同胞、からから、胎の底から 始まりは、不調とも呼べないような小さな違和感からだった。
風邪の引き始め特有の悪寒や、気だるさなんて症状もなく、常に苛んでくる頭痛が起こるといった、日常を過ごすのも厳しい不快さなども有りはしなかった。
ただ、随分と喉が乾いてしまう。ああ、水が欲しい、というぼんやりとした些細な感覚が頻発する。そんな、ケルシーには言うまでもない、ふとした瞬間の息抜きに「空気が乾燥する季節になったんだな」と秘書を勤めるオペレーターに話題を振って、そのまま談笑に入ることが出来るような範囲の出来事であったのだ、と。ドクターは自身の身に起きていた違和感の初期症状を、閉じた瞼の裏で思い返そうとしていた。
そして、黙って瞼を閉じている間に、いつしか眠ってしまっていたのか。
ドクターは目を開けて、乾いた瞳を刺すみたいに明るく光っている照明の眩さを、シパシパ数回瞬きをすることで緩和させながら、自身が今陥ってる状況を判断するかのように脱力した己の右腕を見下ろした。
肘を下にして伸びている腕には太めの針が刺されていて、そこに繋がれている管からはなんらかの薬剤が、ポタポタと一定の速度で落とされている。
袋に入った薬液には見たことのない色がついているため、生理食塩液や栄養剤といった類のものではないのが一目で解った。一体なんの点滴が自身に施されているのかは、張本人であるドクターに知らされることはなく。マァ目覚めたドクターがカサカサになった喉と唇で話しかけようとしたところを、その場に居た医療オペレーターに「喋らないでください!」と怒られてしまったからなのだけど。
ただ、薬液を見ながら「一度これで様子を見る。容体が急変、あるいはこの液体がなくなった瞬間すぐ次のものを投与するように」と硬い声で言ったケルシーの表情が普段より格段に厳しく、また珍しくも焦り──感情が読み取れる瞳をしていたので。
ドクターは「容体が思わしくない、そして酷い症例なのだろうな」と、まるで他人事のようにケルシーの顔と、彼女の指示を聞いてバタバタと慌ただしく職務をまっとうしている医療班のメンバーの顔を、交互に眺めていたのだった。
ドクターが感じていた喉の渇きに比例するようにして、青白い皮膚のそこかしこにひび割れた亀裂が現れ出した。
水分を、厳格に時間を決められて指定されたものを経口摂取し、異変が起きた皮膚も処方された保湿剤を入念に塗り込んで亀裂とやらの対処を試みたものの、その労力も虚しくひび割れは、日数とともに数も大きさも増加していく。
痛みはなくとも、増えてしまった亀裂のせいで勝手にボロボロと剥がれ落ちていく様を、不用意に触るなと厳命されているためどうすることも出来ずぼんやりと眺めていたドクターであったが、その皮膚が収まっていた箇所を見て幾ら流石のドクターと言えども、ギョッとした、驚きの表情を浮かべてしまった。
剥がれたあとの己の皮膚、割れて見えるはずの肉はそこに存在せず。大凡人の腕には似つかわしくない、鉱石のような暗い色をした“なにか”が押し込められていたのだから。
ソレが発覚してからは上も下も大騒ぎ。
石のように見えるのならば源石なのでは、よりにもよってドクターが鉱石病に罹ってしまったのでは! と声を荒げる者たちに対してケルシーが、「それはない、有り得ないことだ」と強く断言したことで一度騒ぎは収束したものの。では、ドクターはなにに侵されてしまったのかという問いに答えは出せず、見聞が広いオペレーターを集めては持っている情報、意見を聞き出す、文献を探すという人海戦術もそこまで行くか、などという方法を取らざるを得ない状況になっていた。
その間にも、ドクターの内にある黒い“何か”が見える範囲は広がって、パリパリと乾いた皮膚が一つ、また一つと剥がれるたびに彼の体調も顔色も悪くなる、呼吸が乱れていく。ロドスに居るどんなオペレーターが見たとしても、ドクターの容体は悪化の一途を辿っていた。
ドクターの身になにが起きてしまったのか。その問いの答えは、普段は別行動を取っているが、今回は四人揃って本艦から降りていたアビサルハンター達が乗艦したことで、漸く判明することとなった。
“ドクターが病に罹っているらしい”
ロドス本艦に足を踏み入れた途端耳に入ってきた情報に、四人は示し合わせたように顔を見合わせる。ウルピアヌスは、グレイディーアと。スカジはスペクター──ローレンティーナと。前者の二人は視線を合わせるだけに終わり、後者の二人は仲良く首を傾げている。まるで、予め決められていたコンビ同士で、次の予定はどうするのかと相談をしているかのようだった。別に目配せする相手は決まっていた訳ではないが、彼らが過ごしてきた年月がそうさせていた。それを他の者が指摘したならば、執政官の二人は確実に嫌な顔をするであろうが。
兎も角、そんな話を聞いてしまったスカジなんかは解りやすく“心配だ”と顔に書いて、そわそわと今にもドクターの元へと移動したそうにしている。
ウルピアヌスとグレイディーアはそんな彼女に息を吐き、男よりもロドスに来て長いグレイディーアが代表して、すっかり浮き足だったスカジに向かって努めて“優しく”指示を飛ばしてやった。
「シャチ」
「……なに?」
「先ほど、重要な話題を口にしていたオペレーターに詳細を聞いて、ドクターが今どこに居るのかを聞き出しなさい。彼の元へ向かうのはそれからよ」
「っ、ええ、直ぐに行くわ」
たた、と足取り早く、美しく柔らかい髪を靡かせながら情報源であるオペレーターの方へ移動するスカジを目で追ったまま、グレイディーアはウルピアヌスに話しかけた。
「あなたはどう思うのかしら、ウルピアヌス」
「詳しいことはなにも解らんだろうな。どこで身を休めているか解るだけマシな方だとは思うが」
「そうではなく。……鉱石病? それとも流行病?」
「……恐らく、違う。鉱石病であればもっと大きな騒ぎになり、流行病なら末端が噂するほど長引くことはないはずだ」
組んだ腕、右手の人差し指で自身の左腕を叩いてウルピアヌスは言う。彼にしては珍しく、苛立った様子を隠しもしない態度だった。ふむ、とグレイディーアは男の様を見て考え込む。なにを言おうか、と数個浮かべた言葉の羅列の中から適切なものをピックアップして。
「心配なら心配だと、口に出した方が良いわよ。鬱陶しい」
「お待たせ。ドクターは医務室……それも、許可なしに入れない重病患者用の部屋に居るって」
冷たい美貌と口調で吐き捨てられたグレイディーアの言葉に対し、遠慮もなく怒気に任せるままウルピアヌスが打った舌の音と、ぽひゅ、と間抜けな音を立てて吹き出してしまったローレンティーナの笑い声は、少し前と同じように駆けてきたスカジの声に掻き消されていった。
スカジを先頭に、四人はドクターの元へと足を運ぶ。
ドクターが居るであろう部屋に一歩、また一歩と近づいていくたびにグレイディーアの表情が少しずつ困惑したものに変わっていくが、しかし彼女はなにも言わず、速度が自慢の己が足を出来るだけ素早く動かすことに尽力した。
スカジは後ろの様子を伺うことなく黙々と歩き、ローレンティーナは自らの隊の長が浮かべ出した、本当に小さな表情の変化に違和感を覚えながらも、重い雰囲気になっていたためか、ただスカジの背を追って沈黙することを選んだ。
ウルピアヌスは──ゾワゾワと這い回る不快な感覚に胸中を這い回られつつ、けれど顔にはなにも出さずただ無を貼り付けて、指揮官の元へ早く辿り着くことを望んでいた。
何事もなければ良い。らしくもなく、そう願って。
小さくとも、抱いてしまった願いなんてものは、あの海の底でも今立っているこの大地においても、叶うことは少ないのだと、身をもって知っていたはずだった。
「あ、帰ってきたのか」
おかえり。
ふにゃ、と緩みきっただらしのない顔で笑うドクターの、余分な肉のついていない薄い頬には痛々しいと表現できるようなひびが走っていた。コロコロと表情が変わるたび、小さな皮膚の欠片がパラパラと儚く落下していく。それに息を呑んだのは誰だったか。スカジ、だったかもしれない。彼女が一番心配を表に出していたのだから、きっとその予想は外れてはいないだろう。
この部屋へ既に集っていた者たちが、へにゃへにゃになったドクターに向かってすぐさま注意を促す。「ドクター余り顔を揺らすんじゃない」「アはい」「ドクターはこっち見てね」「うん、すまない」なんて会話をしながら、彼らは真剣にドクターの身体を診察していたのだった。
歳の化身としての目線でなにか解らないか、と呼ばれたチョンユエは、ドクターの手を負担が掛からぬよう優しく触れて、しかしひび割れの下にある皮膚代わりの物質の硬さに、ぎゅうと顔を顰めた。チョンユエの力で砕けぬことはないが、人の子の皮膚の下に存在して良いものではない。そして、人間体をとっているとはいえど歳としての感覚がこれは良くないモノだと告げているが、その正体までは長い年月を生きている彼でも看破することは難解であった。
そんなチョンユエのすぐそばでは、ドクターの顔を華奢な指でそっと固定して、皮膚下の“なにか”を見つめているミヅキが居る。
大きな瞳を鋭くしてジッと睨んでは、堪えきれぬと顔を歪めて柔らかな唇を噛み締めていた。まるで、解決策が見当たらない、と言うように。
医者ではないが診察めいたその様に言及せず、然れどもグレイディーアは震える声で、なぜ、と小さく呟いた。決してミヅキに向けて言葉を放ったのではない。ただ、ミヅキの顔を見て、それからドクターの姿を見て、ここに来るまでに少しづつ抱えていた困惑の正体を見つけてしまったのだ。
だがミヅキの思い詰めたような表情から、事態はもっと酷いことになっているのだと、聡い彼女は理解する。そして彼女が理解出来たその事態は──長い年月、仇敵と戦ってきたウルピアヌスにも、同様に理解が及ぶものであった。
「何故だ」
哀しみに溢れた、若しくは怒りに満ちた声で男は言った。
「何故ドクターから、奴らの匂いがする」
海と、変質しきった醜い、死を齎す者の匂いがする。すっかり嗅ぎなれてしまった異臭が、よりによってそうであって欲しくないと願った者から漂っている。耐え難い屈辱だった。積み上げてきたものを根本から崩すような、酷い惨痛であった。
ひび割れた表皮から覗く岩石にも見える“なにか”は、ゴツゴツとして硬く、ところどころが鋭くなっている。キチン質でできたものではないが、その謂れは海からやって来たもの──内側から現れているのは恐らく鱗に似た材質──であろうことが直接診たミヅキと匂いを嗅ぎ取ったグレイディーア、それからウルピアヌスにもはっきりと解った。解って、しまった。
ミヅキはドクターの頬から手を離し、スカジを見て。どうしたら良いのか、という感情を浮かべて得た情報を共有する。
「鉱石病じゃない。それはケルシー先生が言ってた検査結果から解っていたけど……君を見て確信した。──シーボーンだ。どうしてかドクターはシーボーンと融合して、けれど一体化するような進化じゃなくて、内側から作り変えるみたいに肉体が変化してる。でも……内側の肉は何故か、君の中にいるソレと、よく似ているんだよ。それが、僕には解らない。だって、君は関係ない、絶対になにもしていない。なのに……ドクターの変質した中身は、どうしたって──イシャームラに似ている」
ミヅキが話した真相は、判明した物事の共有で済ませて良いものではなかった。ただの一方的な、人の身には重た過ぎる死にも似た宣告だった。
事実、関係ないと言われているのにも関わらず、スカジの顔色はすっかり青褪めてしまって、今にも倒れてしまいそうになっている。ローレンティーナはそんなスカジの肩に腕を回して、体温を分け与えるようにくっつきながら、けれど信じられないと余裕たっぷりであったその表情を驚愕に染めていた。アビサルハンターである彼ら、彼女らは、ドクターを治す術を持たず、屠り、蹂躙する技術しか持ち合わせていない。だからこそ、少しだけ得ることのできた希望を賭けてロドスへ身を寄せていたのに。ただの病気であれば、どれだけ良かったのだろう。アビサルの面々はただ茫然と、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
シーボーンは、意志の強さで進化する度合いが変わるという。
ドクターの意志が弱いと言っているつもりはない。彼は優しく、そして強い。このロドスの誰もがそれを知っている。──しかし。その身体はこの大地において、誰よりも脆弱であると言って良いだろう。故に、シーボーンとして身の丈に及ばない変化が身体を蹂躙していくにつれて、ドクターはより衰弱していく。進行速度は緩やかに出来たとしても、いずれ、卵の殻を破るように、見覚えのある怪物が姿を現すだろう。
というのが、ミヅキの宣告を聞いてケルシーが出した推論だった。結論でないのが幸いだが、別に解決策が見えた訳ではない。
ドクターがいつシーボーン、あるいは恐魚の体組織を取り込んでしまったのか。ミヅキの言う、イシャームラ由来の因子はどこから来たのか。
一つの事柄が判明しても、二、三と解らない事象が増えていくだけ。解明に時間をかければかけるほど、ドクターの身は内から変質し、けれど死することはなく苦痛に苛まれながら、やがて彼の全てが海の脅威と成り果てる。
今こうして皆が打ち拉がれている間にも、中の怪物はぬくぬくとその身を温めて、外の世界を見ることを待ち侘びているのだろうか。ドクターはベッドの端に腰掛けて、ゆらゆらと悲しげに瞳を揺らしているミヅキの、もちもちとした子どもみたいに柔らかい頬を、先ほどのお返しとでもいうように、同じ箇所をそっと撫で返してやりながら空いたもう片方の手のひらで、己の腹をそっと撫で上げた。
ゲホゲホと咳き込む音が聞こえる。
幼子がする、その小さな体躯に収まった未発達な肺を精一杯、懸命に使って行われるようなソレではなく、今にも死に向かっている者がする下手くそな呼吸に付随した、一つ一つが重たく響く丸めた背の勢いで思わず誰かに縋り付いてしまうような咳嗽。次いで、深夜の寝室特有の暗く、シンとした静かな空間に鳴る、ヒュー、カヒュ、と成り損なった笛の如き喘鳴。
作曲を嗜んでいた者として。この世に存在する大半の音色は、インスピレーションが湧き上がる素晴らしい楽音になるものだと思っていたが。
数えるのも億劫になるくらい夜を共に過ごして来た者から聞こえるようになってしまった音は、ウルピアヌスにとってただただ忌々しいと思うもの、嫌いな雑音という評価しか下すことができなかった。何故ならソレは、愛しい者──ドクターの体力を、精神を。そして、余命を削る音に他ならなかったのだから。
シーツをぎゅう、と千切らんばかりに握り締めていた手のひらが唐突に緩んだ気配がして、ウルピアヌスは目を開ける。
隣では上体を起こし、以前より幾分か痩せてしまった両の腕で胸元を抑えて、ゆっくりと乱れた呼吸を整えているドクターが居た。ウルピアヌスが彼に倣って身体を起こして、薄い肩を抱えて少しでも楽になるように自身の方へと引き寄せ凭れさせてやれば、ドクターは、ほう、と落ち着いたのか控えめに息を吐いていた。分厚い身体に懐くみたい頬を押し付けて、冷や汗をかいた顔に笑みを張り付けながら、彼は小さく呟く。
「……起こしてしまった?」
「元より起きていた。お前が気に病む必要はない……医師を呼ぶか?」
「ううん、大丈夫だ。もう少ししたら、眠れると思う」
「……そうか」
乾燥の所為か、少しパサついたドクターの髪を、ウルピアヌスは頭蓋の形に合わせて梳き、撫で付けてからひび割れに触れないよう気を遣って、頬に指を滑らせる。元々頼りない身体を持っていた彼はより一層、人形みたいに脆く、ゾッとするほど壊れやすくなった。擽ったそうに緩やかに首を振るドクターから手を離し「横になるか?」と問えば、のろのろと頷きが返ってくる。肯定を受けたウルピアヌスが彼をころりと横にしてやれば、なにが気に食わなかったのかドクターは嫌々とシーツに髪を擦り付けて、己を倒した男に手を伸ばしながら抵抗していた。
「待って。……ハグしてくれ、強めに」
「却下だ。お前の皮膚が更に剥がれては困る」
「はは、心配性だな君は」
けほ、と未だ止まぬ咳を混ぜて話すドクターを見下ろしていたウルピアヌスは、諦める様子が見られない彼に根負けしたのか軽く息を吐いてから、横たえた体の隣に自らも身を沈めて、要望通りに手加減した上で力強く痩躯を抱き締める。回した手で背中を撫ぜて、安眠が確保できるよう位置を調節したあと、抱き込んだ彼の小さな頭、その旋毛に顎先を押し当てた。
とく、とく、と弱い心音が、浅い呼吸がドクターがまだ怪物ではなく、間違いなく人であることをウルピアヌスに知らしめている。深夜、二人のこの一連のやり取りは、ドクターが衰弱してからひっそりと続くルーティンになっていた。
どうしてウルピアヌスがドクターの横で寝ているのか。
彼の進化の様子を監視する、という名目もありはするが、そも、ドクターがシーボーンにその身を侵される以前から、二人は恋人同士である。とはいえ、互いが結ばれたのは本当に偶然だったのだが。
例えどれだけの好意を抱えていようと、元々が懐疑的であるウルピアヌスはドクターが解りやすく想いを表さない限り、自ら愛を示すことをしないつもりであったし、ドクターもドクターで自身がどのように彼を想っていようと、諸々の苦労を背負っているウルピアヌスに対しその愛慕を告げようとはしなかった。
しかし、疲労困憊だったある日のドクターが、有り難くも秘書業務を請け負ってくれたウルピアヌスの赤い瞳を見て、ポロリとある言葉を吐露してしまったことにより、幸か不幸か二人の関係が急展開を迎えたのだ。
「君のセックストイになりたい」
「────あ?」
「ん? おっと失礼。欲が出た」
不備はないか、と対面で書類を提出したウルピアヌスに向かってドクターは、紙の束を確認しながらとんでもない言葉を放っていた。両者ともにカチン、と固まったものの、流石に発言したドクターの方が復活が早く、張本人はすぐに謝罪をしたあと忘れて欲しい、と何事もなかったように男に忘却を請うている。だが、簡単に忘れられる訳もない単語があった所為か、ウルピアヌスはツラツラと文句を並べながらドクターの言葉を掘り下げるために会話を続行した。それはそうだ、己の性玩具になりたいと言われて気にならない人間など居ないだろう。
「俺の聞き間違いでなければ、お前は今俺の性玩具になりたいとほざいたのか? その言葉とお前自身に抱く感想は数あれど、ただの執務室でそのような発言をするとは……とうとう自慢であった優秀な脳味噌とやらはイカれてしまったのかドクター。……残念だな、本当に」
心の底から残念そうな、そして軽蔑しきった声を作って彼は言う。
その様子に特には焦りを見せずとも、ドクターは待ったをかけて穏やかに言い訳を口にした。
「いやいや、違くてね。別にソレに限った話じゃないんだウルピアヌス。君の内側に触れられる……その心に残るなにかになれるなら奴隷だって怪物だって、それこそ悪霊とか、なんでも良かったんだけど。……セックストイは駄目だったなほんと、忘れてくれ」
「お前が俺の立場なら忘れられるのか?」
「ヤ、無理だね絶対無理。全部吐くまで問い詰めると思うよ」
「だろうな、俺でもそうする。そら、問い詰められると解っているのならさっさと話したらどうなんだ?」
「終わったー……」
椅子に取り付けられた、しっかりとした作りになっているヘッドレストに頭を乗せて、天井を見上げながらドクターは自分がした発言をやっと後悔するに至った。何故って、それはもうこの男のことだ。根掘り葉掘り、根を穿り出したあともその土壌を疑って、5メートルほど穴を掘り進めるくらい聞き出してくるに違いない、と思ったからである。
つまりは、性玩具になりたいと言った感情の根源、大元、自らが抱く恋心を彼に言わなければならないのだ。己の柔いところを無遠慮にほじくり返されるくらいならば、自分から邪気出してしまった方が多少は楽であろうか。龍門や極東で使われている計算具、算盤を使ったようにパチン! と答えを弾き出したドクターは、素早く白旗を上げて彼に伝えるつもりなんて微塵もなかった想いを手繰り寄せて、「君が好きだからだね」と、せめてもの意趣返しに正面から直球に男へ伝えてやった。案の定、なにを考えている? と疑っていたウルピアヌスは、予想もしてなかった好意の伝達にまたもやきっかり固まってしまったが、それは些事であろう。ドクターは愉快だとケラケラ笑った。
「うーん、多分跡が欲しいのかな。君のためって言ったら傲慢で、私のためと言ったら強欲だけれど。君が好きで堪らなくて、この想いが報われても報われなくても、そして私と君が遺すにしろ遺されるにしろ……私は確かに恋をしたんだ、って跡が──ああ、証が欲しい」
気を取り直してとんでもない発言をした真意──もとい好意と、抱えた願いをドクターはすらすらと諳んじるように口にする。当たり前だ、常日頃からぐるぐると煮詰めるみたいに考えて、けれど話さずしまっていたものなのだから。返答なぞ、箪笥にしまっていたソレを、ドクターがずるっと引っ張り出すだけで事足りる。
ウルピアヌスはドクターの言葉を噛み締めるように一言、「証……」とだけ低く呟いて、また口布に隠された唇を閉じてしまった。真面目な彼は、その優秀な頭にしっかりと先の答えを刻みつけてくれているらしい。嬉しいけれど難儀な人だなあ、とドクターは机に手を置き指を組んで、ゆったり顎を乗せる指揮官らしい態度をしてから、自らが得た感情の続きを述べていく。
「そう、証。君を愛しく想っていた人間が居たんだよ、って覚えていて欲しいというか──うん、なんて言ったらいいんだろうな。こういった感情は、今の私の拙い情緒ではなかなか言葉に表せない」
「……それで?」
「うん?」
「それでお前は俺になにを求める……いや、なにが欲しいんだ。ドクター」
「いやあ、なにも要らないよウルピアヌス。私が君に情を持ってしまっただけ。欲しいとは言ったが、いざ君から貰ったなら死んでしまう」
「フン、気色が悪過ぎてか?」
「まさか! 嬉し過ぎての間違いだとも。きっと、君の胸の内にある燃えるような情を一欠片でも受け取ってしまったら……私は過ぎた幸福で溺れ死んでしまうだろうから」
だから、要らないよ。なんにもね。
拙いとは一体なんだったのか。情緒豊かにしっとりとした声で溺れると言った男は、次の瞬間には声色を変えて、戯けたようになにも要らないと言って退ける。
一体どちらが本当の言葉なのか、ウルピアヌスは考えて──どちらも本心なのだろうな、と当たりをつけて目を伏せた。
突拍子のない言葉ではあったが迂闊にも恋心を口にする癖に、証が欲しいと強請る癖に。変なところで臆病で、まるで小魚が海藻を使って身を隠すように、その相手から逃げ隠れる。駆け引きにしては随分下手くそだと思ったが、そうか、これが駆け引きになるともアレは想像してすらいないのだろう。酷い人間だ、本当に。
恋とは元来、一方的かつ理不尽で我欲的なものであるはずだが、彼はその恋を抱いて尚リターンを求めない。“報われても報われなくとも”などと、本心で言っていたのであろうそれは、想いが成就するとは微塵も考えていないからこそ出た発言なのだ。ただ、思っていたことを言っただけ。抱えていたものを吐き出しただけ。なるほど、それならば確かにドクターの情緒は拙いと言えるだろう。何故ならアレは、自分の発言がどれだけ相手を揺さぶるのかを、察することすらできないのだから。
くつり、と口布の下でウルピアヌスは笑う。
こんなくだらない餌で引き寄せられるのは不愉快だが、狙っていた獲物を逃すより不愉快なことなどあるまい。勘違いしてくれるな、ドクター。釣り上げられ、最後に食われる獲物はお前であって、俺ではない。鯨がどのように捕食するのか、知らない男ではなかろうに。
「──ハ。仕事の合間にペラペラと饒舌になったかと思えば……傲慢? 強欲? 弱気であれ、微かであれ、好意を口にしたのならば、諦めてもっと欲を出すべきだ。そして、恋情を相手へと渡したのなら……その返礼を期待するべきだな」
「返礼? ……君の?」
「そうだ。俺に記憶していて欲しい? 幸福故に溺れ死ぬ? 構わん、お前が望む全てで俺はその痩せた内を満たしてやろう。虚が勝手に満ちていく様を黙って眺めて、溺死しそうになる感覚を味わい、その水面で必死に喘げ。それでやっと平等だ、ドクター」
「平等だって? そんな訳ない、返礼とやらが多過ぎる。私が嬉しいだけだよ、それは」
「構わんと俺は言った。……俺は立ち止まれない、お前はここ──このロドスから動けない。ならば、お前が言う情とやらを置いていくのが筋だろうさ。喜ぶが良い、お前には欠片どころかこの心臓にある全てを捧げてやる。だからお前は、俺がやった情を細腕で抱えながら、頭の天辺から爪先、その慎ましやかな臓腑に至るまで……一つ残らず俺に曝け出せ。外を回遊し、またお前の元へと戻る内に露わになったそれらを俺は丸呑みにして、先へと進む」
ツカツカとドクターの元へ歩み寄って、遮られたその目を覗き込む。見え難くも光る、見開かれた瞳を見て満足そうにウルピアヌスは目を細めた。獰猛に、俺を出し抜けると思うな、と思い知らせるように。
ドクターは合わさった瞳を見て、一回、二回と瞬いて──吹きだすみたいに笑った。へにゃりと緩みきった、ウルピアヌスが今まで見たことがない笑い方であった。
「────ふ、はは。うん、うん。解った、前言撤回させて貰うよウルピアヌス。君、結構欲が深いんだねえ。心……心臓か。私は心臓も対価に入っているのに、君がくれるのは心臓だけ? 酷い人」
「ぬかせ、俺が酷いなんてお前は俺がここに来た時から知っているはずだろう。性悪に捕まったと言うのならそれはお互い様だ、俺はお前のような無自覚の魔性を他に知らん。道連れにして行かないだけ譲歩している方だ」
「魔性って! ……ね、好きって言ってくれないか? 君の口から、君の声で聞きたいんだ」
「…………“Tienes todo mi corazón.” ──ではな、ドクター。俺の次の乗艦は、既に渡してある予定通りのはずだ」
「え、あ? なに、イベリア語!? ちょっと、待ってくれウルピアヌス! 聞き取れなかったからもう一度──!」
そういう態度を無意識でとるから魔性だと言うんだ、阿保め。
ウルピアヌスはジトリとドクターを睨め付けてから、イベリア語でそれはもう低く所謂愛の言葉とやらを囁いて、その身を翻していった。
言葉と一緒に残されたドクターは、中途半端の発音だけをメモした紙切れを手にしたまま、ポカンと立ち尽くす。やられた、と思った。彼は欲深いだけでなく、自分と同じくらい負けず嫌いであるらしい。ガリガリと頭を掻いたドクターは、ウルピアヌスのそんな一面もその紙切れに綴ってから、数拍置いて──「やったー!!」と今日一番の大きな声で、じわじわと遅れてやって来た喜びと一緒に飛び跳ねた。
ドクターがウルピヌスからなんとか聞き取ったイベリア語、その告白の意味を翻訳できた頃に、単独行動を終えた男はロドスの、ドクターの元へと戻ってきて。彼が言った言葉をドクターが子どもみたいな発音でそっくりそのまま伝えてやっと、二人は漣のように穏やかな空気の中で結ばれたのだった。
休日や空いた時間が重なればどちらともなく寄り添って、波打ち際に押し寄せる小さな波に似た緩やかな日を過ごすこともあれば、大きな波で全身を攫われてしまうみたいに深く、愛を告げ合う日もあった。
それでも悠長にしている暇はない、と寝るのも忘れて未来を語りながら、どうにか生き抜くため、故郷のための希望を見つけ出さねばと、その先を二人分の瞳をもって幾度となく見つめ直していたのだけれど。海という雄大な存在はいつだって、途端にその表情を変えてしまうもので。
大地や海では珍しくもなんともない理不尽によって、二人はゆったり揺蕩うように戯れることも、泣きたくなるくらいにぎゅうぎゅうと抱き締め合って、微睡に落ちることも許されなくなってしまった。
そう、ドクターが鉱石病に罹ることはないとうっすら察していたウルピアヌスは、その事実に安堵して、そんな彼の体質に油断し、忘却していたのだ。自身の仇敵はいつ何時でも、自らが大切にしていたものへ深海から静かに、けれど真っ直ぐにその手を伸ばしていることを。
悲願のためにも、と本艦の乗り降りを繰り返していたウルピアヌスは、その都度ドクターの前へ姿を見せ、同じく視界へ映り込む痩躯を見ては考え込む。彼の変化は少しも歩みを止めることなく、著しく進んでいるようだった。
アビサルハンターの使命を、そして己の本懐を忘れるはずもないが、愛した人間がその使命を果たすべき相手へと変わっているのだ。ならばこれは──己が道を逸れる行為ではないだろう。
ウルピアヌスはそう結論づけて、自分たちの関係を、ドクターの容体を知っている同胞たちに持ち得る全てで説明をして。ドクターが人としての終わりを迎える時まで、そのそばに控えることを取り決めた。
そうなったことに不満はない。決めたのは己で、元よりシーボーンを屠るのはアビサルハンターが存在する意義であり、そして、情人のために身体を、心を使うのは海の男として生きて来た以上本望である。海に生きる者は、食うか食われるかの厳しい世界の所為か、愛情が深い者が多いとされていた。
故に、ドクターがその生を全うするために使われることにウルピアヌスはなんの異論もない──ないのだが。
こいつはいつも、謝ってばかりだ。
ウルピアヌスはすっかり慣れてしまった日常の通りに、ベッドの上で隣に居るドクターのひとときの休息を邪魔しないよう黙って目を閉じ、その裏で体調が急変してからの彼の顔を思い浮かべる。
一日の大半をベッドの上で過ごすことになったドクターは、きっと昼もうつらうつらとしている所為か、深夜になると小刻みに目を覚ますことが多くなっているようだった。
ぼんやりとでも覚醒したドクターは、隣のウルピアヌスを暫しの間観察し、すっかり寝入っていると判断できると更に細くなってしまった手で顔を覆いながら、「すまない……すまない、ウルピアヌス」と男の名前を呼んでは一人、静寂の中で懺悔し始めるのだ。ドクターはその行為をバレていないと思っているらしい。目が覚めれば、なにもなかったみたいに朝の挨拶から始めるのも、ウルピアヌスが困る要因の一つになっていた。
本当に潜めた声とはいえ、顔を覆うために身動ぎをして、名を呼びながら泣いている者がそばに居て、ウルピアヌスが目を覚まさないはずがないと、少しでも思考を回せば気づかない訳がなかろうに。そんなことすら気が回らないということは、彼が弱っている──肉体だけではなく、精神も衰弱している証拠であった。
なにも彼が謝っているのはこの時だけではない。
例えば、ロドス内を移動しなければならないが、自身の力では車椅子を動かすことすらできなくなったドクターを見かねたウルピアヌスが、その身体をそっと抱え上げたり。彼の苦痛が少しでも和らぐのなら、と簡単な世話をしようとした時だって、ドクターの口からは「すまない」という言葉がなによりも先に漏れるようになっていた。
そんなやり取りが十回あった中で、一回や二回、感謝の言葉が聞こえるのならウルピアヌとて、どうとも思わなかっただろう。しかし、男がする全ての行動に礼はなく、すぐさま謝罪の言葉が放たれる。奉仕を有難いと思ってくれ、などという話ではない、ウルピアヌスはそんなチンケな褒美なぞ欲しがったこともない。ただ、ドクターの人柄を考慮するならばそれは異常であろう、という話をしているのだ。
へにゃりと笑ったドクターが、心の底から嬉しそうに言う「ありがとう」の声を、ウルピアヌスは久しく耳にした記憶がない。そんな、本当に小さな疑念の種が──胸の奥に蟠って、消えないのであった。
シーボーンの対処はアビサルハンター、その隊長であるウルピアヌス及びグレイディーアに一任される。今回においてはウルピアヌスが最適だと判断されたに過ぎない。慣れたものだった。処置であれ、処理であれ。それが、愛しい者の処分であれ。
とうとう、ひび割れる皮すらなくなってきたドクターの内側から、黒々とした硬い鱗が柔い体表を突き破りその姿を見せ始めた。匂いが、気配が一際強くなる。解っていたことだが、やはりそれは海の脅威に違いなかった。そして、明快かつ、優しくも荘厳に聞こえていた彼の声に、良く知る怪物のものが混ざるようになり、そばに控えるウルピアヌスだけがその音を理解できるくらいになった頃。
ドクターからの謝罪と懺悔を受けながら、ウルピアヌスが彼の命を見届けるのに片時も離れず過ごしているうちに、ロドス・アイランドは“ドクターの身柄を、その死体をどうするのか”、という大きな議題に終止符を打った。
ここまで衰弱、そして変態が進んだ以上、我々にはもはや尽くす手はないだろう、と判断したケルシー、そしてCEOであるアーミヤ──少女は最後まで、治療法を見つけるためにもドクターはロドスに居るべきだと声を張り上げて主張していたが、男以外のアビサルハンターの面々が語る融合した者たちの末路と、ケルシーの懇願に近い説得で、ドクターが心安らかに休めるのなら、と決断を下していた──によって、ドクターの身柄は本人を蚊帳の外にして、ウルピアヌスに預けられることとなった。
とはいえ、だ。
そんな経緯は蕩ける手前の脳みそを持つアレでも気づいているだろう、とウルピアヌスは手に持った資料をペラリと捲った。こんな状況でも、ドクターの秘書であるのなら職務を全うしろとの仰せだった。尤も、働けと紙の束を持って来たのは顔を顰めたグレイディーアであったのだが。それがロドスの方針ならば、そうしなければ秘書でいられないのなら、と請け負って、書類を一枚一枚捲りながらもウルピアヌスは、今日も今日とてドクターのそばへ控えている。
不意に、ウルピアヌスの鼓膜に「かろ、」と硬質的な音が届いた。
かろ、ころ、と骨を鳴らすようなその音は、ドクターの口──もとい、声帯で作られている。ウルピアヌスの耳と、学びたくなくとも学んでしまった言語が正しければ、短く硬い音色は「すまない」という言葉を繰り返していた。
「不愉快だ」
手元に視線を落としながら、ウルピアヌスは低く吐き捨てる。
「お前は何故俺に謝る。知っているぞ、その謝罪は他の者には微塵も聞かせずに、俺にしかしていないことを。一度では飽き足らず、今も繰り返して一体なにが言いたい。……俺に、なにを許せと言うんだ、ドクター」
そこまで言って、男はやっと赤い瞳でドクターを見据える。
咎めるような、けれどなにかを期待するような、そんな眼差しだった。その瞳と向かい合ったドクターはまた、かろ、と一鳴きして、絞り出すように“人”の言葉を、まだ怪物ではない自分がして来た懺悔の内容を口にした。
「すまない。私は君に、望むものを与えてやれなかった。君が求めてやまない記憶は永遠に私の元を離れ、新たに縋るべき解決策は終ぞ導き出せず。……君に、君たちに安寧を齎せなかった。それこそが君ここで過ごす理由であり、縁であったのに。進み続ける君の足を止めさせ、どうにもならない私のそばに控えさせるだけ、というただ日々を無為に過ごさせた。残されている貴重な時間を無駄にさせてしまったんだ。すまない、愛しい君。……私の元へ残すのは、心だけ、と先述していてくれたのに。君の隣で過ごすことを許されて、その情を抱えた腕でなんでもできると思い上がっていた私を──許さなくて良いから、どうか自由になって欲しい。すぐにでも成れ果てるであろう私など捨て置いて、また歩みを進めてくれ、ウルピアヌス」
ころ、かろ、と途中で鳴き声を挟みながら、ドクターはそれでも言い切った。
抱いていた悔恨を、恥ずかしいほどの驕りを、彼への愛を吐き出し切って、こんな醜い自分など見捨てて旅立ってくれと、やっとの願いを口に出したのだ。──緩んだ頭では、その言葉こそがウルピアヌスを侮辱したのだと、微塵も気づかずに。
「──ふざ、けるなよ」
言うに事欠いて、そうほざくか。
ギリ、と奥歯に限界まで力を込めた、食い縛る音がする。それは、ドクターが知るウルピアヌスが、余りしない行動だった。そんな、滅多に取らない行為をするくらいに彼は──怒り狂っているのだろう。
「今際の際が近づいてお前が俺に遺すものは、過ごした時間のせいで胸の内にできた、お前がぐちゃぐちゃ引っ掻き回した傷跡と、長ったらしい懺悔だけか。確かにお前が言う通り、アビサルハンターが、俺が求めるものはお前の記憶だった。全てとは言わないまでも、救えるものは出来得る限り救えるような、解決策だった。──だが、それだけを求めるためにこれまでも、これからも。俺がお前の隣に存在するのだと、本気で思っているのか? ……今すぐに認識を改めろ、ドクター。お前が欲深いと判じた男は、今この場にいる“お前”だからその愛を希い、味わった憂いも怒りも許容して、ここまでやってきたのだから。今更離れろと請うた所でもう遅い。言っただろう、お前の全ては俺が丸呑みにするのだと。それを違える気は、毛頭、ない」
憤怒に染まった真紅の瞳を持ちながら、衝動に任せて立ち上がった白鯨は、手のひらに爪を立てながら此方を睨んでいる。
今にも力任せに襲い、獲物を、心臓を丸呑みにしてしまいそうなほどだった。ドクターは変質してしまった耳でウルピアヌスの言葉を聞いて、怖いくらいの表情を霞んでいる視界で捉えて──笑った。久しく見ることが叶わなかった、へにゃりとふやけたような柔らかい笑顔だった。
ぶん、と緩く頭を振って「ア、アーー」とドクターは声を発する。首と肩をぐるりと回してから、久々に思考がクリアになった、と肺に詰まってしまった息をゆっくり吐いていた。そうして、何度目かの発声練習が終わったあと、ゆったりとした笑みと声で、「すまない、」とウルピアヌスに向かって言った。
「ごめんよ、ウルピアヌス」
「貴様、まだ──」
続けるか。
先の言葉は、くふ、と言う気の抜けるようなドクターの笑いに阻まれた。
「私は君という男を、またも見誤っていたらしい」
もう「すまない」なんてチンケな謝罪は言わないから、どうか頼みを一つ聞いて欲しい。軽い調子でドクターは言う。
自分の身が完全に、君たちの敵になってしまった時、その処理はきっと他でもないウルピアヌスがしてくれるのだろうから。ソレはなんの感情も抱かず縊り殺してしまって構わない、大事なのはそのあとなんだ。ちっぽけな身体を焼いて、灰になるまで燃やし尽くしてしまって。
「残った一つを、君に持っていて欲しい」
ドクターは、最期の願いをそう締め括った。それが、いつかの自分が話した“恋をした跡”になるだろうから、と。
「大丈夫! 絶対に残してみせるし、残るに決まってるさ。マ、それがなんなのかは生憎“まだ”人間なのでね、解らないのだけれども」
そんな戯けた会話の少しだけ、ほんの少しの間だけ理性を取り返したドクターは、ウルピアヌスが見たかった笑顔のまま眦を下げ、「ありがとう」とだけ言って、そのまま消えてしまった。なにも、別れすら言えず立ち尽くすウルピアヌスを置き去りにして。
部屋に残ったのは、軽すぎるくらいの礼の言葉と、一方的に聞いてしまった一つの願いと──首を傾げるようにして塒を巻いている、愛しい者の成れ果てだった。
ドクターは、その肉体がなくなった時、“なにか”が残るだろうと確信しているようだった。
優しく一撃で“怪物”を屠ったウルピアヌスは、託されたものの処分をするべく、軽く身支度を整えたあと気持ちが良いくらいに晴れて、海がよく見えるであろう海岸に足を運んでいた。慣れ親しんだ海ではなく、シエスタの、バカンスにもってこいであろうビーチに、だ。己一人では絶対に来ないであろう場所に、化け物の死体を詰めた袋を背負って訪れている。夜が更けているのが幸いであるが、それでもどこか悪夢の中に居るようだった。
人目につかないような隅で適当に火を起こし、パチパチと燃える炎を薪を焚べて大きくしてやる。シーボーンの死体なぞ、半端な火力では燃え尽きはしないだろうが、散々ドクターを苛んだ黒い鱗を粉々にしたあとの、小さく、幼体のような状態の骨も肉も脆いコレならば、時間を掛ければ問題ないだろうとウルピアヌスは予測していた。
実際に、男の想定通りにその肉は焼けた。人の身であった時から既にボロボロのザマだったらしい骨は折るまでもなく朽ちて、細かな灰と混ざり合った。ウルピアヌスが愛した“人”は、血の一滴すら残らず綺麗に燃え尽きたのだ。
律儀にもしっかりと願いの通りに彼を燃やし終わった男は、残った火の後始末をして、潮風に飛ばされつつある灰の中を厚い手袋をした指で掻き分けている。数回、往復すればコツリと硬い感触。そっと指の背で灰を拭ってやれば──小さな、本当に小さな石が一つだけ、焼け跡にポツリと、月明かりの所為か寂しそうな輝きを放ってその場に残っていた。
御伽話の恋をした人魚は、愛おしさに涙を流す時。そのこぼれた雫が宝石になるという。
なら、人魚に似ているはずのエーギルは?──なるのなら、貴族に売り飛ばして成り上がっている者がいるだろうな。
アビサルハンターなら?──そんなもの、一度も見たことはない。愛しさで、涙を流したことなどないが。
では、シーボーンは? 否、シーボーンと混ざり合った人間は?────愚問である。目の前の、愛の跡を見れば解るだろう。
彼は確かに残したのだ。ドクターがウルピアヌスのためだけに置いていった遺品は、ダイアモンドほどの輝きはなく、けれども彼の眼窩に収められていた瞳のように美しく煌めいていた。
灰の中に在る小さな石をウルピアヌスは指先で拾い上げて、月光に翳す。そうして、掲げたそれを摘んだまま、口元を覆っているマスクを緩め──ドクターから生まれた石を、いとも容易く飲み込んだ。
ゴクリとも鳴らず呑まれたソレは、どんどんと鯨の内へ落ちていく。
溶けることなく胃の腑に落ちて、ことりと音もせずその場に留まっている。そうして落ち着いたその石のそばに、淡く光る小さな怪物がいた。胃の底で小さな鰭を使ってせっせと塒を巻いては、ゴツゴツとすっかり硬くなってしまった己の頭を、例えその半端な身がすり抜けてしまおうとその内側に擦り寄せるのだ。満足するまで戯れて、怪物はからからと、笑っているかと見紛う音を使って鳴き声を上げる。まるで、自分はここにいるのだと主張するように。
その声が聞こえたのか、自らもいずれなるであろう同胞──大群になった者へ、そして愛しい者へ手向けた追悼が終わったのか。ウルピアヌスは、石を飲み下したあと伏せていた瞼を開き、もうそこになにもありはしないのだと焼け跡を轟音と共に吹き飛ばしてから、すぐに背を向けて歩き出した。
男は立ち止まることはしない。かつてドクターに宣言した通り、彼を丸呑みにしたって止まることはできないのだ。いつかその身が仇敵と化してしまうまで。先に進んだ彼と一緒のところに堕ちていくまで、なにがあろうと二つの足を止めることはないのだろう。
漸く動き出した身体に満足したのか、胎の底から見上げていた怪物はくあ、と眠たそうに欠伸をして、巻いた胴に頭を乗せる。かつて悪霊とまで呼ばれた者は、そうしてゆったり愛の巣で眠りについた。
いつの日か、真っ赤な目をした白く、大きな鯨が己と同じ生き物に変わってしまっても。彼はこの場所から動かず騒がず、眠っている。それが──身体、内臓全てを曝け出したあと、丸呑みにされた者の望みであるからして。
あとがき
この度は、ウル博の一作目を閲覧して頂き、誠にありがとうございます。
本当はこんな暗い話を一作目にする気はなくて、温めていたもう少し明るいネタを出すつもりだったんですが……濁スカちゃんのコーデの、シボン化した博を見てしまっていてもたっても居られず……やってしまいました……。全部あのコーデが悪いとおもいます、はい。
ウルピアヌスは色々な言語に通じている、と聞いてシーボーンの言葉もそのうち伝わるくらいにはなっている?のかな、と勝手に捏造を重ねました。
匂いに関してはシーボーン化が進んでいるグレイディーアが嗅ぎ取れるようでしたので、そのあたりウルピアヌスはどうなのかな、と期待も込めて盛りました。楽しかったです。
作中に出てきたイベリア語、ウルピアヌスの告白ですが、元ネタのスペイン語から取っております。
Tienes todo mi corazón.(ティエネス トド ミ コラソン)→私の心の全てはあなたのもとにある。
という意味だそうです。今回の彼らにぴったりだな、と思いました。
タイトルは、いつもの通り語感で決めたのですが、「胎の底から」という名前はオチを思いついた時点で決めておりました。腹ではなく、胎の字なのはある意味兆しであることと、ウルピアヌスの腹に宿った、という今も込めてつけました。とても楽しかったです。
そんな感じの勢いとノリで出来た作品ですが、見て頂けてとても嬉しく思います。
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最後に、もう一度お礼申し上げます、ありがとうございました。
白桃