fairy tale 2『ねぇ、鶴さん!今〈オーロ〉って呼んだよ!!』
『言ったかぁ?おーおー、って唸っただけじゃないのか?』
『絶対言った!ね、貞ちゃんも聞いたよね!』
『おれだって〈オーロ〉って言えるじぇ!みっちゃん!』
『うんうん、貞ちゃんもすごいねぇ。カッコいいよ!
すごいね、〈シュヴァルツ〉。1歳になったばかりなのに、もうお話できるんだね!』
『まったく、光坊は大げさだな。』
『なぁ、鶴しゃん、つぎこの本読もうじぇ!』
『おう、まかせとけ。どれ。』
『むかーしむかし…』
差し込む光に朝が来たのだと知る。
意識が浮上してぼんやりと瞼を上げた。見知らぬ天井だ。
そうか、外に出たのだったーーー昨夜の顛末を思い出しゆっくりと起き上がると、俺を連れ出した張本人は、既に起床して朝食を準備しているところだった。
「光忠。」
「あ、おはよう伽羅ちゃん。よく眠れたかな。」
名を呼ぶと満面の笑みで挨拶を返される。光忠が研究所を出るまではこれが日常だった。ふと懐かしい気持ちになった。
「おはようの挨拶…」
まだ意識がはっきりしないが、「ん」と光忠に向けて顔を向ける。
その所作に、笑いながら光忠は近づき、ちゅ。と可愛らしい音を立てて、光忠は俺の頬に唇を当てた。
「もう、伽羅ちゃんは相変わらずだね。そんな可愛いこと、みんなにやっちゃ駄目だよ。」
上機嫌で言う男は「朝ごはん、もうすぐだよ」と言いながらキッチンに戻ろうとする。またこの繰り返しか。
「あんた、口にはいつになったらしてくれるんだ。」
声音に不満がありありと出たのは態とだ。光忠は目を見開きながら振り返った。
「わ!伽羅ちゃんたら、そんなこと言うの??もう誰の悪影響かなぁ。」
無言のまま光忠を眺めていると、「鶴さんだよね、まったく…」と一人で納得して、もう一度こちらに近づいてきた。俺の目の前で人差し指を立てて左右に振る。
「唇は駄目だよ、伽羅ちゃん。大人になってから。」
この国では成人は14歳だ。
そういう法律にはうるさいのだ、この男は。無駄に整ったその顔で真剣にそんなことを嘯く。
手強いな。思わず舌打ちしたら、「あ、お行儀悪いよ。」とさらに叱られた。
燭台切光忠は、俺が生まれたときからの馴染みだ。俺は五条博士という、底抜けに明るく狂った学者の研究対象として、人の腹を介さずに生まれてきたそうだ。
研究所の詳細は未だによく知らない。五条博士とその妻は、所内でも序列の高い学者夫婦で、広々とした庭のついた一棟建ての研究スペースを宛がわれていた。
俺が接したことがあるのは、同じく五条博士の研究対象である国永、五条夫人本人と、その研究対象として暮らしていた貞、それから光忠だ。
日々の世話をしてくれる研究員はいたが、会話もほとんど記憶にない。
他の棟でどんな研究がされているのかなんて、もちろん俺たちモルモットが知らされることはなかった。
7つ上の光忠に対する想いが、思慕ではなく恋慕だと気づいたのは、光忠が軍に入隊して研究所からいなくなってからだ。
たまに様子を見に来てくれた光忠に、俺なりに何度か告白だってしているのだが、この色男は全く絆される様子もない。腹立たしい。
「伽羅ちゃん、おいで。お腹すいてない?白パンあるよ。好きだろう?」
テーブルに朝食を配膳し終えた光忠は、いつまでもベッドから出てこない俺に、心配そうに声をかけてくる。この男はどこまでも過保護だ。俺は両手を光忠に向けて言ってやった。
「抱っこ。」
言われた色男は、見る間に頬を染めて慌てる。
「伽羅ちゃん、駄目。そんなの可愛すぎて、僕息が止まっちゃうよ。」
そう言いながらも、この男は俺の要求を断れない。まだ赤い顔のまま近づいてきて、俺の望みを叶えるのだ。
「わ、ちょっと身長伸びてるかな。前よりも重くなってるかも。しっかりご飯食べてたんだね。えらいえらい。」
抱き上げられて、目線が光忠より高くなる。俺を見上げる金色が、殊更優しく細められた。
「186㎝もある大男に言われてもな。」
「え、僕別に太ってないよ!」
ニヤリと笑って返すと、何を勘違いしたのか、少し焦った様子で自らの体型を省みている。
あんた、俺より7つも年上なくせにこんなんで大丈夫なのか。
腰回りをしきりに気にして、よそ見する光忠の唇に狙いを定めて、すっと顔を近づける。
「こぉら。駄目って言ったでしょ。」
直前で口を覆われた。くそ。
「おふざけも程々にしよう。スープが冷めちゃうよ。」
こちらは大真面目なのに。あんたにはいつだって届かないんだ。
朝食を取りながら、光忠は簡単に現状を教えてくれた。
今いるここは、複数ある光忠の隠れ家だそうだ。市街地から遠いとはいえ、研究所があった地域とは隣接しているから、長居はできないらしい。そこで光忠から提案があった。
「国境を越えて、海を目指そう。」
「海?」
「そう。伽羅ちゃん、行きたいって言ってただろ。」
確かに言った。だが、それは…
「5歳児の発言、真に受けたままでいるな…」
こんな風に、幼いころの自分の発言を恥ずかしげもなく晒されると、どうしようもなく年齢差が疎ましくなる。俺はあんたに、父や兄になってほしいなんて思ったことはないんだ。
「いいじゃない。僕も本物は見たことないんだ。きっと綺麗だろうなぁ。見てみたくなぁい?」
いい年した男が小首を傾げるな。くそ、なんで俺はこんな奴が好いんだ。
「見たい。」
俯いたまま最後のパンを咀嚼して、なんとか答えた。
「そう、よかった。伽羅ちゃんのお誕生日までには海も超えて、できるだけ遠くにいたいよね。」
光忠の言葉が引っかかって、俺は顔を上げた。季節は夏が始まるところだ。対して俺の誕生日は冬だ。
「海って、そんなに遠いのか…」
俺は生まれてから一度も研究所を出たことがない。この国の面積だとか、隣国の名前だとか、世間でいうところの常識くらいはあるが、あくまで机上の知識でしかない。
「そんなことないよ。7日くらいで普通は着くんじゃないかな。」
眉をハの字にしながら、光忠はちょっと困ったように笑って視線を背けた。
「でも、鶴さんも追いかけてくるだろうし。研究所、僕らのせいで全壊しちゃったからね。怒って政府とかの人も来そうだから。ちょっと時間がかかると思うんだ。」
やりすぎちゃったかなぁ。鶴さん、絶対に怒ってるよね…お説教厳しいからなぁ。はぁ、かっこつかないよねぇ。と詮無いことをブツブツ呟きながら、光忠がこちらを見る。
「伽羅ちゃん、せっかく外に出てきたんだ。今まで行けなかったところに行ってみよう。やりたいこともたくさんやろうね。」
にこり。と花でも咲くんじゃないかと思うような極上の笑みで見つめられ、胸が高鳴る。
「あんた、今朝は起きてから上機嫌だな。」
動揺を悟られたくなくて、努めて平静を装う。
「そりゃ、伽羅ちゃんがいるんだもの。」
ストレートな物言いは残酷だ。まだ期待したくなる。
思わずじっと光忠を見つめていると、何かに気付いた光忠が、ゆっくりと長い指を俺の口元に寄せてきた。
触れられた指先に伝わるくらい、顔中に熱が集まる感覚がする。なのに、「食べかす、ついてるよ」なんて言って、指はすぐに離れた。
早く大人になりたい。あんたにちゃんと俺を見てもらいたい。
そう思ってたのに。
なぁ、あんた。もしも俺が14まで生きられないって聞いたら、いったいどんな顔するんだ?