狐に嫁入り 弍桜井市巻向に、御綱祭りという奇祭がある。
五穀豊穣、子孫繁栄を祈る神事で、決して荘厳なものではなく、田遊び祭りである。
毎年ではないが、人手が足りないときは、父と共に手伝いや片付けに来ていた。今年は声が掛かった。
雨彦はこの祭りが苦手である。
当日。如月らしい、寒々しい灰色の空の下。今日は空気が一際冷たい。
二十人は居るであろう、酒の入った男達に担がれた大きな「雄綱」が、「雌綱」の待つ神社へ向かう。
雄雌は藁でこさえられた巨大な性器であり、これを見ただけでも、年頃の少年はげんなりとしてしまう。
前々日も、出発地の神社近くの広い納屋で、地元民らに混じり父と共に雄綱作りを手伝った。
父には昔馴染もおり、来たときは周りと楽しげであるが、雨彦は、大勢で和気藹々と男根をこさえるという状況に、無心を決め込み藁を纏めていた。
その手元。左手首の念珠からは、飾り房が無くなっている。あの何か強い力が弾けた時、切れてしまったのだろう。
物心ついた頃から身に付けているので、御守代わりのようなものだ。少々寂しくはあるが、言い訳が考えつかないので、ここ数日は父と叔母に気付かれぬようにしている。
さて、重いし担ぎ手達に酒は入っているしで、雄綱の歩みは、のろのろと遅い。
大勢の見物客を巻き込んで町を抜け、畑の傍での泥相撲を挟み、さんざん焦らすようにしてから、雌綱のもとへ到着する。
雄綱が近付いて来ると、到着地の神社では、雌綱が相手を迎えるため大きな柱に吊り上げられるのだが、そうすると、見事に女性の入口の形に開くのである。
(......)
その光景を、わぁわぁ言っている見物客らの後ろから、泥の跳ねたたっつけ袴の雨彦は、なんとも言えぬ表情で観ている。
「あかん。お婿さん、でかすぎた」
「入るやろか」
「ええから!お嫁さん待ってはんで!」
という参加者らの大声も、心を無にして聞き流す。雄雌の綱は別の場所で作られるので、大きさを合わせるのは難しい。
それでも、おめでたい掛け声と共に、何度か突くような動きがあった後、雄綱が雌綱を貫き、無事合体。夫婦の契りとなり、拍手喝采が上がった。
(なんだこれ......)
幼い頃は意味が分からなかったが、近年分かるようになってから観てしまうと、なるほど「奇祭」と呼ばれるわけだ、と納得する。
この光景を前にして思い返すのは、相手に申し訳ないが、
あれから翔真の事が、片時も頭から離れない。
自分に話しかける時の、優しく甘い声。艶々とした肌。長い指。薄紅色の艶やかな唇。長春色の濡れた舌......。
真っ先に性的な特徴から思い出す自分が、後ろめたい。冬空の下だというのに、体が熱くなる。
雨彦とて、翔真が自分を宿に連れ込み、何をしたかったかぐらい、解る。
正直、今となっては、ついていけば良かった、とさえ思っている。
あやかしだとしても、ともすると、自分一人で対処できたかもしれないし、
純朴な子供のふりをしていれば、何から何まで教えてくれたかもしれない。
(華村さん、どうしてるかな)
雨彦はこれまでの人生、他人を必要以上に気に掛けたことはない。
だが今は、翔真の事が只々気になるし、あろうことか、嫉妬までする。
あの調子で翔真が、他の男に言い寄っていたらと思うと、その相手に、嫉妬する。そして、苦しくなる。
こんな気持ちが延々続くのかと思うと、面倒だった。
もやもやとした気持ちを紛らわすため、今朝は起き抜け翔真を想い、自慰に耽った。
実際に受けたことはないので想像には限界があるが、自分の股の前に膝をつき、抜き身をあの長い指が捕らえ、濡れた熱い舌を先端に這わせてから、美味しそうにしゃぶり立てて......
「何を考えてる?」
良いところだったのに、視界の左側からニヤついた父が覗き込んできて、雨彦は顔をしかめた。
「お前さんも年頃だから、イロイロ思う事も、あるだろうなぁ」
からかうように言う父の視線の先を追うと、観衆の向こう、めでたく挿入された雄綱と雌綱が二度と離れぬように、上に乗っかった長老によって、きつく縛り上げられている最中だった。
雌綱が雄綱を逃がすまいと、ぎゅうう、と締め上げているようにも見える。
「別に、何も」
「そうか。なら、帰るぞ」
「片付けは」
父の眼差しが、真面目なものになる。
皆が綱のほうに集中しているのを、ちら、と確認してから、手に隠していたヒトガタを、息子に見せた。風もないのに、手と頭がヒラヒラと、落ち着きなく揺れている。
「すっ飛んで来た。早く戻ったほうがいい」
阿倍に着いた頃。
夕刻というにはまだ少し早いが、空はどんより暗くなり、しんしんと雪が降っていた。
父は家の心配をしているが、雨彦は、翔真が盆地特有の底冷えに凍えていないか心配だった。
文殊院の東に伸びる小高い丘の、ちょっとした森に隠されるようにして、葛之葉邸は建っている。
北側の通りからも、見上げて目を凝らせば塀が見えるのだが、現地民らはずっと寺院関係の建物かと思っており、気にも留めない。
通りから森へ入り、少し歩けば、門長屋。その向こうには、主屋、離れ、道具蔵が、ぴしりと並んでいる。主屋は入母屋造りの立派な建物である。
雨彦と父が帰ってくると、主屋の前に、叔母が難しい顔をして立っている。何か作業した後か、着物の上に着た生成色の割烹着が、随所黒っぽく汚れていた。
「どうした」
「話すわ。とりあえず、中へ」
叔母は雨彦には、
「あなたは部屋に戻りなさい。今夜は出ないように」
と、口早に言った。些か厳しい表情だった。
母代わりに自分を見てくれている叔母に対して、雨彦は記憶上、口答えしたことはない。理不尽に思おうと、不思議に思おうと、腹に落とし込みそのまま、何か言い返す事はなかった。
とはいえ、
(出ないように、って)
そう言われたら、抜け出したくなるのが思春期の少年である。
雨彦は自室......主屋の裏口から飛石で繋がる、離れ.....におとなしく引き籠ったが、父と叔母が何を話しているのか、気になって仕方がない。
あれから陽は落ち、辺りは暗い。火鉢に手をかざしながら、丸窓から主屋を見ると、あちらの縁側を挟んだ向こう、書斎の格子入り障子は、長いこと灯りに照らされている。
盗み聞きしに行きたいが、あの二人のことだ、すぐに気付かれてしまうだろう。
叱られて、もともと。 近くまで行ってみようか、と雨彦は、決心したように玄関へ降り、物音を立てぬよう、そうっと引戸を開けて出た。
雪は止み、薄い雲から月が見え隠れしている。
中庭へ出るとすぐ、ある香りに気が付いた。
横目に、うっすらと雪を纏っている椿が見えるが、此れではない。
梅の香りが、ふわりと鼻につく。
芳醇な白梅の、甘い香りがする。どこからともなく、漂う。
「......」
雨彦は胸が高鳴って、主屋には向かわず、離れから左手に進んだ。
夕闇のなかにそびえるのは、道具蔵だ。
ここには、家業に関するものが納められている。
蔵戸には常時鍵がかけられており、雨彦は何処に保管されているのかも知らない。
主屋のほうを振り返り、誰も居ないことを確認すると、雨彦は胸元から一枚、ヒトガタを取り出した。
(いけるか......?)
まだ完全に使いこなせるわけではないので、集中する。
指の上でひとりでに、ヒトガタの頭と手が震え始めたかと思うと、グシャグシャと〝こより〟状に細くなってゆく。
太い針のように硬く変化した其れは、紙とは思えない。錠前に挿し込み、中で少し動かしてみると、ガチャリ、と外れた。
(お)
雨彦はうまくいった事に、思わず、子供らしく口許が綻んだ。
何分まだ幼いところもあるので、父からでも叔母からでも、誉めてもらえるのは、嬉しい。
翔真なら、「凄いね、おキツネちゃん」などと言って、誉めちぎってくれるかもしれない。
(華村さんじゃ、ないかもしれないけど)
と思ってはいても、気は急いた。
蔵戸を開けると、隠せない開閉音に反応するように、奥から、床板の軋む音が聞こえた。
居る。
道具蔵の中は不気味な暗さで、いっそう冷えたが、半ば〝熱に浮かされている〟今の雨彦にとって、寒さは問題ではなかった。
一歩踏み込むと、こちらも床板が軋む。
「「......」」
両者、無言。
入口から離れた暗がりでよく見えないが、真正面の壁に背を預け、こちらを向くようにして、誰かが、足を崩して座っている。
天井近い窓から差し込む、弱い月明かりがぼんやりと照らすのは、光沢のある襦袢か。
いや、素肌か。艶かしく曲線を描いた、生足。
「誰」
威嚇しているようにも、怯えているようにも聞こえた。
しかしその質は、鼻がかった甘い声。
雨彦は、まだ相手の姿も見えていないのに、頬が熱くなるのを感じた。
「......おキツネちゃん?」
恐ろしいもので、気配で分かったとでもいうのか、あちらから聞いてきた。
雨彦は翔真に会いたかったが、ここへ来て、少し躊躇する。
此処に立ち込めている空気が、明らかに〝人ならざる者〟のそれだからだ。
暗がりから、あの、ふふ、という可愛い笑いが響いた。
「良かった。此処へ来たら、会えると思ったの」
「......華村さん、捕まってるの」
翔真の笑顔は見たいが、修練を積んでいるだけあり雨彦は、冷静な対応を始める。
雨彦の声を聞いて、翔真はまた、嬉しそうに短く笑った。
「そうなのよ。勝手に忍び込んだ、私が悪いんだけど」
反省はしていない、明るい口ぶりだ。
雨彦の想像だが、家の中か敷地内をうろつく、人ではない者......翔真......を叔母が、式神の力で捕らえ、ここに拘束したのだろう。
「ねぇ、おキツネちゃん。助けてくれない?」
暗がりの中でも白く艶やかに光る生足は、揃って左向きに倒れていたが、一旦膝が立ったと思ったら、そのまま絶妙な内股へと崩された。
雨彦は、ドキリとする。
この位置からでも分かる肌面積があまりにも広く、何も穿いていないのではないかと思うほどだ。
もしそうならば、このまま膝を開けば、中心が見えてしまう。同性同士であるのに、見てはいけないもののような気がして、雨彦は気持ち、視線を外した。
「助けてくれるなら、良いコトしてあげる......」
言い終わり、こちらを試すような、吐息混じりの色っぽい声だった。
これで男の部分が刺激されないほうがどうかしている。
雨彦は先ず、翔真が何者か尋ねたかったが、自分が何者か聞き返される事まで想像した。それには今、答えたくない。
「......」
そっと、歩み寄る。
一瞬。ピクリ、と翔真の足が震えたのを、見逃さない。
(華村さんだって、恐がってないわけじゃないんだ)
近づいていくと、時宜を図っていたかのように、月明かりが強くなる。
雨彦は、翔真の艶かしく照らされた足から、腹筋横が見えるような幅の、ぴったりとした腹掛け......裾中央が股を潜ったような形で、下に何も穿いていないわけではなかった......、相変わらずの美顔まで、視線を上げる。
「......」
後ろ手に縛られている翔真は、負けん気の強さから、なんとか雨彦と目を合わせているが、その眼差しは不安げだ。
眉を下げたその顔は、世の男が見れば皆放っておけないだろう。
張りのありそうな太腿と二の腕、腹掛けから覗く、むっちりとした腹筋と豊かな胸は、どこもかしこも触り心地が良さそうである。こんな状況であるのに、あらぬ事を妄想させる。
......勿論、額から生える、二本の角が見えていないわけではない。
(べっぴんな鬼も居るもんだな)
翔真は、雨彦が自分を見て怯えると思っていたが、いたって冷静なので、意外だった。やはり不思議な少年だ、と思ったし、この姿を見て怖がられないのは、素直に嬉しかった。
「俺の一存じゃ、助けられない」
「そう......」
しゅん、と視線を落とした翔真を見て、可哀想だとは思った。が、演技かもしれない、と疑わなくてはならなかった。
「今、華村さんをどうするか、話し合ってると思う」
翔真は、すがるように顔を上げた。
「お願い。説得して」
雨彦は翔真の姿に、南総里見八犬伝の玉梓を重ねた。捕らえられてもなお、生来の色香を放っている。
だが翔真の場合は彼女とは違い、陰か陽でいえば、陽の色香である。温かさが感じられるような......母性が感じられるような......。
「おキツネちゃんがしてほしいコト、何でもしてあげるから......」
右膝が左膝の上に乗っていたのを、わざとらしく、すぅ、と反対へ組み替える。それだけなのに、腰からくねらせるような、艶かしい動きだった。
切な、中心の小さな膨らみが分かったし、
翔真の腹掛けだか服だか分からないようなものが、背中どころか尻まで完全に出ていることが分かって、雨彦は目のやり場に困る。
......といった様子を、翔真はしっかりと見ている。
「私のこと、おキツネちゃんの好きに使っていいのよ?」
小さく口を開き、下唇に舌先を乗せて見せる。
今朝がたの妄想がぶり返し、少年の頬が暗がりの中でも分かるほど赤くなった。「使って」という言葉選びも、扇情的で効いたのだろう。翔真は、もうひと押しだ、と思った。
「助けるのは後でいいから、、ね? お口でちゅぽちゅぽしてもらうの、気持ち良いわよぉ」
口はそのままに、艶っぽい笑みで見上げてくるものだから、雨彦は自分の中で、かぁぁ、と血が沸き立つのを感じた。
(......まずい。持ってかれる)
のまれてはいけない、と、思い出したように視線を外して、一度、深呼吸する。......深呼吸したところで、翔真が放つ甘い梅の香りを、胸いっぱい吸い込むだけなのだが。
「......悪いことしてないなら、問題にはならないし、帰してもらえる。でも華村さん、悪いことしてそうだから、難しいかも」
ここまでしても誘いに乗ってこないので、翔真は肩透かしを喰らったように、芝居然と、肩だけでズルッと〝コケて〟みせた。
こんな年頃の男子も漏れなく一発で仕留めてきたが、雨彦の身持ちの堅さには、どうも手こずらされる。
「そうね。確かに、やらかしたといえば、やらかしたわ」
「どんなこと」
「聞きたい?」
翔真に微笑みかけられる度、雨彦は、綣の下あたりがムズムズとした。
「おキツネちゃんには、ちょっと刺激が強いかもしれないけど」
「このまえ奈良で合流したとき、いい香りがしたんだよ。聞けば、ならまちで〝つきまとわれた〟と言うから、そういう事にしておいたんだ」
「後ろめたい事があったということね」
和室の書斎には、左右の壁に本棚が並び、角には、縁側へ向くように文机が置かれている。
部屋の中央には、引き出し付きの小さな座卓が置かれ、それを挟み、父と叔母が向かい合っている。
座卓の上には、見覚えのある、金茶色の飾り房。
鬼が気を失っている間に押収した持ち物である。
彼の着物からは、武器の類いは一切出てこなかった。袂や巾着から出てきたのは、柘植櫛や化粧水、紅、しまいには、潤滑油らしきものが入った小瓶......。
外見の特徴や持ち物の雰囲気からして、少し前から耳にしている、「方々で食い散らかしている鬼」と見て間違いない。と、二人は話していた。
我が子が、甥が、淫魔と接触済みである事に、些か複雑な心持ちである。
父は、息子が昼間の祭りのあいだ、明らかに何か考え事をしていたのを思い出していた。
「いい加減、如何するか決めないと。もう目を覚ましているかもしれないわ」
昔々のほうが、人外の者は意外にも、人間とうまく共存していた。
どちらかといえば人間のほうが寛容で、友好的であったり生活に協力的な人外に対しては、差別なく普通に接していたのだ。地域によっては、精霊や神と崇めるようなところもあった。
しかし、文明開化したような近代の世になって、人外は、見つかれば始末される事が殆どだ。人間が、よく解らないものや不思議なものを恐れ、共存よりも排除するようになったのである。
「下北山村かねぇ」
かつて人間の子を拐い食べていた鬼が居たが、修験道開祖に仕え、改心した。その鬼の子孫が、今も棲む村である。其処でひっそりと暮らしてもらうという、平和的な案だ。
「そうね、やはり理解ある方でないと。ただ、山中暮らしが好きそうな鬼には、とても......。......」
ここで、二人揃って、格子入り障子のほうを向く。
「......」
「来ましたか」
怒ることなく。
寧ろ、穏やかな二つの気配に、少し驚いている。
父が障子へと立ち片側へ開くと、雨彦と、彼の着物を着せられた美しい鬼(本人の拘りか、衣紋をぐっと抜いた、花魁さながらの着方である)が、手を繋いで縁側に立っていた。
息子は、些か緊張しているように見える。
鬼のほうは、障子が開いた瞬間こそ少し目を大きくして驚いたが、
よい歳の男と目が合うや、にこ、と柔和に微笑んだ。
(べっぴんな鬼も居るもんだな)
と思いながら、父は雨彦に目をやったが、
息子は、何も聞くなとばかりに、やりづらそうに視線を逸らした。
続く