日常 使いから戻ると、室内は惨憺たる有様だった。
「あっ諦聴諦聴!」
声もなく立ち尽くす私に埃まみれの主が笑いかける。
「なにね、ちょっと思い立って模様替えをしようかと思ってね」
「模様替え……ですか。この賊に荒らされたような惨状が?」
「折角だから大掛かりにしようかと思ってね、つい張り切ってしまったよ」
まるで自分の成果をひけらかすように堂々と胸を張る。
「けどねえ……」
来た。
「見ての通り私は非力だろう? 出すだけ出したら、もう疲れちゃって全然動けなくってぇ……」
これ見よがしに肩を落とし、一拍置いて、そこでだ、と指を組んで目を輝かせる。
「さてどうしたものかと途方に暮れていたら、神の御加護か仏の慈悲か、何とタイミングよく救世主が現れ」
「嫌です」
食い気味に言う。
えーっ! と不平の声が漏れる。
「えー、じゃありません。御自分の不始末は御自身で片をつけてください。そもそも模様替えでどうして卓をひっくり返す必要があるんですか。円座を本棚に詰め込む必要が? 全く意味がわかりません」
「卓の奥にものが落ちているのが見えたんだ。私の手ではギリ届かないから、取るためにひっくり返した。本棚は歯抜けになって雪崩落ちそうになっていたから、床の本をしまうまでブックエンド的な意味合いで畳んだ円座を詰めたんだ。これで満足かい?」
「理由を言えばいいと言うものではありません」
「だってお前が訊いたんじゃないか」
ああ言えばこう言う。まるで正義は我にありとばかりに頬を膨らませる主に溜息を吐きながら眉間を揉む。
全く、ちょっと目を離すとこれだ。見た目が幼児だからと言って、行動も幼児レベルまで落とすことはないだろう。仮にも神仙が。仮にも二千歳近い大人が。
「何にせよ、今の私にこれを片付けるのは無理だよ。エネルギーを使い切ってしまった」
「じゃあしばらくはこの惨状の中で過ごすしかありませんね」
「それは嫌だ」
むっつりと唇を尖らせる。
これが余人なら脳天に一撃落とすところだが、主君相手にそれはできない。
「まあ百歩譲って、私はこの無惨な部屋で良いとして、だ。果たして、お前に我慢ができるかな? 綺麗好きのお前のことだ、この足の踏み場もないような惨状に一日も経たずすぐ音を上げると、私は見ているね」
ふふんと笑ってこちらを見る。性格を完全に把握されているぶん質が悪い。
はああ、と殊更大きな溜息が漏れた。頭をひとつ振って、うんざりした気分を払い落とす。
「……分かりました。全てを元の位置に戻す程度でいいですか?」
「いいよ。いざ模様替えと張り切ってみたはいいけれど、動かせる家具なんてそう多くもなかったし」
そう言って、ひょいといつもの円座に乗り、ふわふわと宙に浮かぶ。
「もう、いまの私にできるのは、こうしてお前の邪魔をしないことくらいだ」
しみじみと殊勝な物言いをする人は、そもそも厄介事など起こさない。だが言っても詮方無いことなので、私は天地のひっくり返った卓を戻した。その上に床に散らばったあれやこれやを積み上げていき、あらかた床が片付いたところで掃除機をかける。どこから落ちたものか、大きめの綿埃が面白いように筒先に吸い込まれていく。
しばし無心で働き、ふと目を上げたとき、主の手首に紐状のものが巻き付いているのが見えた。
普段身を飾る真似などしない主のこと、珍しいと思いつつ見ていると、気づいた主がこれ? とばかりに手を翳した。
「卓の下に落ちていた。脚の奥に隠れていてね、これを取りたかったんだ」
手首から落ちない程度にゆるく巻かれた水色の細布。あれは女物の髪紐――だろうか。
誰のものかなど、問うまでもない。
それを見つめる目が、口元が、甘く緩んで、持ち主の存在を――その名を告げている。
――何が模様替えだ。
きっと、探したのだろう。卓の影で見つけた、その細布を契機に。まだ何処かに潜んでいるかも知れない、彼女の微かな痕跡を。
私の居ない間に、ひとりで。小さな手で、あちこちをひっくり返しながら。
けれど私の前では、そんな気配は微塵も見せない。一見無邪気な笑顔の内にそっくり隠してしまう。己を傷つける棘を、くるりと柔らかな真綿で包むように。
そうして戯けて、全てを有耶無耶にするのだ。子供の仮面を無垢で飾って。
「お前は、本当にいい子だね」
主が言う。何処か愉快げに。
「私は暇だから、ここはひとつ茶でも淹れてやろう。なに、遠慮することはない。ほんの労いさ」
そう言って、ふいと厨へ行こうとする。
「老君」
声をかけたところで、振り向きはしない。きっと私の、ここまでの心境など察したうえで、あえて知らぬふりをしているのだろう。
あるいは、瞳の奥に揺蕩う想いを読ませないためか。
恐らく、どちらでもあるのだろう。いずれも、この人の狡いところだ。
「湯を沸かして戻ってくるまでの間に、卓の上を片付けておいておくれ。私とお前と、向かい合って茶を飲もうじゃないか」
声に翳りの色はない。私はただ、はいと応えた。
痛みを分かち合いたい訳ではないと知っている。
だから私も知らないふりをする。これは互いが穏やかに過ごすための不文律。傍に侍る者として、最低限持ち合わせていなければいけない大切なもの。
日常を淡々と流れるように過ごす。気づいたことを悟っても、悟られても、何気ないふりをして生きていく。付かず離れず、程よい距離を保ちながら。
それで癒やされる心がそこにあるなら、私は従者として、それを貫く。
「老君」
ふたたび背に呼びかける。
「街で茶菓を買ってきました。棚にありますから、良ろしければ」
了承したとばかりに、主がひらりと手を振る。
水色の細布が、手首で舞うようにしなやかに揺らいだ。