汝は晩餐足り得るか?《はい、あーん》
目の前に居る人物の腕が自分の方へと伸ばされて、その手に握られたフォークが口元に近付いて来る。
フォークの先端がしっかりと埋め込まれたまま持ち上げられている物体は、肉汁が滴り最適な焼き加減になっているステーキだった。
グレゴールは寄せられた肉を咥内に招き入れて、厚みのあるソレをゆっくりと力を込めながら噛み締める。先端から肉の欠片が消えたフォークは、持っている人間の手の動きに合わせ上機嫌に空間を泳ぎ己の向かいに座っている男──ダンテの元へと戻っていった。
その動きを黙って見守り、ぶつ、と口の中の塊に歯を立てて噛みちぎり咀嚼してから、溢れ出る脂と細かくなった残骸を、ごくりと喉奥に押し込むように一緒に飲み下して。グレゴールは腹を摩りつつ、困りきった表情で少しの脂に濡れた唇をそっと開いた。
「旦那?」
《ん? 美味しくなかった?》
「いや、美味いよ。美味いんだけどさ? 俺、もう腹一杯なんだよな……」
《……本当に?》
向かいに座るグレゴールがゆっくりと動かしている手の甲を眺めながら、ダンテはこてりと首を傾げる。自分が彼にステーキを食べさせようとする前に、何か腹に入れていたのだろうか、と。
ダンテがカチ、コチと音を鳴らして少し膨れている気がする腹部を見つめていると、その視線から隠すように手を動かしていたグレゴールの口から「ぐう、」と何かが詰まったみたいな声があがる。彼自身は、眉を顰めてから視線もそっと逸らしていた。
そんなグレゴールの様子を見たダンテは《おや?》と傾けていた首に更に角度をつけていく。
腹が一杯だと言うのが嘘だとして、何故グレゴールはそんな仕様もない嘘を吐いたのか。どんな人間だって、美味しい物や好きな食事は満足するまで食べたいと思うものだろう。
何となく、食欲旺盛のイメージがあるロージャの顔を頭に浮かべて、時計の裏に居る想像の彼女に《ねえ?》と同意を求めるように声をかけているダンテの頭にピン! とある事柄が引っ掛かった。
「……うん? どうした、旦那」
《あの、リウの君が言われた“ずんぐりむっくり”って言葉を気にしてる?》
「ずっっ────……うん、まあ。気にしてないって言ったら、嘘になるかな」
《別にずんぐりむっくりだとは思わないけどなあ。ちゃんとお腹も筋肉がついて、そこそこ締まってるでしょ?》
「年齢的にもさ……気にするんだよ、やっぱ」
《……仮にずんぐりになったとしても、可愛いと思うけど?》
「か、可愛い……? まさか」
自分の腹を手慰みにもちもちと摘みながら、信じられないと言った様子で話すグレゴールに《本当なんだけどなあ》なんて言いながら、ダンテはまだ少し残っている皿の上のステーキをナイフを使ってカットしていく。
《食べられる時に食べておかないと。こんな風になっちゃったら、楽しくないことだらけなんだからさ》
「それは……そうだけど」
《私みたいなガリガリなんかより、多少でも肉のついた君の方が魅力的だと思うよ。ね、グレゴール》
「……別に、旦那に魅力がないなんて思わないさ。沢山あるよ、魅力」
《おや、嬉しい》
例えば──すごい優しい所だとか。足がスラッとして長いし、手とか指も綺麗だし。
グレゴールは指一本一本折りながら、彼自身が魅力的だと思っているのだろう箇所をポツポツ並べている。どうして急にそんな可愛いことをするのだろう。
頭が熱を持ったような気がして、少しでも冷まそうとダンテはパタパタと時計を右手で扇ぐ仕草をした。それを見たグレゴールは「あ、」と小さな声を出して笑っている。
「あと、それ」
《……これ?》
大袈裟に扇ぐ手を指差すグレゴールに釣られて、ダンテも左手を使って自身の右手を指し示す。パントマイムのような動きをするダンテに彼は更に笑みを深めていた。
「その、動きがオーバーで何かコミカルな感じが和むっていうか……好きなんだよなあ」
上を向く口元とは正反対に、ふにゃりと下がる眉に和らぐ目尻。
真正面でその笑顔を浴びたダンテは、両の手のひらをグレゴールに向けて降参の意を示した。可愛いには勝てないことを悟ってしまったのである。
《何で急に可愛いこと言うのかなあこの口は》
「可愛くはないだろ?」
《可愛いかわいい。……折角だし、私も君の好きな所一つ発表しようかな》
「俺の好きな所? 何なに?」
《私はねえ、》
《君が美味しそうに食べ物を頬張ってる所が大好きなんだよね》
はい、あーん。
いつの間にかダンテの手に再び握られているフォークと、その先に刺さっている肉をグレゴールは交互に見つめている。モゴモゴと口の中で舌を動かして逡巡していたが、とうとう諦めがついたのか深く息を吐いて口を開いた。
「……俺が太っても、好きなまま? 目移りしない?」
《しない、しない。移る目なんてないし》
「なら、食べる」
《ふふ、ありがとう。沢山食べて、私にいっぱいその顔を見せてね》
ダンテの言葉を聞いた途端に一口サイズになった肉を頬張って、嬉しそうにぎゅむぎゅむと噛み締めるグレゴールをダンテは頬杖をついて眺めていた。
噛み砕いた欠片を飲み込んで、コップに入った水で口の中を潤したのを見届けてから、ぱかりと開いた口にまた肉を放り込んでやる。流れるように繰り返される動きをダンテが満足そうに見ていれば、グレゴールは何かに気付いたようにぴた、とその動きを止めてしまった。心なしか、顔色が青ざめている気がするし「な、なあ旦那」と呼びかける声はどこか震えている。
《今度はどうしたの? 顔色が悪いけど……》
「旦那が俺に沢山食べさせるのはさ、その……旦那が俺を食べる為、とかじゃないよな? 俺が美味しくなるのをじっくり待ってる訳じゃないよな?」
《────あ、》
《アーーハッハッハ!! 何、私君を太らせて食べようとしてる──って思われてたの?! ダッッハ!!》
「わ、笑うな! 何かやたらと食べさせたがるからちょっと怖いなって思ったんだよ、悪いか?!!?」
机の上をバンバンと強く叩いてジリンジリン笑うダンテに、勢い良く立ち上がり顔を真っ赤に染めながら、噛み付くようにグレゴールは吠えている。
そうかそうか、何故か怖がらせてしまったのか、と肩を震わせつつダンテは何とかグレゴールを宥め、椅子にもう一度座らせることに成功した。
《いやごめん、確かに私の表情なんて解らないもんな。謝るよグレゴール》
「……まだ身体が震えてんぞ」
《はは、ごめんってば。でもまぁ、ほら、強ち間違いじゃあないのかもね》
「食べるのが?」
《そ、だって似てるんでしょ? 食事とセックスの仕方って》
ダンテから放たれた言葉の所為でグレゴールの思考が一気にとっ散らかってしまった。似てる、なにが?
グルグルと考えをずっと巡らせているグレゴールの表情にダンテは再度笑って、カチカチ音をたてながら今はもう無くなってしまっているステーキを切るように、カトラリーを動かしていく。
《君が私の晩餐になってくれるなら、これ以上に喜ばしいことはないな》
あーん、なんて言いながら、持ち上げた銀のフォークを時計の黒い盤面の下部に突き立てる。カチン、と固い音がした。
パクパクと餌を求める魚のように、口を開けては閉じてを繰り返しているグレゴールに《なーんてね!》と誤魔化しみたいな言葉を告げて、ダンテは両の手のひらをパン! と合わせて一礼する。
《ご馳走さまでした!》
汝は晩餐足り得るか?
(どこで知ったんだよそんな知識……)
(《誰が言ってたんだっけなあ、忘れちゃった》)
(……その言葉を信じるなら、旦那の食事はきっと丁寧なんだろうな)
(《あは、君はどっちも嬉しそうにするもんね。案外嘘じゃないのかも》)
(──〜〜〜〜ッッッ旦那!!!!)
(《君がふった話題なのに》)