本物の馬鹿「こ………の、馬鹿野郎!!」
ガッッッと、鈍い音がした。
振り抜いた手が骨まで痺れる。
平手では無く、拳で殴ってしまったと頭の片隅を掠めるが、すぐに熱い感情に呑まれ考えられ無くなる。
伊作は殴られた格好のまま、視線を下に落としている。
反撃はおろか、反論すらしないのは、自分が悪いと分かっているからだ。
それでも、硬い表情が揺るぎもしないのは、何度怒鳴られようが殴られようが、改める気は無いと言う無言の意思表示だ。
頬が痛々しく腫れていくが、触れる素振りすら見せない。
他の誰かなら………例えば殴られたのが仙蔵だったなら、即座に甲斐甲斐しく手当てをするクセに。
それがまた、仙蔵の荒ぶる感情に拍車をかけた。
「この…………っ」
「やり過ぎだ。お前の体にも障る」
拳を戦慄かせる仙蔵の肩を文次郎が掴んだ。
いつもの喧しさが嘘のような、落ち着いた口調だ。
触発されるように、脇腹の傷が鋭く痛んだ。傷から、熱が出ているんだろう。やけに体が熱い。
文次郎は仙蔵の目を見つめると、静かに首を振った。
文次郎の目に、仙蔵の顔が映り込んでいるのが見えてしまった。
今にも泣きそうな、酷い表情だ。
いつもなら、ここで大人しく引き下がっていただろう。でも、この瞬間は荒れ狂う感情を自分で抑制する事など出来なかった。
「お、お前は………」
仙蔵は文次郎に抑えられながらも、伊作に向かって怒鳴り散らした。
「お前は馬鹿だ!!本物の大馬鹿野郎だ!!!」
つい数刻前まで、仙蔵と伊作は実習の名を冠した忍務に出ていた。
警戒を抱かせない容姿を生かしてとある城に潜入し、城主に取り入ると言う物で、いつもの不運を発動しつつも概ね順調に進んでいた。
その途中、同じく城に忍び込んでいた怪しい人影に気付かなければ。
この忍務自体、城主が命を狙われているらしいと言う噂の真偽の確認と、城主の護衛を兼ねていた。
曲者が、敵国の忍びだと言うのはすぐに分かった。
しかし、相手はプロ………しかも荒事を得手とする忍軍である。
仙蔵と伊作の追跡は露呈し、気付けば四方を取り囲まれていた。
伊作も仙蔵も接近戦は得意では無い。
戦いながら逃走する隙を伺っていたが、中々離脱出来ずにいた。
それでも、仙蔵の焙烙火矢と伊作が扇子に仕込んでいた痺れ薬により、半数もの相手を戦闘不能にする事が出来たのだ。
悔やまれる事に、先に隙を作ってしまったのは仙蔵だった。
手裏剣を投げる僅かな予備動作を突かれ、相手の放った苦無が脇腹を掠めた。
「くっ…………」
手から手裏剣が落ち、体勢が崩れる。
敵の殺気を肌で感じる。振りかぶられた苦無の先が、仙蔵に向い振り下ろされるのがやけにゆっくりと見えた。
キィィィンッ
金属がぶつかり合う音と共に、仙蔵の目の前に深緑の忍び装束が躍り出た。
伊作だ。
こう言う時の反射神経は、六年生の誰よりも秀でているのだ。
苦無で苦無を受け止め、もう片方の手で苦無を持つ手を打ちすえる。相手の手からあっさりと苦無が落ちた。
打つ強さでは無く、場所なのだと伊作は常々笑って言う。
相手から握力を奪う箇所さえ打てば、力では劣っていても武器を取り落とさせる事が出来るのだと。
事実、そうやって伊作は小平太を相手に接戦を制した事もある。
だが苦無を受け止めた衝撃で手が痺れたのか、伊作の手からも苦無が落ちる。
伊作の目が、刹那膝をついた仙蔵の脇腹を捉えた。
忍び装束にはじわじわと血が広がっている。
しかし、その程度の傷で仙蔵がいつまでも敵を前に体勢を立て直さない筈が無い。
すぐに動けなかった理由を、伊作はすぐに見抜いていた。
忌々しい事に、仙蔵の脇腹を掠めた苦無にはどうやら痺れ薬が仕込まれていたらしい。
相手の忍びは、痺れの残る手を振ると、伊作に掴み掛かった。
真っ向からの力勝負では、伊作も仙蔵も勝ち目は無い。
最初の数発は辛うじて躱したが、それを上回る速さで手刀が迫った。
伊作の喉を狙っていた。
伊作が腕でガードしたとしても、腕ごとへし折るだろう重い一撃だった。
(……………………え?)
仙蔵は不意に寒気を覚えた。
伊作が苦無を…………いや、腕を下ろしたのだ。
無防備に喉を晒した伊作に、仙蔵は戦闘中だと言う事も忘れて唖然とする。
伊作の喉に相手の手刀が叩き込まれると思った、瞬間。
「っ、の、おりゃゃゃあ!!!」
聞き慣れた気合いの声と同時に、飛び出した影が忍びを弾き飛ばした。
ビュン、と風を切る音がする。
同じく深緑の忍び装束。体格の良い体が槍に仕立てられた袋槍を振り回す。
文次郎は、こちらを振り向きもせずに言った。
「おい!」
たったそれだけの言葉で、仙蔵の体の呪縛が解けた。
ほとんど条件反射で、懐から焙烙火矢を取り出す。素早く導火線を切り、うんと短くしたソレに火を点けると放り投げた。
激しい光と音と衝撃が、辺り一体を埋め尽くした。
その場に文次郎が現れた理由は単純で、落ち合う予定の場所に現れなかった仙蔵と伊作に何らかの事態が起きたのだと察したのだ。
焙烙火矢の爆発音と、所々に落ちていた痺れ薬でピクピクするばかりの忍びから、場所の特定は簡単だったと言う。
逃げ込んだ林で、追手の気配がないことを確かめると、文次郎は抱えていた仙蔵を下ろした。
仙蔵は真っ先に伊作を上から下まで見る。
小さな怪我はあるが、致命的な傷は負っていない。
あの手勢に囲まれて戦ったにしては、奇跡的なまでの軽傷だった。
が、力の抜けそうな安堵感の直後、仙蔵の全身を強い怒りが満たした。
ずっと戦い、ここまで走ってきた伊作は軽く息を切らせていたが、すぐに呼吸を整えると自身の頭巾を解きながら仙蔵を見た。
「仙蔵、その脇腹を診せ…………」
「伊作、お前。何故防御を解いた?」
我ながら冷たく硬い声が出た。
ピク、と伊作の手が跳ねる。
「何のこと?」
「手刀を前に、わざと手を下ろしたな?」
詰問する口調に、側で聞いていた文次郎の顔も強張る。
「……伊作?」
文次郎の訝しげな視線と仙蔵の鋭く睨む視線を受け、伊作は少し黙っていたが、諦めたように嘆息した。
「…………………まぁ、分かっちゃうよね」
苦笑するような口調だった。
仙蔵はその胸倉を掴み上げる。
「あの時!文次郎が来なければ、あのまま喉を潰されていたんだぞ!?何故腕で庇わなかった!?」
叫びながら、仙蔵の頭にはその答えが浮かんでいた。
伊作は胸倉を掴まれても抵抗もせず、渋るように口を引き結んでいたが、不意に真顔で仙蔵を見返した。
「…………喉より腕の方が大事だったからだよ」
恐ろしい程に静かな声だった。
仙蔵の震える腕に、伊作が手を添える。
「仙蔵、文句なら後で聞くから。まずは手当をさせるんだ。興奮したら……力を入れたら、血が止まらなくなる」
仙蔵の脇腹からは、今も血が滲み出ていた。血が止まりにくくなる薬でも混ざっていたのだろうか。
しかし、今の仙蔵には伊作の言葉は逆効果だった。
いや、先の返事があまりに予想通りで、痛みよりも怒りの方が勝っていた。
「首より腕の方が大事だと?貴様それでも保健委員長か?」
「保健委員長だからだよ」
あの瞬間、相手は素手だった。首を斬られる危険は無く、だが腕で受け止めれば、暫くは腕が使い物にならなくなっていただろう。
仙蔵が、傷を負っていた。
傷が浅くは無いことも、苦無に何か仕込まれていた事も察していた。
一刻も早く、手当をしなければならなかった。
「喋れなくても治療は出来る。僕にとって、喉を潰されるよりもこの手を損なう方が怖かった」
伊作が本心からそう言っているのだと、仙蔵には嫌と言う程理解出来た。
握りしめた拳が戦慄いた。
「こ………の、馬鹿野郎!!」
仙蔵は気付けば、伊作の頬を殴り飛ばしていた。
他人の治療の為に自分の体を損なうなど、馬鹿でしか無い。
伊作は泣きそうに顔を歪める仙蔵を見つめ、黙り込んだ。
文次郎に掴まれていなければ、仙蔵は尚も伊作に掴み掛かっていただろう。
文次郎の手を振り払えないくらい、事実体に力が入らないのが忌々しかった。
悔しい事に、伊作の判断は確かに“妥当”だったのだ。
仙蔵の体は痺れ薬が回って動きづらく、脇腹の血は止血が必要だった。
それに、仮に文次郎が来なかった場合、伊作の腕が使い物にならなくなっていたら、自分達にもう抵抗する術は無かった。
あの場で伊作も仙蔵も殺されていたかも知れない。
だが、だからと言って、咄嗟に首を許してしまえるコイツの馬鹿さ加減を許せるはずも無い。
伊作は仙蔵が自分の治療を受ける気が無い事を察すると、文次郎を見てぎこちなく笑った。
「…………文次郎、仙蔵の止血を頼む。あと、これ。血止めの薬。それと…………さっきはありがとう。助かったよ」
「…………ああ」
頭巾と薬を受け取り、文次郎は複雑な表情を浮かべた。厳しい眉を更に顰め、文次郎は伊作に向けて口を開く。
「……お前の判断が間違っていたかは分からない、が………俺も、少しは怒ってるからな。伊作」
あの局面で、大切な友人が敵にむざむざ首を晒す愚行を目の当たりにしたのだ。
生きた心地がしなかったのは文次郎とて同じだ。
伊作は困ったように、ただ微笑んでいた。
「すまない」
何度でも同じ事をするのだろう。
伊作は本物の馬鹿だと、文次郎も思い知る。しかし、それを諌める言葉を文次郎も仙蔵も、持ってはいないのだった。