怒らせたらダメなやつだと、気づく前。 春の国よりも涼しくて、冬の国よりも暖かいここ。
木々と草花はそんな気候に適したものたちで、ネロは手にバスケットを持ったまましゃがみ、花をそっとつついてみれば、花はくすぐったそうに揺れた。
それにネロは小さく笑い、その隣の葉に触れようとすれば、綺麗な蝶がそこにとまっている。
休憩中の時間を邪魔するところだったと指を引くと、向こうから同じ種類の蝶が現れ、それを出迎えるように葉にとまっていた蝶が飛び、ともにくるくると円を描く。
虫の声を聞き取ることは出来ないが、二匹が一緒に飛ぶ姿を見る限り、番か何かなのだろう。
そのまま向こうへ飛ぶのを見送り、立ち上がる。バスケットが傾かないように、改めてしっかり持った。
中身は家で作った簡単なサンドイッチ。勿論、彼の大好物である肉のそれも入っている。
(ちょっと早く来すぎたな)
顔を上げて辺りを見渡すが、まだブラッドリーは来ていないようだ。
気持ちいい風が吹き、ネロの髪の毛を揺らす。
(でも家にいても落ち着かねぇし・・・・・・)
だからって軽食まで作って、待ち合わせの時間よりも早くここにいるなんて。我ながら浮かれているのだと嫌でも分かる。
そんな自分が恥ずかしいけれど、きっとブラッドリーは喜んでくれるだろうから――――そう、きっと。
ネロは一本の大きい木まで歩き、腰を下ろす。そして大きく息を吐いた。
冬の国に住むブラッドリーと恋人関係になったのは、つい先日のこと。
交流の少ない春の国と冬の国だが、時折仲違いが起きないようにするためか、春の国に冬の国をもてなす祭りが行われることがある。
彼らに振る舞う料理を作るのはネロの仕事で、祭りの苦手なネロは厨房にこもったまま。祭りに参加し、踊ったり話したりすることは全くなかった。
しかしそんなネロの元に、
『てめぇがあの料理作ってんのか』
突然現れたのがブラッドリーだった。
(まったく。世の中なにが起こるか分からないな)
ネロは意味も無くバスケットを開け、中身を見る。そしてひとつ頷いて、蓋を閉めた。
ブラッドリーはネロが作る料理をいたく気に入り、自分専属の料理人として冬の国に連れて行かれそうにもなった。
だがそれを拒んだネロにブラッドリーは無理強いすることなく、春の国と冬の国の境であるここで、ネロが料理を振る舞うのを約束させた。
しかしその約束ひとつで終わらせず、また作ってくると言ったのはネロだ。美味しそうに食べてくれるブラッドリーを見て、また作りたいと思ったのだ。
それから数日に一度、ブラッドリーに料理を振る舞うようになった。
「ネロ!」
「!!」
ふわっと一度だけ冷たい風がネロの頬を撫でる。
顔を上げればブラッドリーがこちらに走ってきていた。
「ブラッド」
「わりぃ、遅くなった!」
「別に、俺もいま来たとこだし」
小さく笑い、首を横に振る。
元々王族である彼は忙しい身だ。それでもこうやって時間を割いて会いに来てくれる。
「でも待たせたろ」
ブラッドリーはネロの前まで来ると、両手を広げて強くこちらを抱きしめた。
「悪かったな」
そしてネロの前髪をかき上げ、額に唇を落とす。それにぶわっと顔を赤く染めれば、彼は嬉しそうに鼻頭にもキスをした。
「ちょ、ブラッド」
「はは、真っ赤になってら」
「俺で遊ぶなよ」
「恋人同士なんだから、これくらいじゃれあってもいいだろ?」
「ん?」と首を傾げながら顔をのぞき込まれる。優しい笑みなのに、どこか悪戯っぽさが見えて、ネロはフイと顔を逸らした。
「飯、作ってきたから」
あからさまな逃げなのだが、ブラッドリーは「お!」と嬉しそうに視線をバスケットに向ける。
「ありがとな」
そしてもう一度額に口付けてから、大きな木の幹を背もたれに、その場に腰を下ろした。
本当にスキンシップが好きな男である。
ネロは片手で額を押さえながら、もう片方の手でバスケットを押し渡した。
「お! サンドイッチじゃねぇか! 俺の好きな肉のもあるな!」
パカッと蓋を開け、「いただきます」と、早速食べ始める。
「うまい!」
いつものように満面の笑みを浮かべて食べる彼に、ネロは小さく笑って「そうかよ」と返す。
端に入れていた小さなカップも取り出し、お茶を注ぐ。なんてことないそれを渡せば、それにも「うまいな!」と笑うから、ネロの胸がくすぐったい。
「てめぇの飯はほんと世界一だぜ」
「そんな褒めても肉は増えねぇぞ」
「そういうつもりで褒めてるわけじゃねぇよ」
大きな口を開けてサンドイッチに噛みつくブラッドリーは一瞬むすっとするも、すぐにまた「うまい!」と言い、上機嫌にそれを頬張っていく。
本当に作り甲斐のある男だ。
ふと、ピピっと鳥の鳴き声が聞こえる。
小さな鳥が木から下り、ネロの肩に止まった。
「ん? どうした?」
小鳥に話しかけると、またピピ! と鳴いて、ネロの頬を軽くくちばしでつつく。
「はは、いいよ」
どうやらネロの作ったサンドイッチが欲しいようだ。きっとブラッドリーがうまいうまい言うから、味見したくなったのだろう。
「ブラッド、ひとつもらってもいいか?」
「んあ?」
「こいつも食べたいんだって」
「肉はとっとくからさ」と、バスケットの中から野菜を挟んでいるそれを取る。本当はかたよりなく、この野菜のサンドイッチも食べて欲しいのだが、今日くらいはいいだろう。
ネロはパンを小さくちぎり、小鳥に渡す。
「喉、詰まらせるなよ」
ピ! と返事をし、くちばしで器用にパンを取り、食べる。すると美味しかったのか、嬉しそうに尾を揺らした。
「あはは、うまかったか?」
ピピっとまた鳴き、おかわりをねだるようにまた頬をつつかれる。
「待て待てって。ん?」
今度は頭に何かが乗った感触が。一体なんだと視線を上にすると、ネロの膝の上に子リスが降りてきた。
「お前も食いたいの?」
肩に小鳥、膝に子リス。彼らにパンをちぎり渡せば、嬉しそうにそれを食べる。
サンドイッチのパンから作っているネロからしたら、彼らに喜んでもらえるのも嬉しい。
(今度はこいつらにも何か作らないとな)
そんなことを思っていると、グイと腕を引かれ、バランスを崩したネロから、小鳥と子リスが地面に逃げる。
ブラッドリーの胸に受け止められ、ネロは「ブラッド?」と彼を見た。
「あ」
すると彼はこちらに向けて口を開く。
「ん?」
「それ、俺にも食べさせろよ」
「え、でも野菜だし・・・・・・それにパンもちぎった後だけど」
「元々それも俺様のもんだろ」
「あー」とまた口を開けたブラッドリーに、ネロは持っていたそれを口まで運ぶ。
かぶりと噛みつき、もぐもぐ食べる彼に手を下ろそうとすると、その腕を掴まれ、そのまままたサンドイッチに齧りつく。
「ちょ、ブラッド」
制止の声も聞かず、ネロの手からブラッドリーはそれを食べ、最後は指にも噛みつかんとばかりに平らげた。しかしゴクンとそれを飲み込んでもブラッドリーは手を離してくれない。
「ブラッド?」
軽く手を引けば、また彼は口を開き、ネロの指を口に含んだ。
「はっ、え?」
驚きに声を上げる。
「な、な、おま、ちょっとっ」
しかしブラッドリーは咥えた指を解放するどころか指の腹に舌を這わせ、カチンと爪の辺りを甘噛みする。
「んっ」
そのまま今度は強く吸われ、また舌が這えば、ネロの肩が勝手にびくついた。
「ぶ、ぶらっど・・・・・・」
震えながら名前を呼ぶ。
気持ちよさと、突然どうしたのかという不安。
小鳥と子リスがまるで心配するようにまたネロの膝に乗り、ブラッドリーを睨んでいる。
「う・・・・・・」
今度は指の付け根あたりを甘噛みされたかと思えば、ゆっくりとその指がブラッドリーの口から出てきた。しかし手首を離しはしない。
(なんで、急に)
何か彼を怒らせることをしたんだろうか。
熱くなり始めた息を吐き出し彼を見ると、ブラッドリーは目を細め唸った――――小鳥と子リスに向かって。
「うせろ」
そして初めて聞く、低い声に驚けば、その二匹も一目散に駆けて行く。
「ぶ、らっど?」
「ネロ」
掴まれたままだった腕を引かれ、そのまま口付けられた。
「んっ」
キスは一応恋人になってから、会う度にしている。けれどそれは挨拶みたいに軽いもの。それこそ恋人同士、愛を伝え合うようなものだ。
しかしこのキスは違う。
こちらの唇を濡らし、啄む。ぬるっと舌が唇を舐めたかと思えば、そのまま口腔へと侵入する。
こんなキスは初めてで息苦しく、片方の手で胸板を叩けば、その手すら手に絡め取られ、木の幹に押しつけられた。
「ふ、ぁ、んン」
まるで指を舐められていた時のように歯列をなぞり、顎裏をくすぐられる。
びくびくと身体を震わせれば、もっとそこを責められる。
息が苦しくて唇をなんとかずらせば、その隙間から自分でも聞いたことのない声が出て、恥ずかしさで死んでしまいそうだ。
「ぁっ」
舌が舌と絡まり、甘噛みされる。
頭が真っ白に染まりそうになれば、ようやく唇が剥がれていった。
「ふ、ぁ、はぁ、はぁ」
唾液が零れ、顎を伝う。
荒い息がぶつかり合う近さで、「な、んで」と問えば、彼もまた息を乱しながら答える。
「てめぇは、俺のもんだろ」
「・・・・・・・・・・・・」
言われた意味が分からず、ネロは瞬きをした。
確かに恋人同士になった日、彼は自分に向かって『もう俺のもんだ』と言っていた。
自分は春の国の住民だし、ブラッドリー専属の料理人になったわけではない。でも、この心はもうブラッドリーに奪われている。だからもう自分はブラッドリーのものだと思っている。
思っているのだが?
「え、なに、どういうこと?」
「・・・・・・・・・・・・」
今度はブラッドリーが黙る番だった。
ムスッとした表情。だがその視線が珍しく泳ぎ、「分かんねぇのかよ」と呟いている。
「ブラッド?」
木の幹に押しつけられたまま首を傾げれば、彼はぐっと何かを堪えるような表情をしてから、はぁと大きく溜息をつく。そしてネロの首元に顔を埋めた。
「ネロ」
「・・・・・・んっ」
そのまま首筋にキスを落とされ、小さな痛み。何をしたのか聞く前に、痛みを感じた場所に謝罪をするかのように舌で舐められた。
今度はそのまま耳たぶを甘噛みされ、また舐める。
「や、っ、耳、だめ、だっ、やだっ」
ぴちゃぴちゃと水音を響かせ、ちゅっと吸う。震える身体と、高くなっていく体温。
ネロは逃げるように首を振れば、「逃げるな」と、濡れた声で低く囁かれてしまう。
「ひう!」
それにゾクゾクと背中に何かが這い上がるような感触がし、腰がざわめく。
幹に寄りかかりながらずるずる落ちていくネロに、ブラッドリーは顔を上げ、また唇を奪う。
「ん、く、んン」
そのまま地面に倒れれば、ブラッドリーが覆い被さりながらキスを続ける。
苦しいのに、気持ちいい。でもこのままどうなってしまうのか。
(なんか、溶けそう)
口の中を蹂躙する彼の舌。まるでひとつになっているような感覚に、無意識に歯を立てれば、ゆっくりとブラッドリーは顔を離した。
「ネロ」
「やっ」
名前を呼ばれるだけでも腰が砕けそうで、ネロはブラッドリーから顔を背ける。
ポロリと涙が零れれば、地面に縫い付けになっていた手が離れ、その手が涙を拭った。
「悪い」
「う・・・・・・ぁ、な、にが?」
「・・・・・・・・・・・・」
一体なにに対して謝っているのか。
俺のものだと言ったこと? それともいきなりキスやらを始めたこと?
確かにいきなり何なのだと思うし、このまま何をどうされてしまうのか不安ではあったけれど。
「べつ、に、怒って、ねぇよ?」
嫌なわけではない。
涙で濡れる瞳を瞬き、ブラッドリーに視線を戻せば、彼は大きな溜息をついてネロの頬に口付けた。
「ほんと、かなわねぇよ。てめぇには」
そしてぎゅっと抱きしめられれば、ネロはホッと安堵の息を吐く。そして抱きしめ返しながら、背中をポンポンと叩いた。
「・・・・・・嫉妬した」
ぼそりと呟かれた声。
「嫉妬?」
「俺がいんのに、別の奴なんかかまいやがって」
「・・・・・・あぁ、さっきの?」
小鳥と子リスのことを言ってるのだと気づくのに、少し時間が掛かった。
「え、でも動物だし」
「それでも嫌なんだよ、俺は」
抱きしめ合いながら、彼はネロに頬擦りする。
「ネロは俺だけ見てろよ」
「えぇ・・・・・・」
そんな無茶な。
そう思いつつも、どこか子供っぽいブラッドリーにネロは背中を叩きながら小さく笑う。
「甘えたさんだな、あんた」
「そんな可愛いもんじゃねぇよ」
「でも、ちょっと嬉しい」
ネロがそう言うと、「だからそんな煽るなっての」と溜息をつかれてしまう。
小鳥と子リスにパンをあげていただけで怒る恋人。それはイコール、それだけ愛してくれているということだ。
「ブラッド」
でもまた彼らにはパンを焼こうと思っている自分は、もしかしたら意地の悪い恋人なのかもしれない。でもまた怒られてもいい。可愛いものじゃないと言われたが、こちらからしたら可愛い以外なにものでもないので。
「ちょっとさっきのは苦しかったから、もっとその、優しく、キスしてほしい」
「ネロてめぇ・・・・・・くそ、ほんとおっかねぇなてめぇは」
困ったように眉を寄せつつも、最後は呆れたように笑って唇を重ねるブラッドリーに、ネロも小さく笑って自分からも口付ける。
――――今度は何で怒ってくれるんだろう?
そう言ったらきっと一番怒るだろうなぁ。
のんびりそんなことを考えた数日後。
ベッドの上で後悔することになるなんて、このときは思ってもみなかった。
怒らせたらダメなやつだと、気づく前。