今か今かと待ちながら記憶の海に墜ちていく。
そこにはあるはずのない優しい手が差し伸べられ、柔らかな声が聞こえる。
『伽羅ちゃん』
海から引きずり出されたそこは日本家屋の一室だ。
大倶利伽羅は深く息を吐いた。
刀剣の付喪神として顕現したはずの大倶利伽羅には、別の記憶がある。
こことは別の時間軸で、学生として暮らしていたものだ。
大倶利伽羅が顕現した時、加州清光は既に三振りいた。
二振り目の加州清光が、
「おおくりからぁ…」と涙ぐんで駆け寄ってきたとき、
「清光、ここは…」
何の違和感もなく加州の名を呼んだ。そのことに、大倶利伽羅は自分でも驚きが隠せなかった。
「やあ、大倶利伽羅。君だね」
清光に連れられて入った一室には、青江がいた。
「青江…か」
「そうだね。また編みぐるみでも教えようか。それとも、チョコレートでも作る?」
共有している記憶の答え合わせのような冗談に、自分の記憶が絵空事や妄想ではなく、現実にあった出来事なのだと確信した。
鍛刀部屋から出て、青江の部屋に来るまでに、複数の歌仙兼定を見かけたことを思い出し、大倶利伽羅は珍しく話題を提供した。
「青江」
呼ばれた青江は、アルカイックスマイルで応える。
「歌仙は、たくさんいたな」
ふふ、と笑いながら、そんなにいないよ、と言う。
「二振りだけだ」
青江が言葉を続ける。
「どちらも、僕の兼定ではないんだよ」
青江は他愛のない話題のように、軽やかに言葉を吐いた。
泣きそうなのは清光の方だった。大俱利伽羅の少し前に獅子王が顕現し、彼は清光をひと目見るなり、『会いたかったぜ、キヨ――――!!』
と、抱き着いてきたそうだ。至極らしい行動に、大倶利伽羅は思わず笑ってしまった。
記憶の中の知古たちに会う。同じ顔をしていながら、彼らは己のことを知らぬ顔をする。元より馴れ合うつもりはない。だが、どこかで違和感を拭えず、腹に澱みが溜まるような感覚になるのだった。
「光忠がね、まだいないんだ。でもきっと来るよ」
青江の表情に翳りはない。彼はいつもそうだ。
それから大倶利伽羅は、出陣がなければ毎日鍛刀部屋の前に通うようになった。
別に光忠を待っているわけではない。ただ、学生であった己の記憶が、どうしても光忠に会いたいと言っているような気がして、他人事のように思いながらも、無下にできなかった。
今日は山姥切。
今日は長谷部。
今日も長谷部。
今日は蜂須賀。
今日は陸奥守。
今日は歌仙。(また違う歌仙だ)
今日は………
大倶利伽羅が顕現してどれくらい経ったのだろうか。
庭の景趣は、初春から夏の装いに様変わりしていた。
大倶利伽羅は今日も鍛刀部屋に通う。
昨日、ついに『青江の』歌仙兼定が顕現した。
飄々とした青江が静かに涙を流したのを見て、大いに慌てふためく様は、大倶利伽羅のよく知る、『あの』歌仙だった。
光忠は来ない。そういえば、鶴丸も貞もいない。彼らはどちらの記憶でも大倶利伽羅という存在の傍にいたのに。
ぽつん、と急に世界に取り残されたような気持ちになった。
光忠は来ないかもしれない。己の記憶はどれが正しいのか。己は何者だ。
付喪神、人、刀、魂、体、何を信じればいい。
ふたつの記憶が巡る。いっそ折れてしまえば楽になれるだろうか。
『伽羅ちゃん、いいこ』
蹲る大倶利伽羅の耳元に、柔らかい声が木霊する。
フッと、大倶利伽羅の頭上に影が差す。
「だいじょーぶ?」
影は加州清光だった。
「鍛刀、終わるみたいだよ」
声を掛けられ、しっかりと手を握られた。
付喪神の己なら憤死するであろう状況だが、今は繋いだ手の暖かさに救われた。
鍛刀部屋が見えてくる。どうやら先客のようだ。
歌仙と青江、それから二人よりも長身のー
視覚が脳に情報を伝えきる前に、反射のように体勢が崩れその場に座り込む。
物音に三人がこちらを振り向く。大俱利伽羅の横で加州が、振り返って驚いた顔の伊達男に、あらん限りの罵声を浴びせている。
青江と歌仙に連れられ加州が去っても、未だ動けない大倶利伽羅だが声を振り絞って名を呼ぶ。
「光…忠」
呼ばれた男はゆっくりと大倶利伽羅の頭の上に手を置き、優しく髪を撫でた。
「謝らなくちゃいけないね。君をそんなに待たせたなんて。伽羅ちゃん、すごくいいこ。ご褒美は何がいい?」