【旭郁】やきもち甘えモード「ねえ。今日、旭の家行っていい?」
講義の合間に待ち合わせたカフェのテーブル越し。前髪の奥でまるく開いた郁弥の瞳が、じっとこちらを窺っている。
――いつでも来ていいからな。
と、少し緊張しながら合鍵を渡したのは一月ほど前のこと。
郁弥がそれをどんな表情で受け取ったのか。すぐに顔を逸らされてしまったので、旭は知らない。が、かなりの頻度で家に来るところを見ると、喜んでくれているのだろうなとは思う。
当たり前のようで当たり前じゃない、奇跡みたいな日々のど真ん中。昨日も一昨日もその前も、郁弥と一緒に夜を過ごした。
なのに、それでもなお「行っていい?」と律儀に聞いてくる日があるのは何故だろう。
今日は早く帰って来てね? って意味だったり?
……んなわけねーか。
旭はすぐさま身勝手な期待を振り払う。けれど妄想だけで否応なくテンションが上がってしまい、ふいに飛び込んできた「聞こえてる?」という怪訝な声に、ニヤけた頬を戻すこともできないまま曖昧に笑った。
「あ、ああ、聞こえてる……」
「……なにその変な顔。で? いいの? だめなの?」
「んー、いいっちゃいーんだけど」
言いながら本日の予定を思い返せば、申し訳ない気持ちが頭をもたげて溜息が一つ出た。
「……だいぶ待たせちまうかも。俺、今日貴澄のバスケサークルの奴らと飲み会でさ」
それでも、待っていて欲しいと思った。
夜、眠そうな郁弥の顔を見て、ただいまと抱き締めることができたら最高に幸せだ。
けれどそこは郁弥のこと。相変わらずそっけない。
「ふーん。別にいいよ。旭んちのビーズクッションでのんびりしたいだけだし」
と、気怠そうに目を伏せてケーキを一口頬張り、もぐもぐと咀嚼する。その様子が小動物みたいに可愛かったので、文句を言う声まですこし和んでしまった。
「ったく、ちょっとは寂しそうにしろよな〜……」
「は? する訳ないじゃん」
「なっ……」
「だってクッションは飲み会、行かないし」
んだよ、それ。
あいつ(クッション)、俺がいない間に郁弥とベタベタすんのかよ?
いっそクッションになりてえ……。
などとバカなことを考えていたら、ふいに視線を持ち上げた彼に苦悶の表情を見られてしまったようで。
「ふふ……」
控えめな微笑みが、心の帷を揺らす。そのおだやかな表情にドキドキして、郁弥に翻弄されている己をまた自覚する。
せめてもの仕返しに「店出たらどっかでキスしてやっかんな……!」と、旭は胸中で力強く宣戦布告した。
可愛くて、つれなくて、でもそんなところも可愛くて。
本当、郁弥には敵わない。
「んじゃ、まー寛いでてくれよ。あ、冷凍庫に作り置きのおかずあるから、ちゃんと食っとけよな?」
「……うん。ありがと」
そう視線をテーブルに落とした郁弥の指先がマグカップに添えられて、すこしの間止まる。その行間がなんとなく気になって、こちらを向かない瞳をしばらくじっと見つめていた。
時刻は二十時三十分すぎ。
飲み会はいつも通りとても楽しいものだった。しかし二次会には参加せず、旭は家路を急いだ。
郁弥、まだ居んのかな。
店を出る前に「帰んじゃねーぞ!」と送りつけたメールが彼の目に触れているのかどうかは、返事がないので分からない。
とにかく一秒でも早く顔が見たかった。
それに俺は郁弥曰く単純バカらしいから。
やっぱり郁弥も同じ気持ちなんじゃねえの、という都合の良い期待を捨てきれないのだ。
玄関のドアを開けると、まだ郁弥の靴があったことにほっとする。明かりのついた廊下を進みながらキッチンに目を遣れば、水切り台に皿と箸が並んでいた。ちゃんと夕食も食べてくれたようだ。
一歩踏み込むごとにうきうきする。その足を止め、リビングへと続く扉の前に立てば思わず笑みが溢れた。この向こう側に、いちばん会いたい人が居る。
「郁弥ー?」
胸を弾ませドアを開けると、郁弥は人をダメにするビーズクッションに頭まですっぽり埋まっていた。
そして上半身をくるりと旭のほうに回転させながら、言う。
「早かったね」
ばっちり目が合った瞬間。旭はぐっと握った拳に思わず爪を立てた。
何度見ても慣れない、無防備に寛ぐ恋人の姿。悶えないなんて無理だ。
しかも彼が当然のように着ているのは旭のトレーナー。大きめの服を纏ったゆるいシルエットの郁弥は、彼の髪の毛みたいにふわふわで、たまらなく可愛いのである。更にその構図が彼氏心をどうしようもなくくすぐるものだから、胸がざわざわと落ち着かない。
俺の郁弥、って感じ。抱き締めてぇ。
「あー、まあな」
ときめきの波に呑まれながら、必死で平静を装う。たどたどしい口調になってしまったことに、多分郁弥は気付いてる。
「どうしたの、楽しくなかった?」
不思議そうに訊ねる郁弥を直視できず――じっと見てしまえば話の流れを無視して抱き締めてしまいそうだったので――旭は視線を泳がせながら答えた。
「いや、ふつーに楽しかったけど……、その、もしかして郁弥、俺のこと待っててくれたりすんのかなー、なんて思ったりして……」
言い終えてから、やべぇ調子乗ったかも、と後悔した。
彼の冷ややかな目線は想像に難くなく、頬を掻いてちらりと視線を戻してみる。するとクッションから背を離した体育座りの郁弥が、膝に片頬を乗せてこちらを見ていた。
目元を、照れたように細めながら。
「……何言ってんの。待ってた訳ないじゃん」
声が、視線が、表情が。絶え間なく流れる愛しい気持ちを膨らませてゆく。
やばい。
この反応は――間違いなく、待ってたよな。
「そ、そっか、ハハ……」
頭の中では郁弥を抱き締めていた。なのに不意打ちをくらった本体はうまく動いてくれなくて、ドギマギと愛想笑いを浮かべることしかできないのが情けない。ぎこちない動きで郁弥の隣に座ると、肩先が当たる感触にぎゅっと胸が締め付けられた。苦しい、けれど、もっと甘い苦しみを味わってみたいと思う。
旭は郁弥の肩に頭を預け、すこし体重を乗せてよりかかる。
静かな時間が降り積もり、鼓動に圧され崩れて、また積もってゆく。
じわりとふたつの体温が重なり、ほろ酔いの身体が触れた部分から溶けてしまいそうなほど心地良かった。目を閉じて思わず感嘆の息を零したら、郁弥がちいさく笑ったような気がした。
「何食べてきたの?」
抑揚をおさえたその声は、しかし顔を見ずとも優しい表情をしていると分かるくらい柔らかい。
「写真、見るか? ふつーの居酒屋なんだけど、一個おもしれーやつあったんだよな」
心拍が深くなるのを感じながら、旭はポケットから取り出したスマホを操作し、件の画面を郁弥に向けた。写っていたのは全貌が収まりきらないほど積み上がった焼肉タワーと、その奥でダブルピースを決める貴澄だ。
「……なんか、凄いね」
「だろ?」
「でも旭、これ、絶対喜んだでしょ」
「ったりめぇだろ? めちゃくちゃテンション上がったぜ!」
旭が笑うと、郁弥の表情も嬉しそうに綻ぶ。そして。
「……おかえり」
いっそうやわらかくなった声でそう言われ、心臓がドキッとあらぬ方向へ飛び跳ねた。高鳴る鼓動のせいで、知らず知らず言葉が引き攣る。
「お、おう、ただいま」
よくよく考えてみたら、何故今? というタイミングではあった。が、郁弥なりに「帰ってきてくれて嬉しい」という意思表示をしてくれたかと思うと胸がいっぱいになって、次の瞬間には覆い被さるように抱き締めていた。
身体中に満ちる、愛しいぬくもり。
「結構お酒飲んできた?」
腕の中から声がする。
「いや、そこまで飲んではねーけど……、あ、もしかして俺、酒臭い!?」
「ううん。……体温高いな、って」
シャツの胸あたりを両手でぎゅっと握られ、ドキドキする心臓を直接触られているみたいに思えてすこし緊張する。
「ふふ、あったかい」
身体を丸めた郁弥の頬が首筋に触れ、すり、と控えめに身じろいだ。
肌が擦れる感触に、じりじりと情火が灯る。
これ、もしかしなくても、すげぇ甘えられてるよな……?
「ど、どうしたんだよ。なんか今日、甘えたじゃねぇ……?」
「……べつに?」
大好きな体温を直に感じながら、ときめきすぎてどうにかなりそうだと腕に力を込めて更に抱き寄せた、その時。いつの間にか床に落ちていた旭のスマホから、通知音が連続で鳴り響く。おそらく貴澄達だ。
「……すごい通知」
「あー、多分二次会で盛り上がってんじゃね?」
「旭ってほんと仲良し多いよね」
「まあ、それはそうなんだけど……」
淡々とした郁弥の口調には、しかし確かな屈折が含まれていて、あれ、と違和感を覚える。飲み会相手にやきもちでも焼いているのだろうか。まさかとは思うけれど。
「なぁ郁弥、お前、俺が飲み会行くの、嫌だったりするか?」
抱き締め直しながら投げかけてみると、すこしの沈黙のあと、郁弥が答えた。
「ううん。友達を大事にするの、旭のいい所だと思ってるから」
そんな風に言ってもらえて嬉しい。なのにすっきりしないのは何故だろう。抱き締めたままなので表情は窺えない。旭が違和感について考えを巡らせていると、
「……でも」
と控えめに動いた郁弥の顔が迫り、てのひらで頬を包まれる。鼻先がぶつかりそうなほどの距離に、恋人の顔がある。
何か言いたげな瞳は危ういほどきれいで、とても室内灯の下とは思えないくらい深く鮮やかに揺らめいていた。そのうつくしいさまに心奪われた旭は、目を閉じることさえ許されない。
その隙に、唇まで奪われてしまっても。
「……絶対、僕がいちばん好きだからね」
突然の、触れるだけのキスのあと。声の振動が伝わってきそうなほど近くで、郁弥の秘めた嫉心に触れた。
旭は硬直したまま、悪戯な波みたいに引いてゆく唇を呆然と見つめる。そして彼の表情にようやくピントが合った、その時。
かあっ、と顔が沸騰し、旭の時間が動き出す。
視界の中の郁弥は、頬を染め、じっとりむくれながらこちらを見ていた。
その凶器じみた容姿に思わず怯んでしまったけれど、胸の中ではピンク色の桜吹雪が大量に舞っている。
「お、おう……」
「何その態度。文句ある?」
旭の煮え切らない反応に痺れを切らした郁弥がずい、と迫った。
愛しい膨れっ面に想いの縁を引っ掻かれ、ひび割れをおこした部分から恋する気持ちが雪崩を起こす。その波から飛び出すように、旭は叫んだ。
「ねぇよ! ねぇけど、その……、ったく〜〜、お前、可愛過ぎねぇ!?」
赤面したまま八つ当たりのように睨んでやると、郁弥も羞恥に襲われたのだろうか、目を見開いて暫し口をぱくぱくさせていた。そして恥ずかしさがピークに達したところで、瞳を潤ませながら声を絞る。
「ッ、知らない、そんなのっ……!」
どくん、と身体中の血がざわめいた。
郁弥の恥に濡れた瞳はあやしく艶めき、震える声は脆さを含んで男心を惹きつける。
やっぱり飲み過ぎたのかもしれない。
そう言い訳しながら、旭は焦る郁弥の肩をしっかりと掴み、衝動にまかせて唇を押し当てた。
「…………っ!?」
驚いた郁弥の身体がぴくっと強張る。
このまま強引にでも俺のものにしてしまいたい。
そんな衝動を咄嗟に押さえ込んだ旭の顔が、苦しげに歪む。
郁弥に対する欲望は尽きない。
けれどそれ以上に、優しくしたい。
やきもちを焼きながら一人待っていてくれた恋人を、甘やかしてやりたい。
ぬるま湯に浸すような穏やかさで。
旭は押し付けた唇の圧を徐々にゆるめ、やがて郁弥の唇を、自身のそれでゆっくり食んだ。
「……っ、ぁふ……」
やわらかいもの同士が触れ合えばかたちがあやふやな熱が生まれ、溢れる恋心はけれどゆるやかに伝わっていく。
次第に郁弥の肩からは力が抜け、キスを解いて息を継ぐと、ぼんやり見つめてくる彼の口唇の結び目はすっかり緩くほどけていた。そのあわいから吐息がうっとりと漏れるさまに、どうしようもなく胸が高鳴る。
「郁弥。やっぱお前、すげー可愛いって」
「っ、だから、しらない、……っ」
今度はブレーキをかけながら近付いて、キスをする。あやすように差し込んだ舌で、あたたかな粘膜を味わう。
「……っん、ぅ……、ッ、ふ……」
郁弥の濡れた声が耳に滴り、この声も、心も、身体もすべて独り占めしたい、という欲が全身を巡った。
郁弥も少なからずこんな風に思ってくれているのだろうか。それが嫉妬の理由なら、すごく、嬉しいけれど。
なあ、お前はどうなんだ?
まっすぐ訊くことはできなくて、かわりに唇の角度を変えながら名前を呼んだ。
「……郁弥、っ」
思ったより切ない響きになってしまった声を塗り込めるようにまた唇を重ね、いっそう強く抱き締める。
その瞬間。かすかな、けれど叫びにも似た吐息が、想いを受け取った郁弥の喉奥で恍惚と溶けた。彼の腕は背に添えられ、そのままぎゅっと縋り付かれる。そんな可愛い反応をされてしまえば喜びが込み上げて、胸の奥が爆発してしまいそうなほど騒がしい。
どこまでも溺れてみたい。互いを想い合うこの行為に。
「……旭」
次に息を継いだとき、今度は郁弥のほうから名前を呼ばれた。その短い音に恋心を詰めこみ、ぼうっと寄越してくる視線は、旭の理性を奪うには十分すぎるほど愛くるしい。
蕩けた顔をもっと見ていたい気持ちは本当。けれど我慢が効かず、ビーズクッションに折り重なるように陶然と口付ける。
郁弥も夢中になっていた。二人ぶんの唾液でたっぷり濡れた舌を自分からやわやわと絡め、両腕で旭の頭ごと抱き寄せてまた唇をゆるく吸う。
自惚じゃなくあからさまに求められ、好きだと叫びたくなるくらい浮かれた。
組み敷いた身体のもっと奥まで知りたくて上顎を撫でると、郁弥がまたびくっとちいさく跳ねた。けれど怖がっている訳ではない。その証拠に、震える喉から押し出される音は、しっとり甘い。
「んぅ……っ」
耳から入った声が、ダイレクトに脳を溶かす。もっとぐずぐずになりたい。胸焼けしそうなほどの喘ぎを、もっと深いところから引き出したい――そんな欲望がずしりとまとわりつき、だめだ、と自分を戒めてからようやっと唇を解放する。
限界まで熱く高ぶった吐息が、互いの口から悩ましげに溢れた。
「っ、はぁ……」
口付けの余韻を引きずりながら郁弥を見下ろす。しかし彼は咄嗟に目を伏せてしまったので、見つめ合うことは叶わなかった。
けれど甘い時間の中で目を逸らされるのは嫌じゃない。そういう時は大抵照れているのだと、相場が決まっているから。
真っ赤な顔が、今にも泣き出しそうなほど震えている。「恋人の郁弥」の顔だ。
「……バカ」
そして、とどめの殺し文句。郁弥の可愛い暴言は、心臓に悪すぎる。こんな姿を唯一瞳に閉じ込めることが許されている自分は、何と幸福な男なのだろう。しみじみ思いを馳せていると、郁弥がご機嫌斜めな様子で「もー……」と小突いてきたので、旭はふわふわ浮かぶ意識をハッと掴んで表情を引き締める。
「っ、んだよ」
「旭、キス長過ぎ。頭くらくらするし」
「わりぃ、つい……」
「気をつけてよね」
「ハイ、スミマセン……」
「……ううん」
郁弥は頭を横にふるふると振り、めいっぱい伸ばした腕で旭の首に抱きついた。
「嘘。……僕、旭とキスするの、好きだよ」
「ッ!?」
これは現実なのか。
願望が投影された夢ではないのか。
やきもち甘えモードの郁弥がこんなに可愛いなんて聞いてない……。
もうドキドキしすぎて、気が遠くなってきた。
旭は戦慄く腕で抱き締め返し、暴れそうになるのを何とか堪えて訊ねる。
「な、なぁ、郁弥?」
「なに?」
「お前、まさか酔ってる?」
「酔ってないし飲んでもない。僕まだ未成年だし」
「だよな……。これで素面とか、お前マジでこえーわ……」
「旭」
呼ばれると同時、より強くしがみ付かれ、身体がぐっと密着する。混ざり合う鼓動と、そこへ重なる郁弥の声。
「飲み会、行ってもいいけど」
ぽつりと呟いた言葉に、旭は耳を澄ませる。郁弥の気持ちを、ちいさな声の変化まで聞き漏らさないように。
「でも、そのかわり、帰って来たら……、今みたいに、してほしい」
ぎゅうっと苦しいくらい抱き締められ、愛しさが募ってどうにかなりそうだった。
好きが過ぎるとこんなにも切ない気持ちになるのか、と。何度味わっても新鮮な感情をそっと掬い上げながら、旭は声を溢す。
「ったく、そんなんいくらでもしてやるっつの。待たせちまったぶん、郁弥とメチャクチャいちゃいちゃする。……な?」
顔を上げ、こつ、と額をくっつけて瞳を覗いたら、郁弥は素直に頷いた。
「……うん」
二文字の返事が、まろやかな波動となって旭に届く。喜び、照れ臭さ、好き、ありがとう。沢山の響きが寄り合い、それは旭を喜ばせる音になる。
甘やかしているつもり。なのに、むしろ自分のほうが郁弥に甘やかされているような気さえする。
頬に触れたら旭の心を溶かすやわらかな笑みがふくらんで、やっぱり一生かなわないんだろうなぁ、なんて、贅沢に悩んでみたりして。