【ブラネロ】とらわれた男の誕生日 朝日が昇り始めた時間。鳥の鳴き声が少しずつ響き始めた頃、自室で眠っていたネロが静かに瞼を持ち上げた。
数回まばたきをし、抱きしめているクッションに顔を埋める。そしてくあ、と欠伸をしてから目を擦った。
今日の朝食当番はカナリアだ。久しぶりにゆっくり眠れる日。しかし癖というものは恐ろしく、いつもと似たような時間に起きてしまったようだ。
ネロは再度クッションに顔を押しつけ、目を閉じる。二度寝が許されるなんて最高だと思うけれど、やはり習慣になっているからか、眠気はあるものの、眠りに至らない。
「……カナリアの手伝いでもするか」
二度寝を諦めてベッドから下り、パチンと指を鳴らせば一瞬で着替えは終わる。こういうところで魔法は便利だなとネロは心から思う。
眠気だけはまだ残るため、隠すことなく大きな口で欠伸をしながらドアを開くと、ボスンと何かに当たった。
「おわ」
衝撃に目を閉じれば、「よう」と聞き慣れた声。
パチっと目を開ければ、そこにいたのはブラッドリーだ。
「ブラッド?」
彼はいつもの格好で、ポケットに手を入れてドアの前に立っていた。どうやら彼の胸板にぶつかってしまったらしい。
「こんな朝早くにどうした?」
小腹が空けば朝食の準備をしている厨房に顔を出すことがあるブラッドリーだ。今はきっとカナリアが厨房にいるはずだから、腹が空いたのならそちらに行くだろう。自分に何か用があるのだろうか。
すると彼はどこか呆れたように首を揺らし、
「足止めだ」
「え? なに?」
「邪魔するぜ」
困惑しているネロの脇を通って部屋に入ってしまう。
もし誰かに見られたらどうするつもりか。魔法舎では別に仲が良くない立ち位置にいるというのに。
ネロは左右に誰もいないことを確認し、音を立てずにゆっくりとドアを閉めた。
「んで、何の用だよ」
溜息をつきながら聞けば、ブラッドリーはポケットに手を入れたまま首だけで振り返り、「何か食わせろよ」と笑った。
「ちょっと小腹が空いてよ」
相変わらずの様子にネロは溜息を吐く。
「この時間に食ったらカナリアの飯が食えなくなるだろ」
「まぁ、そうかもしれねぇけどよ」
呆れた様子のこちらを全く気にすることなくブラッドリーは言う。
「俺はてめぇの飯が食いてぇんだよ」
「…………」
ジトリと睨むネロと、笑みを浮かべたままのブラッドリー。
どちらが勝利するかなんて、賭け事にもならない。
ネロはこれみよがしに再び溜息をついて、「ちょっと待ってろ」と自室のキッチンの前に立った。
こんなあっさりと負けてしまう自分に腹が立つ。でもあんな言葉ひとつで舞い上がりたくなるほど嬉しいのだ。昔も、現在(いま)も。
彼の下にいた頃だって、隣に並ぶようになったって、ブラッドリーから『特別だ』という言葉をもらうとどうしようもないくらいの幸福に溺れた。そしてその気持ちに応えたいと思った。
しかしそれらは長く隣に立った果てに疲れ、諦め、離れることを決意させた。
気持ちに応えられないのが苦しかった、辛かった。でもどうすることも出来ないくらい、ブラッドリーが好きだった。好きだったから、彼の傍から離れることになったのに。
(ほんと、バカだよな俺)
百年離れて、心変わりはせずとも、少しは気持ちもマシになったと思った矢先、ブラッドリーとの再会。そして結局自分の中でブラッドリーは相変わらず唯一なのだと思い知らされた。
どう足掻いたって彼が好きで、何を捨てても構わないと本気で思えるほど、心酔している。
だが離れる決断をした時の気持ちがあったのは確かだ。だから今もどれだけ好きであったとしても、また一緒に在る覚悟はない。
適度な距離を保って、心酔する自分を客観視して、制御したい。
「なに作るんだ?」
「うおっ」
思いを巡らせていたネロの肩に、ブラッドリーの顎が乗る。
ビクリと反応すれば彼はどこか面白そうに「なに考えてたんだよ」と笑った。言えるわけがないだろう。ネロは肘でブラッドリーを押しやり、距離を取る。
「座って待ってろよ」
「なぁなぁ、これ使ってみろよ」
「あ?」
子供のような声掛けにネロは眉を寄せる。
≪アドノポテンスム≫と呪文が響けば、目の前に小さな小瓶が現れた。
「これ……」
手に取ってラベルを確認すると、ネロ自身も本物は初めて見る希少価値の高い香辛料だった。
「えっ、おいどうしたんだよこれ」
クシャミで飛ばされた先で盗んだのだろうか。どこで生産されているのかも秘密のものだ。何て素晴らしい所に飛ばされたのか。
しかしブラッドリーは経緯を教えることもなく、ただ一言。
「誕生日プレゼント」
「……誕生日プレゼント?」
何の話だと顔を上げれば、げんなりした様子。それに今日の日付を思い出し、それから少し考えて、そこでやっと「あ、俺の」と理解した。
そこでようやくブラッドリーが言った『足止め』に気がつく。
「なぁ、子供たちがサプライズにしようとしてくれてんじゃねぇのかよ」
「さぁ、そこまでは知らねえな」
首を横に振る。
きっとリケあたりに部屋から出さぬよう頼まれたのだろう。だが誕生日であること、そしてパーティーをすることを秘密にしておいてくれとは言われていない。という感じに違いない。
相変わらずだと思いながらも、誕生日プレゼントをくれたことが素直に嬉しい。
「あ、りがとうな」
両手で香辛料を抱きしめるように包み、そっぽを向く。
ここで素直に喜べたら可愛げがあっただろうか。けれど可愛げがある自分なんか、きっと自分じゃない。
感謝はこの香辛料を使ったとっておきの料理で伝えよう、とネロが意気込めば、ブラッドリーがネロの頭に手を置いた。
「本当は身につけるもんをやりたかった」
柔らかいまなざしに、頭を撫でる手。振り払うことも忘れ、彼を見てしまう。
「意味、分かるか?」
「…………」
身につけるものをプレゼントしたかった。それは使って消えるものではなく、残る物を与えたかったということだ。
ネロは誰かにそういう残るものをあげるのが苦手だった。身につけるものは特に。だってそんなの、相手に自分を刻みつけるようなものではないか。
『ネロ、これ付けろよ』
『…………アンクレット?』
不意に蘇った記憶にハッとする。
左足の足首がじんわり熱を灯った気がするのを見て見ぬふりするよう、ネロは小さく笑って「さぁ」と視線を逸らす。
「俺に似合うもんなんてないよ」
「ったく、可愛くねぇな」
そうだ。自分は可愛げなんてこれっぽっちもない。
呆れた様子のブラッドリーをそのままに料理に取りかかろうと思ったのだが、それを止められる。
「でも我慢できねぇな、やっぱ」
パチンと指が鳴ったかと思えば、またネロの目の前にふわりと何かが現れる――――それは昔もらったものと似たそれだ。
ネロが息を呑めば、「もう逃がすつもりねぇからな」と呟く声が耳に届く。
「今でも付けてんだろ」
「…………」
全て言われなくても分かる。
今もはめたままの左足首。捨てるにも捨てられなかった、ブラッドリーのものだという証。
目の前に浮遊するそれを手に取ったのはネロではなくブラッドリーで、大切そうに手の中に隠すように包み込んだ。
「パーティーが終わったら、俺の部屋に来い」
「…………」
「意味、分かるな?」
そっと顎を指で掬われる。そのまま近づいてきた唇にネロは顔を背けた。
相棒だった頃、何度かしたことはある。でもそれに名前も無ければ意味もなかった。あるとしたらただの所有欲。でもこれは――――?
「顔上げろ」
「やだ」
親指で頬を撫でられる。くすぐったくて、心地いい。少し高い体温が肌を滑る。
ダメだ。このまま甘えて流されてしまいたくなる。そんなのはもう嫌だ。自分を制御しなくては。そうしないと、もうこの気持ちをひとりで抱えきれなくなってしまう。
どれだけこの男が好きなのか、これ以上思い知りたくないのに。
「ネロ」
また顔を上げさせようと顎に指が掛かり、ネロは自身の唇を噛む。そして逃げるように顔を逸らせば、前髪を指で撫でるように梳かす。
「いやだって」
震えそうな声で言っても、ブラッドリーが離れる様子はない。それどころかネロの腰に手を回し、そっと引き寄せられた。
胸板に手を入れる。でも剥がすように添えただけの形。
「ネロ」
手のひらで片頬を包み、今度こそ顔を上げさせられる。
視線を逸らしたままに首を少し傾ければ、彼は仕方ないなと言うように小さく、でも優しい色で笑った。そして鼻頭を擦り合わせる。
怖いくらい甘ったるい。互いの息が唇にぶつかっているのが分かる。でも頬に触れる手が。腰に回っている腕が、ネロを離さない。
「だめだって」
ここで何でだよ、と聞いてくれたら、先程と同様に可愛くない言葉を返せたのに。ブラッドリーは額を合わせてまたネロを甘やかすだけ。
こんなの、溺れてしまう。これ以上ないほどに、もう溺れているというのに。
(あぁ、好きだ)
好きで好きで仕方がない。
一緒にいる勇気も覚悟ももうないのに、たまらなく好きなのだ。どうしようもなく。
無意識に鼻頭を少しだけ擦れば、互いの顔が傾く。
「⋯⋯⋯⋯」
唇が一瞬だけ触れ合う。それに逃げるように首を引けば、ブラッドリーはゆっくりとまた距離を縮める。
残酷なほど優しいそれが、嫌で、嫌なのに。
逃げられるわけがなく、唇がそっと重なった。
優しく柔らかく、子供みたいな口付けなのに、今まで知っているキスの中で、一番甘くて、気持ち良かった。
「夜、待ってるからな」
囁く声に腰が痺れる。だがコンコンとドアを叩くノック音にハッとし、ネロは一歩、ブラッドリーから距離を取った。
「ネロっ」
返事をする前に開かれたドアの向こうから、リケが小走りで入ってくる。
そして嬉しそうな顔でネロを抱きしめた。
「ネロ、朝からブラッドリーにたかられて大変でしたね」
「誰がさせたんだよ、ったく」
呆れた様子のブラッドリーを無視したリケは、「一緒に食堂に行きましょう」とネロの手を引いていく。
北の国では恐れられる存在だというのに、本当にリケはたくましい。
「はは、一緒に行くから引っ張るなって」
ネロは笑みを浮かべ、リケと共に歩き出す。その後ろをブラッドリーがついて来ているのかは確かめない。
いま自分はどんな顔をしているだろう。
ちゃんと笑えているだろうか。いつもと同じ様子でいられているだろうか。
だって、あんなの。あんなこと。
(あぁ、またとらわれる)
リケと一緒に歩いている身体は、もうドロドロに溶けているような気がした。
ぐつぐつ煮込んだジャムのように。オーエンの言う、傷口みたいな、そんな感じに。
リケと共に食堂に行けば、魔法舎にいる魔法使いたちが並び、その手にはそれぞれにネロへのプレゼントが抱えられている。
ネロよりも嬉しそうな子供たちの表情に、喜びやら可愛さやら、彼らの好物を沢山作ってやりたいと心から思った。
大切にしてやりたいと、本当に心から思うのに。
「ネロ!」
せーのっ
「「お誕生日、おめでとう!」」
それなのに、あぁ。
あぁ、もういい。
もういい、もういいから。
「ありがとな、みんな」
今すぐブラッドの部屋に行かせてくれ!