閑夜 聞き慣れない音で夜中に目が覚めた。
見上げた天井は古い木造りで、ひと目で我が家のものではないとわかる。大小の梁が組み合わさったそこにひっそりと闇がわだかまって、私はまだ朝が遠いことを知った。
固い枕の感触に、ごろりと寝返りを打つと、すぐ横にこちらを向く寝顔があった。窓から差し込む月光を浴びた顔は、はっとするほど青白く、だが薄く開いた口元からは、健やかな寝息が間断なく聞こえてくる。私はそれを見、そしていま私と彼とが、海の側に建つ宿に居ることを、あぶくのように思い出した。
ざぁざざ、どどう。海鳴りというものは、夜にこそ響く。まるで波打ち際にいるような、潮の流れを間近に聞きながら、私は、彼の寝顔をしみじみと眺めた。
普段は快活で、いっそ煩いといえるほどの存在は鳴りを潜め、静かに眠るその無垢な姿は、ただ美しかった。長い睫毛が、月光を遮って目許に影を落とす。ほんの数刻前まで、この奥に控えた瞳の輝きを、私は、甘い気持ちで見つめていた。夕暮れ時、水平線の向こうに沈んでいく陽を眺めながら、私たちは並んで波打ち際を歩いた。茜色の陽射しがふたりを染め上げ、潮風が髪をなぶる。ぬるい波がつま先を洗い、流れる砂のくすぐったさに彼が声を上げる。規則的な波音が、伴奏するかのようにそれに寄り添い、私は、この一瞬を、澄んだゼリーの中に閉じ込めてしまいたい衝動に駆られた。音も光も、風さえも閉じ込めて、ずっと大事に眺めていたかった。
愛しさは同時に寂しさでもある。私たちは、悠久に近い時の流れを生きることができるけれど、それでもこの一瞬を留めておくことはできない。時はつま先を流れ去る波の如くすり抜け、そしてまた満ちてくる。繰り返す瞬間、記憶、感情。しかしそのどれも同じものではない。私と彼とて、明日には違う間柄になっているかも知れない。それを懼れる気持ちが、新たに訪れる一瞬を輝かせる。寄せては返す波のように、私たちはそれを繰り返し、時を降り積もらせていく。日々を他愛なく消費しながら、時々はこうして旅に出る。その行為は悠久という大河に落ちる一滴なのかも知れないが、私たちの心をひととき揺らすことはできた。私たちは笑い、戯れ、高揚の赴くままに互いを貪る。熱く激しく身を重ね、そうして精根尽き果てて墜落するように眠る。常ならば朝まで目覚めない私が、こうして更夜に眠る彼を眺めているのも、旅先ではよくあることだった。
夜が明ければ帰る。私と彼との日常に。けれど今はせめて、非日常の帳の下に。
無限の狭間に刻まれる有限を惜しみながら、私はひとり、潮騒に耳を澄ます。
月影の下、過ぎ去っていくばかりで留められぬ時を、愛しくも寂しく思いながら。