明日、ぼくはきっと死ぬだろう。
四月四日。四十四歳になる、その日に。
四十四
流し込んだアルコールの辛さに、顔を顰めた。今まで酒なんてろくに飲んだこともなかった。せいぜいビールを一杯やって気持ちよくなっている程度なものだ。焼酎の喉を焼く痛みは圧倒的に不愉快で、けれどアルコールの作用なのかその痛みもマヒしはじめていた。目の前が霞んでいる。ぼくは眼鏡を外して、瞼をごしごしと擦った。
「ああ、駄目ですよそんなに擦っちゃ。ねえ、神馬さん」
カウンターの向こうから伸びてきた手が、ぼくの手首を掴んだ。ぼくは目を細めて、ぼやけた視界を睨む。
カウンター越しに立ったぼやけた人影は、かすかに笑って手を離した。
「どうしたんですか、ずいぶん不機嫌そうですね」
べつに。ぼくは呟いて、グラスの中の焼酎を煽る。頭の芯がくらくらして、背もたれの低い椅子から転げ落ちそうになって慌ててカウンターにしがみついた。
「あぶない。しっかりしてくださいよ」
高橋君は言いながら、奥から出てきてぼくに駆け寄ってきた。店内には、相変わらず誰もお客が居ない。高橋君は、この居酒屋タツノオトシゴの唯一のアルバイトである。もっともぼくがここにやってくるようになってからというもの、店長に出くわしたのは一度か二度なので、実質この店を切り盛りしているのは高橋君だった。
高橋君はぼくに、そっとお冷を差し出した。
「大丈夫ですか。ほら、水を」
高橋君はいいひとだ。ぼくは目に涙が溜まるのを感じた。こんなぼくに優しくしてくれるなんて、本当に。
ぼくが鼻を啜ると、高橋君はぎょっと目を見開いた。
「どうしたんですか」
「うん。やさしさが目にしみた」
鼻水をおしぼりで拭いながら言うと、彼はなに言ってるんですか、と呆れたように呟く。いや、本当なんだけどな。
「ほら。もうお店閉めますよ。送っていきます」
「閉めるって、まだ十一時じゃないか」
ぼくが文句を言ったが彼は全然気にしていない様子で暖簾を下げてきた。十一時で店を閉めるなんて、なんてやる気のない飲み屋だ。ぼくは思いながらカウンターに視線を落とす。
「ぼくはもう少し飲みたい」
駄々をこねてみたがそれも無駄なようで、高橋君は奥に引っ込んでしまった。ぼくは口を尖らせたまま、ちびちびとお冷を口に含んだ。
ぼくは明日には死ぬんだぞ。もうこんな流行らない店にだってこれないんだぞ。
心の中で呟く。そうすると言葉は真実の重みでもって、ぼくの体に圧し掛かった。ああ、そうかぼくは明日死ぬんだ。グラスに残った最後の液体を飲み干す。
ぼくが死ぬことは昔から決まっていたことだ。分かっているのに、直前になって襲ったのはやっぱり恐怖心だった。四十四歳で、ぼくは死ぬ。空のグラスに残った氷を人差し指で回すと、涼しげな音を立ててゆれた。
ぼくの家は古くからの因習の根付いた、新潟の山奥にあった。父は大きくはないが村と呼べる規模の集落の、それなりの権力者だった。今でも父の法事には、親戚以外にも近所の人たちがたくさんやってきて、父の立派さをとつとつと語る。閉鎖的で排他的な村だ、とぼくは思っている。
ぼくの家には、昔の家にありがちな言い伝えがあった。
四のつく子は不吉である。
なぜ四なのかぼくは知らない。昔に四にまつわる凶事が重なったことでもあったのかもしれない。理由はまったく知らされないまま、ただ四という数字は神馬の家ではひとつの禁忌だった。神馬家の人間は四のつく年齢には不幸にあうから気をつけなければならない、とか。そういう類の話だ。信じる信じない、というのはこの際問題ではなくてぼくの家ではそれがひとつの真実だった。
ぼくは神馬家の四男に生まれた。
四人目の子ども、はもっとも不吉と言われている。だから、四人目が生まれた場合は大抵養子に出す。家から追い出して、災厄を未然に防ごうとする。けれどぼくの母はそれを拒んだらしく、ぼくは滅多にいない四男として神馬で育った。四男なのに名前は五郎。間の抜けた話だ。
ぼくの家にはもうひとり、ぼくと同じ名前の叔父さんが住んでいた。父の弟にあたる人で、四人目に生まれた彼は一度養子に出されたが、後に養父母を亡くして家に戻ってきた。戸籍はたぶん養子先のままだとは思うが、彼はぼくと同じく不吉の象徴として、村の中では孤立していた。歳はぼくの一回り以上も上で、彼は兄のようにぼくに優しかった。
「お前は本当に、自分が呪われていると思うか?」
叔父さんはたばこをくゆらせながら、面白そうに目を細めた。
「うーん。わかんない」
「分からない?」
「ない方がいいけど、父さんも四十四歳で死んじゃったし」
叔父さんはたばこの灰を落とし、ゆっくりと肘掛け椅子に寄りかかった。屋敷の中はだれもいないみたいに静かだ。ぼくはこういうとき、なぜか去年死んだ父のことを思い出す。父が、どこかからか見ている気がするのだ。
「兄さんが死んで悲しいかい?」
叔父さんの言葉に、ぼくはゆっくりと瞬きをした。何を尋ねられているのか、よく分からなかったのだ。ぼくはそれでも、かすかに頷いた。
「兄さんはお前のことが好きじゃなかったよ」
叔父さんは続ける。ぼくはじっと彼の表情をみつめる。なぜ叔父さんがそんなことを言うのかが分からなかった。
父さんはぼくが嫌いだった。父さんだけじゃない。親戚のひとも、近所の人もぼくが嫌いだった。ぼくを養子に出さずに止めてくれた母も、ぼくが今よりも小さな頃に死んでしまった。ぼくの味方はいつも、叔父さん一人だった。
ぼくは息をついた。父さんはぼくが嫌いだった。言われなくても、知っていたことだ。
「でも、ぼくは父さんの子どもだから」
父さんが死んだらかなしいよ。そういうと、叔父さんは大きな手をぼくの頭に当ててくしゃくしゃにかき回した。乱暴な手つきで少し痛かったけど、その温かさが心地よくてぼくはじっとしていた。
「呪いなんてないんだよ。そんなものはこの家が作り出した幻だ。お前の父ちゃんが死んだのだってたまたまなんだ。お前はさあ、五郎。きっとここを出て行けよ。世の中にはな、たのしいことがたくさんあるんだ。辛いことも、同じくらいある。それでもここよりはマシだぞ」
頭を押さえつけられているせいで、叔父さんがどんな顔をしているのかはぼくには分からなかった。けれど叔父さんの言葉は不思議とやさしく、すんなりと信じてしまえる気がした。呪いなんて迷信なんだ、ぼくは四十四歳で死ぬわけじゃないって。
けれども頭の隅を小さな違和感が横切った。そんな風にいうならどうして、叔父さんはなんでこの家を出て行かないんだろう。
ぼくにとって叔父さんが唯一、呪いから自分を守ってくれる鎧のような気がしていた。怖くて泣きそうな夜もそんなもの嘘っぱちだって笑ってくれる叔父さんが、この家に伝わる暗い因習と、唯一代われるものだった。
けれどおじさんはいなくなった。二十四歳の彼の誕生日に、叔父さんは忽然と姿を消した。しばらくして近くの沼地から、叔父さんが使っていた鞄とカメラがみつかった。
生きているのか死んでいるのかも分からない。叔父さんはただ、ぼくの世界からいなくなった。
気持ちがいい、と思った。
人の体温。ぼくには滅多に感じる機会がない。なぜならぼく自身が、他人と関わらないようにして生きてきたからだ。ぼくはどうせ四十四歳で死ぬんだ。もし親しい人間ができたとしたら、相手も自分も悲しい。
高橋君が立ち止まって、一度ぼくをゆすり上げた。
「まだ寝てるんですか、神馬さん」
「んー」
わざとぼやけた返事を返す。もう自分の足で歩いてもよかったのだが、彼の体温や背中の感触が心地よくて離れ難かった。今までの人生で、こんなに親しくなったのは高橋君だけだ、と思う。高橋君と、叔父さんだけ。
「高橋君さあ」
「はい?」
「お金、欲しい?」
ぼくが言うと高橋君は立ち止まって、首を後ろに向けた。
「……は?」
「いや、だからお金とか欲しい?」
「え、ええ。まあいらなくはないですけど」
ゆっくりと歩くのを再開しながら、煮え切らないように言う。
「じゃああげるよ、ぼくの財産」
また高橋君の足が止まる。そしてしばらく思案するみたいに沈黙してから、苦笑いを浮かべた。
「まだ酔っ払ってるんですか」
彼は言いながら、道の先に見えるぼくのマンションにむかって歩き出した。もう直に部屋についてしまう。ぼくは彼の首にしがみ付いた。
「酔ってないよ。本当だよ。結構、ぼくこれでもお金もってるんだけど」
「はいはい」
子どもをあやすように高橋君は言う。歩調が次第に速くなって、すぐにマンションのエントランスまでついてしまった。ぼくはむ、と口を尖らせた。
「本当だよ」
「分かりました。ほら、鍵出してください」
全然わかっていない。ぼくはポケットから鍵を出して彼に差し出した。高橋君はオートロックを開けて自動ドアを進む。その歩調は人を一人背負っているとは思えないほど軽く、ああやっぱり彼は若いんだなあとぼくは思った。よく考えたら、ぼくがもし結婚していたら彼くらいの息子がいても全然おかしくない。
そう思うとなんだか、目の奥がつんと痛くなった。結婚くらい、すればよかった。何かを残しても、ぼくには受け取ってくれるひとが誰も居ない。
高橋君がエレベーターに乗り込む。ぼくは彼の服の襟に顔を擦りつけた。
「あのね」
「はい?」
「ぼくはね、もう少しで死ぬんだよ」
静かにエレベーターが浮上する。ふ、と重力が弱まるみたいな感覚。少し耳の奥が痛い。高橋君はなにも反応しなかった。もしかして、聞こえなかったのかもしれない。ぼくは後ろから彼の顔を覗き込もうと首を伸ばしたが、彼の長い前髪に隠れて表情までは窺えなかった。
ちん、と小さな音がしてエレベーターのドアが静かに開く。
「そういう冗談は嫌いです」
彼の声は無表情だった。本当に気を悪くしたのかもしれない。
冗談。
だったら、どれだけよかっただろう。
ぼくの部屋は、エレベーターのすぐ隣だ。彼は背負ったぼくを一度ゆするように背負いなおして、扉に鍵を差し込んだ。扉を開けると室内は真っ暗で、通路の明かりが高橋君の影を玄関に映し出す。そこにぼくの影はない。
冗談だよ。そういったつもりだったが、声がかすれてしまって変な音が漏れただけだった。
高橋君が壁のスイッチを押すと、暖色の光が影を消し去ってしまう。ぼくはのろのろと彼の背中をおりて、玄関に座り込んだ。
高橋君はかがんでぼくの足から靴を脱がせる。
「高橋君」
ぼくは彼を呼ぶ。彼は顔を上げず、今度は反対の足から靴を外す。
「ぼくのもっているものなら、なんでもあげるのに」
言いながらひどくみじめな気持ちになり、泣きだしたくなる。生きていた証なんでここにはなにひとつなくて、ぼくが死ねばきっと誰もぼくを思い出しはしないだろう。死ぬことよりもそのことが、ぼくにはなにより恐ろしく感じられた。
人間、死ぬときは一人だ。けれど、死んでからも一人はいやだ。
高橋君が顔を上げた。長い前髪が流れて、大きな二つの目がぼくを見る。白い鼻筋が、高校生みたいだと思った。彼は微かに目を細めて真剣な顔で言った。
「じゃあ、残りの人生を俺にください」
「は?」
高橋君の影がぼくの顔を覆う。言葉の続きは出てこない。唇に触れた感触、体温よりもそのかさつきが気になる。
ぼくは明日死ぬわけで、だからぼくの残りの人生はあと数時間くらいなものだった。そんなものを欲しがるなんて、本当に彼は変わっている。
唇が離れたのでぼくは微笑んだ。
「いいよ」
だからどうか忘れないで。
四月三日、ぼくの誕生日の前日。
ぼくは高橋君に心も身体も全部を明け渡した。熱くて痛かったけど、経験したことがないような多幸感で、ぼくはしまいにはべしょべしょに泣いて彼に縋った。
ところで、翌日の朝、朝日に照らされる高橋君の顔がしらじらと輝いていてぼくはまた少し泣けてしまってから、そういえばぼくはいつ死ぬのかしらと気が付いて携帯電話をみると、みたことのないアドレスからメールが来ていた。反射的に開くと、そこには写真が添付してあった。
件名 当然元気にしてるだろ?
写真には老人がうつっていた。ふかふかの帽子と耳当て、それにびっくりするほど分厚いダウンジャケット。知らない人だが、見覚えがある。彼はバカでかい鱒を掲げて笑っていた。
五郎、四十四歳おめでとう。きっとお前は元気にしてるんだろう? まさか今更迷信なんて信じてないだろうな?
おれはイヌイットの集落で暮らしてるよ。孫も三人いる。お前はどうだ?
持っていた携帯電話がぽろりとこぼれて、高橋君の顔面に落ちた。
「あだ」
高橋君が飛び起きて、ぼくをうらめしげに見る。
「なに、どうしたの」
ぼくは呆然と彼の顔を眺めた。時計をみる。ぼくが四十四歳になって、すでに十時間近く経過していた。
「ぼく、死なないみたいだ」
高橋君は鼻をおさえ、はあ?と呆れたように言った後、
「神馬さんには濃いコーヒーと朝ごはんが必要みたいだね」
と、ベッドを降りて寝室を出て行ってしまった。ぼくは手を伸ばしてカーテンを開けた。窓の外から見る風景は、昨日と同じものだ。それなのに日差しが、きらきらしている。
ぼくは死なないのだ。そんな当たり前のことがやっと理解できた。
ぼくは叫びだしたくなるのを堪え、ベッドから転げるように出て高橋君の背中に抱き着いたが、高橋君は気に留めることもなく、トースターのスイッチを入れたあとまるでじゃれつく犬をいなすように、ぼくの頭をくしゃくしゃに撫でた。