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    桜道明寺

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    桜道明寺

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    11月11日は二狗の日! という訳で目を覚ましたら藍渓鎮に居た小諦聴のお話です

    諦聴・イン・ワンダーランド 目を覚ますと、そこは知らない部屋の中だった。
     びっくりして即座に身を起こす。掛けられていた蒼い着物が胸を滑り落ちて、腿の上に柔らかく折り重なった。
     ぱちぱちとまばたきをしながら、せわしく目を走らせる。ぐるりを囲む本の壁。部屋自体は大きくはなく、小ぢんまりとしている。人の姿はなく、すぐ横にある大きな窓からは、風に乗ってのどかな鳥の声が聞こえてくる。見たこともない、知らない場所だ。
     どこだ? ここ。俺は何でこんなところで寝てるんだ?
     途切れた記憶をさかのぼる。そうだ。確か幽都の北にある森を歩いていたら、狩りをしている索霊に出くわしたんだ。俺は明王の配下だから、そいつらを見逃すことなんて出来ない。怒鳴りつけて、すぐさま戦闘になって、敵は複数で、二、三体やっつけたところで、いきなり目の前が暗くなって——
    「よう、起きたか?」
     必死に思い出しているところに突然声が降ってきたから、飛び上がるほどに驚いた。
     見ると天井に開いた穴から三つ編みが垂れていて、その先には忌々しい〈あの男〉の顔があった。
    「あ! お前!」
     指差した先で、男がニッと笑う。そして軽く身を捻って飛び降りると、俺のすぐ側にすとんと着地した。
     あのときと同じ、愉快げにつり上がった口許。ひとつに纏められた長い三つ編み。首元に巻かれた赤い紐。
     苦い記憶が蘇る。頭にカッと血が上った。
    「お前! お前お前お前! 何でお前がここに居る それよりここはどこなんだ 一体俺に何する気だ」
    「うんうん、そんだけ騒げりゃもう平気だな」
     混乱する俺の怒声をよそに、腰に手を当てて頷いている。
    「この……っ」
     事情は分からないが、こいつは敵だ。過去に門前でやりあった件もある。今度こそ絶対に負けない。俺は跳ね起きると勢いをつけて殴りかかった。次々と繰り出される拳を右に左に払い退けながら、三つ編みがおいおいと呆れたように言う。
    「喧嘩はいつでも大歓迎だけどな、生憎ここでする訳にはいかねーんだ。ま、とりあえず落ち着け」
    「うるさい!」
    「しゃーねぇなあ」
     一転、楽しげに目を光らせ、身を低めて掌底を突き出す。顎に向かって伸ばされたそれを紙一重で避けると、そのまま後ろに飛んで一旦距離を取った。
     ——が、俺は忘れていた。ここは広場でも闘技場でもなく、本に囲まれた狭い部屋の中だったと言うことを。
     どん、と激しく背がぶつかる。しまった思って頭上に目をやると、棚と言う棚から飛び出した本が、今まさに俺めがけて落ちてくるところだった。
     反射的に身を竦める。だが次の瞬間も、またその次の瞬間も、本の山に押しつぶされるどころか、紙一枚すら降ってくる形跡がなかった。
     そうっと目を開く。見上げた先では、無数の本が空中でぴたりと静止していた。
    「え」
     ぽかんとしている目の前で、今度は時を遡るかのように、本がするすると棚の中へと収まっていく。まばたきを何度かする頃には、本一冊、ほこり一つ落ちることなく、全てが元通りになってしまっていた。
    「相変わらず元気な神獣君だねえ」
     のんびりとした声が響く。それに続くように、俺と三つ編みのちょうど真ん中くらいに、浮き出るようにして一人の男が現れた。
     癖のある長い藍の髪。高い背を包むゆったりとした着物。そして何より、忘れたくとも忘れられない、あのうさんくさい笑み——
    「あー!」
     ここでようやく気がついた。
     俺が寝ている間に連れ込まれたここは、他でもない目の前に居る奴らの巣窟だったのだと。

         *

    「連れ込んだとは人聞きの悪い。私たちはただ君を助けただけだよ」
     相変わらずうさんくさい笑いを浮かべている男の後ろで、三つ編みがうんうんと頷いている。
    「お前、殺されかけてたんだぞ。俺がたまたま通りかかったから良かったけど、本当に危ないところだったんだからな」
    「そうそう。それに、心配せずとも私たちが君を害する理由はないよ。明王とはこの先も友好的な関係で居たいからね。彼の言う通り、君は大怪我を負ってここに来て、一時は命も危なかったけれど、ちゃんと回復させたからもう大丈夫。なんなら今からでも幽都に戻れるよ」
    「ほんとか?」
    「ああ。街の出口までは送ろう。そこから先の道は分かるかな?」
    「莫迦にするな。俺はどこに居たって幽都の場所が分かる」
    「なら問題はないね。じゃ、後は頼んだよ」
    「おう」
     藍色の髪の男——確か明王と同じ神の一柱だったはず——に視線を向けられ、三つ編みが促すように顎を上げる。行くぞと言うことらしい。反射的に警戒心が頭をもたげたが、俺をどうにかしたいなら、今までに機会はいくらでもあったはずだ。とりあえず縛られてもいないし、殴られてもいない。変な術をかけられた形跡もない。何にせよここが奴らの住処なら、幽都と同じく巨大な霊域でもあるはずだ。そこで何もされていないなら、ひとまず信用しても良いだろう。どうせ他人の霊域で喧嘩をしたところで俺に勝ち目はない。
     一応気だけは緩めないようにして部屋を出る。ひとつ扉をくぐった向こうがすぐ外だったので驚いた。俺が居た建物は小屋と見まごうほど小さく、明王の居城とは比べ物にならないほどに質素だった。
    「なあ、お前らはこんなところで暮らしているのか?」
    「? そうだけど」
     きょとんと返されて更に驚く。考えられない。仮にも神が、こんな侘しい暮らしをしているだなんて。いや、俺も明王以外の神は知らないが、それでもやっぱり変だと思う。
    「お前の主って、やっぱり変わってるんだな」
    「そうか? そうかもな。まあ、俺は嫌いじゃないけどな」
     切り立った崖の上から、突き出た岩場に次々と足をかけつつ飛び降りる。ほどなくして地上に降り立つと、目の前には大きな湖が広がっていた。岸から伸びた艀には一艘の小舟が繋がれており、三つ編みはそれに乗り込むと、手慣れた様子で縛ってあった綱を外し始めた。そして俺が乗ったのを見届けると船尾の櫓を手に取り、艀を蹴って舟を漕いだ。
     ぎ、ぎい、と揺れながら舟が水面を滑り出す。湖は大きく、端の方は靄がかっていて見えない。
     その途中に目印のようにそびえ立つ巨岩の周りには、ちらほらと他の小舟が浮いていた。更にその側で浮き沈みしながら魚を獲っているらしき人間の姿も。
     仰天して訪ねる。
    「何で霊域の中に人間が居るんだ」
    「ん? ああ。ここはそう言う場所なんだよ。さっきのあいつ——老君があっちこっちから人を集めてくるから」
    「は? 何のために?」
    「困ってる奴らを見過ごせないっつうか——まあ俺に言わせりゃ、ただの物好きだ」
     さらりと言われて、空いた口が塞がらなくなった。最初から変な奴だとは思っていたが、まさかここまでとは。
     驚きに二の句を継げないでいると、魚を獲っていた人間の一人が俺たちに気づいた。水面に顔を出して大きく手を振る。
    「玄离大人!」
    「おう、どうだ、獲れてるか?」
    「ええ、沢山。後で老君のところにも持って行きますね」
    「そりゃ有り難い」
    「清凝が居ないと食事の支度も大変でしょう。すぐ食えるようにしておきますよ。焼きがいいですか? それとも煮付け?」
    「焼きがいいな。煮付けはこのあいだ食ったし」
    「はい!」
     そして座っている俺に向かって、にこりと笑った。俺は普段幽都を出ることはしないし、人間と触れ合う機会なんてないから、少しどぎまぎする。
    「なあ、玄离って、あんたの名前?」
    「ん? ああ、そうだ。その気があるなら覚えてくれ」
    「ふん。清凝ってのは?」
    「老君の弟子で、人間の娘だ。今は人の世界に修行に出てる」
    「修行? 神仙が側に居るってのに、わざわざそこを出てまで? そんな事して何になるんだ」
    「さあな、俺にも分からん。ただ、あいつがそうしたいって言うからさせているだけだ。……何でだろうな。修行ならここで充分なのに」
    「ふうん」
     人間のすることはよく分からない。それは玄离と呼ばれたこいつも同様であるらしく、後半は自分に問いかけるような口調だった。
     そうこうしているうちに舟は巨岩を通り過ぎ、空間を切り取って繋げられた隧道の中へと入っていった。櫓のきしむ音が石壁に響く。薄暗い中に小さく見えていた出口がどんどん大きくなり、賑やかな喧騒が次第次第に聞こえてきた。
    「わ……!」
     思わず声が出る。隧道を抜けた先は、色彩と活気に溢れていた。水路の両側に立ち並ぶ建物、橋を行き交う人間たち。軒先に下げられた飾りや提灯や、人間が身にまとっている着物なんかが視界に飛び込んで、目がちかちかする。それから、音も。話し声、笑い声、ぱんぱんと景気よく手を叩く音、どこかで食器ががちゃんと割れる音——まるで騒がしい音の坩堝に投げ込まれたかのようだ。普段静かな幽都に慣れた身には、いささか刺激が強い。
     外からもたらされるあれこれに当てられて、酔ったようにぼうっとしていると、後ろから声をかけられた。
    「降りるぞ」
    「え」
    「ここからは少し歩く。せっかくだし街を見せてやるよ」
     言いながら舟を岸に着けて、さっさと飛び移る。追うようにして地に足をつけたら、舟の揺れが身体に残っているのか、足元がふわふわと覚束なかった。
    「こっちだ」
     ひょいひょい人を器用に避けながら、群衆の中を泳ぐように歩いていく。気を抜くとすぐに見失ってしまいそうだ。
     冗談じゃない、こんなところに置いていかれてたまるかと思いながら着いていくと、少し歩いたところで玄离の足がぴたりと止まった。視線の先には一軒の飯屋がある。路上に食欲をそそる匂いが流れてきて、にわかに空腹を感じた。
    「飯でも食っていくか」
    「いらん!」
    「俺が食いたいんだよ、いいから付き合え」
     そう言って大股で店の中に入っていく。入り口近くに据えられた卓の椅子に腰掛け、厨房に向かって声を大きく張り上げる。
    「親父、牛肉麵二つ!」
    「玄离大人、いらっしゃい! おや、今日は可愛い坊やを連れてますね」
    「だろ? 俺の新しい弟分だ」
    「はあ」
     盛大に顔をしかめても、どこ吹く風だ。こいつ、本当に腹が立つ。
     俺がひとりで唸っていると、大きな丼が目の前に置かれた。湯気と共に立ちのぼる匂いに腹が鳴る。それに加えて玄离の美味そうな顔を見てしまったら、もう駄目だった。空腹の前には意地なんて真綿の勢いでどこかに吹き飛んでしまう。
     箸立てから箸を取って、一気に麺をすする。熱い。けど美味い。濃い色に煮染められた大ぶりの肉も、口に入れるとほろほろと柔らかく解けて美味い。瞬く間に丼が空になりかける。
    「もっと食うか?」
     口いっぱいに麺を頬張ったまま、こくこくと頷く。夢中になって食べ進め、三杯目の汁を一滴残さず飲み干した頃、ようやく腹がくちくなった。
    「美味かったろ?」
     俺の倍ほど重ねられた丼の向こうで玄离が笑う。ふと年の離れた兄弟子の顔が頭に浮かんだ。
    「なあ、俺ってどのくらい寝てた?」
    「そんなに長くない。一日かそこらじゃないか」
    「そうか」
     たった一日。それでも、何も言わずに丸一日居なくなったことなんてない。そう思うと幽都の仲間たちの顔が次々と浮かんで、急に会いたくなってしまった。
     じわっとしたものがこみあげる。急に喉の奥がつかえたようになって俯いていたら、いきなり頭をがしがしと撫でられた。
    「何しやがる!」
    「いや、何かしょぼくれてるみたいだったから」
    「別にしょぼくれてなんかない!」
    「そうかそうか。んじゃ飯も食ったし、行くとするか」
     ごちそーさん、と厨房に声をかけて店を出ていく。なんなんだ、一体。でも反射的に怒ったせいか、さっきまでのもやもやはすっかり消えていた。
    「毎度あり!」
     野太い声を背にして街中に戻ると、さっきよりも人が増えていた。混雑していて歩きにくい。少し離れたところに三つ編みが見えたから、その背に向かって駆け出そうとしたら、くん、と後ろから裾を引かれた。
     振り向くと、髪を二つ髷に結った子供が俺の服を掴んでいる。
    「え」
     突然の事態に思わず固まっていると、目の前の子供がちょこんと首を傾げた。
    「お兄ちゃん、妖精なの?」
    「は」
    「だって、角。それから肌の色も」
     俺は普段、自分が妖精かなんて考えたこともない。言うまでもなく幽都の仲間は皆妖精だからだ。それは俺にとって当たり前のことで、だからこそ一瞬言葉に詰まった。
    「そうだぜ」
     いつの間にか戻ってきた玄离が、俺の頭に手を置いて言う。わあ! と子供が目を輝かせた。
    「やっぱり! 私ね、老君と玄离哥哥以外の妖精見るの初めて! 名前は? どこから来たの? これからここに住むの? お父さんやお母さんは? その角は生まれた時から生えてるの? ほっぺにあるのはなあに? どうして私と肌の色が違うの?」
     立て続けに訊かれて、ちょっと後ずさる。
    「そう言えば俺もお前の名前を知らないな。何て言うんだ?」
     頭に載せられた手は邪険に払えても、服を掴む手は払い除けられない。人間は弱いって聞くし、何より服を掴んでいる腕がやたらと細っこくて怖いのだ。と言うか、そもそも俺の名前なんて聞いてどうするんだ? 全く意味が分からない。俺は頭を抱えたくなった。
     そんな俺の困惑をよそに玄离は横でにやにやしてるし、子供は目をきらきらさせている。
    「……諦聴」
     教えないと解放されそうにないので、しぶしぶ言うと、
    「えー、難しい名前! 玄离哥哥、書ける?」
    「俺に聞くなよ……」
    「はははは。私は明明。ねえ、友達になろうよ!」
     話が更に訳の分からない方向に飛んだ。
    「友達? 友達って何だ?」
    「知らないの? 仲良しになることだよ!」
    「どうやって」
    「えっとね、一緒に遊んだり、お出かけしたり、ご飯を食べたりするの」
    「それって普通のことじゃないのか?」
     少なくとも幽都では当たり前のことだし、俺も特に意識したことはない。でもそれが友達って奴なのかと言われると、いまいちぴんとこない。
    「違うよー! 友達は特別なんだよ!」
    「そ、そうなのか?」
     助けを求めるように玄离を見ると、今にも笑い出しそうな顔をして、
    「いいじゃん。なってやれよ、友達。ついでに俺もさっき一緒に飯食ったから、お前とはもう友達だな」
     などとほざいている。
    「わ、分かった。分かったからもう手を離してくれ」
    「ほんと? やったー!」
     万歳でやっと手が離れたかと思いきや、今度は直に手を握られて強く引っ張られた。
    「あのね、この先にね、私の秘密の場所があるの! 友達だから連れて行ってあげる!」
    「え、ええ」
    「おー、行って来い行って来い。俺はあそこの木の上で昼寝してるから」
    「ええー」
     俺の了解も得ないまま、子供は手を引いて走り始める。目を覚ましてからこっち、色々なことがあったけど、その混乱が極みに達して頭がぐるぐるする。
     何なんだ、一体。俺はどうしてこんなことになってるんだ

         *

    「お、戻ってきたか」
     やっとの思いで木の根本に辿り着いたとき、玄离は一番太い枝に身体を伸ばして俺を見下ろしていた。俺は地べたに腰を下ろして、げっそりしながら言う。
    「なあ、人間の子供って、皆あんななのか?」
    「んー、まあ、そうだな。つってもここの場合、生きるのに心配がないからか外の世界よか伸び伸びしてる気がするけど」
    「そうなのか……」
    「はは、くたびれてるな。その様子だと、相当引っ張り回されたんだろ。明明は元気だからな」
    「引っ張り回されたなんてもんじゃない。冗談抜きに街一周させられたぞ。行く先々で俺のこと話してさ、そのたびに新しい人間に囲まれるわ、あれやこれや訊かれるわで、とにかく大変だった」
     何が面白いのか、玄离は腹を抱えて笑っている。
    「笑うな!」
    「いやー、だってお前、あんな風に素直に連れて行かれるとは思ってなかったからさ」
    「無理に振りほどいたら腕が千切れそうで怖かったんだよ! お前、俺を街の出口まで連れて行くんじゃなかったのかよ! 役目を途中で放っぽり出すなよな!」
    「放っぽり出してないぞ。街を見せてやるって言ったろ。ちょうど良いから明明と交代しただけだ」
     悪びれもせずに言って、木から飛び降りる。
    「で? 街の奴らはどうだった?」
    「変な奴ばっかりだった。俺が妖精だって聞いても全然怖がらないし、俺が何言っても莫迦みたいに笑うし、あれ食えこれ食えって何か色々押し付けてくるし」
     それを聞いて、玄离はまたははっと笑った。
    「そういう奴らなんだよ。良かったじゃねえか、気に入られたみたいで」
     良いのか悪いのか。精神的にはしこたま疲れたけど、でも不思議と悪い気はしなかった。人間なんて力は弱いし寿命は短いし、向かい合って話をするなんてこと自体考えたこともなかったのに。
    「さーて行くか。そろそろ日が暮れちまう」
     言って水路沿いの道を再び歩き出す。俺も黙って後を追う。しばらく歩くと水路が左右に分岐していて、その片岸に沿うように高い城壁が街をぐるりと取り囲んでいた。
    「よっと」
     玄离は水路を一足で飛び越えると、対岸の壁に開いた隧道の中へと入っていく。俺も同じように水路を渡って、暗い隧道に足を踏み入れた。
     さっき湖から通ってきた隧道のように長いのかと思いきや、それは意外とすぐに突き当たった。奥には模様の入った壁があって、一見行き止まりのように見えるけれど、俺はそれが見た目通りのものではないことを知っていた。
     玄离の姿が壁の向こうに消える。やはり幽都の門と一緒だ。続いて壁を通り抜けると、風景が一瞬で殺風景な岩場に変わった。谷間に細い切り通しが伸びたそこはさっきまで居た街中よりも暗く、一足先に夜の気配が訪れていた。
     カア、カア、と烏が啼く。崖に縁取られた空の群青を見上げていたとき、「どうやらお迎えが来たみたいだぜ」と玄离が言った。
     切り通しに目を向けると、闇になった岩の陰からちょうど一人の男が出てくるところだった。
     あれは——
    「七刀!」
     思わず笑顔になって駆け出す。が、近くまで行ったらすぐさま脳天に鋭い一撃を食らった。
    「いって!」
    「莫迦ガキが。心配かけやがって」
     ぎろりと睨みつけられる。七刀は俺に落とした拳を下げると玄离に向かって、
    「ひとまず礼を言う。こいつが世話になったな」
     とぶっきらぼうに言った。玄离がひらりと手を振る。
    「礼には及ばねえよ。それにしても良くここに居るって分かったな」
    「明王が連れ込まれたんならあそこしかねえって言うもんでな」
    「なるほど」
     とどのつまり、明王には何もかもお見通しだった訳だ。七刀は俺を見下ろすと、
    「覚悟しろよ。こっぴどく怒られるからな」
     心底恐ろしい宣言をしてにやりと笑った。
     そんな七刀を玄离は面白そうな眼差しで上から下までじろじろと眺めている。
    「ひょっとしてお前、強いだろ。ちょっと俺と遊んでいかねえ?」
    「おっと、買ってくれんのは有り難てえが、今日は何もしないぜ。俺はこいつを五体満足で連れて帰るって約束させられてるんでな」
     好戦的な誘いをかわして俺の頭を小突く。
    「ポカポカ叩くなよ!」
    「うるせえ糞ガキ。手間かけさせやがって」
     俺たちがやいのやいのとやり合ってる横で、玄离が「えー」と口を尖らせている。
    「つまんねーの。でも今日は駄目ってことは、次は良いってことだよな?」
    「ああ」
    「ほんとか? よっしゃ! 絶対だぜ!」
     ひとしきり喜んでから改めて俺に向き直った。
    「んじゃ、俺の役目はここまでだ。元気でな。来たかったらまたいつでも遊びに来いよ」
     そう言ってまた頭を撫でようとしたから、べちんと手を払った。
    「もう来ねーよ!」
     本当に冗談じゃない。騒がしい街も、人間も、もうこりごりだ。
    「じゃあな」
     七刀が踵を返して来た道を戻る。それに着いて歩いて、少し離れたところで何となく後ろを振り返った。
     玄离は腕を組み、門柱に寄り掛かるようにして俺たちを見送っていた。今日一日ですっかり見慣れた楽しげな笑み。もう二度と来ない、とは思うけれど、何だろう、少しだけ胸がすうすうする。
     ——変な街だったな。
     あの変な神が作った街。従者も、住んでいる人間たちも、皆変わった奴らばっかりだった。
     ——だけど。
    「それにしてもお前、随分と可愛いもん被ってるじゃねーか」
     横に並んだ俺に七刀が言う。はっと頭に手をやると、かさりとしたものが指先に触れた。とっさに外して、両手で握る。
    「あ、いや、これは……っ」
     真っ赤になって思わず言葉に詰まると、からかいもせずに、
    「帰ったら姝玥に見せてやれ。花が好きだから、きっと喜ぶ」
     と普段の七刀らしからぬ穏やかな調子で言った。
     思わず拍子抜けする。絶対大笑いされると思っていたのに。
     安堵と、妙な気恥ずかしさに俯いた鼻先に、ふわりと微かな香りが届く。
     変な一日だった。けれど。
     胸元にある、少ししおれた花かんむり。
     ——これあげる、友達になった記念!
     無邪気な声が、不思議な温もりと共に蘇った。
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    ☺☺☺☺☺👏😭😭👏😭❤❤❤😭😭💯💯💘
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