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    白い桃

    @mochi2828

    @mochi2828

    白桃です。
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    白い桃

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    ムリ博、ミュルジスとフリストンを添えて
    pixivとプライベッターに上げた物です

    その味は想い出となって「ねぇフリストン」
    「ん? 何だろうか、“ドクター”」

     すぐ側に在る機械から呼ばれた自身の名が、どうにも聞き慣れなくて。自ら呼びかけたにも関わらず、ドクターはフェイスシールドの中でほんの少しだけ顔を顰めた。
     
    「……君にそう呼ばれるのは、何だか変な感じがする」
    「しかし、今の君の呼称はコレなのだろう? 僕はロドスのルールに従っているだけだ」
    「まぁ私がコレしか知らないだけなんだけどね。…そんな事より、君に聞きたい事があったんだよ。ええと、メモはどこにやったかな……」

     ゴソゴソと、防護服のポケットやデスクの上を漁っているかつての知己を、見上げる顔も動かす首も持たないフリストンはもはや自分の眼とも言えるレンズから、見る事の出来る範囲で動きを止めてジッとその姿を見つめていた。数分もしない内に目の前の存在から、「あったあった」と安心したような声が聞こえてきて、フリストンは首を傾げる。動かす首は無いので、疑問に思う気持ちだけだが。

    「ゴホン。君に質問しても?」
    「構わない。僕が答えられる範囲なら」
    「じゃあ早速。……君が以前過ごしていた頃の記憶の中に、こちらで言う家庭料理、の括りに入るような物は覚えているだろうか? 若しくは、故郷の料理──人気だった食べ物だとか、君が好きだった物とか。そんな感じの何かを、君は知っている?」
     
     ドクターがフリストンに対してこんな質問をするのには勿論理由がある。
     過去の記憶を持たないドクターにとって、自分を繋ぐ縁は“現在”のロドスのみ。それに文句も間違いも無いけれど、記憶があったかつての自分がどのように過ごし、どんな家族が居て、どんな日々を送っていたのか。ソレをドクターが知る術は無い──ただ二つの存在を除いて。

     その存在の内の一人であるケルシーは、きっとかつての自分の事を教えてはくれないだろう。この考えは最早確信に近いとドクターは思っている。ならもう、こんな質問をする相手はたった一人に絞られてしまうのだ。
     
     ──フリストン。石棺が並ぶ、異様な空間だったあの場所で出会った彼とはまた違う
     
     故郷と呼べる地の事を。それぞれの家庭で肉親から伝えられるような当たり前の事を。何か少しでも覚えているのならば、是非彼の口から教えて欲しかった。
     
     ドクターは、料理という物を知るのが好きだ。食べるのも、作ってみるのも。
     どんな物を食べて育ち、自分の家ではこのような味付けをしていた、と違いを見せてくれる家庭料理と呼ばれる物。その土地で採れた物を使って、土地の環境で違う調理法などが見られる郷土料理などと呼ばれる物。そのどちらも、ドクターが持ち得ない物だから。失った物を代わりの品で埋めるように、無意識にでも追い求めていたのだろうか。そうだったとしても、現在の自分が料理が好きなのに変わりは無いけれど。

     それでも、フリストンが居るのなら。私が知り得ない何かを教えて貰う事が出来るかもしれない。
     彼がロドスに来た時、一縷の希望のような、そんな感情を抱いたのをドクターは覚えている。自身についての情報を直接知る事は出来なくとも、故郷や家族に付随する物なら教えて貰えるのかもしれないと、そんな希望を。
     ずっと抱いていた問いを、あの時に比べればうんと小さくなってしまった姿にぶつければ、ドクターが思考する暇も無く答えが返ってくる。しかし、フリストンがくれた返答は、待ち望んていた答えでは無い物だった。

    「ふむ。申し訳無いが、家庭料理、という括りでは今の僕では判断出来ない。例えば“フリストン”が見た料理の記憶はあれど、味覚などは遥か昔に失われているしね。レシピ、なんてのも人であった僕が意識していたかどうか…。そして、君の言う故郷の料理に該当する物は、確かに多少記録には残っている。だが、再現できる物は無さそうだ。素材などの代用品が、この大地では賄えない」
    「そうか」
    「……君が抱いている想いは…。郷愁、だろうか。すまないドクター、君の期待には応えられなかったようだ」
    「良いんだ、駄目元だったし。これが郷愁なのかな、良く解らないけど。…ただ故郷の味を、自分の家族が作った味を知っているのは、少し羨ましいと思ってしまって」

     どうしようも無いんだけどね。
     フェイスシールドで隠されている以上、フリストンにはドクターがどんな表情をしているかなど知るべくも無いのだが。声色は確かに笑っているのに、何故だかドクターが泣いているような気がして、フリストンは己が何を発言すべきかの演算を終えて一つの提案をドクターに申し出た。

    「今現在の君の家族は、アーミヤ女史やケルシーを含めたロドスのオペレーター達なんだろう? いや、ケルシーはまた違うのか…?」
    「ケルシーは…。ううん、何と言えば良いのか……」
    「まぁ彼女の事はさて置き。君は君の家族と、好きな味や自分だけの味のような物を作っていけば良いのではないかな。君がこの地で生きる事を決めたなら」
    「好きな、味……」

     ドクターは立ったままその場で考え込む。
     自分で作り上げて行く、と言うのは簡単だがそれを実行に移すのは、きっととても難しい事だと思った。ンン、と軽く唸りながらも思考を回しているドクターの脳裏に、ふと一人の存在が浮かび上がって悩んでいた所為で軽く俯いていた頭を上げる。

     ──彼女はもう、自分で何かを作り上げているのだろうか。

     思い浮かべてしまった存在をそのままにしておく事は出来なくて、ドクターはフリストンに背を向けてからゆっくりと歩き出す。そんなドクターの様子をずっと眺めていたフリストンは、ドクターが次に執る行動を解っていたが。これも様式美だな、と行く先を尋ねてみる事にした。

    「何処へ?」
    「……もう一人、意見を聞きたい人が浮かんだんだ。私に良く似た友人にも話してみるよ」
    「そうか。良い旅を、ドクター」
    「そんな大層なもんじゃないよ。……ありがとう、フリストン」

     優しい機械ヒトに見送られながら、部屋を後にする。
     フリストンはドクターの姿が見えなくなるまで。まるで我が子の旅路の行く先を案ずるかのように、ずっとその背中を見つめていた。


    ⬛︎


     話をしに来たは良いものの、彼女──ミュルジスと話す時間はあるのだろうか?
     ドクターはミュルジスの部屋の前で立ち尽くしていた。分身か本体か、どちらかは居るかもしれないが彼女が忙しいのであれば、と扉前まで来て思い至ったのである。
     うろ、と視線を彷徨わせノックしようとした腕を上げては降ろす。挙動不審な動きを何度も繰り返しているドクターの後ろに、ゆらりと影が近づいて──。

    「わっ!!」
    「うわぁ??!?」

     常なら可憐に聞こえる声を張り上げた。ドクターは肩をビクッと跳ね上げてから、急いで振り返り声の主を確認する。予想通りの反応だったのだろう、ミュルジスは愉快そうにアハアハ笑っていた。心臓に悪いから勘弁して欲しい。ハァと息を吐いてから、改めて笑い続けている彼女に向き直る。ウ゛ゥン、喉の調子をしっかり整えて、ドクターは口を開いた。

    「ミュルジス。…いつから見ていたんだ?」
    「貴方が私の部屋の前で、ぐるぐる歩き回っていた所くらいから?」
    「結構前じゃないか! 声かけてよ、もう…」
    「ごめんなさい、くるくるしてる貴方が可愛かったんだもの。ほら、私に用事があるんでしょ? 入って入って!」

     グイグイと遠慮無く押される背中に力を入れて「わ、解ったから!」と何とか体勢を整えつつ、ミュルジスの私室へお邪魔する。
     与えられているのは同じ部屋の筈なのに、インテリアの所為か彼女自身が気を遣っているからか、自分の部屋よりも何処か清浄な空気が漂っているような気がして、ドクターはフゥと息を漏らす。彼女との会話も雰囲気も、何処か心地良いと思えるくらいにはミュルジスに気を許している自覚があった。それはきっと、ライン生命の一件があったからなのだけど。

     人に混ざりながらも、感じる孤独は拭いきれないままに生きていく。何処か似たような感情を抱えた者同士、分かち合える物も多々あって。そんなミュルジスだからこそ、聞いてみたいと思ったのだ。
     同じ孤独を抱く彼女は、自分だけの味とやらをもう持っているのか。それとも、これまた自分と同じで未だ探している途中なのか。
     問われた彼女は目を丸くしてから、その美貌にふんわりとした柔らかな笑みを浮かべる。まるでどうしようも無い子どもを見るような、そんな笑みだった。 

    「なるほどねぇ。確かに私も、所謂家庭の味って言うのはわからないけど。…強いて言うなら孤児院のご飯がそうだったのかしらね」
    「そうか、孤児院…」
    「トリマウンツの暮らしが長いのもあるから、料理を作ったとしてもトリマウンツの味に寄っているのかな……」
    「……そっか」
    「あら、トリマウンツの料理も美味しいんだから! けど、欲しいのはこんな答えじゃないのよね。…ううん、確かに貴方だけの味を作っていくのも良いかもしれないけど……」

     笑顔のまま自分のポケットを探り出すミュルジスを、ドクターは不思議そうにその様子を見つめながら彼女を呼ぶ。ミュルジスはポケットから取り出した何かをポイ、と口に入れてから話の続きを切り出した。

    「ねぇドクター。自分の味を決めるのが難しいなら、まずは貴方の“定番”を決めていったら?」
    「定番?」
    「そう! 例えばこれ。今食べてるこのキャンディを私は気に入ってるの。気分転換したい時は、絶対にこれを食べる。そんな風に、こんな時はこれを食べる! みたいな感覚から始めるのも、良いんじゃない?」

     ほら、これ。
     言いながらミュルジスは何かを手渡そうとしていたので、ドクターは慌てて両手を差し出してポトリと落とされた何かを受け取る。そっと広げて手の中を見てみれば、薄い紙に包まれた小さくて可愛らしいキャラメルが一粒落ちていた。じいっと音が鳴りそうな程に自分の手を見つめるドクターに、ミュルジスはまた笑いながら小さな菓子を渡した理由を説明する。

    「過去が解らないなら、思い出を沢山積み上げていけば良いのよ。…って事で、思い出作りの第一歩! 元気の出るキャラメル!」
    「元気の出る……」
    「はい、あーん」
    「む、んぐ。…甘いね、おいしい……」
    「元気出た?」
    「……うん。元気の出るキャラメル、だからね」

     甘ったるいのをモゴモゴ口の中で転がして、ミュルジスに感謝を述べる。これを自分の定番に加えて良いのかどうかも。「好きにしなさいな」なんて何事も無かったかのように言う彼女を見て、ようやくドクターも「ふふふ」と笑いを溢した。完全に気の抜けた笑い声に、ミュルジスは目を丸くしてからドクターの頭をチョイと小突いてやる。

    「なーに笑ってるのよー」
    「ごめん、ミュルジスを笑った訳じゃ無くてさあ」
    「このこのー、ドクターの癖に生意気なんだから!」

     ミュルジスと戯れた日に、こうして増えた定番一つ。
     この日から、ドクターのポケットには何時でもキャラメルが入っているし、デスクの引き出しにもストックが置かれるようになり。誰にやるでも無く、自分が落ち込んだ時にだけ口に放り込む甘すぎる朽葉色を、ドクターは確かに気に入っていた。


    ⬛︎


     ミュルジスからアドバイスを貰った事で定番の味探しも始めたドクターだったが、フリストンに言われた言葉も決して忘れた訳では無かった。
     時間が出来た時、色んな場所の食事を調べる片手間にオペレーター達からも世間話がてら時々話を聞いて行く。
     聞く相手は勿論選ぶし、家族に良い思い出が無い人間にはその人の好きな料理を。逆に家族に好意を持っている人間には、今まで作って貰った中で一番好きだった食事を聞いたりなどして。レシピを教えて貰ったドクターが自分で何とか再現してみたり、時には聞いたオペレーターに作って貰ったり。バタバタと忙しない中でも楽しみを見つけながら日々を過ごしていた。

     そんな日々の中で、姉妹仲が良いニアールとブレミシャインにも話を聞いてみた事がある。カジミエーシュに行った事もあり、あの土地の食事が気になったというのが発端だったが、彼女達の思い出に残っている料理達が気になったのも事実だ。しかしいざ聞いてみると、困ったような表情だけが返ってきて、ドクターは二人の顔をキョロキョロと見比べる事しかできなかった。流石姉妹、表情が似る物なんだなぁ。

    「えっとね? 大体の料理は叔父さんが…」
    「作っていたからな……。勿論、料理名は解るんだがレシピや家でのアレンジまで聞かれると…」

     なるほど、解らなくて困っていたらしい。ドクターはこくりと一つ頷いて、「そうかぁ…」と呟いた。そして続く沈黙の所為で二人が気まずくならないよう、更に言葉を並べていく。

    「でも、料理上手なんだね。君達の叔父さん」
    「そう! そうなんだよドクター!」
    「どうも、家庭の味は叔父さんが作る物だ…って思ってしまう位には慣れ親しんだ味だと思う」
    「叔父さんがロドスに来る事があったら、作ってもらおう? ね?」
    「そんな日が来るかは解らないけど…その叔父さんに会える日を楽しみにしてるよ」

     己が家族への好意を隠しもせず、惜しみ無く溢れさせながら話すブレミシャインと懐かしそうに目を細めるニアールを見て、ドクターもフードの奥に隠されたこっそりと表情を緩める。
     この二人が話す叔父──ムリナールという人間はどんな人物なのだろうか。きっと、素敵な人なのだろう。だってこんなに愛されているのだから。

     彼への想いの始まりは、家族である二人の思い出話に良く出てくる故の興味からだった。話を聞くにつれて、徐々にどんな人なのか、と思いを馳せるようになって。
     そうした思いが募る中で初めて出会った時。
     聞いていた人物像とは随分かけ離れていると思ったが、男が持つ黄金色の髪と瞳、そして件の姪二人と似過ぎていると言っても過言では無い、決めたら梃子でも動かないような強情さに「彼もニアールなんだな」と知らしめられた気がして、苦笑せずには居られない程だった。
     頑固で少し卑屈なきらいがある、何だか目が離せないような淡い光を放つ人。それが、ドクターがムリナールに抱いた印象だ。嫌いでは無い。寧ろ話を散々聞かされてきた事もあって、憧れなどの気持ちの方が大きかった。
     
     ムリナールが入職してから、カジミエーシュ勤務の彼がロドスに滞在している間は仕事や簡単な会話で少しずつ接するようになり、関わる事で余計強くなり過ぎた憧憬は、いつの間にやら好意に変わって破裂してしまいそうな程に膨れ上がって。
     これが恋慕だと気づいた頃には、ブレミシャインからは名前で呼んで欲しいと強請られる位に仲良くなっていて(ニアールから「叔父さんはコードネームが嫌いみたいだから、私も名前で構わない」とも言われた)、彼女達をダシにするのは申し訳無いと思いながらも、コレを機にムリナールともう少しだけでも仲良くなれないものか。なんて事を考えたりもしていたのだが。

     どうやら、欲をかきすぎた罰が当たったらしい。

     ムリナールが今日から暫くロドスに滞在する、と聞いたドクターは逸る気持ちを抑えながらも、浮かれた声でいつも機械弄りに熱中しているマリアとたまたま訪れていたマーガレットに連絡をいれた。彼女達が居ると話しやすいし場も明るくなる。
     それに、いつの日かマリアが言っていた『ロドスにムリナールが来る事があれば〜』の言葉を思い出して、彼に作って貰えはしなくとも折角だから料理の事を聞けたら良いなぁ、と言う心持ちでドクターは色んな料理について記入しているメモと、カジミエーシュの事について書かれている本を抱えながら、恐らく三人が集まっているだろう部屋の扉をノックした。
     
     返事が聞こえないが扉の奥からうっすらとマリアとマーガレット、それからムリナールの低い声が漏れていてノックが聞こえなかったのかな、とドクターは首を傾げつつ静かにそーっと扉を開けてみる事にした。
     扉に阻まれていない分、三人の声がよりはっきり聞こえてくる。楽しく話していたようだ、と思ったのも束の間自分の名前がマリアの口から出た事で、ドクターの身体がぎくりと固まった。彼女達を呼んだのは自分なのに、息をなるべく殺して何故かバレないような行動をとってしまう。しかしこのままでは埒が明かないのだから、ええい、ままよ! とドクターは意気込んで会話の続きに耳をそばだてた。

    「そうだ叔父さん! あのね、ドクターがカジミエーシュの料理気になってるんだって!」
    「私達はレシピとかアレンジとか良く解っていないから…。もし良かったら、叔父さんからドクターへ教えられないだろうか? その方がドクターも喜ぶ筈だ」
    「…何故私が? 他にカジミエーシュ出身も居るだろう」
    「えー? だって叔父さんのご飯が一番美味しかったし…」
    「ハァ……。ドクターに何を言われたか知らないが、彼とはそこまで親しい会話をする関係では無いだろう」
    「ええ? もう、何でそんな事言うの叔父さん!」
    「事実だ」

     ムリナールから断言されたその言葉に、ドクターの口から「あ…」と殆ど吐息のような声が漏れた。漏れて、しまった。途端に三人の視線が扉の方へと向けられて、驚いた所為か抱えていた物がどさりと音を立てて落ちてしまい、ドクターは慌ててソレを拾い集める為にしゃがみ込んだ。
     確かに、とても仲が良い訳では無いけれど。そんなに否定しなくても良いだろうに。
     少し落ち込みながら、最後に残った一冊を拾おうとして──現れた大きな手がその本を拾っていった。しゃがんだまま視線を上げれば、カジミエーシュについて書かれた本をパラパラとムリナールが捲っていて。「ありがとう」何とか礼を言って、返して貰おうとドクターが手を伸ばすと、傍目からでも解る程に機嫌が宜しくは無さそうな表情でソレを手渡された。

    「……余り、そのような詮索をしない方が良いと思いますがね」
    「えっと、気をつけてはいるつもりだけど…。一応、人となりや経歴を見てから聞いたりしてるよ」
    「上司から問われて断れるとでも?」

     余り温度の感じられない金の瞳が此方を射抜く。確かに、と僅かにでも思ってしまった。
     私にとって大切な項目が、他人にとってはそうでは無いと言うのは多々ある事だろう。オペレーター達にとって一応上司である自分が無邪気に問いかけるのは、今まで嗜められなかっただけで彼らの負担になっていたのかもしれない。
     そんな事が思い浮かんだと同時に、どうして気づかなかったんだろうと言う情けなさまで浮かんできて、ドクターは兎に角ムリナールの前から消えてしまいたくなった。

    「そうか……。気をつけてはいたけど、貴方の言う通りかもしれないな。これからは、聞かない事にするよ」

     受け取った本をドクターはきゅうと抱きしめて、「それじゃあ」と別れを告げてからすぐに後ろを向いて歩き出す。
     足取りは重くて、溜め息も出てしまうけど。ゆっくりとした動作でポケットから一つの包みを取り出し、ペリペリと包装を剥がして口へと放り込む。

     ──うん、美味しい。元気が出る筈だから、きっと大丈夫だ。
     
     トボトボと擬音が付きそうな程落ち込んだ様子のドクターが離れていくのを、ハラハラと姪っ子二人は扉の隙間から見守っていた。音を立てないよう静かに扉を閉めて、じっとりとした眼差しを叔父へと向ける。

    「何だその目は」
    「ほんっと叔父さんは…」
    「間違った事は何一つ言っていない」
    「確かに、叔父さんの言い分は正しいかもしれないが…。良いのか?」
    「うん? お姉ちゃん、何が?」
    「叔父さんの明日からの配属は秘書だったろう? 流石に気まずくは無いか?」

    「……仕事に私情は持ち込まないだろう」
    「…気まずいんだ」

     うわ、と引いたような表情をするマリアの額を軽い力で弾いたムリナールは、デスクの上の新聞を広げて黙り込んでしまった。
     そんな叔父の態度に、マリアは痛む額を抑えながら不貞腐れた顔をして頬を膨らませるが、マーガレットに宥められれば収めない訳にもいかず、「ふん、だ!」とそのまま部屋を後にする。そんな叔父と妹の様子に苦笑したマーガレットも、彼女に続き部屋から出て行こうと足を踏み出す。それにしても、だ。ムリナール叔父さんは大丈夫だろうが──。

    「ドクターは大丈夫なんだろうか」

     ムリナールが呼んでいる新聞に、くしゃりと皺が二つ出来た。


     ⬛︎


     結論から言うと、大丈夫では無かった。
     翌日以降の業務は何とかこなしたものの、好意を抱く者から突き放すような言葉や、己の行動について刺さる事を言われて傷つかない程ドクターの心は強く無い。
     あの日からすっかりドクターは、他のオペレーターに料理や食事について聞く事は無くなってしまったし、何なら家族や兄弟、それぞれの親しい者達が「昔、こんな事あったよなぁ」なんて過去の話をしている所に居合わせるのも何処か気まずく感じてしまって、そんな会話が出て来たらそれとなくその場から離れるようになった。

     それでもどうにか日は過ぎるもので、またムリナールに秘書の配属が回ってくる頃にはドクターも問わない事に漸く慣れてきていた。とは言え未だ、ムリナールに何処かぎこちない態度を取ってしまうのは仕方が無い事だろう。前の傷も癒えていないのに、新たな傷は増やしたく無い。
     しかし、仕事は仕事。私情を持ち込んでしまっては、秘書であるムリナールよりもケルシーにどやされてしまうだろう。気まずくとも、執務室で秘書と二人きりになるのは必須事項なのだから、とドクターは黙々と仕事をこなしていく。ムリナールも同様にだ。
     二人の作業をしてる音だけが部屋に響く中、突然ノックも無しに執務室の扉が開かれる。その開いた隙間に、コートで着膨れた身体を捩じ込みながらのっそり部屋へと入ってきたのは、背の高いハットを被った龍族──リーだった。ぱちくりとドクターは瞬きを繰り返す。

    「あれ? リー?」
    「どーも、ドクター。お茶でもしませんか? 貴方の部屋にあるお茶が、此処で一番美味いんですよねぇ」

     何処まで行っても呑気なリーの言葉に、ムリナールの眉間に皺が寄る。こう言うの嫌いそうだもんな、とドクターはフェイスシールドの下でへにゃりと眉を下げた。余り彼の機嫌損ねたく無いのだ。

    「…ノックも無いのか? 随分と自由な……」
    「ああ、ノック云々は慣れた方が良いよムリナール。地雷設置されるよりはマシだからね」
    「は? 地雷?」
    「リー、お茶は構わないけれど…。君、仕事は?」
    「まぁまぁ! 一杯位なら良いでしょうよ。ほら、秘書の旦那の声も少し掠れてますし。お二人の分もしっかり淹れてきますから、ね?」
    「もう、仕方無いなぁ……」

     いや、仕方無いで許すのも大概だが。
     ムリナールは言葉を飲み込んだ。元凶の男は、「そう来なくっちゃ!」とそそくさと簡易キッチンに向かってしまったし、ドクターは引き出しを漁っている。地雷などと変に気になる言葉も聞いてしまったし、今日の運勢が悪かったのかもしれない。新聞には何と書いてあっただろうか。
     軽い現実逃避をしながらムリナールが眉間を揉んでいると、思っていたよりも近くから「すまない、ムリナール」とドクターの申し訳なさそうな声が聞こえてきて、その声の方を見遣る。どうやら逃避していた間にドクターが側に来ていたらしい。ムリナールは胡乱げにドクターを見るも、この視線を送るべきはあの男かと思い直し、しっかりと居住まいを正した。

    「ああいう人だけど、淹れるお茶はとても美味しいから…。良ければ、飲んであげて欲しい」
    「はぁ…。わかりました」
    「ああ、そうだ。これあげるね」

     コロン、と机に何かが置かれる。一体何が、と思った所で随分昔に見たような覚えしか無い、個包装されたそれを見てムリナールは目を丸くした。

    「…キャラメル?」
    「そう、美味しいから是非食べてみてよ。…えっと、元気が出るんだ。これを食べるとね」
    「……頂きましょう。ありがとうございます、ドクター」
    「どういたしまして。…貴方の低くて素敵な声が掠れて更に低くなってしまったら、聞き取れなくなっちゃいそうだしね」
     
     冗談めかして言うドクターを、未だ丸くし続けている目で見つめる。ドクターも冗談の混じりな会話をするのか、と。意外に思いつつも気の利いた事は返せずに、ドクターに向けていた視線を早々にキャラメルへと戻してしまった。
     ムリナールが気を悪くさせてしまったか、などともやもや考えている内に簡易キッチンに居たリーが、「お茶が入りましたよぉ」なんて気の抜ける間延びした声と共に帰って来て。ドクターが穏やかに部屋へと響くその声に振り向いた瞬間、ムリナールは人知れずに息を吐いた。助かったなんて思いたくは無いが、タイミングが完璧だった事には感謝しよう。

     コトリと手早くそれぞれの席に湯呑みを置いて、リーはガコガコと運んだ椅子を適当にドクターのデスク前へと置いてから、その大きな身体をどっかりと椅子へと沈めた。そのまま茶を一口。「ー…。これこれ」なんて歳を感じるリーの声色に、ドクターもくすくす笑いながらフェイスシールドをずらして湯気の立つ暖かな茶を啜った。あち、と声を漏らすドクターにニコリとしたままリーはマイペースに世間話を始める。それが本命だろう、と向けられたムリナールのじとりとした視線もなんのその、だ。

    「そうだ、ドクター。ウンの奴が、最近集まりにドクターが来ないー! って心配してるんですよ。折角いろんなモン食べて体重増やしたのに痩せちまうって……。ま、時間があったらまた何かリクエストしてやって下さい。あいつも喜びますから」
    「あー、ええっと…」
    「……ドクター?」

     言い淀むドクターに違和感を覚えたリーが、不思議そうにその名を呼ぶ。晒された唇が薄く開いたりきゅむ、と引き結ばれたりするのを湯呑みを口に運びながら眺め続けていると、どうにも伝え難い様子でドクターはおずおずと薄い唇を動かし始めた。

    「あのね、リー。実は、集まりに行くの少し控えようかな、って思ってて…。君達のだけじゃなくて、他の皆のやつも」
    「はい?」
    「君達の輪に入りすぎちゃってる気がしてさ。その、今更かもしれないけれど」
    「……一体、なーにがあったんです? そんなの気にするなんて」

     リーの探偵事務所の面々が其々の都合が良い時に集まり、事あるごとに自分の好きな物を持ち寄ったり作ったりして食事会をするのは、ロドス内では割と知られている話だ。それもドクターが「リーの料理はどれも美味しいけど、ウンのもとても美味しかったんだ」とか「この間はジェイが参戦してくれてね、魚団子凄かったんだよ!」だとか、オペレーターに内緒話のように話しているからなのだが。
     それに感化された他の者達が、やれ女子会(ドクターは「私男だけど?!」と最後まで渋っていたが)だの酒盛りだのにドクターを誘って、色々食べされるのが流行ったりもした。その楽しいたのしい集まりを控える? これは荒れるだろうな、と言う言葉を少し温くなった茶と共に飲み下して、リーはドクターの話の続きをじっと待つ。

    「うーんと、忠告…? 気付かせてくれた人がいて……。確かに、って納得しちゃったんだよね」
    「しちゃったんですか? ……ま、解りました。貴方がまたやりたいな、って思ったなら事務所の奴らや俺に言って下さいよ。待ってますから」
    「うん……」
    「…そーいや、アーミヤ女史が呼んでましたよぉ」
    「は?! もう早く言ってよ!」

     リーは大変重要な言葉を放ってから、ドクターが既に飲み干した湯呑みを受け取って立ち上がる。放たれたドクターは、アーミヤが呼んでいるの言葉に慌てて退出して行った。立ち上がりついでに、ムリナールの分も受け取って簡易キッチンへのしのし歩く。すぐに水の流れる音が止んで、濡れた手を拭きながらリーは扉の方へゆったり向かっていった。

    「それじゃ、俺は失礼しますね」
    「…ドクターには伝えておく。茶の礼はまた後日、改めて」
    「俺が勝手にやっただけなんで、お気になさらず」

     では。そう挨拶しながら自身のハットを軽く上げたリーは、またのしのしゆっくり歩いて部屋から去っていった。
     男の後ろ姿を見送ったムリナールは、一人になった部屋で漸く静かになった、と溜息を一つ己のデスクへと落とす。何だか酷く疲れた気分で、それでも仕事の為だと書類を書き進めていく。
     暫くそうしてCEOに呼ばれていたらしいドクターを待ちながら、デスクに広がる書類をひたすらに処理しているムリナールの耳に、ちゃぽん、と水が滴ったような音が届いた。ついで女性の、「あれ? ドクター居ないの?」という声。
     声の主を確かめる為に少しだけ顔を上げれば、キョロキョロと部屋を見渡す女性の姿があって、思わず強く舌を打ちそうになる。どいつもこいつも、とムリナールは先程よりも大きな溜息を吐かざるを得なかった。相手に抱いている気持ちが正確に通じるよう、より大きく吐かれたソレにミュルジスは首を傾げていて、そんな彼女にムリナールは低い声でドクター不在の理由を伝えてやった。

    「アーミヤ女史に呼ばれていたそうで。たった今出て行った所だ」
    「なぁんだ、残念。最近の話でも聞こうと思ったのに。……あら?」

     執務室の中を見渡していたミュルジスが、ムリナールのデスクに置かれている見慣れた包装紙に気づいて、不思議そうにデスクの片隅とムリナールの顔を見比べる。今度は何だ、と更に顔を顰める男の視線など関係無いと言うように近寄って、その小さな菓子を見下ろすミュルジスは男の顔を覗き込みながら、素直に疑問を口にした。

    「それ、ドクターから貰ったの?」
    「その通りだが。私がコレを買うような人間に見えるとでも?」

     ムリナールの棘のある言葉にぴく、と眉を動かすが何も言わずにただ一言、「そう」とだけ呟いて、ミュルジスは更に男に問いかけ続ける。

    「ソレが何のキャラメルか、貴方は知っていて?」
    「…さぁな。元気が出る、と彼は言っていたが」
    「ええ、そうよ。ドクターと私が決めた、元気が出るキャラメルだもの。正確には、元気を出したい時に口に入れて、少しでも自分を鼓舞する為の物だけど。コレを他人に上げる所なんて、初めて見たわ」

     少しだけ不機嫌な様子で話してから、ムリナールの側からスタスタと離れて、真っ直ぐにドクターのデスクへと向かう。そして、そのデスクの上に置いてある目当ての朽葉色の包装紙を丁寧に剥がして、己の口へと一つ投げ入れた。
     
    「彼が作る思い出の味。故郷も家族も知らない私達が決めた定番。それを、貴方は貰ったのね。随分好かれているようで何よりだわ」

     そんな貴方は、ドクターに何を返すのかしら。
     ミュルジスは最後にそう言い残して、口の中でキャラメルを転がしながら軽やかな足取りで執務室を出て行った。恐らくドクターを探しに行ったのだろう。部屋にまた一人残されたムリナールは、無言のまま片隅にある菓子を彼女の真似するように口へと放り込む。

     舌に乗せれば、体温でじわじわと溶け出して徐々に露わになるそのチープな甘さに、段々と眉間に皺が寄り始めて。普段なら絶対に口にしない、頭から突き抜けるような甘みが口中いっぱいに広がって、余り経験する事の無かった感覚にムリナールは咽そうになるが──何故か、その原因のキャラメルを吐き出してしまおうとは、思わなかった。


    ⬛︎


     ムリナールが執務室でミュルジスから言われた事を、そのお硬い頭の中で反芻している内にも日は過ぎて行く。ドクターにも件の彼女にも何も言えずに日数だけが経ったまま、今回もロドスに訪れていたムリナールは艦内での職務を全うしていた。
     己の心中にしこりのように残る気まずさを抱えながらも、ドクターと共に仕事も作戦もこなしていく中で会社員だった頃の名残と言わんばかりの堅苦しい敬語も外れ、そこそこに親しいと呼べる間柄にはなった事だろう。この頃には既にムリナールにとっても、ドクターという人間は色んな意味で気になってしまう、そんな存在になってしまったのだった。
     
     過ごす内にいつの間にか多少なりとも歩き慣れてしまった廊下を、身長に見合った長い足で歩いて行く。その角を曲がった先に、余り見覚えの無いオペレーター達が楽しそうに談笑していた。近寄る事で段々とボリュームが上がっていく二人の筒抜けの会話に、ムリナールの眉根がじわじわと寄っていく。
     廊下で話しているという事は、誰に聞こえても問題無いのだろう。クランタの耳は多少離れている距離だろうと、その会話をしっかり運んで来てしまうから困り物だ。さっさと通り過ぎてしまおう、とムリナールが足を動かすスピードを速めようとした瞬間。

    「そういや、最近のドクターと話したか?」
    「うん? いや、話してないけど」

     ドクターの話題が出て、思わず角のオペレーター達から死角になる場所へと身を隠してしまった。頭上にある耳をくるりと回して、良くない事だとは解っていても気配を殺し、盗み聞きの体勢に入ってしまう。何故だかドギマギと動く心臓を押さえ一息ついてから、壁に背中を押し付けてオペレーター二人の会話へと耳をすませる。

    「最近のドクターさ、料理の事とか聞いたりしてないよな? 何でか知ってるか?」
    「あーそれ、もうやめたんだと。俺も最近聞いたんだけど、家族に良い思い出が無い奴も居るのに聞いて回るのは良くないって忠告? されたって聞いたよ」
    「でもそう言う奴らには、国の好きな料理聞いてたろ? 気分害さないように聞く人間も選んでたのに…。わっかんねぇなぁ…」
    「それな。もっかい聞いてくれないかなドクター…。本持って熱心に聞いてくれるドクター、結構好きだったんだよな俺」
    「わかるー…。他の奴らも寂しそうだしな」

     二人の男性オペレーターの話を聞き続ける度に、「これは完全に己の所為なのだろうな」と言う感情が湧いて、何なら溢れてしまって、ムリナールは額を押さえた。執務室で聞いてしまったリーとドクターの会話と、ミュルジスの言葉。そして今のこの二人の話。罪悪感が刺激される、なんて表現では生温いと思う位にはムリナールの良心が悲鳴を上げている。
     彼の事情を知らなかったとは言え、自分が気に食わないからとぶっきらぼうに突き放しすぎた、とキリキリと胃を締め付ける痛みを感じながら。ムリナールはドクターに会いに行き、そして彼の視界に入った瞬間に謝罪をしようと心に誓った。



    「うん? どうしたの、ムリナール」

     これが、ムリナールの謝罪を聞いたドクターの第一声だった。そりゃそうだ。何せ出会い頭で「すまなかった…」と過去類を見ない程落ち込んだ様子で謝罪をされたのだから、心当たりの無いドクターがなんのこっちゃと疑問符を浮かべるのは当たり前の事だろう。
     こて、と首を傾げてムリナールを見上げるドクター。彼の年齢は知らないながらも幼く見えるその仕草に、心も胃もぎりりと締め上げられた気持ちになってしまったムリナールは、耳をペタリと伏せて謝罪の理由を口にする。

    「知らなかったとは言え、私はお前の問いに答えるどころか無神経にも傷を付けただろう。…その、私の事は気にせずに好きな食事…料理? を聞いて回ると良い。お前には、とても大事な事だったんだろう」
    「…いや、私が悪かったんだよムリナール。貴方の忠告通り配慮が足りていなかったんだ。ソレを気付かせてくれた事に、私は凄く感謝してるよ。嘘じゃない」
    「しかし、」
    「気になった物とかは、調べれば直ぐにレシピが見つかるだろうし。空いた時間に少しずつ検索なりをして、楽しんでみるよ」
    「……そうか」

     自分が悪かったと謝罪をしてみても、ドクター本人がそれを受け入れ無いのならば、これ以上ムリナールに言える事は何もなくて。否、そもそも謝罪されるような事では無く、ただ自分が悪かったのだから、なんて思っているのだろう。耳も目尻もペショペショに下げながら、自分の一言がこの人を縛ってしまったのだな、と解りきっていた結論を心の内でぎゅっと抱えて押し留める。そうして、ただひたすらに申し訳無いと言う表情のまま、ドクターの隠されている顔をずっと見つめていた。


    ⬛︎



     所変わってまた執務室。
     萎れてしまったムリナールにドクターは困惑しつつも、体調が悪いのか、仕事が出来無さそうなら休みにした方が、とどうにも心配ですと言った声を出しながら男の周りをウロウロしていた。その姿にも申し訳無さが募るムリナールは何とか「仕事に支障は無い」と声を絞り出し、二人でえっちらおっちら移動して漸く普段通りの仕事に取り組んでいた。

     勤しんでいれば集中力も戻るというもので。
     ひたすらに下を向いていたムリナールがその視線を上げて、何気無しに時計を見ると時刻はもうとっくの昔に昼を過ぎている。いざ時間を確認してしまうと、忘れていた空腹も途端に感じるようになるのだから不思議だ。ドクターの様子を確認して、休憩がてら昼食にでも誘ってみようか、と考えたムリナールの口が薄く開いたのと同じ位に、執務室の扉から来客を告げる音が鳴った。
     はぁい、とドクターから軽い了承を受けた者が扉を開けて元気にその姿を現す。「ドクター! お昼食ーべよー!」明るい声を出してドクターのデスクへと駆け寄って来たのは、ニコニコと楽しそうに笑顔を浮かべたマリアだった。
     彼女の後ろにはこれまた穏やかな顔をしたマーガレットも控えていて、そう言えば数日は滞在すると報告を受けていたな、とドクターは呑気に彼女達の予定を脳内で思い出していた。思考に沈むドクターをマリアは何時もの事だ、と放置しつつ、その笑顔を崩さないままムリナールにも急かすように声をかけている。

    「叔母さんが席を取ってくれてるから、はーやーくー!」
    「ハァ…。解ったから騒ぐんじゃない」

     騒ぎに騒ぐ困った姪を宥めてムリナールは立ち上がる。大きくなっても騒がしい事この上無い、と苦笑しているマーガレットと目を合わせて、もう一度溜息を吐いた。
     ドクターはその三人をまるでコントを見ているようだ、と何とも微笑ましそうに眺めてから、手元の書類へとまた視線を戻して一言「行ってらっしゃい」と口にした。然し口にして直ぐに、よく似た金の瞳が六つ己を見つめて来るのが解って「…うん?」と顔を上げて首を傾げる。キョトンと呆けた表情をしたマーガレットがドクターと同じように首を傾けて、未だに仕事を続行しようとする指揮官へ、一応彼の意向を確かめてみる事にした。

    「ドクターは行かないのか? 食事はキチンと摂るべきだ」
    「いや、お腹はあんまり減ってないんだ。私が空腹になるまで待たせるのも悪いから、君達だけで行っておいで。しっかり休憩も取ると良い」
    「ムッ……」

     あからさまにムッとしたマーガレットが徐にドクターに近寄って、椅子の側へしゃがみ込んだ。どうしたんだ、とドクターが声をかけようと口を開けて──直ぐさま勢い良く閉じられる。話しかけるのを止めようと思って閉じたのでは無く、自身の身体が突然浮き上がった事による驚きで閉じてしまっただけだが。
     ちらりと見上げれば、柔らかく微笑むマーガレットの整った顔がそこにあって。嗚呼抱き上げられているのだな、なんて当たり前の事を考えながら、疲れで濁った瞳でその美しい微笑みを見つめていた。微笑みと同じ位に柔らかそうな唇がゆっくりと動き出す。

    「貴方は、羽根のように軽いな」
    「傷つくからやめて…。行く、ちゃんと行くから……」

     一応は存在した、男としてのプライドをけちょんけちょんにされ、更に他二人から生暖かい眼差しで見られたドクターの食堂行きが決定した瞬間だった。
     ドクターを食堂に行かせるには、女性オペレーターが抱き上げれば良いらしいと噂される日は近い。


     
     ニアール一行に連行された食堂で、何を食べようかとドクターが当ても無くブラブラと歩いていると「おや、ドクター」と穏やかに名を呼ばれた。声の方へと身体を向ければ、綺麗な緑の髪と特徴的な角──ホシグマがすぐ近くに立っていて、軽く手を振って挨拶すればニコ、と笑みを返される。食堂に居るなんて珍しいな、なんて言われれば返す言葉は無いけれど、このまま手持ち無沙汰になる位なら、とドクターは自分の食事を決める参考にホシグマと和やかに会話を続ける事に決めた。

    「しっかり食事を摂るのは良い事だ。ドクターは何を食べるんだ? 私はトンカツ定食がおすすめだと言うからそれにしたんだが」
    「重たいなぁ…。ううん、連れて来られただけで別にお腹は減ってないんだよね」
    「それにしたって何かは腹に入れるべきだ。あ、これはどうだ? 出汁たっぷりのトロトロな粥」
    「おお、美味しそうだし食べやすそうだね。これにしようかな、少しだけなら食べられると思うし」

     目の前には、セルフサービスです! と言わんばかりにドンと置いてある寸胴鍋。
     その中にはたっぷり沢山の粥が入っていて、スンと匂いを嗅げばふわりと出汁の香りが漂ってくる。出汁の素材から具材など全てにこだわった渾身の一品のようだが、調子に乗り過ぎて作り過ぎたが故の好きに盛ってくれスタイル。何でそんなに熱を上げてしまったのか。
     ドクターが作り過ぎてしまった理由を予想している間に、こっちこっちと手招きしながらホシグマが寸胴鍋に近寄って行く。どうやら注いでくれるらしいので、トレーと器、水の入ったコップを持って鍋の前へと並ぶ。少しだけなら食べられると伝えているし、確かにこんなにトロトロなら割と食べられそうだな、と器に視線を落とせば──勢い良く白っぽい物が注がれていった。

    「はい、どちゃあ」
    「どちゃあ…」
    「もいっちょ、どちゃあ」
    「どちゃどちゃだぁ……」
    「これ位は食べ切りなさい。私は昼前なのに巨大ハンバーガーを平らげるという罪を犯してきた。胃は広げるに限るぞ」
    「昼前なのに…? 健やかだね、ホシグマ」
    「ふふ、お恥ずかしや」

     恥ずかしそうに頭を掻くホシグマにバイバイ、と挨拶をして別れる。去る前にちらりと彼女の方を眺めれば、出来立てのトンカツ定食とやらをにこやかに受け取っていた。昔話の絵本のように盛られている米の量を見るに大盛りらしい。本当に健やかだった。
     まぁ何にせよ、注がれてしまった以上は私もこのどちゃどちゃの粥を食べ切らねばならない。ドクターはタプタプと波打つソレを、ゆっくり慎重に運んでどうにか溢さずにマリア達の元へと移動する事に成功した。
     
     席には執務室にいた三人と、言っていた通り席を取っていたらしいウィスラッシュ──ゾフィアが居て、あの四人が揃うと直ぐ見つけられるなぁ、と眩しさにシパシパ目を瞬かせた。
     ドクターに気づいたマリアが手を振って、それを見たマーガレットが笑っている。ゾフィアとムリナールは何でか睨み合っていたが。どうしてこの二人は向かい合って座ってしまったのだろう。グチグチ嫌味合戦をしているのを眺めながら、ドクターは空いている場所、ムリナールの隣へと腰を下ろす。
     いただきます、と小さく溢せば四人の会話がぴたりと止み、各々からバラバラのいただきますが聞こえてきて、仲が良いのなんなのかとドクターはバレないように口角を上げた。

     何やら隣から視線を感じる、とまだ湯気の立っている粥をハフハフ口に入れながらドクターが隣を見れば、ムリナールも食事をしながらドクターの器を眺めていた。釣られてドクターもムリナールの膳を見る。どうやらビーフシチュー定食? らしい。うんうん、美味しそうだ。私は重すぎるから要らないけれど。

    「お粥だよ。炎国粥? だったかな。トロトロで美味しい」
    「炎国の物か。寸胴一杯にあったから気にはなったが。……体調が悪いのか?」
    「ううん。このお粥なら食べれるかなって思っただけだよ。…食べてみる?」

     蓮華に掬って、少しだけ掲げる。気になったなら食べてみれば良いと思った故に取った行動だったが、行儀が悪いと叱られてしまうだろうか。案の定、動きを止めてしまったムリナールを見たドクターは、ゆっくりと掲げていた腕を下ろそうとして──ガシリ、と大きな手に手首を掴まれた。

    「えっ」
    「なら、一口だけ頂こう」

     普段は大体引き結ばれているであろう唇が、がぱりと大きく開いて白い蓮華をその口に収めてしまった。彼の口と比べたら、蓮華が随分小さく見えてしまうな、と現実逃避のような言葉が浮かんで消える。当の本人は何事も無かったように口から引き抜いて、咀嚼もほどほどにごくりと飲み下していて。ドクターは彼がした行為を、信じられないと言うような眼差しで見つめてからすっかり空になった蓮華を眺めて、「怒られるかと思った…」と呟いた。ドクターのその様子にムリナールは器用に片眉だけを上げて、そして少しバツが悪いような顔をする。

    「流石にそこまで咎めはしない。…すまん、新しい物を貰ってくるか?」
    「いや、私から言ったんだし。それより美味しかった?」
    「ああ」
    「なら良かった」

     ムリナールの瞳が柔らかくなったのを見て、ドクターは高鳴る胸を呼吸だけで抑えながら食事を続ける。
     叔父とドクターが仲良くしているのが嬉しいのか。普段の数倍輝かしい笑顔になっているマリアから振られる話に相槌を打ったり、時には仕事の話などもしてドクターも他の四人も、そこそこ穏やかに会話をしていた。

     ──マリアやマーガレットの口から、彼女達家族の昔の話が出るまでは。

    「あの時の叔父さんとお姉ちゃん、ほんとに怖かったんだからね!」
    「すまない、マリア…」
    「…………」
    「キミは目を逸らさないの。全く…」
    「でもお詫びに、って作ってくれたおやつが凄い美味しかった覚えがあって……」
    「ああ!確かアレって──ドクター?」

     先程まではゆっくりと動いていた筈のドクターの蓮華が、いつの間にやら掻き込むような動きに変わっていて、それを見たゾフィアはぱちくりと瞬きを繰り返す。たっぷり入っていた食事もすっかりお腹に収めてしまったようで。そんなにお腹が空いていたのかしら、なんて考える頃にはドクターはもうずらしていたフェイスシールドを元に戻して、「ご馳走様」と食事を終える挨拶をしていた。

    「ドクター、もう食べちゃったの?」
    「うん、美味しかった。……まだ仕事が残ってるから、先に戻るね」
    「ええ? もうちょっと休憩したって良いじゃない」
    「色んな事が重なってしまって、思ったより進みが悪いんだ、ごめんね。ああ、ムリナールはゆっくりしてもらって構わないから」

     言うだけ言って、それじゃ! と食べ終えたトレーをサッと持ち上げ立ち去るドクターを、流石家族、似通いすぎた表情でポカンと四人は見送った。口を挟む暇が無かったとも言う。ドクターに向けていた顔を正面へ戻して、残った四人で顔を突き合わせた。
     大何回あったかは数えていないし覚えてもいないが、ニアール家会議の始まりの合図だ。議題は勿論、最近のドクター様子について。
     尚ここは食堂であるので、他のオペレーター達からは微笑ましいと思われているのは秘密である。

    「ドクター、やっぱり私達とお話しするの嫌になっちゃったのかな…」
    「そんな事は無いと思うが。…家の話をされると気まずくなる、とか? 気になるなら、後で一緒に謝りに行こう」
    「なあに? また何かやらかしたのキミ達」
    「やらかしたっていうか…」
    「何というか……」

     姉妹二人で顔を見合わせて困ったように苦笑い。そんな二人を見てピンと来たゾフィアは、ジトっとした眼差しを年長者に送った。そしてこの男を相手にするには、こんな視線だけでは到底足りないとしっかり名前も呼んで問い詰める。

    「……ムリナール? キミは?」
    「…………別に、何も」
    「全員、じっくりばっちり聞かせなさい。このままじゃいけないってのは解ってるんでしょ? 作戦会議よ」

     ウィスラッシュは鬼教官とは誰が言ったのか。
     今この時のゾフィアは、確かに教官と呼ぶのに相応しい威圧感があった。マーガレットとマリアの顔色は段々と悪くなり、ムリナールはゾフィアから目を逸らす。返事ははい、かイエス、サーのどちらかしかない。
     少し前まで微笑ましかった雰囲気はすっかり霧散してしまって、ここは戦場真っ只中の作戦室か? とでも言うような空気が食堂の一角に暫く漂っていた。


    ⬛︎


    「とにかく暫くの間様子を見て、彼の対応が変わらないようならキミ達とドクターの四人で、街かなんかに繰り出しなさい!」

     食堂での作戦会議で、まるっと最近の出来事全てを聞いたゾフィアと三人は唸りながら色々考えはしたが、特に浮かぶ解決策は無く。ほぼ元凶と言っても過言では無いムリナールを睨みながら、ゾフィアは元々話そうと思っていた話題を提供した。
     
     カジミエーシュのマーケット。
     寒い時期に行われるソレは年々更に煌びやかになり、今のカジミエーシュに住む人の中にはその眩さを厭う者もいるが、逆に若い者や観光客、カップルなどには好かれている行事である。最近行われているマーケットはそうでも無かったが、普通の範囲内だったマーケットは幼かったマーガレットもマリアも好んでいた。勿論、ムリナールも。
     爛々と輝く街を、ドクターと家族で並んで歩く。
     想像するだけで楽しそうな光景にマリアは一も二もなく頷いたし、マーケット位なら問題無いだろう、とマーガレットも快く了承した。ムリナールは苦虫を噛み潰したような表情で目を瞑っていたが。この件に関してはムリナールに拒否権は無い為、満場一致と言う事で作戦は実行される事に決定するが──兎にも角にも様子を伺わなければ、と全員で頷き合うのだった。


      
     コンコンコンコンと連続でノックされる扉に、何だなんだと不審に思いつつも、ドクターは「どうぞ」と努めて冷静に入室を来客に促す。勢い良く開けられた扉の音に驚愕しびくりと身体を揺らして、更に部屋の照明に照らされ輝く髪に負けない位に煌めいたマリアの瞳にもう一度驚愕しつつも、指揮官としての矜持で何とか耐えて、一応何があったのかマリアに尋ねる事にした。彼女の表情を見るに悪い事では無いだろうが、万が一という物がある。何を開発するか解らない者達は特に、だ。

    「どうしたんだ?」
    「ドクター、この日って暇?! 時間はある!?」
    「うん? 暇では無いと思うけど…。何とか調整はできると思うよ、多分。調整しようか?」
    「良いの…? ドクターとどうしても一緒にカジミエーシュに行きたくて…」
    「……カジミエーシュに?」

     そりゃまたどうして。
     理由も特に思い付かず不思議に思っていれば、マリアと一緒に執務室に来たマーガレットが掻い摘んで説明してくれた。何でも寒い時期に盛大にやるマーケットがあって、ゾフィアがこの日からやるらしい、と教えてもらったとか。寒い中、温かい飲み物や食べ物を楽しみながら、色々な屋台と煌びやかな装飾を眺めて歩くのが醍醐味だとか。
     なるほど確かに面白そうだ。二人が連れて行ってくれるなら、と思ったが彼女達の叔母はどうするのだろう。

    「あれ? ゾフィアは行かないのか?」
    「えーと、叔母さんは……」
    「用事があるらしいんだ。私達とは別の日に行くと言っていたよ。別にこの日だけしかやってない訳じゃないから」
    「そうなんだ…。うん、じゃあ一緒に行こうか」
    「やったあ! ありがと、ドクター!」
    「暖かい服を用意しないとな」
    「回るルートも決めようね! お姉ちゃん!」

     はしゃぐ姉妹を優しい眼差しで見つめながら、ドクターは自身のクローゼットの中身を思い返していた。果たして私室のあのすっからかんと言って良いような無機質な箱の中に、防護服や白衣以外の服は入っていただろうか。目覚めてから勉強した訳でも無し、ファッションの事はさっぱり解らない。
     場合に寄ってはクロージャの元に駆け込まなければいけないだろうな。ロドスが誇る元気な購買部の主を頭に浮かべつつ、ドクターは手元のコーヒーをずずず、と呑気に啜っていた。
     


     服を購買部にてセットで購入してから、カジミエーシュに行きたい旨をケルシーに伝えなければならないのでは? 思い至り足早に医務室を訪れたが、どうやらマーガレットが伝えてくれていたらしくいつもの無表情で、「楽しんでくると良い。アーミヤの土産も忘れるなよ」とのお言葉を頂いた。持つべきは有能すぎる友人と医者らしい。ありがとう、マーガレット。

     そんな訳で許可も貰いスケジュールも何とか空けたドクターは、騎士二人と決して近いとは言え無い距離にある二人の故郷、カジミエーシュへと旅立った。
     訪れた事はあるが、いつ見てもネオンの光が眩しいな、と思ってしまう位に夜も明るい所だ。眠らない街、と言うのはこんな場所を言うのだろうか。何でも待ち人が居るらしく、その人の元へ向かうまでドクターは街の明かりを眺めながら、そんな事ばかりを考えていた。


    ⬛︎


    「あ、え? 待ってる人って、ムリナールだったの?」
    「そうだよ! あれ、言ってなかった?」
    「折角だから叔父さんも誘ったんだ。ほら、貴方の護衛も多い方が良いだろう?」
    「な、なるほど……?」

     にしたって、良く来たな。眉間に皺を寄せているムリナールを見て抱いた感想がソレだった。
     どうやったって祭りの騒ぎも常よりも更に眩いこの明るさも、この男は好まないだろうに。面倒をかけてしまった、とドクターは普段着ている防護服よりは軽い素材でできているパーカーのフードをきゅう、と引っ張った。彼に迷惑をかけるのは本意では無い、手早く回って早く切り上げた方が良いだろう。
     姉妹二人が仲良く並んで先を行くのを邪魔しないよう、その後ろをムリナールと並んで着いて行く。ムリナールの機嫌をちらちらと気にしていたドクターだったが、見慣れぬ物ばかりの街並みを眺めながら歩いている内に、早く切り上げると言う考えをすっかりばっちり放り出していた。

     カジミエーシュでは定番を誇るらしい人気のソーセージに、お酒に合いそうなスモークチーズ、寒さを凌ぐ為の赤い色をした温かいスープなんかも合って。美味しそうな食べ物や、物珍しいのを少しづつ口に含みながら身体を暖めて、常よりも更にキラキラと輝くカジミエーシュの街並みを回って行く。
     前を歩く二人や隣のムリナールも色々な反応を示すから、彼らにとっても珍しい物があるんだな、と可笑しくなってドクターも小さく笑いながら練り歩いて行った。
     しかし、幾ら流行の入れ替わりが激しいとは言え、やはりマーケットで残り続ける伝統や定番などはあるらしい。一つの屋台を見つけたマーガレットが、指を指しながらマリアに話しかけている。

    「これ、懐かしいな」
    「ほんとだ! まだ残ってるんだ。ねぇ叔父さん、これ覚えてる?」
    「忘れる筈が無い。小さいお前が、買うまでここから動かない、と粘り続けたやつだろう?」
    「うっ…。振らなきゃ良かった……」

     クッ、と口の端を吊り上げたムリナールがマリアに幼い頃の事実を告げれば、途端にがくりと話を振った彼女の肩が下がる。マーガレットがそんな二人を見て、声を上げて笑っていた。
     いかにも家族の見本です、と言えるであろう楽し気なその会話に、どうにも入る気になれなかったドクターは、少し離れた所に見える雑貨でも眺めていようとそっとその場から抜け出した。
     ゆっくりと離れて行く背中を見つめる三人の瞳に気付かずに。


     
     マーケットで売り出している雑貨は意外と種類が豊富なんだなぁ。
     雪だるまを模した可愛らしい木工玩具を手に取って、ツルリとした表面を手慰みに優しく撫でる。愛嬌がある顔がどうにも手放し難くて、この玩具を二つ買って一つは自分の記念に、もう一つの玩具は各所で売ってるお菓子を付けてからアーミヤに土産として手渡そうか。世話になったから、ミュルジスやフリストンにも何か買っていこうかな。イメージに沿った物を手に取って、考えながら購入していく。うん、これも旅の醍醐味というやつではなかろうか。
     中々の荷物になった土産をわさわさと持参した鞄に入れてから、次は何を見ようかと見渡していると自分を呼ぶ声が聞こえた気がして、ドクターは人混みの奥をジッと見つめた。目を凝らすと何やらカップを両手に持ったマリアが見えたので、合流に向けて足を動かす。

    「此処に居たんだね! はい、ドクター」
    「ありがとう…? ココア、かな。あったかくて丁度良いね」
    「偶に飲みたくなるんだよねぇ…」

     マリアから湯気の立つココアを受け取って、その暖かさにホッと息を吐く。
     防寒はしていたが、意外と冷えていたようだ。長靴を模したカップもこれまた可愛らしく、マリアに聞けば持ち帰れるとの事だったのでこれも記念の一つだな、とドクターはカップに口を付けた。
     先行したマリアに追いついたマーガレットも同じカップを持っていて。ドクターが同じ物を飲んでいるのが嬉しいのか、二人とも寒さの所為か鼻の頭を少し赤くしながらもにこやかに笑っている。
     彼女達が笑っていると、どうも自分も嬉しくなってしまうなぁ、と姉妹を交互に眺めている内に見えた二人のカップに、白いふわふわした物が浮いていたので、気になったドクターは一体何が浮いているのかと問いかけた。

    「その浮いているのは何? マーガレットのカップにも入っているね」
    「これか? マシュマロだよ。ココアに入れたのを見た事は無かったか?」
    「ニアール家、家訓! …では無いけど、ココアにマシュマロを二つ浮かべるのがうちの“定番”なんだー。美味しいんだよ、ドクターも入れる?」

     温かい内なら遅くないよ、との声が聞こえるが、自分が彼女達の“定番”を味わうのはどうも憚られて。ドクターはマリアの言葉にゆっくりと首を横に振った。

    「……私のは良いよ。これも十分甘いしね」

     言いながら、誤魔化すようにまだ温かいカップに再び口を付ける。
     美味しいのだから足さずとも十分だ、とまた少し減った液体の表面をぼんやり見つめていると──上から自身のカップに向けて、何かが落ちてきた。「え、」思わぬ落下物に、小さく声を漏らしたドクターは顔を一度上げてから、再び手元のカップへと視線を戻す。
     ドクターの目の前には、いつの間にやら追いついたらしいムリナールが居て、カップの中にはマリアやマーガレット、そして目の前のムリナールが持つココアと同じく、彼女達が定番と呼んでいた白いふわふわのマシュマロが二つ浮かべられていた。うろ、とドクターの視線が落ち着き無くムリナールと手元のカップを行ったり来たりを繰り返している。ムリナールはその視線を気にもせずに、末の姪に向けて溜息を吐くだけだったが。

    「何故私に四つも渡したんだ…。幾ら何でも甘すぎるだろう」
    「だって、多くて…。えへへ……」

     可愛らしく誤魔化すマリアにムリナールは「人に押し付けるんじゃない」と、もう一度深い息を溢してから誰が見ても疲れているだろうと称する程に緩慢な動きで、静かにドクターの方へと改めて身体を向けた。何故かと言われれば、困惑しきっているドクターが段々と可哀想に見えてきたので。
     
    「ええと、どうして私にマシュマロを? 皆のカップに一つずつ足せば良かったのに」
    「幼い頃はともかく、今の私には二つでも甘すぎるんだ。あの子達には一人二つと、言うのがどうにも染み付いてしまっているんだろうな。余剰分はさっさと手渡されてしまった。……折角だから、消費を手伝って貰えないか? ドクター」
    「…そう言う事なら。ん、ふわふわになって美味しいね」
    「でしょでしょ? 叔父さんは甘すぎるって言うけど、これが無いとちょっと不満そうな顔もするんだよ」
    「……マリア」
    「ごめんなさーい!」

     声色から困惑が消えて少しだけ安心したように、追加された甘みをこくりこくりと飲み下すドクターを見た三人は、多少なりとも目的が達成された事にホッと胸を撫で下ろした。勿論、ドクターにバレない程度に。
     どうかこのまま、ドクターが懸念して私達の過去の話題から離れる事が無くなると良い。
     全ては叔父さんの失態だから、できれば最後は叔父さんが解決しますように。
     ゆっくり溶けていくマシュマロと同じ位ふわふわとした雰囲気で、楽しそうに叔父に話しかけるドクターを見た姪二人は、にっこりその様子を眺めながらも上手く纏まりますように、と手を合わせて空へ祈るのだった。


    ⬛︎


     楽しい思い出を新たに作ったカジミエーシュから無事にロドス本艦へと戻って、沢山購入したお土産をその都度説明しながらオペレーターへ配ったり、離れていた間の仕事をこなしたりなどをしていれば、月日はあっという間に過ぎてしまう。
     しかし幾ら日が過ぎたとは言えども、ドクターの胸には未だにふわふわと浮ついた余韻のような感情が残っていた。初めにカジミエーシュ赴いた時とはまた違った雰囲気や料理、販売品の数々をふとした瞬間に思い出しては共にマーケットを回った三人も思い出してしまって、「ふふ」と笑うドクターの口からはあの街で聞いたメロディーが延々と奏でられている。

     ──そうだ。カジミエーシュと言えば。

     ぴたり、と軽やかな歌も動きも止めてドクターは考える。
     そう言えば、ムリナールに尋ねようとしていた料理を結局自分は作っていないな、と。かの人に調べて作ってみる、などと言った記憶はあるものの何となく気が引けて、事前に用意していたレシピを暫くの間見ないようにと机の奥底にしまい込んだような。

    「……作ってみようかな」

     あの国に行った事で意欲が湧いたのか、善は急げと言うようにドクターはくる、と回って行く先を変更する。
     購買部でも必要な材料が揃わなければ、ペンギン急便が何とかしてくれるだろうか。今艦内に滞在しているオペレーターを頭の中で数えながら、とりあえず購買部に向かおうとドクターは、自分が奏でる鼻歌の速度に合わせてその足を動かしていった。



    「普通に一日で揃っちゃったな」


     終業後、ドクターの私室にて。
     食堂から貰った為にブカブカなエプロンを着用し、少し大袈裟な位に腕捲りをしたドクターは腰に手を当てて、しっかりと用意したレシピを確認していた。決して手際が良いとはお世辞にも言えない腕前であるが、レシピがあればゆっくりでもそれなりに作れる。暗記にはそこそこ自信がある、と胸を張って、最後にじっくり調理法を眺めてから漸く調理へ取り掛かった。

     牛肉を一口サイズにえっさほいさとカットして、慣れない手つきでキャベツや玉ねぎなどの野菜もスライスしていく。玉ねぎの所為でポロポロと涙が落ちてくるが、構ってはいられないのでせっせと雫を拭って、下処理を終わらせる為にガンガンその手を動かした。
     色々切った具材を鍋の中でえっちらおっちら炒めて良い香りが漂って来た所に、調味料や赤ワイン、その他良く解っていないがレシピ通りに用意していたスパイスなどをぶち込んで、水分が少なくなるまでひたすら煮込む作業に入る。
     くつくつくつくつ、煮込み料理特有の美味しい匂いを洗い物をしつつ楽しんで、終わったら特等席で煮込まれていく具材達をドクターはジッと眺めていた。美味しい物が段々と出来ていく過程を見るのも好きだったから。

     完成間際の、でも未だ味の修正は可能という所で味見をする事にした。火を一度止めてから取り皿に少し分けて、くったりとした野菜と一緒に口に運ぶ。舌で転がし飲み込んで──うん? とドクターは首を捻った。
     美味しい。確かに美味しいし、きちんと出来ているとは思うけれど。何だか少し、物足りない気がする。
     うーんと唸って、でもレシピ通りなのだからこれが基本の味なのだろう、と完成に向けて再びコンロの火をつけようとして、「ドクター?」その手を止めた。「…ムリナール?」この低い声を間違いはしないだろう、と急いで自室の扉を開けに行く。何か緊急の用でもあったのだろうか。
     中へ招き入れて、取り敢えず座っていて欲しいと告げる為にドクターが来訪者の顔を見れば、ムリナールは目を丸くしながらドクターの姿をじっくり見つめていた。その様子に首を傾げるも「ああ!」と直ぐに思い至る。そう言えばエプロンをしていたのだった。

    「ごめんね不格好で。久しぶりに料理をしてみたんだ」
    「料理を?」
    「そう。これを作ってみたんだけど──あ」

     かさり、と態々本からコピーをした紙のレシピをよりにもよってムリナールの前に掲げて、しまったと思ったドクターの口から間抜けな声が漏れ出てしまう。しかし、時既に遅し。ムリナールはレシピにしっかり目を通して、部屋に漂う匂いも相まってドクターが何を作っていたのか、直ぐに判別して答えを口にした。

    「……ビゴスか?」
    「あー、うん。本で見てから、ずっと食べてみたいと思って作ってはみたんだけど…。ちょっと物足りないような気がして」
    「そうか。……貸しなさい」
    「え?」
    「ブカブカで今にもずり落ちそうなエプロンと、古そうなそのレシピを貸せ、と言ったんだ」

     口調は普段通りのムリナールのものであるのに、声の響きやこちらを見る眼が何となく優しくて。ドクターはてろん、と直ぐに脱げてしまったエプロンと、少しだけ皺の寄ってしまったレシピをおずおずと目の前の男に差し出した。
     ムリナールは受け取った黒い布を慣れた様子で手早く身につけてから、ドクターが作っていた鍋の前へと移動する。

     ビゴス。
     カジミエーシュの言葉で“狩人の煮込み”と呼ばれるらしいその料理はザワークラウトや肉の腸詰め、キノコなどをじっくり煮込んで作られる。所謂ソウルフードと呼ばれる位には親しみがある物らしく、煮込めば煮込む程に美味しくなると言われているのだとか。

     一度鍋の中身の味を見て、キッチンに並んでいた調味料を少しずつ足していくムリナールの横顔をドクターがぼけっと見つめていると、その視線に気づいたムリナールは目尻を下げて、今どんな物を入れ、どうして足したのか。その理由を教えてくれた。

    「これをあの二人に初めて作ってやった時、マリアがまだ幼くてな。普通のレシピだと微妙な顔をするものだから、甘さを足したりしてやっていた」
    「お砂糖入れたの?」
    「ああ。…好き嫌いも激しい子だったからな。野菜も少し小さくしたり、牛肉よりもソーセージやベーコンを多めに入れたり。今思えば、色んな小細工を試していた」
    「はぁー…。凄いね、ムリナール」
    「何年もやれば慣れるに決まっている」

     手際良く追加していくムリナールがとてもキラキラして見えて、ドクターは眩しそうに目を細めた。照明の所為もあるかもしれないけれど、何だかとっても輝いて見えたのだ。
     今のムリナールにだったら、少し調子に乗っても許されるだろうか。隣に立ってそっと鍋を覗き込んだドクターは、ドギマギと高鳴る心臓を抑えつつ、駄目元で以前聞こうと思っていた事をそろりと問うてみた。

    「……他に、入れたりしたら美味しい具材ってあるの?」
    「ん? 勿論ある。今ここには無いから入れないが、プルーンを入れても美味いんだ」
    「プルーン。…煮込むの?」
    「そうだ。ただ……」
    「何なに」
    「プルーン入りはゾフィアが嫌いだった」
    「あはは、子供みたいだね」
    「フン」

     今も十分ガキだろう。そう言いたげに鼻を鳴らしたムリナールがコンロの火を止めたのを見て、「完成した…!」とドクターは少し離れてピョンと飛び跳ねた。彼からお前も子供かと言う目で見られても、嬉しいのだから仕方無いだろうと開き直る。
     本当はもっと煮込みたい所だが、なんて言いながら味見用に取り分けてくれたビゴスを、ドクターは待っていましたとあち、あふ、と言いながら口に放り込んだ。先程味見した時よりも更にやらかくなったソレを咀嚼し、ごくんとしっかり喉奥に押し込めて。

    「美味しい!」

     思ったより大きな声が出たが知るもんか。だって本当に美味しかったのだ。
     レシピだけに頼るのでは無くて、食べる人間の舌に合うように作るのも重要なんだな、と実感する。これが彼女達が育ったカジミエーシュの──否、ニアールの味なのだろう、と。
     
     取り皿に分けられた分を直ぐに食べ終えてしまったドクターは、いそいそと鍋をコンロから降ろして蓋をし始めた。急なドクターのその動きにムリナールは怪訝な顔を隠さない。今食べないのであれば、もう少し火にかけられると言うのに。ジッと見つめる男の視線に気づいたのか、口元をふにゃふにゃしたドクターはムリナールに向けて、「ご馳走様」と告げてから降ろしてしまった鍋を指差した。

    「腹が減ったから作っていた訳では無いのか?」
    「そうだよ? でもこれは、貴方の味だから。……折角だから、マリア達と一緒に食べなよ。叔父さんのが一番美味しかったって言ってたし、とっても喜ぶと思うな」

     飛び跳ねて喜んでいたのが嘘のように、話せば話した分だけしおらしくなっていくドクターを、ムリナールは眉根を寄せながら見下ろしていた。
     とうとう俯いてしまった頭をフード越しにつるりと撫でてから静かな声で、「マリアとマーガレット。ついでにゾフィアも呼んで来てくれ」と呟いた。それに頷きで返答したドクターは、フェイスシールドをしっかり戻して部屋を出ていく。直ぐに消えてしまった小さな背中を、凪いだ瞳で見送ったムリナールはもう一仕事だ、と凝り固まった首をゴキリと軽く鳴らしてから、標準よりも大きな身体には些か低過ぎるキッチンに再び相対するのだった。


    ⬛︎


     どうしてこう言う時に限って、探し人たるオペレーターが見つからないのだろうか。普段は呼ばなくても来ると言うのに。
     立ち止まった廊下にてドクターは遠い目をしながら項垂れた。


     
     部屋から出て直ぐ、普通に歩いて居る内にゾフィアを見つけたドクターは、「私の部屋でムリナールが呼んでいるから行ってあげてくれる?」と説明も無いまま特大の爆弾を落として、凄い顔をしたゾフィアに勢い良く止められていた。

    「なに?」
    「もう一回言ってくれる?」
    「私の部屋でムリナールが…」
    「何で?」
    「何で??!」
    「どうしてキミの部屋にムリナールが居るの?」
    「ああ、そう言う…?」

     かくかくしかじか、自分が作ってた料理とムリナールが居る経緯全部まるっとゾフィアに伝えれば、背後に背負っていた宇宙を引っ込めて、少し前の表情とは一転した晴れやかな笑顔で、「直ぐに伺うわね! マリア達には貴方の口から伝えると嬉しさ倍増だと思うわ!」と伝えて、今にもスキップしそうな雰囲気を出しながらドクターの私室の方へと歩いて行った。
     
     次はどうしようか。ここからならマーガレットの部屋が近い筈だが、と判断してまたノソノソとロドスの中を歩きながら、一応端末で彼女が何処に居るか連絡をしてみる事にした。すれ違っては時間が勿体無い。
     部屋を目指している内にピロン、と手の中の端末が音を鳴らす。宛名を確認すれば案の定マーガレットからであったので、『ゾフィアとムリナールが私の部屋に居るから来てくれないだろうか』と一文を送って、返事を待つ為に立ち止まった。数分経って、端末の震え。

    「もしもし? どうかしたかい?」
    『ええと、ドクターの部屋に向かえば良いのか?』
    「そうそう。君達の叔父さんが呼んでいるんだ、ゾフィアも今向かっているから」
    『了解した。マリアにも伝えようと連絡を入れたが返事が来なくて…。どうやら部屋にも居ないらしい』
    「そうか、機械弄りの関係で誰かの話しているのかな。…私も探してみるよ、ありがとう」

     通話を切って、宛もなく歩き出す。作業部屋か、誰かの部屋か。いっその事購買部にでも行って、彼女が何か購入した後に行先を言ってなかったか、確認してみた方が良いのか。ロドスにある、色んな部屋を頭に浮かべて移動して、また浮かべて……。それを数回繰り返している内に、ドクターの体力の方が保たなくなってしまって。

     ゼイゼイと息を吐きながら遠い目をして項垂れる、という状況に至っている。
     一度自室に戻って、見つからないと説明した方が良いのだろうか。しかし、ムリナールの料理に一番喜びを見せるのはマリアである事は間違いなさそうなので、この状態で一人残すのも何だかなぁ、とぐるぐるグルグル考えて頭を抱えていれば。

    「あ! ドクター居たー!!」

     救世主こと本人が現れた。
     やっと見つかった、とドクターは息を吐く。彼女曰く、ドローンの性能について論議している途中で、ドクターが自分を探し回っているらしい、と聞いたそうで。誰か解らないがありがとう、持つべきものは優秀なオペレーターだ。聞いて直ぐに連絡を入れようとしたが、端末は部屋に置きっぱなしでドクターが居る区域を探した方が早い! とマリアはマリアでドクターを探していた、との事だった。

    「うう、ごめんねドクター…。それで、どうして私を探してたの?」
    「大丈夫だよ……。ええと、とりあえず私の部屋に来てくれる? ムリナールのご飯が食べられるよ」
    「叔父さんの?! 行く行く!」
    「じゃあ、早速向かってくれる? 私は──ん?」

     後で向かうから。続く言葉は、マリアがドクターの腕をがっしりと捕まえた事によって表に出る事は無かった。慌ててその腕を引き剥がそうとするドクターだが、貧弱な指揮官の腕力が少女とは言え曲がりなりにも重装オペレーターの力に適う筈も無く。しっかりガッチリホールドされたドクターは、抵抗も虚しく元気で可憐な無敵の少女にズリズリと引き摺られて行く。
     彼女達の邪魔をしないよう声だけ掛けたら時間潰しに散歩でもしよう、と軽く考えていた目論見がガラガラと崩壊していく様が頭の中にありありと浮かんでしまって。少しでも自身の気分を軽くする為に、ドクターは深い溜息を廊下の床に落としながら、連れられるがままに移動するのだった。



     自分の部屋の扉を開くのに、こんなに憂鬱な気分になるとは思いもしなかった。
     そろりそろり扉を開けてそっと顔を覗かせようと考えていたのに、隣のマリアが戸惑い無く普通に開けるものだから、ドクターの心臓がギックンと変な動きをしてしまう。頼むから私に猶予を下さい。
     もう自棄だ。少女を連れて中へ入ると、途端に嗅いだ事の無い香りがふわりと鼻を擽って、「ぁ、え?」と口から意味の無い音が溢れていく。ドクターが呆然と部屋の中を見渡せば、声をかけた二人がもう席について楽しそうに会話している。そして綺麗になったテーブルには──自分が作っていた料理の他に見慣れぬ食事が何種類か並んでいて、良く解らない光景にシパシパとフードの中の目を瞬かせた。

    「漸く来たのか。マリア、端末は常に持ち歩きなさい」
    「ご、ごめんなさーい…」
    「まあ、良い。早く席に着け、一番に来たゾフィアが待ちくたびれているからな」
    「ちょっと言い方」

     立ち尽くすドクターを置いて、マリアは「ご馳走だ!」と嬉しそうに素早く席に着く。全員が揃って、更に華やかになったテーブルをぼんやりと眺めるドクターの背を、いつの間にか背後に回ったムリナールがそっと押して席に着くように促していた。
     押されるままに引かれた椅子へと座って、目の前に置かれた食事を見つめる。揃ったのだから、と各々食事の挨拶をするのに釣られドクターも慌てて「いただきます」と呟いた。

    「美味しいー! やっぱ叔父さんのコレが一番だね!」
    「ちゃんとライ麦パンもある、ドクターが買ったの?」
    「う、うん…」
    「叔父さんピエロギも作ってくれたのか? 凄いな……」
    「そうだ、すまないドクター。冷蔵庫にあった材料も使ってしまった、後で購買部で買って来るから足りなかったら教えてくれ」
    「え、ああ。大丈夫だよ、使う予定なかったから、逆に有難いしね」

     ピエロギ。カジミエーシュの食事を調べる中で、その名前を見た覚えがある。
     もちもちとした皮に包まれている料理のようで、何だか少し可愛らしい。一口食べて、笑ってしまう。さっきも思った事だが、だって本当に美味しいんだもん。
     楽しそうに話す面々を見つめながら、雰囲気に流されたドクターも口いっぱいに頬張ってもぐもぐにこにこ食べ進める。その内に、にんまりと口の端を歪めているゾフィアが愉快そうに話しかけてきた。

    「キミのお陰で、一足早いクリスマスの気分ね! 肉があるし聖餅オプワテクも無いから気分だけだけど」
    「おぷ…、何? なんでクリスマス?」

    「カジミエーシュの人にとって、クリスマスと言うのは大抵家族と過ごすものだからな」
    「そう言えば、この日だけは叔父さんの帰りも早かった気がする」
    「そうだねー。だからクリスマスは嬉しかったなぁ」

     話しながらも「ほら、これも美味しいよ!」「沢山食べると良い」などとせっせと勧めてくるマリアやマーガレットに構われながら、ドクターはとうとう山盛りになってしまった皿とムリナールの顔を交互に見やる。何やかんや一緒に食べてしまったけれど、彼はこれで良いのだろうか。
     己を見つめる不安気な視線に気付いて顔を上げたムリナールと、ドクターの目がバッチリ合って。そして穏やかに微笑まれた。眉を下げ、ともすれば苦笑にも見えるような、けれどもその目元は優しく綻んでいる、そんな顔を向けながらムリナールは口を開く。

    「お前が探し、自ら作る味の中にカジミエーシュの──いや、ニアールの味が候補に入ってくれれば幸いだ」
    「……貴方はそれで良いのかい?」
    「ああ。どうかこれからも、沢山味わって欲しい」

     柔らかく告げられたその言葉に、ドクターの目元がぶわりと熱を持つ。余りに幸福で、涙が出てきてしまいそうだと慌てて冷たい水を口に含んだ。こんなに暖かな雰囲気に包まれているのに、自分の所為でこの場を壊してしまうのは嫌だ。
     色んな感情を水と一緒に飲み下して、ちょっと咳き込んでからドクターは再び幸福の席へと向き直る。そして、キョロキョロと忙しなくムリナールとドクターの顔を見るマリアと目が合った。もしや、泣きそうなのがバレたのか。
     平静を装いながらもドクターがどうかしたのか聞いてみると、マリアは何やら興奮した面持ちで抱いてしまった疑問を、己が叔父へと勢い良く投げていった。

    「ドクターが叔父さんのお嫁さんになるって事?」
    「マリ──いや、ブレミシャインさん?」
    「やだ、何でそっちで呼ぶのドクター? え、だって叔父さんの味をドクターが教わるんでしょ? 私、ドクターが家族になるの嬉しいなぁ…」

     豪速球ストレートが過ぎるその問いに、ムリナールでは無くドクターが口を挟んでしまった。いやだって、まさかそう来るとは思わないだろう。お嫁さんって。
     かっ飛んでしまったマリアの思考回路をどうにかしなければ、とあたふたと焦ったドクターがムリナールを見つめれば、男は一つ頷いて。

    「……そうだな。色々すっ飛ばしたがそういう事だ」
    「ムリナールさん?? え? ちょっと??」
    「…まぁ、キミ達が良いなら良いけど。家の何処かに、レシピ纏めたの合った気がするから、見つけたら持ってくるわね」
    「ウィスラッシュ?」
    「駄目だぞ、ドクター。家族になるなら名前で呼ばないとな」
    「ニアール??」
    「ドクター、全員がニアールだ。今後はお前も含めてな」

    「え、あ、その……。ふ、不束者ですが…?」

     勢いの余り頷いてしまったドクターを他所に、カチンとグラス同士がぶつかる音が響く。ちょっと皆で乾杯を始めないで欲しい、頼むから私にも考える時間をくれ。と、言うか──。

    「わたしのこと好きなの……?」
    「私が冗談でこんな事を言うとでも? ……すまないが、告白はまた改めてさせて欲しい。まさか私も、マリアにこう言われると思って無かったんだ」
    「そ、そう……。私も、貴方が好きだよ」

     皆が乾杯と騒ぐ中で態々近寄って来てくれたムリナールに問い掛ければ、真顔で頷いた後残念そうに項垂れていた。別にロマンチックなアレソレは求めて無いんだけどなぁ。互いに好き合っている事が解っただけで、十分嬉しかったので。
     これが夢ではありませんように、と願いを込めてどうやら自分をお嫁さんにしてくれるらしい男に、ドクターも今言える最大限での好きを伝える。ちゃんと、聞こえただろうか。
     
     ぽそぽそと小さい声で、けれどもしっかりと伝えられたその好意にムリナールはとろりと目を細めてから、「私も、貴方を愛している」とフードに隠された耳元で低く囁いた。ところでドクター。
     
    「……キスをしても?」
    「皆がいるからダメ!!!!!」

     
    ⬛︎


     後日、ムリナールから仕切り直しのキチンとした告白をされ真っ赤になりながらも了承し、晴れて恋人になった後あの時の食卓にいた面々から、飛んでもない勢いで祝われて。ソレがやっと落ち着いた頃に、ドクターは改めてカジミエーシュでのクリスマスの祝い事の話を聞いた。

     カジミエーシュの伝統の一つに、クリスマスの食卓に一つの空席を用意する、と言うものがあるらしい。“見知らぬ人を家族のように迎え入れ、そしてもてなす”という古い伝統。「今年のニアールの空席は、もう埋まってしまったがな」と、しれっとまるで他人事のように言うムリナールに、既に外堀がガチガチに埋められてたんだな、と生暖かい視線を向けながら聞いた話だった。

     家族の“よう”にが外れ、本当に家族になるまでに自分はどれだけの味を受け継ぐのだろうか。

    「ねぇ、フリストン」
    「うん? 何だい、ドクター」

     すぐ側の機体から呼ばれるのにも慣れてしまったな、とドクターは思う。
     最初の頃はあんなに違和感があった筈なのに、今は呼ばれない方が居心地が悪いだなんて。フェイスシールドの下で口をモニョモニョと動かしながら、やっとドクターは話を切り出した。
     
    「……あのね、この大地でさ。私の家族が、増えたみたいなんだけど。…どう思う?」
    「そうなのかい?」
    「うん。配偶者と、姪が二人と…。あれ、私から見てゾフィアは何になるんだろう……? と、とにかく沢山増えたんだ」
    「…ふむ、ドクター。君が以前、私に質問した時。その最後に私が言った言葉を覚えているだろうか」

     最後の言葉。ええと、ミュルジスに話に行く前。確か、あの時は──。

    「良い旅を、と言っただろう? 君が“ドクター”としてその旅を終えるまで、経験することは文字通り山程ある筈だ。勿論、家族が出来る事もね。素敵な家族や僕達と共に、訪れる苦難を乗り越えて行くと良い」

     この人は本当に──優しい機械だ。
     無機質な音声の筈なのに温かみを持った声を聞いて、ドクターはフリストンと目を合わせる。正確には目のマークが書かれたレンズを、だが。
     そうしてジッと見つめ合う内に、何だか目の前の機械が微笑んでいるように見えて。ドクターは照れたようにガリガリと頭の後ろを掻くのだった。



    その味は想い出となって
    (君の友人にも一言言っておかないと拗ねるんじゃないか?)
    (勿論言うさ。でも何か、ムリナールの事を睨むんだよねミュルジス)
    (…逆では無くて?)
    (うん)
    (……もしかして君、キャラメルとやらを彼にあげたかい?)
    (あげたよ? え、それ?)
    (もう既に拗ねていたようだ。早く行くと良い)
    (うーん、しょうがないか)
    (ふふ、良い旅を)

     
     
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    Replies from the creator

    白い桃

    DONEカリオストロとか言う男なに?????????
    どすけべがすぎるだろあんなん好きになっちまうよ……
    尚私は巌窟王さんが一人来るまでに何人かカリオストロが重なれば良いかなあと思ってガチャに挑んだんですが……
    結果は250連でカリオストロ7人、巌窟王が1人でフィニッシュとなりました
    おかしいって…二枚抜き二回とかくるのおかしいって……だいすきなのか私のこと…ありがとう……
    伽藍の堂の柔らかな縁注意!

     ぐだお×カリオストロの作品となっております
     
     伯爵や他キャラの解釈の違いなどがあるかもしれません

     誤字脱字は友達ですお許しください

     ぐだおの名前は藤丸立香としていますが、個人的な感覚によって名前を“藤丸”表記にしています
     (立香表記も好きなんですが、作者的にどうも藤丸のがぐだおっぽい気がしてそのようになっております)

    以下キャラ紹介

     藤丸立香:カリオストロの事が色んな意味で気になっている
     カリオストロ:絆マフォウマ、聖杯も沢山入ってるどこに出しても恥ずかしくない伯爵。つよい。最初以外は最終霊基の気持ち
     蘆屋道満:藤丸からはでっかいネコチャンだと思われている。ネコチャンなので第二霊基でいてほしい、可愛い
    21966

    白い桃

    DONEドクターがとっても好きなイグセキュターと、そんな彼に絆されたけど自分もちゃんと想いを返すドクターのお話。

     
     先導者の時もカッケーとは思っていましたが、そこまで推し!って程じゃなかったんです。
     イベントと聖約イグゼキュターに全てやられました。めっちゃ好きです。天井しました。ありがとうございました。
    その唾液すら甘いことその唾液すら甘いこと


     ラテラーノに暮らすサンクタは、その瞳まで甘くなるのだろうか。
     否、もう一つ追加する箇所があった。瞳だけではなく、声まで甘くなるのだろうか、とロドスのドクターはラテラーノにおわすであろう教皇殿に抱いてしまった疑問をぶつけたくて仕方がなかった。何故かと言われれば、自身の背後に居るサンクタ──イグゼキュターの視線もその声色も、入職当初とは比べ物にならない位に、それこそ砂糖が煮詰められているのか? と言えそうな程に熱が込められているからなのだけれど。
     
     教皇に問い合わせれば執行官とかのクーリングオフとかって受け付けてるのかしら。若しくはバグ修正。他の子達に聞かれたら大不敬とかでぶん殴られそうだな。なんて余計な事を考えながら、手元の端末を弄っていれば後ろから「ドクター」と名前を呼ばれたので振り返る。
    9032

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