盲目マけんちん、そう呼ぶ、舌っ足らずな声に目を覚ます。肝心のマイキーはオレの胸元に顔を埋めたまま、こちらを向く気配はない。
寝言だろうか、とそっとボサボサの頭を撫でれば、マイキーはオレの方へと向いた。けんちん、もう一度、マイキーが言う。おう、と返事をしてやれば、マイキーは嬉しそうに笑って、首元へと顔を寄せた。
けんちん、けんちん、けんちん、馬鹿の一つ覚えみたいに、マイキーはそれを言う。次第に早くなっていくそれを宥めるように、背をゆっくり叩いて、落ち着くのを待つ。
やがてマイキーは口を噤んで、オレの背に腕を回した。ふうふうと、逆立った猫のような息遣いが聞こえてくる。
「まだ寝てろ、夜中だから。な? 」
「けんちん」
「大丈夫だ、ここにいる。落ち着けって、もう一眠りすれば朝だ」
この調子だと、マイキーは眠れないかもしれない。本格的に覚醒してしまったら、マイキーはまたオレの名を何度も呼ぶだろう。そしてその時オレが眠っていたら、もしかしたら。
気休めに背を撫でてみても、マイキーは眠らなかった。いつもと同じ量の睡眠薬を飲ませ、同じ時間に床についたと言うのに。日々の小さな変化に舌打ちしてしまう。明日は多分、朝から眠たくて仕方ねぇんだろうな。
「わかったわかった、じゃあマイキーが眠るまで起きててやるよ。今日はなんの話しすっか」
マイキーは東卍の頃の話をすると、いつも嬉しそうにする。オレたちの楽園は、もう消え去った。だけどマイキーは、それを覚えているらしい。
あの頃に戻りてぇなあ、マイキー。そんなことを言っても仕方がないことはわかってる。それでも、あの日々をやり直せたのなら、オレたちは、間違わなかったのかもしれないのに。
死んだ場地の思い出を、エマの思い出を、マイキーは嬉しそうに聞いた。マイキーの中のあいつらは、いつまでも子供のままなのだ。マイキーが子供の頃に閉じ込められてしまったように、もう二度とそこからは出てこない。
それが幸せだと言うのならば、その箱庭に、閉じこめて大切に大切にするしか、オレにはそうするしか無かった。きっといつかの日、正気に戻るんじゃないかって僅かな希望をいだいて。
だけどもしマイキーがそれに気づいてしまったら、幻は幻でしかないのだと気づいたら。その時、オレは生きていられるんだろうか。オレのエゴで生かし続けているこいつに、感謝されるのだろうか。
「けんちん」
「ああ悪い、話の続きな」
急かすようにマイキーはオレの名前を呼ぶ。これからどうしたらいいかなんて、どうやって生きていけばいいのかなんて、わかるはずもない。
それでも、この手を離してはいけないから。死ぬ訳には行かない。生き延びて、こいつを抱えて生きていかなくては。四六時中正気じゃないこいつについていける人間なんてそうそう居ないのだ。
オレが先に死んでしまったら、マイキーはどうなるのだろう。今でも薬漬けの日々を過ごしているマイキーが、オレの居ない世界でどうやって暮らしていくのかは、想像もつかない。
昔よりずっと細くなってしまった体を抱きしめる。骨と皮ばかりになって、出汁しかとれそうもねえ。もっとも、この貧相な身体を出汁にとったところで、美味いもんが作れるとも思えないけど。
*
朝日が昇り出した頃、マイキーはやっと船を漕ぎ出して、目を閉じた。寝る時間が乱れるとしばらく続く。昼前には一旦起こしてやらねえと、そう思いながらあと二時間をどう過ごすか考えた。
今寝たら確実に起きられない。だとしたら、起き続けるしかないだろう。ハァ、と大きなため息が無意識にこぼれおちた。今日はバイクには乗らねぇ方がいい。事故って死にかねない。
くぅくぅと穏やかな寝息を立てるマイキーを置いてベッドから這い出でる。机の上に置かれたパソコンは店のものと繋がっているから、起きる時間になるまで作業でもしていればいいだろう。
しばらく作業に没頭していれば、うぁ、と呻き声が聞こえた。赤ん坊の泣き声とは似ても似つかないそれに目を向ける。マイキーの手が宙を舞っていた。
「悪い、忘れてた」
部屋の隅に置いてある子供の丈ほどあるくまのぬいぐるみを、ぽっかり空いたオレのスペースへと置く。それから、浮遊するばかりで何も掴まない手を片方ずつ動かして、ぬいぐるみを抱かせた。
すんすんと鼻を鳴らしたマイキーは、納得したのか目を閉じる。条件付けのように振られた香水の匂いは、マイキーにとって一時の安寧になりうる。
ガキの頃は香水なんて振ってたわけじゃなかった。だけどマイキーは、近頃オレが振った香水の匂いに反応して、手を伸ばす。それはつまり、オレでなかったとしても。
「ゆっくり寝てろ」
考えてはいけない。オレでなくてもいい事など、とうに分かっている。だけど、それでも、オレ以外の誰かがマイキーの世話をするのは、オレが耐えられそうになかった。
離れていた十二年間、こいつがどうやって生きてきたのか、オレは知らない。知ろうと思えば知れるのかもしれないが、それは人から聞いたこいつであり、こいつ自身の話では無いのだ。
だったらまあいいか、なんて。決定的な何かが明日起こるかもしれないのに、オレは全てを後回しにしている。日々を平穏に暮らすために、一寸先の闇には目を向けない。
その闇に目を向けたくないから、マイキーは視界を閉ざしたのかもしれない、とふと思う。器質的な異常だと聞いていたものの、両目の視力を一気に失うことなど、自らがそうしたいと思わなければ、マイキーは。
「次起きたら飯食おうな」
再び眠りについたマイキーは、オレの匂いに包まれて、今度こそ安寧の睡眠を甘受するだろう。幸せな夢を見ているのか、マイキーの口元がむぐむぐと動く。このまま眠っていられればいいのにな。
マイキーの見る現実は痛く苦しい。茨の道を、傷だらけになって歩きながら、傷ついたことすら気づかないで。いつかそれに気づいた時、こいつはどうするんだろうか。
聞きなれた電話の発信音にはっと意識が覚醒した。どうやら眠っていたらしい。慌て電話を取れば、呆れたようなイヌピーの声が乗る。
「ドラケン、何時だと思ってんの? 」
「悪ぃ、すぐ行く」
部屋の時計は九時を回っていた。もう店を開けなければ行けない時間で、普段なら先に開けているはずのオレがいなかったから、開店作業の合間に電話をかけてきてくれたんだろう。
もうすぐ三十路の身体に徹夜は堪えるらしい。若い頃はなんでもなかったそれが、今じゃ辛いだなんて、ガキの頃は想像もしなかった。夜中いっぱい馬鹿やることなんて当たり前だったし、それでも全然平気だった。
衰えている、そう感じることは多々あった。オレらと馬鹿やってたやつらはみんなそうだろう。見せられる程度にしか身体だって鍛えてねぇし、今100人相手にしろと言われれば、できるかはわかんねえ。
マイキーは、まだ眠っていた。夜中に騒いでいたから、身体に堪えてるのだろう。このまま寝かしておいてやりてえけど、もう行かなければ。
「寝てるとこ悪ぃな」
眠っているマイキーの身体を背中に乗せようとすれば、うぅ、と唸り声をあげて、目をパチリと開けた。普段なら眠っているはずなのに、よほど寝付きが悪かったのか。
ぁ、う、と短い言葉を発するマイキーはまだ寝ぼけているようだった。まだ昨夜の睡眠薬が身体に残っているのかもしれない。
「けんちん、」
回らない舌がオレの名を呼ぶ。もうそれに意味があるのかどうかはわからない。それ以外の言葉を発さないマイキーに意思があるのかはわからなかった。
「腹減ったか? 悪ぃけど店行ってから食おうぜ、寝坊しちまったんだ」
ぅ、と唸ったマイキーがオレの身体に抱きつく。行かせない、とばかりにベッドに引き入れようとしてくるのは自分がまだ寝ていたいからか、それ以外か。
考えてもわかるはずがない。マイキーの行動は大抵理解できるものでは無いから。どれくらいの感情が、記憶が、感覚が、こいつに残っているのかはわからない。
ただはっきりわかっているのは、もうその目がオレを映すことは無いということ。定まらない視線は宙を舞ったまま、こちらを向くことはない。仕方がないとわかっていても、寂しいと思ってしまう。
「うー、あ、ァ、けんちん、けんち、」
「わかったわかった、先に飯な。ちょっと待て、電話する」