回顧「——やあ、久しいね年号様」
そう発した姿はあの頃のものにあらず、声だけが変わらず軽やかな笑いを湛えている。
「貴方だけですよ、今でもその名で呼ぶのは」
苦笑しつつ、板敷きを静かに踏んで近づきながら返せば、そうかい? と一服、煙管を呑む。
「いつぞやは弟子が世話になりました」
対面の床に、ふわり、と腰を降ろして、頭を下げる。
「ああ、あれかい。こちらこそすまなかったね。忘れていたとは言え、悪戯に君の弟子を傷つけてしまった」
「いえ、あれにとっては良い経験でした。幸い傷もとうに癒えております。恢復にご尽力いただいたとのこと、有り難く存じます」
「私の誤解が招いたことだもの。あのあと、従者にも叱られたのだよ。いけないね。年を取ると、とんと物覚えが悪くなって」
こん、と雁首を盆の縁に打ち付けて灰を落とす仕草は堂に入っているが、その姿は年経た老人のものではない。見目は十代——いや、それ以下だろうか。だぶついた着物の襟元から覗く細い首や、短い指先、丸い頬。この幼子が、齢千五百を超える神仙老君の現在の姿だ。
「それで、年号様は今日は何用で?」
相対するのは、実に数十年ぶりだ。それでも何の気負いもなく、自然体で話す物腰は、初めて会った頃を思い出させる。
「小黑が、このたび正式に執行人として就任致しました。いずれ本人にも挨拶に来させるつもりではありますが、先んじて私が」
台詞に、目を丸くする。
「もう、そんなに経つのかい? いや驚いた。天明珠を奪われたのは、つい先頃のことだと思っていたのに」
「はい。早いもので、数えで十七になります」
「それにしたって、実年齢はもう少し下だろう。有能だね。流石は君の弟子と言ったところかな」
「元々、才気煥発な子ではありました。私がしたのは、ほんの手ほどき程度で」
「謙遜だね。君の秘蔵っ子であることは誰もが承知していることなのに」
そして中空を見ながら、そうか、あの子が、と繰り返す。
「あの諦聴を出し抜いた時から、将来が楽しみだと思っていたよ。館は良い人材を手に入れた。——そうだね。全ては君が、あの子を守ったことから始まっていたのだったね。改めて言うのも何だけれど、あの時は、本当によくやってくれた。私からも礼を言わせておくれ」
「……悔いが残る記憶でもあります」
「何者も運命の流れには逆らえまい。欠けのない円を作るのは難しい。それに『彼』にとっては、最早ああするしかなかったのだろう。宿願を果たしたのだ。君が気に病むことはない」
「……」
「変わらないね、君は」
すっかり変わり果ててしまった神仙が、穏やかに笑う。
「こうして向かいあっていると、あの日の夜を思い出す」
皇帝即位の祝典があった夜、詩越楼の窓辺。交わす言葉を探しながら、互いに盃を傾けた。
「——あの頃、私はまだ人でした」
「そうだったね」
「貴方に弟子入りを志願して断られた」
「そうだった、そうだった」
「貴方は、私がこうなることを、とうに見越して?」
「さあ、どうだろう。仙になる逸材だとは思っていたけれど。……そうだね、詳しいことは忘れてしまった。なんせ、とんでもなく年寄りだから」
はは、と巫山戯て笑う。真のところを言うつもりはなさそうだ。それはそれで、この人らしい。
ふ、とこちらの頬も緩む。
「……では、私はこれにて」
報告は済んだ。これ以上、長居をする理由もない。そう思って暇を告げ、腰を浮かせかけたところ、
「え、もう帰るのかい? せっかくだから茶の一杯くらい飲んでいけばいいのに」
と引き止められた。
「しかし」
「つれないねえ。久しぶりに会ったというのに。まあ本当なら、あの頃みたいに酒でも一献、と言いたいところだけど、いかんせん今の私は子どもだからね」
悪戯っぽく笑いながら、諦聴、諦聴、と部屋の外に向かって声をかける。
はい、と音もなく入ってきた従者に人数分の茶の支度を申しつけて、あらためてこちらに向き直る。
「ご覧の通り、私は新しい物語に飢えているのでね。さあ、聞かせておくれ。君が過ごした、ここ数十年の世界のことを」
仰せのままに、と私は空の煙管を弄ぶ老成した子どもに向かって、微笑みながら頭を下げた。