『雨降って地は固まるが、先は荒海』縮地千里を通り抜け、辿り着いたのは人界の温泉街だった。
素朴だが、露店や商店が立ち並んでいる様は十分に賑わっており、行き交う人々の表情は明るい。
そしてその向こうに広がる青い海。
「わぁ、すごい!君がこんな良い場所を知っていて、しかも誘ってくれるなんて!どう言う風の吹き回しだい?明兄!」
喜色を浮かべて明儀の腕にじゃれつく師青玄に、明儀はすたすたと歩きながら素っ気なく言う。
「地師である私が土地を掌握しているのは当たり前だ」
「確かに、良い土地だ」
その少し後ろを歩く謝憐も微笑みながら周囲を観察し、そのまま無言で隣を歩く花城を見る。
花城はその意図を汲み、小さく頷いた。
「ええ、ここはアイツの…………黒水の縄張りです」
◆◇◆◇
手伝って欲しい事がある。
そう黒水………いや、地師儀が謝憐に持ちかけてきたのは、謝憐が任務の報告の為に久々に上天庭を訪れた時だった。
謝憐は快諾すべきか、少し迷った。
この上天庭で…………いや、三界を含めても、明儀が絶境鬼王『黒水沈舟』だと知っているのは、謝憐と三郎のみだろう。
ほんの僅かな違和感から気付いてしまった謝憐に、花城は苦い表情をしながら「なるべくアイツに関わらないで」と言った。
しかし、同時に、黒水が無駄な荒事を生まないよう動こうとしているのも理解していた。
鬼王の権力を振り翳せば、対処出来ない案件など無いだろうに。
こうして、自ら頭を下げて…………いや、下げては無いが、地師として自ら助力を請いに来ている。
いつものように、風師青玄と二人で赴かないと言う事は、武神の力を必要とする事態なのだろう。
結局、謝憐に断る事など出来なかった。
そして、いざ出立しようと地師殿へ赴くと、そこには小花の姿でにこにこ笑う花城と、女相の師青玄がいた。
「あー、やっと来た来た!明兄、明兄は口下手で人を旅行に誘うなんて出来ないんだから、私も行くって言ったのに!!それより、何でここに血雨探花がいるの?」
何でも何も、鬼市と地師殿は縮地千里で繋がっているからだ。明儀が………いや、黒水沈舟が上天庭と鬼界で立ち回る為に仕込んだものの一つだが、それを血雨探花が利用しない筈も無い。
「旅行に行くって聞いて。僕も連れて行って欲しいな、兄さん」
笑いながら、花城が謝憐に向けて言う。
「勿論、私は良いけど……」
謝憐は苦笑しながら、チラッと明儀を見た。
明儀には、師青玄がごく自然に肩に手を置き腕を掴んでまとわりついている。
明儀は到底“快諾する”とは言えない表情で誰にともなく呻いた。
「……………置いて行けるならそうしている……!」
明儀と謝憐が二人きりで任務に向かったと知れたら、師青玄の追求は免れない。
そもそも、そんな事を花城が許す筈も無い。
泣くに泣けず笑うに笑えず苦笑する謝憐に、師青玄が笑った。
「これはだぶるでぇとって奴だよね!?」
花城は満更でも無い様子だったが、明儀は白い肌に鳥肌を立てた。
「気持ちの悪い事を言うな!その女相を解かないと連れて行かないと言っただろう!?」
べシンと額を叩かれ、明儀の腕に抱きついていた師青玄は頬を膨らませる。
「旅行だからこそ、女相がいいんじゃない!だからやっぱり明兄も女相になるべきなんだよ」
「俺とお前が女相になったら、周りから誰と誰が恋仲に見えるか考えてみろ!!」
明儀が叫ぶ。明儀も叫べたのかと、謝憐はなんだか感心した。
師青玄は謝憐と花城を見て、女相の明儀と自分が並ぶ姿を想像した。
それはとても素敵な男女……………ではあるが。
師青玄と謝憐が恋人に間違えられたら花城の目が怖いし、花城と明兄が恋人同士に見られたら、花城が明兄を今度こそ八つ裂きにしかねない!
ぶるりと体を震わせ、師青玄は嘆息した。
「仕方ないなぁ」
指を鳴らすと、たちまち男相に戻る。
その隙に、明儀はさっさと地師殿の扉の前に立ち、瞬く間に縮地千里の陣を書き上げた。
黒水がわざわざ持ち掛けてきた案件とあり、警戒していた謝憐だったが。
扉を抜けた先に広がっていたのは、何とも平和な温泉街だった。
立ち並ぶ露天のあちこちで、湯気が立っている。
「明兄!美味しそうな饅頭じゃないか?こっちは桃饅だ!!おっ、これなんか、明兄が好きそうだな」
扇子を揺らし、師青玄がはしゃいだ声を上げる。
その後を付いて歩きながら、明儀は鼻を鳴らした。
「勝手にウロウロするな」
しかし、その行動を制止しようとはせず、師青玄の好きなように歩かせている。
師青玄は既に大きくてふかふかの肉饅頭を前に財嚢を取り出していた。
「太子殿下!君達も食べるだろ?」
「殿下の分は俺が払う」
謝憐が答える前に、花城が素っ気なく言った。
謝憐も、師青玄にたかるのは忍びなかったので、微笑んで頷く。
「そっか。もし欲しい物があったらいつでも言ってくれ!」
師青玄もアッサリと引き下がり、手を振ると肉饅頭二つ分の代金を露天の店主に払った。
「ほら、明兄」
蒸籠から取り出されたばかりの肉饅頭を差し出され、明儀は素直に手を伸ばす。
湯気が立ち昇るそれを頬張る明儀の横顔を見て、師青玄が嬉しそうに笑う。
「あ、その顔は気に入ったな?うんうん、醤が効いていて美味しいね。中に入ってるのは……この辺の香料かな?悪くない味だ。これは………」
チラリと、師青玄の目が近くの酒屋へと向けられる。
既に肉饅頭を平らげた明儀が呆れた声で言った。
「昼間から飲む気か?」
「酒はいつ飲んでも良い物だよ。それに、地酒はその土地でしか飲めない物だからね」
「酔い潰れても面倒は見ないからな」
言いながらも、明儀は止めようとはしない。つまり、良いという事だ。
師青玄は食べかけの肉饅頭を明儀の手に押し付け、嬉し気に酒屋へと足を早めた。
それを、明儀は当たり前のように食べ始める。
「………………その、地師殿」
二人の様子を見ていた謝憐が、そっと明儀に近寄り小声で話しかけた。
「…………もしかして、風師殿にはこれが任務だと明かしていないのですか?」
あまりに緊張感が無い……むしろ浮かれた師青玄の様子と、これをでぇと称していた事からおかしいと感じていた。ボソリと明儀が答える。
「そもそも、天庭の任務では無い。この案件は“私”の個人的な物だ」
明儀の言う“私”が“黒水”だと察し、謝憐の表情が固くなった。
「……………良いんですか?」
“黒水”の行動に、師青玄を付き合わせる事。危険であろう案件に、師青玄を関わらせる事。
意図を含んだ謝憐の問いに、明儀は片眉を上げた。
「アレはどの道、この案件では役に立たない」
だから、アイツは何も知らずに馬鹿みたいに楽しんでいれば良い。
明儀の頬が僅かに緩んだのを見て、謝憐は目を瞬いた。
「明兄!」
酒屋から、酒壺を下げた師青玄が満面の笑みで駆けて来る。
「大声で呼ぶな」
素っ気なく言い捨てながらも、明儀は師青玄に並ぶとごく自然に露店巡りを再開した。
「兄さん」
ぽかんとする謝憐の肩を、花城が優しく抱く。
「僕たちも楽しもうか」
「………………そうだな」
僕たち“も”楽しむ。
つまり、花城の目から見ても、明儀は楽しんでいるように見えているのか。
謝憐は眉間を揉みながら、予想を確信へと変えていた。
明儀は…………黒水は、ただ一緒に観光を楽しむ為に、師青玄をここへ連れて来たのでは?
◆◇◆◇
「ここだ」
明儀に導かれ辿り着いたのは、温泉街を抜けた先にある宿だった。
既に部屋はとってあるらしく、明儀は真っ直ぐに二階へと上がると一番奥の一室へと向かった。
「気を付けろ」
単調に注意を促すと、明儀は扉に手をかけた。
「え?何を?開けたら盥でも降って来るとか?」
目を丸くする師青玄には答えず、明儀は扉をゆっくりと開く。
もしもこれが凡人ならば、この瞬間に首を落とされるか、あるいは体を切り裂かれていただろう。
「……………………っっ!」
黒い疾風が襲いかかってきた。
しかし、謝憐は歴とした武神である。しかも、背後には鬼王が二人も控えているのだ。
唯一反応し切れなかった師青玄は、ちゃっかり明儀が背後に庇っている。
謝憐は目を見開きながらも、その“黒い疾風”の首根っこを易々と捕まえた。
「ん?これは………」
「離せ!殺してやる!殺してやる!俺をここから出せ!殺してやる!ころしてやる!!」
「…………子ども?」
謝憐はジタバタと暴れるソレを目の高さまで掴み上げた。
憎しみに満ちた声で叫び続けるそれは、年端もいかない男児だった。ツギハギだらけの薄汚い衣。黒い髪はボサボサで、謝憐を睨む目付きはまるで野犬のようだ。
その手には磨かれていない、くすんだ小刀を握っている。
男児は暴れながら、謝憐を殺そうと何十回も斬り掛かっていたが、謝憐はその全てを軽々と避けて見せた。
「何だそのクソガキは」
怒りに満ちた声を上げたのは、側で腕を組んでいる花城だった。
謝憐に危害を加えようとする子どもなど生かしておけないと、目が殺気じみる。
しかし、当の謝憐は平然としたもので、三郎に向けて苦笑した。
「こら、三郎。子どもを怖がらせたら駄目だ。…………君も、少し落ち着こう。ほら、怖く無い」
微笑み、到底殺されかけたとは思えない、とびきり優しい声で謝憐は子どもに語りかけると、次の瞬間子どもを抱き締めた。
「大丈夫だろう?」
いや、違う。『拘束』だ。
明儀は思わず関心した。謝憐は抱き締めると見せかけて、その腕で男児のあらゆる動きを封じていた。
鋼の枷のようにビクリともしない腕に、男児はギョッとする。
尚も暴れ、噛みつこうとした男児の頭を、謝憐がそっと撫でた。
「落ち着くんだ。誰も君を害したりはしない」
男児は呆気にとられ、目を見開いて謝憐を凝視する。暴れるのを止めたのに気付き、謝憐が微笑む。
「ほらな、良い子だ」
玄真将軍が『太子殿下は人たらしだ』と言っていた意味が、明儀にも今こそ理解出来た。
しかも、“誰も君を害さない”と太子殿下が口にした事で、花城にもこのクソガキを害する事が出来なくなったのだ。
当の花城は、憎々しげに男児を睨んでいた。いつも冷笑を浮かべてこちらを最大限煽ってくる花城の不服そうな様子に、明儀は少しばかり愉快になる。勿論、表面上は無表情を貫きながらだが。
明儀の袖を、師青玄が引っ張った。
「み、明兄………。あ、あの子どもは一体なんなの?浮浪児か何か?」
「そうですね、この子は……………いえ」
謝憐も男児を撫でながら同調し、ふと表情を引き締めた。
「『此れ』は、何なんですか?」
人では無く物を指す言い回し。
師青玄が「え?」と小さく声をあげる。
ほぼ完全に近い形で妖気を封じ、表面上はただの人間の子どもと大差ない気配の筈なのに。
流石は太子殿下だ。明儀は再度関心しながら、口を開いた。
「ああ、そいつは確かに人間じゃない。短刀が怨念から意識を持った……妖刀だ」
◆◇◆◇
とある夜、一つの村が壊滅した。
その事に神官が誰も気付かず、黒水だけが気付いたのは、至って単純な理由だ。
山奥の集落にひっそりと存在した村には、廟は愚か祠の一つすら無かったのだ。
真っ赤に染め上げられた川の水が黒水の領域である海をも侵蝕した時、そこにはもはや無視など出来ない程のただならぬ瘴気と怨念、息の詰まるような血臭が渦巻いていた。
黒水が村に踏み入ると、既に人も犬も猫も鶏も、生命だったもの全てが肉塊へと変わっていた。
ただ一人の生存者もいない村で、死体を執拗に切り刻んでいる子どもがいた。
もしもそれが本物の人間だったならば、今頃『凶』の鬼になっていただろう。
其れは、膨大な怨念を吸った小刀の化身だった。
鬼王である黒水にとって、生まれたばかりの怨念の化身など、片手で捻り潰せる存在だ。
しかし、黒水はそうはしなかった。
放置するには危険過ぎる其れの妖気を封じ、黒水は自身の領域にある宿の一室に陣を張って閉じ込めた。
◆◇◆◇
明儀の説明を聞いて、謝憐と師青玄は痛ましげな表情を浮かべた。
自身が黒水だと暴露するわけにはいかないので、村に『地師殿』が存在した為に自分が気付いたと誤魔化したが、師青玄は疑問にも思わなかったようだ。
山奥にある集落が、土砂崩れを恐れて地師を祀るのはごく自然な事だ。
謝憐は明儀が気付いた本当の理由を察したようだが、何も言わなかった。
花城は、明儀の話よりも謝憐の膝に座ったままの妖怪変化の方が余程気になるらしい。少年の皮の両の目で、ずっと不機嫌に男児を睨んでいる。
「成る程、よく分かった」
謝憐が厳かに口を開いた。
「天庭に報告すれば、村を浄化し、邪物と化したこの子は魂の欠片も残さずに消されてしまうだろう。だから地師殿は、秘密裏にこの子を救う為に私を頼ったと言う事か」
「………………まぁ、そんな所だ」
別に救いたいとまでは思っていなかったが、くびり殺すのを止めて匿っていた時点で似たようなものだ。
明儀は頷いた。気になるのは、太子殿下がずっと子どもを抱いたままだと言う事だ。
手を離した瞬間に他の人に襲いかかる恐れがあるからかも知れないが、この場にいるのは武神と鬼王である。
戦闘面では劣る師青玄の存在を加味しても、妖刀の化身が暴れた所で誰を害すると言うのだ。
しかも、太子殿下の表情と手付きはやけに優しく、まるで本物の子どもに接しているかのようだ。
その抱かれている“子ども”は、撫でられながらも謝憐の隙を虎視眈々と狙っている。
花城の機嫌も悪くなろう。
「生憎、私は浄化も討伐も得意では無い。此れの対処について、太子殿下は何か案があるだろうか?」
明儀が問うと、謝憐は難しい表情で少し黙り込んだ。
「……………今、自覚したんたが」
「自覚?」
会話の流れにそぐわない言葉に、明儀は眉を上げる。
謝憐は子どもを抱き締めながら真剣に言った。
「私は、10才くらいの、黒髪で、口の悪い、殺気を放つくらい威勢の良い子どもを見ると、きゅんとしてしまうようだ」
「……………」
明儀は思わず黙り込んだ。悪趣味過ぎる上に、何だその偏った嗜好は。
明儀は子どもが好きでも嫌いでも無いが、強いて言うならば、溌剌として無邪気で、人懐こい方が良いに決まって………
「明兄、じっと見られても、私にもこれはどうしたら良いか分からないよ」師青玄に困惑した顔で見られ、明儀は師青玄をじっと見ていた事に気付いた。
「………別に、お前なんか最初から当てにはしていない」
「ひどいなぁ、これまで数々の任務を一緒に解決したじゃないか!」
憤慨する師青玄から涼しい表情で顔を背けながら、明儀は内心唸っていた。
太子殿下が此れを「殺さない」と言うのは想定していたが、こんなに可愛がるのは想定外だ。「私が保護する」などと言いだしたら、黒水は花城からツケを払わせられるだろう。
明儀は如何にも神官らしい、真面目で硬い声色で言った。
「太子殿下。分かっていると思うが、其れは子どもの容姿をしているが、実体は血と怨念に濡れた妖刀だ。血雨探花の湾刀厄命のように」
明儀としては、其れがいかに穢れ狂悪な代物かを説いたつもりだった。
今だって、その腕の中でお前を殺そうと狙っているんだぞ?
しかし、謝憐は一層甘い笑みを浮かべた。
「厄命…そうだな、厄命もとても可愛らしく素晴らしい刀だ」
きゅるるるるるると何処からともなく甲高い音がした。同時に、少年姿の花城が自身の腰の辺りを手酷く叩く。
「駄目だ」
何かを諫める声に、一瞬遅れて明儀は察した。
もしや、今のは湾刀厄命の声か?喜び飛びつこうとしたのを、花城に止められた??
明儀にとって、湾刀厄命など不快な音を立ててこちらを威嚇し、問答無用で斬りかかってくるこの世で最も禍々しく厄介な刀だ。こんなくすぐられるような澄んだ音を立て甘える姿など、勿論知らない。
花城の剣呑な視線が、明儀にグサグサと刺さる。
これ以上殿下の庇護欲を刺激するなと言いたいのだろう。
それは分かるが、そもそも明儀は太子殿下の庇護欲など刺激するつもりは無かった。
この凶暴性と怨念の塊の邪物を、子犬のように可愛がる神官がいるなど誰が思うか。
明儀は気を取り直そうと咳払いをした。
「……………ともかく、だ。ここらは観光地で、悪霊を鎮めるのに適した山は無い。かと言って、無理矢理消滅させるにはこの怨念は強過ぎて……」
「消滅させるなんて駄目だ!」
謝憐が子どもを抱き締めて叫んだ。
武神の力が“思わず”強く抱き締めても何とも無いのが非常に厄介な怨霊である証明であり、神官ならばこの世に残しておけぬと言う筈の存在であるのだが。
この謝憐の声には、妖刀すらもぽかんとした。
花城が、太子殿下に向けるには珍しい『嫌な予感』を表情に滲ませる。
謝憐は……かの絶境鬼王血雨探花の想い人は、宣言した。
「この子は、私が浄化する!」
ぎゅう、と一層強く悪童の姿をした妖刀を抱き締める謝憐。仇を見るような目でこちらを睨む花城。
師青玄は扇子を広げて関心した顔をしている。
「流石は太子殿下。この風師青玄すら唸らせるお人好しだ」
明儀は渋面でこめかみを押さえた。花城が特別視をしている太子殿下の情報は、明儀もなるべく頭に入れるようにしてきた。
その範囲では、仙楽太子と言う神官はあらゆる強大な妖魔鬼怪に対峙してきた優れた武神ではあるが、剣と体技で討伐する事を得意としていたように思えたが。
「…………太子殿下には何か浄化の心得が?」
明儀が問うと、太子殿下は気楽に微笑んで首を傾げた。
「まぁ何とかなるだろう」
どうしてくれるんだ、と花城の目が明儀を責めていた。
◆◇◆◇
謝憐の指先が、優しく刃を撫でる。白く柔らかい布で丁寧に刀身を撫でれば、血と泥で汚れていた刃は本来の煌めきを取り戻していく。
その隣に座る妖刀の小僧は、綺麗になっていく小刀を熱心に見つめている。心なしか、さっきまで殺気に満ちていた目も輝き始めたようだ。
その傍らには、白銀の湾刀が寄り添っていた。刀身に付いた赤い目が潤んで震えているように見える。
時折、訴えるようにキュルルルル……とか細く鳴く湾刀を、謝憐が指の腹で優しく撫でた。
「厄命、次は君を磨いてあげるから」
リィィィィン、と涼やかな音が鳴る。刀身を揺らして小躍りする湾刀に、明儀はこの呪われた絶境鬼王の湾刀がこんなに綺麗な音を出せたのかと思った。
その様子を、やはり殿下の側に立って花城が見ている。
不機嫌を隠しもしない赤の鬼王に、怯えた表情の師青玄が明儀の服の袖をぎゅっと掴む。
小声で「み、明兄、もしももしも花城がなな何かしそうになったら、私達で制止しよう」と囁かれ、明儀は眉根を寄せた。
お前が縋り付いてるのも鬼王(黒)だぞ、と言ってやりたくなる。
しかし、普段ならば「その廃物なんて磨く必要はありません」位は言うだろうに、厄命の出過ぎた真似に対して何も言わない辺りが確かに薄気味悪い。
出来ればあの身の程知らずの妖刀のガキをすぐ様太子殿下から引き剥がした方が良いのだろうが、太子殿下があまりに楽しそうに妖刀を磨いているから、明儀には手も口も出せない。
花城も、太子殿下があんなに楽しんでいる以上、邪魔をする事は出来ない。
そうでなければ、あの妖刀は今頃銅炉山の火口に棄てられていた。
村の命全てを切り裂いた小刀は、血と脂と泥で見る影も無く汚れていた。
それでは可哀想だと、殿下は嬉々として磨き始めた。
実際効果はあったようで、小刀が本来の姿を取り戻すにつれて、小刀が纏う穢れも薄れていた。
何より、小刀の化身である小僧の殺気が成りを潜め、襲い掛かろうとする素振りを見せなくなった。
流石、絶境鬼王をも手懐けた武神である。普通の神官ならば、あんな穢れ切った刀を磨くなんて発想すら出ない。溶かして法器を錬成する材料にしている。
そして、この空気を物ともしない豪胆な奴がもう一人。
最初は殿下が刀を磨く様子を興味深そうに眺めていた師青玄が明儀の側に寄ると顔を覗き込んできた。
「明兄、そんな難しい顔をしてどうしたんだ?さてはもうお腹が空いたんだな?仕方が無いなぁ、そこの露天で胡麻団子と包子でも食べようよ!」
異質な空気を吹き飛ばし、明儀の頬を突ついて笑う師青玄に、明儀は肩の力が抜けるのを感じた。
今回ばかりは連れて来て良かった。妖刀の処理の役には立たないが、コイツが居なかったら明儀はストレスで血を吐いていたかも知れない。
少なくとも、花城に今腹いせにタコ殴りにされていないのは、師青玄の手前、一応、ギリギリ、なけなしの配慮をしているからだろう。
「お前は、酒を追加で買いたいだけだろう」
嘆息すると、師青玄はにまりとした。
「まぁまぁ、硬い事言わないでくれよ。ここの酒はとても美味しいんだ。飲まないと勿体無いだろう」
あははと景気良く笑う師青玄に連れられ、明儀はまた食べ歩きへと出かけるのだった。
◆◇◆◇
それから二刻程。
宿に戻った瞬間、明儀はあのまま師青玄と二人で上天庭へ戻らなかった事を後悔した。
「兄さん、次はボクを抱っこしてよ」
さっきまで居なかったガキが謝憐に甘えている。
妖刀の小僧よりも更に幼い見た目のガキは、赤い衣を纏っていた。
「えー、仕方ないなぁ」
謝憐が蕩けた声で笑い、両手を広げる。
赤いガキがその両手の中に飛び込むと、謝憐は愛おしげに抱きしめた。
側で、妖刀の小僧が赤いガキを憎らしげに睨んでいる。
手に持った小刀はすっかり綺麗になっており、小僧の容姿も野犬から野良犬くらいにはマシになっていた。
その周囲を、銀の湾刀がぴょこぴょこ跳ねて「自分も抱っこして」とばかりにアピールしている。
“おぞましい”の権化とも呼べる存在に囲まれ、謝憐はひどく満悦な様子だ。
「よしよし、今日の三郎は甘えん坊だなぁ」
「なぁ、明兄………」
「言うな。何も聞きたく無いし、認識もしたくない」
目を白黒させながら、何かを確認しようと口を開いたら師青玄を反射的に黙らせる。
幼子の姿で頭を撫でられて喜ぶ鬼王など、俺は知らない。知りたくも無い。
謝憐は柔らかな黒髪をゆったりと撫でながら言う。
「なぁ、あの刀の子なんだが、鬼市で暮らせないかな」
確かに、怨念が薄れた今、あの妖刀ももう無差別に人や鬼を殺そうとはしないだろう。陣に閉じ込める必要も、消滅させる必要も無い。
最愛の太子殿下からのおねだりに、花城は丸い頬を膨らませた。
「兄さんが言うなら、そうしても良いけど……」
よく言う、本心では温泉に沈めてしまいたい癖に。花城がしてやられる姿に密かに悦を感じていたら、その常より大きな目がふと明儀を捉えた。
子どもらしく煌めいていた目が、謝憐から逸らされた瞬間、冷たく細められる。
「確か黒水が、丁度あんなのを用心棒に欲しいって言ってた気がするんだよね。ほら、黒水鬼域って主がいないから、青鬼みたいな廃物にすぐ侵入されるんだ」
謝憐が瞬きをして、反射的に明儀を見る。
しかし、すぐに逸らしたのは、師青玄にその意味を気取られないようにする為だ。花城へと向けられた目には、疑念と苦笑が浮かんでいた。
「そう……なのか?」
仮にも絶境鬼王が、数多の分身を操る黒水玄鬼が、こんな妖刀の化身を用心棒にするとでも?
そもそも、青鬼のような馬鹿の侵入を許す程、黒水鬼域は温い海では無い。
しかし、今この場でそれを口にする事は出来ない。
“地師”である明儀は、素知らぬ顔で舌打ちをした。
「この件が決着するのなら、何でも良い」
つまり、黒水が自身の領域で引き取っても良いから、殿下がこの妖刀の小僧にめろめろになってしまった件について俺に八つ当たりも貸しにもするな、と言う意味である。
浄化され、無差別殺人鬼のような有様から少しはマシになったのなら、小間使い程度にはなるだろう。
幼子の姿をした花城は、ちっとも幼くも可愛くも無い笑みを浮かべた。
「じゃあ、コレはボクが黒水鬼域に投げ込んどくよ」
「三郎、優しくするんだ。………そのうち、鬼市にも遊びに来てくれ。黒水の言う事をよく聞くんだぞ」
謝憐は三郎を抱き締めて嗜め、隣に座る妖刀の小僧の頭に手を乗せた。
妖刀の小僧はよく分かっていないようで、首を傾げている。
その様子を見て、師青玄は酒を傾けながら満足げに頷いていた。
「へぇ、黒水は子どもを引き取るような良い鬼なのか。意外だなぁ。でも、ともかくこれで明兄の肩の荷は降りたな!いやぁ良かった良かった!これこそ“雨降って地固まる”だな!」
「………………そうだな」
確かに“地師”明儀としては、血雨探花と言う雨によって、地師の任務は決着した。
しかし…………その雨の流れた先が黒水鬼域と言う海では、固まる事などない。
頭痛を感じこめかみを揉んでいると、目の前に肉饅頭が差し出された。後で明儀の腹が空くだろうと察した師青玄が、さっき買っていた物だった。
明儀は無言で受け取ると、大口で齧り付いた。
肉汁と強い塩気が何とも美味い。
師青玄は妖刀に関しては本当に何の役には立たなかったが、連れて来て良かったなと思った。
そして、幽冥水府に生意気な小間使いが増えた。
後に、会いたいと言い出した太子殿下の為に花城から鬼市へと連れて来いと命令され、また新たな面倒事が勃発するのだが。
本当に、鬼が小鬼につまらぬ温情などかける物では無い。