君の背に、さよならではなくおはようを 注意書き
私が書いた創作でのAI学習及び、無断転載はおやめ下さい。
ウルピアヌス×ドクターの二次創作になります。
当社比で結構甘めに書けましたので、苦手な方はご注意下さい。
口調、表現部分で至らない点が多々見られると思われますが、それでも大丈夫な方はどうぞ、読み進めて頂けると幸いです。
やあ、こんにちは。
私はこのロドス・アイランド製薬に数多く存在する部署の中で、主に作戦部に身を置いている者──此処に在籍している全員からは〝ドクター〟と呼ばれている人間だ。
情けない話だけれど、戦闘能力も優秀なアーツも、頑丈かつ屈強な肉体も持たない私は、ほぼ唯一の取り柄として頭脳労働、他のオペレーターたちに戦場での指揮や部署の名の通り作戦を立案することが殆どであり、一応は役職に就いている身であるからして、ちょっとした雑務などを秘書に頼ってしまうことも少なくはない。
秘書は、誰か一人として固定はせずに一定の周期で担当を変更して貰うよう、その時に本艦に居るオペレーターでシフトを組むか、オペレーター個人の予定の兼ね合いや私自身の要望を含め、検討してから依頼し、そのあと請け負って貰う、なんてこともあるんだ。滅多にはしないけれど、個人的に選びたいと思う人はいるよ。例えば、私の恋人である人物、とかね。
───うん、そう。
その恋人さんも、此処のオベレーターとして一応登録はされているんだ。
えっと、彼は一見解り難い表情と態度の所為で気難しく、そして怖い人だと思われてしまうことが多いんだが、実はとても優しい人間でね。睨むように此方を見ている時だって、なんだかんだ私を案じて、気にかけてくれているんだけれど……一つだけ、満足がいかない事柄があるんだ。
本当に小さくて、些細な不満。それは──晴れて、恋人同士という甘い、素敵な関係になれたのに。余りに二人で過ごす時間が取れない、ということなんだ。
そりゃあ、私も彼も、どうやったって元々背負い込んでいた忙しさが急に変化するはずもないし、況してや彼の方が危険かつ大変な立場、状況にある解りきった事実も、勿論念頭に置いているとも。けれど、やはり人間である以上は寂しい、恋しいと想う心はそう簡単に「はい、そうですか」と切り替えられはしないだろう?
この、彼には言えない、ちっぽけとはいえ一度刺さってしまったら中々抜けない棘のような不満。悩みと言い換えてもいいソレを、私はどうすれば解決まで持っていけるのだろうか──なあんて。
────
「能天気に、誰か……若しくは本人に言えたら良いんだけどねえ」
秘書が席を外している、実に穏やかな昼下がり。
職務をせっせと熟していた褒美として与えられた休憩の時間に、ドクターはポツン、と一人寂しく静かになってしまった室内で、そうひとりごちていた。
脳内で、誰かに語りかけるかのようにしながら、こうもドクターが悩んでいる理由、というか原因は恋人──アビサルハンター、ウルピアヌスで間違いはない。そこに違いはないのだが、元々持っていた不満をより大きく成長させる切っ掛けとなったのは、同じハンターであり彼の僚友でもあった、グレイディーアが発言した内容の所為であった。
西へ東へ、北へ南へ。
いつだって移動を、歩みを止めない故に、基本的に何処に居るのかも把握することが難しいウルピアヌスを除いた、他のアビサルハンターたちに対処を任せた任務。
海辺に近く、恐魚の姿が確認されているから、と頼んだそれを容易く終わらせた彼女らは、普段通り第二隊長であるグレイディーアをリーダーに据えて行動していたのだろう。終了の際の報告のためにドクターの元へ颯爽と現れたのも、リーダーの彼女一人のみだった。
することが報告という最終業務である以上、ゾロゾロと他者を連れ歩く必要もないのだから、残りのハンターたちが来なかったということに不満も文句もありはしない。いつも通り報告を聞いて、労りと感謝の言葉をかけて別れるだけの、日常と呼んでも過言ではないそれが、今日は少し違っていたのが始まりだった。
淡々と、イベリアの岸の向こうにある海水と同じくらいに冷たい声色で語るグレイディーアに、ドクターは時折相槌を打ちながら、用意していた書類の隙間を一つひとつ埋めていく。
戦闘指揮は、現地の映像や通信などを見聞きして行なっているが、綿密に作戦を立てるには現在の地形、気候や現地の特徴などを、誰よりも知っておかなければならないのだ。事細かに書き連ねれば連ねるほど、効率も成果も段違いに上がる。自分が解るように、そして自分以外の誰が見ても、なにを重要視すれば良いのか、判断がつくように。
そうやってペンをサラサラと澱みなく動かすドクターを声と同様の冷めた、正面から見ても大して温度を感じない瞳で見下ろしていたグレイディーアであったが。最近のドクターがお気に入りの、ペン先が0.3mmになっているボールペンの動きを目で追ったあと、ふと思い出したように「そういえば、」と珍しく、報告ではなく世間話のためにつるりと潤った唇を開き始めた。
「あの男と、親密な関係になったそうですわね。一応は……お祝い申し上げますわ、ドクター」
まるで親族を代表しています、みたいな言い方に流水が如く動き続けていたペンはぴたりと止まり、静かで一定の呼吸しかしていなかった男は、想定していなかった話題の提供に、ごふ、と勢い良く咳き込んだ。
「っ、ごほ、だ、誰が──?」
「私はサメから。サメは言わずもがなシャチに、そしてシャチは……偶々居合わせたご本人から聞いた、と言っていましたけれど?」
「本人って……ええ?」
「……私たちと彼の、現在の関係性がどうであれ。このロドスに居る以上は中立という立場を守らなければなりませんもの、多少の会話だってするでしょう。アレも、此処で過ごすにあたっては、貴方の指示を聞くオペレーターの一人でしかないのですから。まあ、シーボーンとして暴走した時には、貴方の目を汚す前に即刻処分致しますので、ご安心下さる?」
「安心出来るところが、あんまりないかな……」
ドクターは、今すぐにでも獲物を仕留めに行きそうな彼女を諌めて、シーボーンになった彼を想像するのも嫌だけれども、死体を思い浮かべるのも同じくらい嫌な気持ちになるなあ、と勝手に脳裏で作り上げた無惨な様子をブン、と頭を揺らし振り払った。
こうも簡単に気取られるほどの動揺を見せなければ、グレイディーアもより深く、ウルピアヌスと自分の話題を掘り下げることもなかったのだろうか。しかし、こういった内容を誰某に話した、というプライベートなことを話すために、貴重な彼の時間を貰い、そして無駄にするのも気が引ける。
などと、受け取った情報の処理に困りながら、コツコツとペンでデスクを叩いているドクターを見て、貴方に醜態を晒すのであれば刺し殺すのも厭わないと宣言したグレイディーアは、あら、と彼女にしてはとても解りやすく、意外だとでも言いたげな表情をしていた。
自身の感情などは表に出さずにいるとはいえ、周りの反応や機敏に聡いと思われる我らが親愛なるカジキ殿は、ドクターともう一人の間にある、ほんの少しだけ空いた隙間を敏感に感じ取り、そして大凡ながらもその距離感を見事に測りきった。しっかりと測ったうえでウルピアヌスのためならず、あくまでもドクターに対しての助言として、思ったこと全てを言葉に込めていく。
まさかあのグレイディーアが、と思うなかれ。彼女は──エーギルは、自身が認め、懐に入れた者には大層甘くなるのだ。況してやそれが、特に手のかかる稚魚みたいな弱っちい人間が、身内や隣人であればあるほど余計に、対象者からはお節介だと思われたとしても、なにかをしてやりたくなってしまう。
そんな抗い難い感情が導く行動の指針は、冷え切った海を体現しているような佇まいのグレイディーアとて例外ではなく。ただ単に他のエーギルと同じ感性を、アビサルハンターとして生きる彼女だって同族に倣い、他族が見れば判定がどうにも甘ったるい、海に生きる者特有の性質を有している、というだけのことだった。
「もっと、あの男を頼っても宜しいのではなくて? 彼は光栄にも貴方の生涯に寄り添う、唯一の雄となったのですから」
「お、おす……? ひえ、」
グレイディーアの言葉を聞いたドクターは手を口元にやりながら、フェイスシールドで隠れているのに感情を全く隠せていない声色で小さく、恐れ多いとでもいいたげな、けれどそれを更に上回る喜びを胸いっぱいに抱えています、などといった、変に上擦った悲鳴をあげている。
そんなお可愛らしい反応をする指揮官に、今度はグレイディーアの方が困った顔をしてしまった。とはいっても、関わりのない人間が見たところで、普段との相違は全然判別出来ないくらいの微々たる表情の変化であったが。
もしも、グレイディーアの取り扱い説明書なんてものがこの世に存在するのなら、自身の発言になにか可笑しな箇所でもあったか? となっているのがどうやっても解ってしまう、まるでお手本のような困惑の仕方であった。
「ドクター? どうかされたの?」
「いや、その……彼は……ウルピアヌスは、一人の男性として優れているし、魅力にも溢れているだろう? 体格も、頭脳も。顔や声──アほら、歌……芸術にだって秀でている」
「はあ……私にはさっぱり解りませんし、理解しようとも思いませんが。確かに言い寄る、目を光らせていた雌は多かったように思いますわね」
「うっ……や、やっぱり……? でも、でもさ。そんな彼が〝私の唯一〟と、他でもない君から言われるのが、なんだか照れくさいけど凄く嬉しくてね。変な顔しちゃった、へへ……」
「……両者の過去や遍歴はどうであれ、今の貴方だって彼の唯一になるのですけれど?」
時間をかけて告げられた随分なコメントに、呆れながらも純然たる事実を改めて眼前に突きつけてやれば、途端に「エッ……?」と浮かれていた雰囲気を萎ませて、おろおろと視線を彷徨わせる恋愛初心者に、グレイディーアは内から湧き出た二酸化炭素を、堪えることなく唇から吐き出した。
「私の唯一……彼がそう呼ばれるのは、なんかヤだな……。こんなちんちくりんが君たち、優秀なエーギルたちに呼称されるのは、彼が気の毒だというか……失礼や、迷惑にならないかい?」
「ああ、なるほど。気にしていらっしゃるのはそこですのね。ひ弱でか弱い命をつがいとしたのなら、迷惑などかけられて当たり前、遠慮などというものは放り捨てて、甘えたいだけ甘えれば良いでしょうに。もう、そんな顔をしたままあの男に『自分は貴方の唯一ではない』とほざいてご覧なさい? 次の瞬間には押し倒されて……堪え性のない鯨に丸呑みにされていますわよ、貴方」
「え、ええ……?」
物騒過ぎる忠告を受けたドクターは、混乱と動揺、それから羞恥に塗り潰されそうになった自慢の脳味噌を回しに回して、己とウルピアヌスの行動を顧みることにした。恋人に愛されていると自信を持って、それを言えるようになったなら、彼へ向かう迷惑だとかを考えなくなる姿勢──つがい、唯一としての自覚とやらが身につくのかもしれない、と。ならば、先の彼女の言葉だって、確かに一理あるような、ないような。
ぐらぐら揺れ動く思考を抑えつつフェイスガードの下で、『別に触れ合わない訳じゃあないし、互いを思いやる言葉が不足しているとか、すれ違っているような感じもないんだよな』の顔をしながらも、グレイディーアの発言の通りに丸呑みにされては、自分がすっかり参ってしまうので。
自らの身を守るべく、回想の沼に頭をずるりと沈めていく。彼の男からの愛を浴びるのが、当たり前だと自覚するためにも、これはきっと必要なことなのだと言い聞かせて。
──恋人としての触れ合い。
例えを挙げるのなら、そう。人気のない廊下で声をかけられた、あの日の出来事などが良い例であろうか。
────
「振り返るな」
厳重なセキュリティが施されているロドス本艦内とはいえど、ぼけっと気を抜いて佇んでは染み一つ確認出来ない天井を見上げ、眺めていたドクターの背後から、潜めた声と共に大きな影が覆い被さった。
なんの心構えもなしに自身のすぐ後ろで囁かれて、驚きのあまりカチンと動きを止めてしまう。しかし、固まる体とは裏腹にその脳内は水を得た魚のように、意気揚々と働き始めた。
声をかけてきた彼──ウルピアヌスが、こうして自分にすら姿を晒さずに話し始めるということは、矢継ぎ早の報告しか行えないほどに、今回の邂逅には時間を割く余裕がなかったのだろう。
決して大きな声をあげず、頷きだけで男の報告に相槌を打っていたドクターは、耳に馴染む掠れた低い声の中に微かながらも疲労が混ざっていることに気がついた。過去は己と似た研究者らしい体格であったようだが、屈強な身体を得た現在は体力なんてものは満ち溢れているであろう彼は、上部だけでも取り繕うことすら面倒になるくらいの疲労を背負っているらしく。
どうすれば、少なく、限りある時間でウルピアヌスの疲れを癒せるのだろうか。簡易でもリラックス効果を得られる行為──そういえば、ハグには興奮や緊張を緩和させる効果があるというが、それはエーギルにも通用する方法であるものか。行動に移したとして、特になんの成果を得られなかったとしても「再会を祝したハグだ」とかなんとかいって、行った理由を私の気分の所為にしてしまえば問題もない。
ええい、ままよ! と言わんばかりに、けれどもそこそこに恥じらいは持ち合わせて、ドクターは声を振り絞る。
「その、一度だけ振り返っても良いかい? 声だけでなく、君の顔を見て……抱き締めたいんだ。君も随分疲れているようだし……駄目、だろうか」
指を擦り合わせながら、ポツポツ提案も乗せて要望を伝えるドクターの言葉に、ウルピアヌスは面食らうも本当に時間がなかったのか、彼がイエスの形でその声帯を震わせることはなかった。その代わり、なんて気持ちがあったのか「悪いが、今は時間がない」という謝罪に次の約束を重ね、自身よりも幾分か低い位置にある肩に、ポス、と大きな手を乗せている。
「これだけは直接報告せねば、とお前の元に戻って来ただけで、すぐにでも此処を発たんと今後の行動に支障が出てしまう。……また来るその時には、もう少し余裕を作ると約束しよう」
口元が布で遮られているのもあってか、ボソボソと籠る声でそう告げたあと。
人気がなくとも人目を気にしている男はほんの一瞬だけ、肩に置いていた手を細っこい胴へと回し、片腕ではあるものの力強くドクターの身体を掻き抱いてから──自分の口布越し、そして腕の中で混乱している彼のフード越しに、綺麗な丸みを帯びている後頭部へ口付けを落とした。
リップ音はなく、互いが身につけている分厚い布越しであるが、それでも柔らかい感触が頭に伝わったドクターは、拘束されつつもピャ! と飛び上がる。キスされた箇所をペチ! と抑えて振り返るが、既にウルピアヌスの姿はなく。しかし、一瞬の戯れの際に「ふ、」と思わず漏れてしまったような笑い声だけは、フードにすっぽり隠されている耳にしっかりと届けられていた。
数秒も経っていないし、ハグとも呼べない行為だったけれど、少しは気分転換──癒しは提供出来たのかしら。
「あ、ドクター。こんなところに居られたんですね!」
態々自身の足で指揮官を探しに来たオペレーターが、やっと見つかった、とドクターに声をかけた時。何故だか異様に照れている仕草をしているドクターだけが、廊下に取り残されていたのだが、真実を知る者はこの大地にたった二人しか居ないのであった。
このように、逢瀬と呼ぶには短過ぎるが、奔走している者なりに会って話し、触れては向こうから触れられることもあるし、思いがけず時間が取れた暁には、これ以上に引っ付き合う、なんて状態になったりもするのだ。稀に、自分が覚えていない事態もしばしばあるのだけれど。
あれは、確か。
あらかじめ決めていた予定より、遥かに遅くなった時間帯。自分がうつらうつらとしているうちに、そのまますっかり睡魔に負けて眠りこけてしまった日、であったはずだ。
────
その日も、ハンターたちやロドス、ドクターの近辺やシーボーンについてなど、日が経つにつれて目紛しく変わっていく状況や、ウルピアヌスの身体と意識の変化、海底で動いている故に気づき得た情報の数々を、ある程度纏めて話すべく。
ドクターは男が訪れるその時間になるのを私室のデスクにて本を読んだり、調べ物をしたり、と暇を潰しつつ今かいまかと待ち構えていたのだが。
日頃の疲れ、不摂生。積み重なったそれらに耐えきれなかったらしい彼は、かく、かく、と小刻みに頭を揺らしながら眠ってしまったようだった。ぴす、と見えない鼻から鳴っている間抜けかつ下手くそな呼吸音と、時計が規則的に動いている証明である、カチコチ響く秒針の音。
そんな微かな音しか存在しない室内の空気を邪魔しないよう、物音一つ立てずに侵入した人物は、椅子に座ったまま眠っているドクターのそばに立ち、健やかに寝息を立てるその人の様子をじっと伺っている。
やがて、ちょっとやそっとでは起きることはないと判断したのか。侵入者であるウルピアヌスは、今夜の内に情報を共有することは叶わないだろう、と椅子から今にもずり落ちそうになっている痩躯を容易く抱き上げた。
勝手など幾らでも知っている、とでもいうように寝室へと続く扉を開けて、ベッドに辿り着くまでの道中で厚手の防護服を剥ぎ取ってやってから、本命である柔らかなベッドの上へと軽い身体を横たえる。一度や二度では習得が困難な、もし他者が見る機会があるのならば、幾度となく繰り返したことがあるのだと理解出来る、といった感想がぽろりと漏れ出てしまうであろう慣れた手つきだった。
流れる動作で頭に触れて、揺れる髪を撫でつければ。厚い手のひらの硬さと温度に気がついたドクターが閉じていた瞼をゆるりと開いて──とろとろ纏わりつく微睡みにその身を浸しながら微笑んだ。
急いでロドスへと来てくれたウルピアヌスだって疲れを心身に宿しているはずなのに、甲斐甲斐しく此方の世話を焼こうとする彼の姿を、ポヤポヤとした寝ぼけ目で見るのがドクターの、誰にも言っていない、実はひっそりと好んでいるものの一つであったので。『ああ、今日も迷惑をかけている』と睡眠欲に支配されている頭で申し訳なく思いながらも、くふくふ屈託なく笑って厳しい、大きな鯨殿に黙って身体を預けている。
ドクターが一応はその目を開いたのを、しっかりと目にしたウルピアヌスが溜息を吐きつつも、もう一度、今度は態とにくたりと力を抜いているドクターを抱えて浴室へ移動するのが。
髪を一房とって、顔を顰めたかと思えば太い腕で身体を固定したまま、不健康故にパサついた髪を手櫛で丁寧に梳き、意外と器用な指先を使って凝り固まってしまった頭皮を優しく解し、洗い、穏やかかつ適温の流水で濯いでいくのが。
やわやわと決して潰さぬような力加減でもって、備え付けられたふかふかのタオルで水気を吸い取りながら、流石に乾かすまでは出来ずとも水滴の一粒も残さないくらい、肌や髪から水分を吸い上げたあと。早急に潤いが失われていく額や頬に、その辺に転がっていたらしいケア用品を手に取って、産毛を手慰みに擦り上げては、ぎゅむぎゅむと保湿のための栄養を押し込んでいく、彼の手の温度が、注がれる瞳の優しさが、ドクターは好きだったから。
嫌がりもむずがりもしないで、弱火でずっとくつくつ煮込まれ続けているみたいな安寧の中で、とろとろとされるがままになっているのだ。
寝巻きを着せ、やっと身支度を終えた稚魚にも似たつがいをウルピアヌスは己の膝に乗せ、より力の抜けた身体を支えながら、これまた器用にも小さく一口大に千切ったふかふかのパンを、うっすら開いた口元へ運んでいる。
ちっとも退いていきやしない眠気と、遅れてやってきた温かさによってふにゃふにゃになったドクターは、唇に宛てがわれたものを疑いもせず、素直に柔らかいそれを喰んで、やわやわ咀嚼しこくんとゆっくり飲み込んではまた、かぱ、とちいちゃく甘えるように口を開き始める。彼はそんな動きに応えるべく、再び頼りない柔さの食物を再び千切り取っては、優しく欠片を詰め込んで──さながら給餌的な姿を見せていた。
疲れきった、ふわふわした意識になっていたうえに、空腹まで満たされてしまったことで眠気が一息に身体中に回り、すこんと深い眠りに落ちてしまったドクターの、普段の様相からは伺えない間抜けな表情と、ひ弱ながら力いっぱい服を鷲掴んでいる痩せた手を、ウルピアヌスは物柔らかな瞳で見つめている。
さりとて彼も、いつまでもこんなつがいにかまけた安穏を過ごしてなど居られやしない。
成さねばならないこと、屠らなければならないものは多く、行動するたびに消えゆく時間は例えどれだけ集めても、決して足りることはないのだから。それに、ずっとこんな体勢でいては腕の中の生き物は次の日の朝、身体を痛いと唸り始めるのだろう。という幼子もびっくりな配慮も持って、今度は起こしてやらぬよう努めて抱えた身体をベッドへと運んでやる。
それから、暫しの間腕を組み、考え込んで──サイドテーブルに置いてあったメモ用紙、低品質で量産されているが故に、廉価で売られているのであろう商品特有の書き心地を味わいながら、何事かをサラサラと手早く書き残し、男はまた暗闇にその巨躯を沈ませていった。
さて、沢山世話をされ、可愛がられ慈しまれてから数時間ほど経った頃。
日常とは比較するのも烏滸がましいくらいにかけ離れた、とても質の良い睡眠を取ることが出来たドクターが、大きな欠伸がおさまったあとにキョロキョロと、ウルピアヌスが居た痕跡を探してみれば。小さな紙に神経質そうな字体で書かれたメモが、ベッドのそばに置かれていた。
『自らの面倒を自分で見られるくらいの体力は残しておけ。食事を摂らせ、シャワーを浴びせもしたがあくまでも簡単にしかしていない。特に食事の方は、起きたらしっかりと摂ることを勧める。今回の来訪では此方から特出すべき話題はない。ただ、時間が確保できた分其方の状況、そしてハンターたちとお前の様子を確認するために訪れただけだ。事態の悪化と俺の変化、その両方に異変がなかったことを喜ぶと良い。次こそは、お前の声を俺の耳に届けてくれ』
今にもあの低音が聞こえてきそうな文字の羅列に、ドクターの唇がふにゃ、と吹き出す手前の変に歪んだ形になる。
案じられているのが解る文章と、最後に綴られていた直球な願いに、心と口元がむず痒くなってしまったのだ。優しさと想いが存分に詰まったメモを、邪魔にならない位置に引っかかっていた防護服のポケットに突っ込もうとして──思い直して、紙を手にしたまま行先を変える。
ポケットの中へ雑に入れるのではなく、その代わりに私室の、昨晩自分が寝落ちていたであろうデスクの引き出しに、丁寧に角を合わせて折り畳んでから、損じないようしまい込んだ。
これでいつでも読み返すことが出来る。こういったものの積み重ねが、険しい日々を乗り越えていく上での糧に。ふとした瞬間に出る、互いの会話のネタや、記念にもなるだろう。そう、それこそ──生きて歩み続ける、人間の記憶みたいに。
フン、フーンと陽気に鼻歌を奏で、身支度を整えなければと緩慢な動きでペタペタと歩き出す。まずは、寝癖をなおすのと眠気を飛ばすという名目でシャワーを浴び、ウルピアヌスの言いつけを守り食事も摂って。ついでに余裕が出来たのならば、喉の調子も万全にしてから、彼と会う日を待とうじゃないか。
ドクターはちょっとした思いつきも自分の胸にしまっては、湯気も温度もなにもかもが既に消え去っている浴室の扉を「さむ、」と文句をつけつつノロノロ潜っていった。
────
そういった過去、ぽんぽん即座に浮かぶ回想に耽ることが可能なくらいには、恋人としての蜜月とやらを。
顔を見る機会が少なくたって、触れ合ったり、注がれる想いとその濃度を実感する頻度はそこそこにある、はずなのだが。
けれどもやっぱり、寂しいもんは寂しかろうと。甘ったるい関係にのめり込んでいる以上、そんな感情を抱いてしまうのは許して欲しい。だって我々は恋人同士なんだもの。
もっと長時間、出来るのならば自分の意識が明瞭な時に、まるで磁石が埋め込まれているのでは? と言われてもいいから、ぴたりとそばに引っついていたいし、あわよくばゆったり話し終えたあとに彼の隣で眠って、そのまま一緒に朝を迎えたい。彼の、ウルピアヌスから『おはよう』を聞いて、『おやすみ』の声でベッドの中に潜りたい。
なんて願いを、一度も考えたことなどなかったのか、と問われれば。そりゃ当然、数えるのが億劫になるほど考えたことがあるに決まっている。それは自身のみならず、愛しい者が居る人間であるならば誰もが考えつくことだろうから、とドクターはぞろぞろ連ねた言い訳を頭の中に浮かべるが──彼女、グレイディーアの〝唯一〟だとかいう発言を聞いたあとであっても、言い訳やちょっとした願い全てを否定するような思考が、胸の奥底から頭を擡げ、胸中をずるずると這い回っていく。
あの、沢山の荷を背負い続けている人の迷惑にはなりたくない。ただでさえ負担が多い彼の足枷になる訳にもいかんだろう、と。
彼の鯨は、立派な尾鰭を使い悠々と、知識を、答えを追って大海を泳ぐのが一等似合い、美しいのだから。きっと、自分の元に居続けるのではなく、気まぐれに、思い出したように来訪してくれるのを期待して待つくらいが、丁度良いのだろう──などと。
ごちゃごちゃ御託を並べているものの、ただただこの男。「そばにいて」と「会う頻度を増やしたい」というたった一言二言、所謂我儘やお強請りと一般的に言われる行為を、恋人にする勇気がないだけである。
いざ、ポロリと本音を溢してしまった時に、想像出来る限りの冷たい表情で立つウルピアヌスから〝面倒〟だと言われたくない故に。
ドクターの持ち前の性格から、親交を深めている者にそうなる片鱗を見せてはいたが。
考え過ぎから来る逃げ腰と、とても愛しい恋人が対象になったことにより、業務中では意見を述べたり『そこまでいくと喧嘩なのでは?』と思われても可笑しくない言い争いを繰り広げているドクターは、その他の彼が絡む日常では自身の意見を吐露するのを躊躇う、俗っぽく言うのであれば〝ビビり〟になってしまったのだった。
一つ、二つと回想を経て、〝やはり彼に迷惑をかけるのは気が引けるなあ〟と初期からの考えは変えられず。
しかし、気を遣って自らの胸のうちを伝えてくれたグレイディーアには、柔和な笑顔を浮かべて「考えてみるよ」と言っておく。自身が納得したかどうかは二の次であるのか、告げたあとの展開には興味がないのか、彼女は表情を特に変えずこくりと頷き、もう要件は有らずといった態度で、身を翻し退出していく様を見届けて。麗人の姿が見えなくなった頃に、ふう、と深い呼吸をしてドクターはやっとの思いで一息ついていた。
気配を探ったり、などの芸当が出来る訳ではないが、一応それとなく離れていった彼女の足跡はもう聞こえないか、他の者は居ないか、と可能な限りで気を配ったあとに。
「……もう、大丈夫じゃないかな。ね、ウルピアヌス」
執務室の奥にある、どうしようもない疲労を取り除く際に使用する部屋、その扉の向こうへと声をかけた。
どこまでも突き抜ける声量がなくとも、静かになった室内で放った言葉は、しっかりと彼方側に届いていたようで。のそりと常の、ドクターからしてみれば重そうに見える装備を身につけたウルピアヌスは、なにか言いたそうな雰囲気を出して扉を潜り抜けている。
そんな男のむす、とした顔と雰囲気に、ドクターは可笑しなものを見た、という風に柔和にしていた表情を、更にほわほわに緩ませ微笑んだ。
「……彼女がするにしては、随分時間をかけた報告だったようだが。なにを話していた?」
「ただの世間話だよ。はは、君が私との関係をスカジに話すとは、ちっとも想像してなかったなあ」
「ん、──ああ、そのことか。お前に託された戦場で会う度、余りに執拗く、離れなくてな……そういう関係になったことのみを話したはずだが、迷惑をかけたか」
「迷惑だとか、嫌という訳じゃなくて……ただ意外だっただけだ」
「なら良い。……他には?」
「ええと、」
君に、もっと甘えても良いんじゃないかと、言われたんだ。
そんな本当の話をくう、と飲み込んで「──なにも、なかったよ。任務に同行したスカジとローレンティーナの様子を、彼女に聞いていた」と、いつもの声色を意識して言葉を発し、奥から込み上げるがままぺろりと嘘を吐き出した。
意識をする、ということは、当人が持つ感情や思考が、良くも悪くも通常ではないなにかに気を取られているのと同義である。その違和感と機微を察するのは、様々な都市で、色々な人間や生き物などを目にしてきたウルピアヌスには、容易過ぎるといっても過言ではないのだが。
明らかになにかを抱えていると解る、整えられた音色で謳われた返答に男は眉を微かに動かすも、しかし言及することはせず「……そうか」とだけ告げるのみに留めた。
それは男なりの、単独行動をしている己とは違い、気苦労が絶えぬであろうドクターが言いたくないことは別に言わなくてもいい。言いたくなったならその内にでも伝えるだろう、という信頼の表れだったからで。
むすりと口を引き結んでいるように見えて、その実厳しさはすっかり形を潜めている鯨を正面から見つめ、彼が己だけに見せる優しさに触れたドクターは、言わなくて良かったという自身の判断から来る安堵と、自らの内側にある弱さに対しての嘆きの狭間で、内心頭を抱えていた。
こんなに、見るからに。気遣い、優しさを露わにしてくれている彼に向けて、私はちっぽけな悩みを打ち明ける勇気も出せない、と。
僅かな間だけでも、ウルピアヌスと過ごす時間を増やしてしまいたい、という提案を装って告げられそうな己が望み。それを、例え軽く断られるとしても、些細な欲すら面と向かって吐き出すことすら躊躇い、敵わない小心者が、迷わず拓いた道を進み続ける男の唯一であって良いのだろうか、とすら思う。
そりゃあ、相手が誰であれ。とても素晴らしい美貌を持ち、すらっとしながらも、むちむちの胸やもちもちの肢体を有している女性にだって、自分が今手にしている〝ウルピアヌスの恋人〟という立場を簡単に放棄し、それから譲ってやるつもりは勿論ないけれど。
「──気持ちって、ままならないねえ」
ううん、と出せる限りの低い声で唸り、悩んでいるドクターにウルピアヌスはゆるりと首を傾げながら、ずっと口を噤んだまま赤い光を注いでいた。
────
結局。ウルピアヌスが執務室から退室、その後下艦するまでの猶予があっても、胸の裏側に根付いている欲を告げることは出来なかったドクターは、ちょっとしょぼくれつつもまた恋人がそばに居ない日々を、迫り来る職務にヒイヒイ追われながら過ごしている。
──せめて、本当に小さな、笑えるくらいの我儘を言えるようになれたなら。
ぽこり。泡のように生まれた、自分にしては珍しく前を向いている新たな目標を掲げ、ドクターはやっとこさ一段落ついた仕事の休憩がてら補給用の糖分やら、栄養やらを求めて購買部へ足を向けていた。断じて、悩み過ぎて仕事の進捗が著しくない、なんて馬鹿馬鹿しい理由ではない。ないったらない。しっかりと今日の分のデスクワークは終盤へと近づいている、はずだ。ちゃんと進んでるってば。
疑念を向ける同行者もいないのに、勝手に想像して責められた気持ちになってはその念を振り払うみたく、せかせか足を動かし続け目指していた目的地へと辿り着く。
既に見慣れてしまった、いつだって明るい表情で出迎えてくれる購買の主──クロージャに、ドクターもフェイスシールドの下できゃぴ♡ と可愛こぶったスマイルを返し、ウキウキ浮き足だった様子を隠さず物資を買い漁ろうと、新しく入荷した商品も視野に入れつつ、自動販売機にも似た購入用のデバイス全体を見渡していると。あまり、この付近ではお目にかからない後ろ姿を見つけ、ドクターは思わずその人の名を呼んでしまった。
「ん、アンダーフロー? 珍しいね、君がこんなところに居るなんて」
「おやドクター、お疲れ様です。ええ、その……恥ずかしながら、速記をする時に使う用紙がなくなってしまいまして。このロドスは才人も多く、私の未熟もあって、考えさせられることばかりですからね。つい指先が、こう、スルスルと動くのが堪らない」
「そうか。未熟だなんて私は思わないけどね。いつも頼りになって、正確に結果を出してくれる君に助けられてるもの。でも確かに、此処には君の言う通り、様々な分野で活躍している人が沢山居るから……用紙の消費量も想像に難くないな」
ふふ、と彼女の真面目さに笑いを零しつつ、とっくに購入を決めていた菓子類の名前を選択するために、ドクターはクロージャの近く、購入用デバイスの方へ移動する。紙の予備がなくなったから購買に来たということは、その考えを纏めるのに今すぐにでも書き記しておきたい情報などがあるのだろう。それを此処では上司である自分との会話で引き留めて、邪魔してやるのも酷というものだ。
彼はそそくさと欲しいものをチョイスし手持ちの資源もぶち込んで、序でに理性剤の代わりになるようなカフェイン飲料も彼女へ直接追加注文する。ドクターや仕事熱心なオペレーターが常飲するからと、デバイスに置くことを禁じられているのだ。
クロージャも慣れたもので、解ってますよ、と言いたげな態度ではいはい頷いて──「そうだ、」と商売人が持つ特有の気配を滲ませる声を、自身の住処に響かせた。
「今のドクターが欲しがりそうな、イイモノを作ったんだよ! 見る? ねえ、見たい?」
「うわ、凄い胡散臭いな……私が欲しがりそうな良いものだって? 一発でキマる、濃度がえげつない理性剤とか?」
こてん。首を傾げてなんだそりゃ、と問うドクターに釣られ、その後ろでデバイスを興味深そうに眺めていたアンダーフローも不思議がった顔をしながら、少しだけ首に角度をつけている。
あった、あったと在庫と思しき箱の塊たちから一つの物体を引っこ抜き、軽やかにドクターの方へと振り向いた彼女が手に取って、そしてテテン! と掲げたイイモノの正体とは────くりくりとした赤い瞳を縫いつけられた、大きな白い鯨をまるっと可愛らしくデフォルメしたぬいぐるみ、であった。
商品だからか、もちもちと自身で弾力を確かめたあと「お試しあれー」とクロージャから手渡されたその子を、同じようにもち、もち、と押しては「かわいい……鯨だ……やらかいねえ君は……」と嬉しそうにドクターは頭に詰まった語彙を溶かして、ふやけた声をあげている。ミス・クリスティーンなどの小さな生き物に触れている時のような、心底癒されているであろう声色だった。
もちもちぎゅうぎゅう触っては、ふわふわとした雰囲気を出している上司を背後から眺めていたアンダーフローも、作戦中のまるで貝殻みたいにカチカチ凝り固まったそれではなく、その中の貝柱くらいの柔らかさを纏っている言葉たちにほっこりとして、冷静を繕い続けている面貌をほろりと綻ばせた。
「絶対に買って貰える自信があったから、思いついてすぐ作ってみたんだよね。最近の君も、随分悩んでお疲れのようだったし……どうする? 買っちゃう?」
「か、買う! 買うよ!」
「ふふん、毎度あ──おお?」
クロージャの、取引成立を告げる台詞が、言い切る直前で不自然に止まる。
自由な彼女が止まった理由は、後ろで大人しく観察していたアンダーフローが、いつの間にかドクターの隣に立っていたことと、龍門幣か資源払いの何方にするつもりだったのかは解らないが、兎に角支払うために対価を出そうとしている彼の腕に、そっと手を添えていたからだった。
ぷく、と子供のように頬を膨らませたクロージャは、自分の仕草の幼さはさておいて、それこそ子供を叱る母親風に、ドクターを止めている生真面目なエーギルに苦言を申し立てた。
「もう、商売の邪魔はやめてよねー? あの子たちが居ない今が新たに儲けるチャンスなんだから。……で、なあに?」
「あ、いえ。邪魔をしたい訳ではなくて……追加分の代金は支払いますので、そのぬいぐるみにこういったことは付け足し可能ですか?」
身をググっとクロージャに近付け、ドクターには詳細はまだ秘密だと、耳元でゴニョゴニョ話す海巡隊兼ロドス所属である部下と、ふんふん内容を噛み砕いていくうちに、よりニコニコと笑みを深くする購買の主の二人を、購入する当人であるはずなのにそっちのけにされている男は、麗しい二人の女性を交互に見つめている。
そう長くはない企みを聞き終えたのか「うんうん、すぐにでも出来るとも! ちょっとだけ待っててね、お二人さん!」と言い残し、シュバっと勢いをつけて奥へ引っ込んでいったクロージャに言われるがまま、この場を離れた彼女と同じくらいニコニコとしているアンダーフローと共に、特に急ぐ用はないのだし、と二人仲良く会話をしながら大人しく待ってみることにした。
楽しくおしゃべりをしていると、そこまでの時間も経たず「お待たせー」なんて軽い調子の声と鯨もお供にして、クロージャが戻って来たのだが。
さて、一緒に奥へと引っ込んだ鯨くんになにを施していたのかしら、と再び手渡されたそれを見下ろしてみれば、些細な違いがぽちぽち数箇所見られ。間違い探しより、余程解り易く点在していて、確認したドクターは「わ、これって……」と目を大きく見開いてしまった。
違いは三箇所。
丸く可愛らしい赤い目の上部、人でいう眉の辺りに傷のような縫い目がつけられたのと、眉間の皺に似た線が二つ、キュッと引かれ、凛々しくなった点。そしてふかふか小さな胸びれのすぐそばに、錨のワッペンがちくちく縫いつけられている、という点が先ほどとは異なる箇所である。
それらが一体なにを模しているかなんて言葉にするのが野暮なくらい、一瞬で丸わかりな新たに生まれ変わった白鯨の姿に、ドクターはとろりと眦を下げていく。だって、とても愛しく、可愛らしいものを見てしまったのだ。
「さ、更にかわゆい……ふふ、眉間に皺寄ってるね」
「ドクターが喜ぶから、とあの人をイメージしたものを用意したのであれば、もっと寄せるべきだと思いまして。アこれ、追加分を含めた金額です」
「えっ。待ってまって、全部自分で払うよ。私が欲しいから買うんだもの」
「いいえ。これは是非小官にプレゼントさせて下さい、ドクター。その代わり、といってはなんですが……今度お二方のお話を詳しく聞かせて頂ければな、と」
ふふ、と喜色を溢れさせた優しい笑みを浮かべてから、いつの間にか購入した用紙を手にして「それでは、これで」足早に去っていくアンダーフローを、ぬいぐるみを抱えた状態で見送って。混乱というノイズが走ったクラクラする脳味噌で、困惑しつつもクロージャにも礼を言い、時折手の中の白をもち、もちと弄っては、執務室へ続く道を歩いていく。
運動不足だから、と散歩を兼ねたゆっくりとした移動で部屋へと到着し、遅い昼食とおやつ代わりに、購入したばかりのチョコレートバーへ齧り付いたあと。持ち上げた鯨と目を合わせて──優しく丁寧に、ソファの隅へと置いてやる。もう少しだけ待っていてね、と幼児をあやすようにポスポス頭部に手を置いたなら、あとは仕事を済ますのみ。
糖分補給も休憩も、軽過ぎる運動だって終わらせた。ちら、と視線を動かすと、じっと此方を見守るつぶらな瞳が視界に入って、くふ、とついつい吹き出してしまう。
さあさあ、お仕事頑張るぞー、と休憩前とは打って変わってやる気が満ち溢れたドクターは、勇んで厚い防護服の袖をくるりと捲り始めるのだった。
────
やる気も十分だったドクターが、残り少ないタスクや職務をすぐに終わらせて──といっても、普段より早いというだけで、終業時刻はすっかり陽が落ちてしまった頃であったのだが──そんなことなど今のドクターには些事でしかない。昨日より、一昨日より早く終わったという今この時が、なによりも重要なのだ。
ソファでずっと待たせていたもちもちの君を掻っ攫い、自身の私室、それも寝室へと連行して。
早々とシャワーを浴び、ピカピカになった身体で「やっとこの子にしっかり触れられる……」ところころベッドに寝転んで、大きいけれどウルピアヌスと比べればそれはそれは小さな白鯨を、ぎゅうぎゅうに抱き締める。
表面はふわふわ、さらり。じわじわと力を込めればもっちりとした弾力で、抱き枕のように大きくて。夜を共に過ごすものとしてはとても頼もしく、心に安寧を与えてはくれるものの、それでもやっぱり何処か物足りない。
温かみ──作り物であるが故に体温がないのもあるが、自分を包む、彼の腕のような、なにか一つが足りないんじゃあないか?
既に腕の中で寛いでいる存在を、もう一度力いっぱい抱き締めて、そんなことに思考を割いていると。枕元に放り投げていた端末が、誰かからの連絡を振動と音で主張してくる。
緊急事態だと大変なので、反射的に端末を手にして画面に目をやると、そこにはなんとウルピアヌスの──画面には〝協力者〟として表示するようにしている──名前があった。
連絡が来るということは、どうやら今の彼は冷たい海の底ではなく、なにかを調査する、若しくは行動を起こすために陸へ、それも端末を使用出来る場所に態々移動していたらしい。
誰からの連絡であれ、出ないという選択肢などドクターには元より存在しない。逸る気持ちを抑えることはせず、一も二もなく彼からの通信に応答する。
「う、ウルピアヌス……? なにか緊急の、やむを得ない用件でもあったのか?」
不安を滲ませた声でそう問えば。陸に上がったエーギルが常に苛まれる乾燥の所為か、掠れ、ざらついた低音が焦るドクターを宥めるかのように、落ち着いた状態を保って「いや、」と答えを返している。差し当たっての危険はないのだ、と安心した彼はほっと胸を撫で下ろし、強張った身体から力を抜いて鯨の胴体に顔を埋める。
「そろそろお前の……本艦の方に寄る、という連絡だった。こんな時間だ、焦るのも無理はない。寝ていたなら悪いことをした」
「ううん、大丈夫だ。ベッドの上だけど普通に起きていたしね。寧ろ、君の声が聞けて嬉しいよウルピアヌス」
「そうか。其方に着くのにそこまでの時間はかからないはずだが、起きていろとは言わん。今回ばかりは、俺も乗ってすぐに発ちはしない……お前が目を覚ましている時に、ゆっくり話をしよう」
「ふふ、うん。なにもないとは思うけど、どうか気をつけて。私も、君と直接会えるのを楽しみに──ああ、そうだ」
「どうした」
「あの、ウルピアヌスにお願いが、あって……」
喜びを孕んだ言葉を、途端に潜めて弱々しく。こしょこしょ耳にこそばゆく話すドクターの態度に、違和感を覚えつつも「言ってみろ。俺に出来ることなら聞いてやる」だけ返し、続けられるであろうお願いにウルピアヌスは耳をそばだてる。
「ええと、君の……余っている外套とか、帽子だとかは、ロドスにある君の部屋に残っていたりするかい? その、良ければ使わせて欲しいんだが……」
「外套、俺の? ……なにに使用するかは知らんが、襤褸になって処分しようと考えていたものならば、一式置いてある。それで問題なければ使うと良い」
今の自分が着ているものと同じものが欲しい、と請われた男は、ぱちりと瞬きをして間髪入れずに了承した。別に困るものでもない。彼が着るにしては大きいだろうが、使いたいならそうすれば良い。何かの参考にでもするのか──などと疑問を持ちながらも、つがいに対しては寛容な心でそれを受け入れた。
「ほ、本当? ありがとう、大切に使うね!」
「大事にする必要はない。どうせ、近いうちに捨てるものだ。……ん、そろそろ移動を再開する。もう切るぞ、ドクター」
「解った。またね、ウルピアヌス……おやすみなさい」
「ああ────お前の夢の中でも、会えることを祈っておく」
ぷつりと切れた通話に端末から耳を離し、暗くなった液晶をまあるくなった瞳で確認したドクターは、握った端末をぼす! と枕の近くに叩きつける。
もったりと鎮座するぬいぐるみを抱える腕にキツく力を込め、熱を帯びる耳をもちもちに押しつけては、ごろごろと悶える心情を押さえつけるべく転がった。
あの掠れた声が、笑った時みたいに吐息を混ぜて告げた、彼なりの〝おやすみの挨拶〟の、蕩けるような甘さといったら!
聞いている此方が羞恥を感じるほどの糖分を含んだ低温を、端末越しだったとはいえ浴びてしまったドクターは、暴れたくなってしまうくらい照れていた。
耳と同様に熱を持った顔をパタパタ手で仰いで、突如むくりと起き上がる。火照りを冷ます序でに許可を得たのだから、さっさと目的を達成してしまおうと、簡単に身支度を整えて部屋を抜け出していく。鯨君は残念ながら持ち歩くには向いていないサイズであるので、このまま続けて寝床を守って貰おうと留守番を任せた。
ドクターが一人で目指すは、滅多に使われることのない場所──即ち、ウルピアヌスの部屋である。
部屋の扉を、ドクターが有している権限でもって難なく開けて。
全然私物がない所為か、探す必要がないほど早くに見つかった外套たちは、袋に入って隅の方に追いやられていて。随分と使い込まれていたためなのか、海と、ほんの少しの土の香りがたっぷりとした布に残されていた。どうせ捨てるものだと、クリーニングに出すことはしなかったらしい。
大きな彼の体躯に見合う、でっかい布の塊をぐるぐる巻き上げ、せっせと腕の中に詰めてから、目的のものを回収したドクターは寝室へ戻ろうとえっちらおっちら、ゆらゆらと来た道を戻っていった。
えいしょ。一仕事を終えたくらいの疲労感で、帰還してすぐベッドへとダイブしてしまったが、これではいけないとベッドメイクへ勤しみ、丁度良い位置に鯨を配置し直し自分も横に並んでは、上にふわりと被せた外套の中へ潜り込む。
最後に、一緒に埋もれたぬいぐるみの頭に、サイズオーバーな帽子を被せてやれば──とびきり可愛らしい、愛しい人の分身がそこに居て、ドクターの口角が堪えきれず、むずむずと嬉しそうに上がっていった。
柔らかいぬいぐるみに頬を擦り寄せて、我慢が出来なくなったならもちもちとしたそれに、顔をぎゅうと押しつける。寒さを感じないよう、ほつれが見られる外套の端を手繰り寄せると、揺れた布から立ち昇ったのか、鼻を擽る自然の匂い。
海と土、それらに混ざって微かに感じるウルピアヌスの匂いに、良く眠れそうだと思いながら、こぽりこぽりと湧いた睡魔に逆らわず、海底に沈んでいくようにドクターは瞼の裏にある意識をそっと手放した。
この腕の中にいる小さな鯨が、自身の夢に大きな本物を連れて来てくれることを、どうか、どうかと願いを込めて。
────
ドクターとの通信を切ったあと。時間を置かずに移動を再開していたウルピアヌスは、彼自身の体力、そして速度でもって夜明け前にはロドス本艦に辿り着くこととなった。
勝手知ったる職場なれば、するりと間をすり抜けるように乗艦し、一旦自らに宛てがわれた私室に入っては、話題に上がっていた捨てる予定の装備がなくなっているのを、その赤い瞳で確認し終えその足でドクターの、〝己が唯一のつがい〟の元へと向かっていく。
全ての明かりが消えている部屋を──ドクターは一つでも明かりがあると中々眠れない性質であり、夜目が効かない癖に横着して、寝ぼけたままトイレなどに向かってはすっ転ぶ、ということが度々あるのだが、幾ら注意しても改善されないのが共寝をする際のウルピアヌスの悩みである──真っ直ぐ突っきり、寝室の扉を潜れば、さあ目標は目の前だ。
ベッドの上、微かに上下しているこんもりとした山が目に入る。ウルピアヌスはドクターが穏やかに、何者にも脅かされることなく睡眠を貪れていることに、ぞわぞわと妙な不安に浸食されていた心が、すんなりと落ち着いたような気になった。安心した、と言い換えても良い。
折角気持ち良く眠れているのに、声をかけるなんて野暮なことをするつもりは毛頭ないが、せめて一目だけでも顔を見るのは許されるだろうと、布団の端を捲る──前に、自分の使い古した帽子が視界に入り。随分と可愛らしい用途で使ったものだな、と硬かった表情が笑みに変わっていく。
咳払いの代わりにうっすら息を吐いて気を取り直し、勿体振るようにも見える手つきで、布団の端をぺろんと持ち上げると。
痩躯には大き過ぎる外套に包まりながら、同じく床に就いているなにか、どうやら鯨を模しているらしい見知らぬ物体に抱きついているドクターが居て。抱き枕かぬいぐるみかは判別がつかなかったが、己以外のなにかが彼と一緒に眠っているとは思っても居なかったウルピアヌスは、動揺で暫しの間ピッタリ動きを止めてしまった。
動揺が伝播したか、それとも空いた隙間に入る寒気が覚醒を促したか。「んー……?」と小さく唸りながら、閉じていた瞼をしょぼ、しょぼ、と瞬きを繰り返しこじ開けて、まだ眠り足りませんといった様子でドクターが目を覚ました。
横たわったまま、白鯨を抱きつつ押し潰しつつ。男を寝ぼけた瞳で見上げるドクターは、自身の視界に映っているものが正しいのかを確認するみたいに、彼の名をふにゃふにゃの覚束ない滑舌で呼んでいる。
「あれ、うるぴあぬす……?」
「っ、起こしたか……すまん」
「────ふは、」
ギリギリ落ちないくらいの位置で頭を枕に乗せ、ウルピアヌスの謝罪を聞いた半睡の君は、嬉しそうに頬を緩めてくすくすと肩を震わせていた。
そして、ぽすり。音がついても良いくらいに顔を埋めて「きみ、すごいねえ」と優しい手つきでやらかいぬいぐるみを褒めちぎっている。
凄い、とは。その鯨擬きに、〝俺の紛い物〟とも呼べる存在に、なんの価値があるというのか。そこから一人で動けもしないのに。
一人と、一匹とも数え難い物体をむすりと見下ろし睨めつけたウルピアヌスであったが、それでもご機嫌なつがいの邪魔をしようとは思わなかったのか、まだ夢見心地のドクターの、ふわふわ浮ついた言葉の続きを待っていた。
そんな謎の対抗心を抱いた男のことなど知らず彼は、ただただずっと喜んで、独り言に似た台詞を口から零している。
「きみがきっと、ゆめのなかに彼を連れてきてくれたんでしょう」
「は……? 夢?」
「すごいくじらくんだ、すがたも声もそっくりだもの……へへ、うれしいね。すてきだね」
どうやら、えへえへと笑い、褒めちぎっているドクターは本当にこの場に居る、そばに立つウルピアヌスを夢の中に現れた存在である、と思い込んでいるらしく。
手のひらで撫でて慈しんでいるモノが呼び寄せてくれた夢、幻なのであれば、という理由でもって隠し持っていた感情を、せせらぐ水のようにさらさらと唇から流し続けている。例え幻覚だとしても、簡単には聞こえないほど声を潜めて。でも、夢の存在くらいには聞いて貰いたい、と耳を澄ませばしっかり届くほどの声量で呟いているのだ。
「うるぴあぬすの服をかぶって、声をききながら眠れるなんて……おもってなかったけど、もうさびしくないよ。だいじょうぶ」
「……寂しかったのか?」
肉つきの悪い顔に収まっている頬骨を、指先でころころ転がして、薄い肉には指の背を使って触れてやる。
ふに、と大して埋まりはしなくとも、指が柔らかに沈む感覚を楽しみつつそう問えば「……うん」と、素直でほどけた声が返ってくる。
「きみといっしょに眠って、めざめたかったから、この子をきみの代わりにして……いっしょに寝ることにしたんだ。さびしいなんて、ほんとのきみにはいえないから」
「何故」
「きみの……ふたんになりたくない……うるぴあぬすが良いっていったって、わたしが良くないんだ……」
声が途切れて、揺らいで。けれども自分は、と精いっぱい想いを紡ぐ。
真っ直ぐに己を案じる、唯一と定めた者の感情の深さに、その眩さに。胸をひたすような感慨の所為か、今の自分は陸に立っているにも関わらず、妙な息苦しさを覚えた。海の底で過ごす時ですら、こんな感覚に襲われることなどないであろうに。
堪えきれず、ぐっと瞼に力を入れて、強制的に視界を一度閉じた男は、「ね、うるぴあぬす」なんて空気中を揺蕩う声色で呼びかけられて、再び赤い瞳を覗かせた。
「もっかい、」
「……うん? なんだ」
「もういっかい、おやすみっていって」
きみのこえで、ねむりたいよ。
「────おやすみ、ドクター」
そんなもの、幾らでも。
我儘とすら呼ぶのも烏滸がましい、小さなちいさな願いにウルピアヌスは、微睡んでいる白い顔にかかる髪をはらりと退けて。圧迫しないくらいの力加減の手のひらで、とろとろとしている目元を覆ってから望まれた言葉を紡いでやれば、限界だったのかドクターはまたすぐに眠りに落ちた。
良い夢を、とはいえなかった。
今のドクターからすると、先程までの会話の全てが良い夢の範疇だろうから。
彼が持つ寂しさと願いは、図らずとも耳にしてしまった。ささやかなそれはどうやら叶えてやれたらしいが、こんなモンを叶えるのには甲斐性すら必要ないのだ。物足りない、なんてチープな表現では言い表せないほど、ドクターの望みが小さく、少なすぎるのが問題である。
しかし、その願望を口にすることすら躊躇わせたのが、今の己の立場であることも十分に思い知った。それでも、僅かにでも小さな尻尾を覗かせた以上は逃してなどやらないのが、狩人という生き物だろう。あれが夢だと思っていたとしても、全てを聞き届けたのは俺の紛い物だけではないことを、知らしめてやるために──己は、どうやってこの一夜を過ごすべきか。
普段自身が収まる場所には、忌々しい偽物が我が物顔で座している。然れども、それを取り除き、動かしてしまうと流石のドクターも今度こそはっきりと起きてしまうだろう。それは本意じゃあない。
ドクターの身体の下でむにゃりと形を変えながらも、じっと大人しく過ごしている白鯨に──ぬいぐるみなのだから当然であるが──苛立ちを覚えつつ、ウルピアヌスは音を立てずに寝室を抜け出して、居住スペースに置いてあるソファに寝転がった。
朝日が昇り、ドクターがのそのそ呑気に起きて来た時、間抜けな面を晒しているであろう彼の様子を見逃さないように。あの鯨擬きはなんのつもりだったのか、じっくり問い糺すために。
────
A.M 6:05 ロドス本艦、ドクターの私室。
とっても素敵な夢を見た気がする! とぱっちりなおめめで覚醒したドクターは、くしゃっと芸術的な形になっている外套からするりと抜け出し、濁音を混ぜた発声と共に全力で伸びをして、喧しく鳴り響く端末のアラームを指先でぺちり! と止めた。
夜中ドクターを乗せていたためか、若干くったりとした姿になった気がするもちもちを抱え、どうせなら本日与えられていた午前休をこの子と一緒に過ごそうと思い立ち、よしよし良い子だ、と撫でながら鯨も連れて寝室を出る。
両腕の中に居るぬいぐるみを嬉々として見下ろしていたドクターが、ようやっと顔を上げ視線を向けたその先には、たった一晩ですっかり見慣れ、そして纏い慣れてしまった大きな外套と、夢にまで見た男の姿があって。幾ら爽快な目覚めであったとはいえど、寝起きの脳に突き刺さった衝撃のあまり、彼は丸くなった瞳をぱちくりと何度も瞬いては、今見ているものが現実かどうかを確かめる羽目になっていた。
瞼で視界を遮ろうと、目を擦ろうと大きな体躯が、ソファに窮屈そうに詰まって寝転がっているという事実は変わらずに。
とうとう、ドクターのぶっ通しで寝ていた所為で嗄れた喉から「……え、?」なんて呟きが溢れて漸く、固まっていた互いの時間が進むこととなった。
たった一音、されど一音。
届いた音で目を覚ましたウルピアヌスが、ソファからのそりと緩やかな動作で、身体を起こし始めていた。
ドクターの様子を確認しているのか、ゆっくりと上へ下へと動いていた真剣な眼差しは途中で止まり、彼が抱えているぬいぐるみの存在によって、とても鋭くなっている。
肝心のドクターは、男の見咎めるような眼差しの根本にある感情──彼が偽物に抱いた悋気は汲み取れず、しかし機嫌の悪さは感じ取って『寝起きだからかな……』とビビりつつも、怪我やら体調やらに問題はなさそうなウルピアヌスに胸を撫で下ろして「もう着いていたんだね。無事で良かった」という心からの言葉を口にした。
「怪我もなければ、意識にも異常はない。……それで? お前、俺になにか言うべきことはないのか」
「君に言うこと? うーん……あ!」
「おはよう!」
「…………ああ、おはよう」
ピカピカの、朝日が如き眩い笑顔で放たれたドクターの挨拶に、気が抜けた顔をしてウルピアヌスは、同じように挨拶を返している。呆れを隠しもしないまま、話を続ける彼に「他には? ないのか」と問われてしまったドクターは、心当たりのなさ故に「他に?!」と見るからに焦り出している。
連絡は急ぎではないから今じゃなくたって良いし、アビサルハンターたちについても伝えるべき項目はない。あとは──あとは、なにかあっただろうか。
早起きした所為なのか、あまり機能していない脳みそをぐるぐる働かせているドクターを見た狩人は、それはもう大きな溜息を吐いたあと、じとりとした目つきで助け舟を出してやった。
「その手に抱えているソレの説明がないようだが」
「説明……あ、これのこと? ふふん。これはね、白鯨のぬいぐるみだよ。元々クロージャが用意してくれていたものに、居合わせたアンダーフローが、素敵なアイデアであれこれ追加して……まるっと君に姿を似せた名品さ!」
「チッ、セクンダめ……」
「舌打ちしないで下さーい。彼女のおかげで、私はもう大満足なんだからさ。これね、特注というだけあって大きいし、感触ももったりしていて、とても気持ち良いんだ。癒される。ぎゅうぎゅうに抱き締めたあとに顔を埋めるともちもちでね、仕事が終わって疲れた時に抱えると、ずっとこうしていたいと思ってしまうくらい、素晴らしい出来なんだよ」
「…………素晴らしい、か」
「そう! 人恋しい時だとか、寝る時に良いなって昨日から寝室で使ってみているんだ」
ほら、もちもち!
ペカペカ輝く笑みを添えて話し、不機嫌さを全面に出した仏頂面へもちもちとした柔らかさを実演してみせるドクターを、最早睨みつけているといっても過言ではない瞳で見つめていたウルピアヌスは。
彼曰く〝癒される〟らしいぬいぐるみに向けて、ふん、と鼻を鳴らし、癒されることなどなかった荒れる心情をそのままにして、白鯨を抱えた痩躯を持ち上げる。簡単に持ち上げられた本人は澄んだ笑顔を一転させ、急に浮き上がった身体と感覚にキョトリ、と不思議そうな顔をしていた。
「お、お?」
「そんな半端者、即刻廃棄処分にしてしまえ」
「な、何故……? 忙しく、大変な君の代わりを勤めてくれる人材だよ」
「分不相応な役目を与えられているからこそ余計に、だ。ソレに過剰な任を背負わせるくらいならば、抱いた不安を変に誤魔化さず、全て口にする方が利口と言える。例え淡くとも、寂寥を覚えたのなら俺に告げろ。不安を一息で埋めてやることは叶わんが、少しずつでも満たしていくことは、時間がない俺にも可能なはずだ。ドクター、お前の鯨は────俺一人で、十分だろう」
それはそれは、目にしたことがないほど忌々しげに、自身に似せた紛い物を見下ろしながら言うウルピアヌスにがっちり抱えられた状態で、呑気にも〝自分の真似をしている作り物〟にとても嫉妬しているらしい、と遅ればせながら気がついたドクターといえば。
いつだってクールな男が、急に見せ始めた可愛らしい激情に、ぎゅっと胸の内側を甘く締めつけられ、その衝動に身を任せるがまま目の前にある太い首に抱きついた。
二人の間、肉のついていない腕の中にあった白鯨がむにゃり、と少しはあった隙間を埋められ、潰れている。
「気取らせることなく、しかし夢の中の俺に自らの蕭索の様を告げたお前は……現実の不甲斐ない俺になにを望む?」
「え。ううん……大体は、叶ってしまったからなあ」
「……大体は叶った? 一つだけだろう」
「へへ。夢だとばかり思っていたけど、君からおやすみも聞けたし。今までは、すぐに此処を発ってしまう君の背中に、『またね』だとかの別れの言葉しかかけてあげられなかったのに、今日は君に正面からおはようも言えた。うん、満足だ。寂しくない──が、私の隣で君も眠ってくれたなら、もっと寂しくない……かも?」
抱きついたあとの勢い任せに言ってしまった、と気づいたドクターの言葉尻がどんどん窄まって、最後はとうとう疑問符がつき、ウルピアヌスの反応を伺うように締められる。
眉を下げて、今にも叱られる子どもみたいに幼い顔をしている相変わらず欲のない唯一に、出来る範囲ではあるが善処することを伝えるため、甲斐性なしを自称した男は、むすりと引き結んでいた唇をゆっくり開いていく。
「……努力は、しよう。まずは、せめてお前へと送る朝、そして夜の言葉の頻度を増やすところから、だな。場合と状況によっては直接ではなく、メモや手紙になってしまうのは流石に許せ……ドクター」
「ふふ、うん。……ありがとう、ウルピアヌス」
うつ伏せで眠っていた所為か、すっかり寝癖がついている前髪を払って、剥き出しになった額に、くすぐったいと閉じられた瞼に幾度も口づけながら「どうせ寝足りないのだから、寝れる今寝てしまえ」と寝室に向かっていたウルピアヌスは、思い出したかのようにその場で立ち止まり。
片腕で軽々とドクターを抱え直して、良い加減鬱陶しいと「自分、ドクターの一部ですが?」なんて顔をして間に挟まっていたぬいぐるみを大きな手で鷲掴み、後方──先ほどまでは己が居たソファの方へと放り投げた。
方角はソファのあった位置であるが、何処に落ちようがどうでも良い、と振り返らずドクターの「鯨くーん?!」という嘆きを携え、お前の役目は終わったのだと見せつけるみたいに寝室の扉を、態と時間をかけて潜っていく。
二人の姿が向こう側へと消えるまでの仲睦まじい会話や様子を、まるっとつぶらな赤い瞳の、どうやら上手く着地出来たらしい、ふっくらとした愛らしい白鯨が、静かにじいっと見つめていた。