爪「痛っ…」
キーボードを叩いていたヨモツザカの指先に、鋭い痛みが走る。見ると、右手人差し指の爪にヒビが入り、じんわりと血が滲み始めていた。
身体の全てが虚弱によって作られている彼は、当然爪も貧弱だ。どの爪も割れ欠けし、2枚爪どころか3枚爪になっている。まるで、劣化した壁からバラバラと剥がれ落ちたペンキを思い出す様相をしていた。
勝手に割れて短くなっていくので、爪を切ったという記憶も、遠い彼方である。
爪の上に、丸く膨れていく血を吸い取ろうと、キムワイプを探す。雑多な卓上から何とか緑と白の箱を見つけ、中を探るが、空。
仕方無く患部を口に含もうとした時、頭上からティッシュを持った分厚い手が現れて、人差し指を包み込んだ。
「大丈夫ですか…?」
控えめで地味な声がヨモツザカに届いた。
「ん」
分厚くて大きい手の根本には、分厚くて大きい身体がくっついていた。鉄のサテツと呼ばれる、でかくて善良で地味なハンターだ。
そう言えば、ドーナツを持って来させたのだったな…と思い出したヨモツザカは、首を巡らせて休憩用机の上に置かれた箱を見付ける。ドーナツ屋の見慣れた箱だ。
久し振りの固形食料、脳が糖分を欲していた。
サテツからティッシュを受け取ったヨモツザカは、出血量を確認する。白血球が正常に働いている事を認め、顔を上げた。
「コーヒー」
「あ…はい…。あの……怪我は」
「問題無い」
無傷の手で引き出しの中を漁り、爪修復の必需品を見付ける。小さなチューブの蓋を外し、裂けた部分に透明の液体を少量絞り出す。
「ちょっちょっ何してるんですか」
「見れば分かるだろう。治療だ」
「それ、瞬間接着剤ですよね」
「そうだが…何だ。うるさいぞ」
爪のヒビを塞ぐように、両側から軽く圧をかけながら、瞬間接着剤に息を吹きかける
「うるさくも成りますよ!ちゃんと治療して下さい!壊れたおもちゃ直してんじゃ無ぇんですよ!」
普段、声を控え目にしているサテツだが、感情が高まると、その体躯に見合った大声が飛び出す事がある。
今も、貧相なヨモツザカを吹き飛ばす勢いの大音声を吐き出してしまったサテツは、小声を取り戻し「ちゃんとして下さい…」と付け足した。
「…うるさい。ちゃんとした治療だろう。瞬間接着剤は、人体の大部分を接着出来る万能物だぞ。事実、戦時中兵士の傷を塞ぐのによく使われていたし、医療専用の物だって出ている。主成分のシアノアクリレートは毒性も低く、爪程度の接着なら治療に何ら問題は無い」
よく回る舌で講釈を垂れたヨモツザカは、割れた爪先に引っかかりが無いのを確認すると、瞬間接着剤を引き出しに放り込んだ。
「…難しい事はわかんねぇけど、今は戦時中じゃねぇでしょ。しかも、シミて痛そうだし…」
「多少痛みが有るのは仕方無い。戦時中と同様、俺様には時間が無いんだ。それとも、お前は知っているのか?爪割れ1つ、最善に処置しようとするとどれだけの手間暇と時間がかかるか」
面倒臭そうに言うヨモツザカの指先を見ると、爪のあちこちが艶々と光っていた。その全てが、爪割れの治療痕だと気付いたサテツは、無い眉をひそめる。
「…爪が割れる前に、切れば良いじゃ無いですか」
「…お前には耳が無いのかもしれんが、俺様には時間が無いんだ…馬鹿らしい。さっさとコーヒーを入れろ」
シアノアクリレートが放つ人工的な光沢を持った手で、シッシと水場に追いやられたサテツは、渋々ビーカーでコーヒーを煎れる。
時間が無い時間が無い、と言う割に
、ケトルを用意するでも無く、アルコールランプで湯を沸かすのが所長室の常であった。
だが、所長手ずからコーヒーを入れている所は見た事が無い。
500mlのビーカーに、ドリップでたっぷりコーヒーを用意するのに約20分。その間、ヨモツザカは当然の様に仕事に戻っている。
ゆっくりと沸騰していく湯を眺めながら、サテツは気付いた。
時間が無いのは、所長さんであって……俺には、多少なら…有るんじゃないだろうか?
出来上がったコーヒーを、休憩用テーブルに運び、ドーナツ箱も並べる。
さて、どうやって集中状態に有るヨモツザカの意識を浮上させようか…と頭をひねったサテツの後ろに、細長い影が伸びる。
「ん、ご苦労」
「…はい」
ヨモツザカの時間が無いなら、こちらで勝手に捻出すれば良い。
一人で納得したサテツは、イチゴのフレンチクルーラー以外のドーナツを、1つ手に取り頬張った。
⚠瞬間接着剤で傷を塞ぐ治療は推奨しません。アレルギーで赤く腫れたりする人が居るようです。駄目絶対!