晚安 気づけば闇の只中に居た。
目に入る全てのものが墨を溶かしたように黒い。暗いのではない、黒いのだ。見渡す限り、ただ一点の光輝すらない闇。それが目を瞑っているせいでもなく、かといって視界を何者かに奪われた訳でもないことは、暗闇の中で己の身体が仄かに発光しているからだと、すぐに分かった。
愕然と目の前に翳した手のひらを見、次いで視軸を下に向ける。一対の見慣れた足が、やはり薄ぼんやりした光に包まれていた。
腕が——ある。足も、ある。
姿が人のかたちを取っている以上、至極当然であるはずのその眺めが、今に限っては当たり前でないことを俺は知っている。忘れるはずがない。ここに至る直前、自分に何があったのかを。
——ここは。
動かない心臓が早鐘を打つような気がした。必死に暗闇に目を凝らす。
全てを塗り潰す真の闇。己のいる場所が広いのか狭いのか、それすら分からないほどの——。
「——何故だ」
闇の一部が唸った。聴き覚えがあると言うよりは、聴き間違えようのないほど耳に馴染んだ響き。けれど知らない。こんなに恐ろしげな声を、俺は知らない。
「大哥?」
信じ難い思いで呼びかける。声は重い調子で再び問うた。
「言え。——何故軽々に命を投げ出した」
大きく毛を逆立てた獣のように、闇の圧力が一際増したような気がした。本能的な恐怖に身が竦む。瘧のような震えが広がっていくのを感じ、それを押し留めるために、俺は必死で両の足を踏ん張った。
「だっ……て、仕方ないだろう。俺には、ああするしか」
「自ら罠に飛び込んでおきながら、か?」
「っ……!」
「つくづくと莫迦な真似をしたものだ。死にかけの俺のことなど放っておけば良かったんだ。俺は致命傷を負っていた。霊質の損傷を見れば一目瞭然だったろう。なのにお前はむざむざ姿を晒した挙げ句、無駄に命を散らした。これが犬死にでなくて何だと言うんだ」
一言一言が氷の刃となって心に突き刺さる。大哥の指摘は正しい。俺は麾下でありながら、一時の感情で主の手勢を減らすような真似をしてしまった。必要のない死だったと言われてしまえば返す言葉もない。
——けれども。
「俺——俺にそれが出来ないってことは、あんたが一番良く知っているはずだ」
自分を奮い立たせて言い返す。ともすれば足が萎えてしまいそうだった。
暗闇がふたたび唸る。
「だからだ。お前は捨てるべきものを違えた。その結果がこれだ。かつて俺はお前に告げた。お前の命は明王のものだと。たとえ目の前で仲間が犠牲になろうとも、命の使い所を決して間違えるなと」
「それは」
「俺がこうなったのは、俺の失態だ。それ以上でも以下でもない。奴の縄張りに飛ばされた以上、迫りくる死からは逃れられなかった。だが、お前は違う。その目で見ていただろう。全てを。一部始終を。なのにお前は——何故だ、何故、あの時、俺を見捨ててくれなかった。何故、お前が死なねばならない。何故、俺は死してなお、こんなにも苦しまなければならないんだ」
「大、哥」
「死ぬことはなかった。何も、お前までが死ぬことはなかったんだ。なのに何故——何故だ、畜生……!」
震える声が胸を衝く。
ああ、と思った。この人は悔やんでいるのだ。死してなお、自分を責め続けているのだ。
他でもない俺のせいで。俺をその死に巻き込んでしまったばかりに。
「大哥」
暗闇に手を伸ばす。そう遠くないところで指先が触れた。
震える嗚咽が指先から伝わってくる。引き裂かれるように胸が痛んだ。
違う、と口を開きかけて、声は喉の奥で凝った。きっと、いまの大哥には何を言っても届かない。大哥のせいじゃない、と俺が何百回言おうが届かない。理解はしてもらえないだろう。俺の死に対して、俺が少しも悔いていないこと。たとえ何度あの瞬間に戻ったとしても、俺は落ちてくる身体に向け躊躇わず手を伸ばすだろうことを。だから俺は、言葉を尽くす代わりに闇の塊をその腕で抱いた。ただ分かって欲しくて強く抱いた。
熱い塊が喉元をせり上がり、目頭からあふれて零れ落ちる。
「ごめん、ごめん大哥、俺——」
ぎゅっと腕を掴まれる。まるで、嵐の海で縋り付くものを見つけたかのように。だから俺は、ますます離すまいと、抱きしめる腕に力を込めた。哀しみの海で、この人が溺れてしまわないように。自責の波に、この人が浚われてしまわないように。
二人ぶんの嗚咽が闇に響く。どれくらいそうしていただろうか。
はっと息を呑む声が耳に届いた。
伏せていた瞳を上げると、涙に濡れていたものの、目の前にはいつもと変わらぬ大哥の姿があった。その輪郭は淡い光に包まれ、信じられないと言った表情を浮かべて俺を見ている。
「——お前、その姿は」
「え?」
言われて身体に目をやる。細い指、しなやかな前腕、張りのある胸が、その下にある腹を視界から遮っている。紛れもなく、俺が過去に置いてきた女の身体だった。
「え? え? なんで、どうして」
混乱して発した声も高い。呆然としながら二の腕をさする。布越しに触れる柔い肌。男の、強く張り巡らされた筋肉はもはや跡形もなかった。
よく見れば服も、さっきまで着ていたものとは違っていた。そうだ、この服は、昔好んでよく着ていた——。
「……雅婷?」
その名。冗談交じりでないその名で最後に呼ばれたのは、どれほど前のことだったろう。
どうして今になってこの姿を取り戻したのか、さっぱり意味が分からない。俺は混乱のあまり、ぺたんとその場に尻餅をついた。
「大哥、俺」
震える声で言うと、大哥はあっけに取られていた目元をふっと緩ませた。
「……その姿を見るのは、随分と久しぶりだな」
落ち着いた柔らかな声。俺のよく知っている、大好きな大哥の声。
そう思った途端、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちてきた。
大哥が慌てる。
「おい、なんでまだ泣く!?」
分からない。止まらない。ただ一つ言えるのは、この涙は哀しみではなく、安堵から来ているという事なのだが、それを伝える喉は震えて使い物にならなくなっていた。
堰を切ったように泣き続ける俺の頭に、ぽんと手が置かれる。
驚いて目を見開くと、涙に歪んだ視界の向こうに少し皮肉っぽい、いつもの大哥の微笑があった。
「もう泣くな。……よく頑張ったな」
そんな事を言われたら、また泣いちまうじゃないか。俺は、そう文句を言う代わりに、涙を拭っていた手を拳に握って大哥の胸に当てた。両手で、ゆっくりと、何度も。
大哥の腕が伸ばされる。背と後ろ頭に触れた手のひらが、そのまま俺を抱き寄せる。
胸に触れた耳が、布越しの震えごと低い囁きを拾う。
「……すまなかった」
俺は涙に濡れた目を閉じる。そうして全身を耳にしてその胸にあった鼓動を探す。
けれど大哥の胸は残酷なほど静かで、それで俺はまた、泣き止む術を見失ってしまった。
大哥はそんな俺を、ただ黙って抱きしめていた。
ようやく泣き止むと、気恥ずかしさが先に立った。恥も外聞もなく、子供のように泣きじゃくった羞恥に耳まで熱くなりながら、俺は腕を突っ張って大哥の胸から離れた。
「気が済んだか?」
いたわりの言葉をかけられても、その顔すらまともに見られない。下を向いたまま頷くので精一杯だ。こういう時はいっそ誂ってくれた方が気が楽なのだと、つくづく思った。
大哥が無造作に立ち上がる。
「んじゃ、行くか」
意外な言葉に、ぱっと顔を上げる。大哥は首に手を当てて明後日の方向を見ていた。ぽかんとした俺に気づいて、軽く唇を尖らせる。
「なんだその顔? まさかずっとここでへたり込んでいるつもりじゃないだろうな?」
「え、だって、行くって、何処に」
「さあな。でも歩いてりゃ何処かしらには着くだろ。そこが何処かは知らんが——立てるか?」
「あ、ああ」
地面に手を突っ張ってみたが、情けないことに腰から下に力が入らない。生まれたての子鹿みたいに地べたでおろおろしていると、大哥がくるりとこちらに背を向けてしゃがんだ。
「ほら。乗れ」
「え? でも」
「いいから」
広い背中を前に、またぞろ羞恥が襲ってくる。これ以上恥を重ねるのは嫌だが、ここで固辞して置いて行かれるのはもっと嫌だ。俺はなんとか足に力を入れると、大哥の肩に身を預けた。
「よーし、じゃあ行くぞ」
まるで空の鞄を背負うようにひょいと立ち上がる。歩き出しの懐かしい揺れに子供の頃を思い出した。大きな母の背中。子守唄。蕩けそうに甘い、陽だまりに居るような安寧。
「……なんか俺、ガキみてぇ」
照れ隠しに呟けば、
「ガキだろ」
と呆れたような声が返ってきた。
「違う」
「違わねーよ。て言うかお前、いつまでそんな喋り方でいるつもりだ?」
「この言葉のことか? そんなにすぐ戻るわけねーだろ。俺がどれだけ長い間、男の姿だったと思ってるんだ」
「はは、そう言われてみればそうだな」
「そうだよ。見た目がどうなろうが、俺は俺なんだから」
「なら、名も七刀に戻した方がいいか?」
「それは——」
もちろんだ、とはすぐに言えなかった。正直、もうどっちでも良いような気がした。男でも女でも、もうどうでも。そう思えるのが自分でも不思議だった。生きていた頃は、あんなにも拘っていたのに。
「……大哥の呼びたいように呼べばいいさ」
そう。これからは大哥の呼ぶ名が、俺の名だ。
「そうか」
それきり大哥は口を噤んだ。もう、どっちなんだよ、と笑い出しそうになりながら、俺は肩に頭を預ける。
歩みと共に伝わってくる振動が心地よい。泣いた疲れも相俟って、うとうとと瞼が落ちてくる。死んでいるのに眠くなるなんて妙なこともあるもんだ。
「寝ててもいいぞ。着いたら起こすから」
「うん……」
着いたら、か。次に目を覚ましたら、俺たちは何処にいるんだろう。冥府か、魔道か、煉獄か。極楽ではないだろう。それだけは確かだ。
けれど少しも怖くはなかった。この大きな背中が傍にいる限り、俺が怯えることは金輪際ないと、心の底から信じることができたから。いや、信頼よりも、もっと大きな——この揺るぎない穏やかな感情は何だろう。
思えば、ずっと前からそんな気持ちを抱いていたような気がする。俺はその源泉を手繰り寄せようとしたけれど、もうどうにも眠くて——やがて思考は俺の手をすり抜けていった。
まあ、いい。起きたら考えよう。そうだ、大哥に相談してもいいかも知れない。だって、これからはもうずっと一緒に居るのだから。
「……晚安、」
最後に名を呼ばれた。俺はそれを魂に刻み込みながら、甘く深い眠りに落ちていった。
遠くで、懐かしい子守唄が聞こえたような気がした。