依存性父は優秀な医者だった。
医学に対して常に誠実であり、いつまでも勤勉で、最期の時まで医療に心を尽くす人格者だった。病や怪我でうちの病院をたずねる者は皆、父を慕っていたように思う。
父は、毎日のように医療に関する知識や心構えをローに説いてくれた。その頃のローはまだ、両親の病院を継ぐものだと信じて疑わなかったから、父の話を一言一句懸命に聞いていた。
「煙草は百害あって一理なし」
父はよく、そう口にしていた。
喫煙は心配機能を低下させ、肺がんのリスクを高める。その上歯に着色汚れがついて外見にも悪影響がある。それなのに、依存性が高くやめられない。正しく百害あって一理なしなのだ。
「じゃあ、なんで大人は煙草を吸うの?」
そう父に問う。すると父は、ローの頭を撫でてからこう答えた。
「そうだなぁ。人はしんどいことや辛いことが重なると、何かに頼りたくなるだろ? それは友人だったり、家族だったり、恋人だったり。もしくは人でなくモノであったり。色々あるけど、その一つの依存先として、煙草を選んでしまう人がたくさんいるんだ。なんといっても手軽だし、簡単にストレス解消ができるからね。けど、ローが辛くなった時、煙草を選ばないで済むように、頼れるお友達を沢山作らないといけないね」
──── あの人も、何かに縋りたくて煙草を吸い始めたのだろうか。ドジな癖に、身内を騙して海賊のふりをしていた、あの人も。
甲板に出ると、穏やかにさざめく波の音と終わりの見えない夜闇がそこにあった。今夜の海はよく凪いでいる。月の光を反射する海面は静かで、星が綺麗に見えた。
あの人を「海のようだ」と思ったことがある。
三メートル近い体躯が扉からぬっと姿を表した時、ローは「なんて不気味なやつなんだ!」と思った。深海のように正体が知れず、その上暴力的ときた。頭のおかしい男だと心底腹が立った。心優しい両親や妹、それから友人たちはみんな惨たらしく殺されて、なのにこんなやつがのうのうと生きてるなんて許せない。ローは怒りに震える手でぐっと強くナイフを握って、背後から容赦なく彼の身体に刃を突き立てた。
無口で無表情な彼が、実はそう無口でもなく、その上感情表現はとびきり豊かだと知ったのは、彼と出会ってからずいぶん経った後である。
ほんの半年ほど一緒に旅をした。「きっと病気は治る」なんて大口叩いた癖に、案の定浅慮な男だった。白鉛病患者がひとたび人目に触れれどんな目に遭うか、何一つ分かっちゃいない。たくさん傷つけられて、たくさん泣いた。けれど、ローのためにたくさん怒ってくれた。たくさん笑わせてくれた。
真夏の太陽の下で燦然と輝く海のように賑やかな人と思えば、生温い春の海のように凪いだ人。とても優しい人だけれど、優しいだけじゃない。苛烈で、陽気で、穏やかで、静観で、残酷で。そんな、海のような人だった。
生物の起源は海だという。海中で一ミリにも満たない微生物が生まれて、その微生物は長い年月をかけて進化を続けた。やがて、人類が生まれた。
ローは彼という海に出会い、生まれ変わったのだ。寛く深く温かい海のようにたおやかな愛に包まれて、憎悪を抱く少年は、愛を知る青年となった。
煙草を咥えてライターを近づけて吸い込めば、紙筒の先端に赤が移る。やがて立ち上った煙はローの鼻腔を抜ける。化学物質が焦げる匂いだ。いいものではない。一口だけ吸って吐き出した紫煙は、霧のように広がり夜空へ溶けてゆく。
毎年この日は、彼の愛煙していた煙草に火をつける。すると、あの時散々嗅ぎ慣れた匂いが海馬を刺激して、ローの一番大切な記憶を鮮明に呼び起こす。けれど、この匂いは彼そのものではない。あの人は、いつでも紫煙を纏う碌でもない大人だったけれど、彼自身の匂いは酷く甘かったことを、ローは十三年経った今も覚えている。
子供を片手で持ち上げて投げ飛ばすような男だったあの人は、いつしか小脇に抱えて歩くようになり、そのうち抱きかかえられるようになった。高熱と痛みでまともに歩けないほどローが苦しんでいる時なんかは、殊更そうしてくれた。
びゅうびゅうと吹き付ける北風が酷く凍えそうだった日のこと。彼は鴉みたいなコートと大きな身体でローを包んだ。二人ぼっち、世界中のあらゆる不都合から隠れるみたいに狭い洞窟に身を寄せる。彼がパチン、と指を鳴らして魔法をかければ、耳障りな風音も途端に止んで、ゆっくりと深い鼓動だけがローの耳をとくりとくりと揺らす。彼の胸元に頬を寄せて目を瞑れば、重たいタールの匂いの奥に、晴天広がる花畑の中で干した布団みたいな香りが、ローの鼻先を擽る。その匂いに包まれて彼の心音を聞けば、身体中が痛くても、高熱で意識が朦朧としても、ローは深く穏やかに眠りつくことが出来た。
父の言いつけ通り煙草に依存するような大人にはならなかった。だから、何年も手元にあるくしゃくしゃのソフトケースから煙草を一本取り出して吸うこの行為に意味はない。一番大切なピースが欠けたジグソーパズルをするようなものだ。完成しないし、虚しいだけ。紫煙に包まれる度に募るのは寂寞だ。けれど、こうすることで曇りガラス一枚隔てた先にあるぼやけた輪郭を確かに感じられるのだから、ローはやめられそうになかった。
不器用に愛を伝えてくれたあの日まで、確かにこの紫煙の中には、あの人がいた。
忘れられない大好きな人の名前。ローはたった四文字のそれを呟いて、続けて「おめでとう」と一言こぼした。
その声は誰に届くでもなく、立ち上る紫煙と共に夜縹の海へ消えていく。