『俺』を、お前は笑うだろうか、と。けれど、智生の隣以外で音を紡ぐ自身の姿を想像することさえ晴臣には出来なかった。――音楽は文字通り『すべて』であったのに。
「……っ、」
不意に伸ばされた手がむにと晴臣の鼻を摘んだ。驚いて息を呑んだ晴臣の顔を智生は彼特有の甘い微笑みをたたえながら掬い上げるように覗き込む。――はるおみ、と。彼のくちびるがちいさく動かされた。
「……」
息を吐いて、晴臣はゆっくりと頷いた。彼の言葉と幻影に身を投じた『俺』を見て、彼はきっと全てを肯定するのだろう。それから嬉しそうにうっとりと表情を綻ばせ、「嬉しいよ、晴臣」と甘い言葉を囁くのだ。