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    shakota_sangatu

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    オメガバアオカブのその5 地獄

    #アオカブ

    Two of us



     ねぇ、アオキくん、此処から出たいよ……。

     涙に濡れたその声が、今も耳の奥で木霊する。あんな哀願を聞いてしまえば、部屋に満ちる芳しい香りも、それに耐えるためにいくつも飲み込んだ薬の気持ち悪さもすべてがどうでもいい。
     この人を助けたい、という想いは心の底から湧き上がるもので。そこにあったのは、ベータであるカブに抱いていた恋しさと同等の庇護欲……、この人を護りたいという渇望であった。
     分かっていたはずだ。シンクに吐き出した汚濁と共に、想像はしていたはずだ。本当に傷ついているのは、アルファとオメガの呪いに巻き込まれた、目の前のこの人であることを……。
     泣いている、あのカブが……、ぽろぽろと涙を零している。まるであの日のように、絶えぬ涙を流していたあの時のように……。
     アオキが知らずに終わった涙の味、それを知ろうとした自分はなんて罪深かったのだろう。アルファの本能なんて、やはりあってはならない。───、運命という言葉は、呪いでしかありえない。
    「うちに帰りたい、ポケモンくん達に会いたい……、君と一緒にご飯を食べたい」
     喘ぐように、カブが言葉を吐き出した時。いつも凛としたこの人が、今にも過呼吸を起こしそうに苦し気に胸を押さえる姿を見た時。
     ──、気づけば、手が伸びていた。第二性に呪われてしまったこの人を、生まれついて呪われた自分が慰めることが赦されるのかは分からない。それでも、たまらなかったのだ。
     今この場で、この人を慰められるならなんでもしたい。
    「そうしましょう、」
     アオキは、穏やかな努めて口調でそう言った。この時、幸運にもカブは俯いてくれていて、アオキの表情を見ることが無くてよかった。……、こんな、込みあげるアルファ性と、その呪わしさを噛みしめた、複雑な表情を見られなくてよかった。
     そう、アオキは今から咎を背負う。自らのアルファ性を認められもしない男が、たった1人の心を掬い上げるために嘘をつくのだ。
     それは、自分自身にも──、カブに対しても。
     アオキは努めて、楽しい感情を自分の中に思い描く。
     ───、二人並んで歩いた、黄昏色の帰り道。傍らを歩く彼に抱いた、温かな安堵のような恋しさ。
     大丈夫、この想いは偽りではない、だからいくらでも、彼のためならば嘘をつける。
    「自分が、かけあいます……。パシオの家に帰りましょう……、カブさんの、ポケモンくんたちを迎えに行きましょう」
    「でも、そんなこと、」
     穏やかな声が出た、声は自然と穏やかなものになった。【何故】という、本来であれば不必要な疑問を。泣きながら、心が少し壊れそうな目をしながら、問うてくる人のために。
     紡ぐ言葉は、とても穏やかであるべきだった。
    「できますよ……。自分は───、」
     咎を背負うために、必要だったのは呼吸ひとつ分の時間。
    「自分は、パルデアリーグ四天王ですから。委員長にかけあって、なんとかしてもらいます」
     嘘をついた、見え透いた嘘を。
     アオキがこの部屋からカブを連れ出せる理由など、本当は一つしかなかったのに。この時アオキは、アルファとオメガ、この呪いに囚われている事実に蓋をした。
     それは間違っていると、心の中の醜い部分が囁いた。──、無視する。
    「あはっ、そうだね!」
     すべては、カブが笑ってくれたから。アオキが恋した、いつものカブの顔で楽しそうにわらってくれたから。
     嗚呼、正しかったと、アオキは思った。
     気づかないふりをしようと思う、この部屋に満ちた芳しい香りも。その首に巻かれた、群青色の首輪にも。それがいい、それが正しい、それが普通だ。
     ──、自分たち、二人にとって。
    「アオキくん、ありがとう」
     ほら、カブが笑う、心からと思わしい表情で。貸したハンカチではなく、手の甲で涙をぐいっと拭いながら。
    「アオキ君は、優しいねぇ」
    「そうでしょうか?」
     努めて、いつも通りの言葉を紡いだアオキに対して。太陽の入る白い室内に似つかわしい、腕に残った注射痕さえ忘れたように。
    「そうだよ、だって、ベータのぼくに優しいし、」
     ──、嗚呼。この人のためならば、自分はいくつでも嘘をつける。
    「……、当然です」
     アオキは、穏やかな表情のままだった。それからゆっくりと、カブの背に当てていた手を、ハンカチを握るカブの手に重ねて。噛みしめるように、このひと時を愛おしむように。
     ただひとつ、変わらぬ想いを、口にする。
    「世界に貴方は、一人だけだから、」
     そう言えば、カブの表情は一瞬だけ強張ったが。けれども、まるで夢が優しく食むようにその表情は微睡んでいく……。ほんの少し、触れた手の甲は暖かく、ふふふっと彼は笑った。

     嗚呼、芳しい……。

     カブから漂う香りは、あまりにも芳しい。無防備で、愛らしい。あんなにも疎ましいと思っていたオメガの匂いを、芳しと感じたのはこの人が初めてだ。
     この部屋の中で思い知る、この人はもうオメガなのだと。同時に思い知る、こんなにも喉が渇く、自分はどこまでもアルファなのだと。
     アルファと、オメガそして……、運命の番。
     嗚呼、嗚呼、なんて、なんて───、馬鹿馬鹿しい。
     知性に長けた生き物が、本能の奴隷であってなるものか。否定してみせよう、忘れてみせよう……、他ならぬこの人のためならば。
     そう、自分たちにとって、バース性は呪いでしかないのだから……。
     嘘をつく……、それは悪夢なのか吉夢となるのか。カブの見る夢など知らぬまま、アオキもまた自ら呪いに囚われていく。
     面会を終えた後、部屋を出たアオキは青い顔をしたままカブの主治医の下へと向かう。
    「カブさんは、自分が面倒を見ます」
     そう言えば、医者は少しだけ渋ったものの。──、アルファとオメガの物語を信じる善良な人物は、アルファである男からの提案を飲むしかない。
     そうすることが、一番患者のためになると信じているから。……、カブを襲ったという謎の集団のこともある、そんなならず者がカブを狙っているのだとすれば、病院にいるよりも強いトレーナーが傍に居たほうがいいと思ったのだ。
     カブの退院は、トントン拍子で進んでいった。──、それこそ、カブが薬の影響で、眠っている間に。アオキはカブの手持ちを迎えに行き、パシオでカブが借りている家で彼らを待たせた。そうやって、準備を整えて、アオキはカブを退院させたのだ。
     家に帰れば、カブの手持ちたちは、カブのことをぺろぺろと舐めたり、身体を擦り付けたりした。先に、言い聞かせておいたから、賢い彼らはカブの首輪に興味を示すことはなかった。ジムトレーナーである彼の手持ちたちは、どんなボディーガードよりも心強い。彼らがいれば、カブの安全は護られることだろう……。
     このまま、カブと共に居たかったけれど、アオキは一度、彼から離れることにした。この芳しい香りの中に居続けるためには、常備薬もなにもかも足りなかったから。
    「けっして、一人で出歩かないでください」
     ただ、家を去るときの、アオキの言葉にカブは少しきょとんとしていたけれど。ボール遊びを求めるウィンディに急かされて、追及されることはなかった。

     そうやって、いつもの日常が、戻ってきたのなら───、良かった。






     積み上げてきた一つ一つの出来事が、日常という名の歯車となって回り続ける……。

     人工島パシオでは、招聘したジムトレーナーたちのために家が支給されている。カブが住んでいるログハウスには、彼の要望の通りにポケモンたちを遊ばせることができる広い庭がついていて。病院から退院したカブは、そこでポケモンたちに会えなかった時間を埋めるかのように、汗を流しながら彼らとのひと時を楽しんでいた。
     常に自己研鑽を積むカブの朝は早い……、スマホロトムが朝を伝える前に目を覚ますと、服を着替えてから座禅を組み瞑想を始める……。
     これは、スランプに落ち込んだマイナーリーグ時代に模索したトレーニングの一つで。ホウエン時代に習ったおぼろげな記憶を思い出し、見よう見まねで始めてからずっとやり続けていた。
     静かな朝、遠く聞こえる鳥ポケモンの囀りを背に瞑想すると、意識がすっと研ぎ澄まされたような感覚になる。積み上げてきた記憶にも、周囲の様々な情報からも己を遮断し、ただ静かに目を閉じる時間は、まるで自分が透明になったかのようで心地がいい。
     身体を整えて、呼吸を整えてから、身体に起きる準備をさせる……。
    「ガゥ、」
     そうやって、静かに瞑想をしていると、目が覚めたウィンディが眠い目をしょぼしょぼさせながら、カブの背にのしかかってくる……。ホウエン時代からの付き合いがある彼からの、お腹が空いたという可愛らしいお誘いだ。この時、キュウコンがウィンディを𠮟りつけて引き離すまでが一連のお約束で。
     渋々傍らに避けたウィンディの、ピスピスと鼻を鳴らした訴えに、カブはそっと目を開けてへにゃりと笑う。
    「うん、ご飯にしようか、」
     そう伝えれば、嬉しそうに頬を舐めてくる。ウィンディとじゃれ合う頃には、マルヤクデもエンニュートもコータスも目を覚ましていて。彼らは一様に、ウィンディに冷ややかな眼差しを向けるのだ。
    「まぁまぁ、みんなお腹空いたよね!」
     また、御主人の邪魔をして……。そんな感情が分かりやすい、ポケモンたちの眼差しに可笑しくなりながら、カブは立ち上がってポケモンたちの食事を用意する。
     ポケモンたちの食事は、彼ら専用にブレンドされたポケモンフーズに、必要に応じて果物屋野菜をブレンドしたものを与えている。カブが、コータス用の林檎を切っていると、マルヤクデがしげしげとその手元を覗き込んでくる。
    「今日は焼かないよ?」
     彼がヤクデだった時代から、キャンプの時などに火を起こす手間を惜しんで、その身体でおにぎりなどを焼かせてもらっていたからか。マルヤクデは、カブが調理をしていると、こうやって覗き込んでくるようになった。何か焼くものはないかと、言外に訴えるその眼差しに答えると、マルヤクデは頭をゆらりと揺らして、そのまま細かく切られていく林檎に視線を落とした。どうやら、このまま見ているつもりらしい……。
     人間がポケモンの行動を見るように、ポケモンもまた人間の行動をよく観察している。切った野菜と果物を、コータス用のポケモンフーズと一緒に盛り付ければ。今度はエンニュートが、自分の分のバナナ欲しさに手を伸ばしてくる。
    「こら、お嬢さん、」
    「きゅ~~、」
     窘めれば、ばつが悪そうな顔をする。お茶目な彼女は、どうやらお腹がぺったんこのようだ。ささっとバナナを切り、ポケモンフーズと一緒に盛り付ける。
     そうやっていると、キュウコンがやってくるので、カブはいつものようにお手伝いをお願いした。
    「キュウコン、じんつうりきでお皿を運んでくれるかい?」
    「コン!」
     キュウコンのじんつうりきで用意したポケモンフーズが浮き、ふわふわと広いリビングの方へと移動し始める。
    「コン?」
    「そうだね、庭が広いから外で食べると良い」
     問いかけるようなキュウコンの鳴き声を、何処で食べる? という意味で受け取ったカブは、窓の外へと視線を向ける。朝の静かな光に照らされた庭は、天気も良く風も穏やかそうだ。カブは、身体が大きなウィンディやキュウコン、マルヤクデがゆっくりと身体を伸ばして食べられるよう庭を指定することにした。掃き出し窓を開ければ、我先にと外に飛び出すポケモンたち。
     それぞれ分かりやすいように色分けされた皿が、それぞれのポケモンたちの前へと運ばれていく。
    「よし、キュウコンありがとう。さぁ、みんなお食べ?」
     カブが声をかければ、ポケモンたちは嬉しそうにフードを食べ始める。豪快に食べる子もいれば、ひとつひとつ味わうように食べる子もいる。ウィンディは食べるのが早くて、コータスは食べるのがとても遅い……。カブの手持ちたちは、そんな感じだ……。
     カブは、手持ちたちが朝食を食べる姿をしばらく見ていたが。ふと我に返って、自分の食事を準備することにした。……、キッチンに戻り、さっき切った果物と野菜の残りをさっとサラダにしてしまう。サラダと、ヨーグルト、パンに……。
     それから───、朝食後の薬。
    「これ、まだ飲まないといけないのかなぁ?」
     退院の際に、医師から処方された薬。その袋をしげしげと眺めながら、カブは困ったように眉を顰める。口の中で甘く溶けるその薬が、カブはあまり得意では無かった。それでも、体調不良なのだから、暫くはこの薬を服用しなければいけない。おかげで、コーヒーが飲めないのだが……。
     愛飲していたコーヒーのかわりに、水をコップに注いでぱぱっと朝食を用意してしまう。そのまま楽し気なポケモンたちの声を遠くに聞きながら、テーブルに食器を運ぶ暇を惜しんで立ったまま朝食を口に運んだ。
     入院前は、朝からもりもりと朝食を食べていたのだが……。最近、少し食欲が落ちている気がする。まぁ、それでも食べないよりはマシで、栄養に気を付けたものを口に運んでいるからよしとすることにしよう。
    「わっ、マルヤクデ?」
     そんなことを考えながら、パンを一口齧ろうとすると、背後でのそりと気配が動いた。いつの間に食事を終えたのか、背後から覗き込んでくる鮮やかな朱色は、カブが手にした焼き目のないパンを物言いたげな眼差しで見つめている。
    「んんっ……、じゃあ、焼いてもらおうかな」
     そう言って、カブはパンをマルヤクデの頭の上に置いた。──、マルヤクデが、嬉しそうに関節を動かす。頭の部分がいっそう赤くなり、そこだけ熱が上昇しているのが分かる。
    「ありがとう」
     香ばしいパンの香りが漂い始めて、カブはお礼を言いながらそれを手に取った。いい塩梅に焼けた、サクサクのパン……。とても美味しそうな匂いなのだが、なんとなく物足りなく思ってしまう。
    「───?」
     この香りより、もっといい匂いを知っている……。ふと、頭の中に浮かんだ言葉。自ら思い浮かべながらも、その意味が分からずにカブは眉を寄せた。
     若干の空白が横たわるも、それは本当に一瞬のことで……。カブは、無意識にパンを齧り、視線を部屋の中にさ迷わせる……。
     大型ポケモンも多少身動きがとれる、広めに設計されたリビング。開け放たれた掃き出し窓の向こうで、楽しそうに食事を楽しむポケモンたち。──、リビングの、ローテーブル、そこに置きっぱなしになった白いハンカチ。
     ごくりと、喉が鳴る。それは、パンを嚥下したかったからか、それとも全く別の理由か。視線をハンカチに固定したまま、機械のように食事を口に運ぶ。甘酸っぱいはずの林檎も、甘く熟れたバナナの味もわからない。ただただ口にいれたものを嚥下して、口の中に薬を頬り込む……。
    「───、甘っ、」
     咥内で冷たく溶けていく薬に、カブは思わず顔を顰めた。そして、自分が片手間に食事を終えてしまったことを反省する。
    「まだ、本調子じゃないのかな、」
     自分の額に手をやり、熱がないことを確認しつつ。ひとつ息を付いて、カブは食べ終わった食器を洗い始めた……。伊達に一人暮らしは長くなく、家事のほとんどは問題なくこなすことができる。ただ、珍しい名前の料理を、家でしないだけだ……。
     外で食べるのは楽しい、いろいろな驚きがあるし……。それに最近は、この楽しみを共有できる存在に出会うことができた。
     ふわふわと、心が温かくなるのを感じる。脳裏に思い浮かべた人物は、今頃ちゃんと起きて出社の準備をしている所だろうか。
     パシオでは、パルデアリーグから示された雑務をこなしているらしい。多忙だなと思うが、それを周囲に指摘しても、何故か曖昧な表情で濁される……。
     周りが知る彼と、カブが知る彼……。それにはどうやら、ズレがあるらしい。カブとしては、いつもの優しい彼でいてくれればそれでいいのだが。
     鼻歌でも歌いだしそうな顔で、アオキはソファへと移動する。その傍に、マルヤクデがぴったりとついてくる。ポケモンたちの皿を片付けるべきだが、その前にどうしてもしたいことがあった。
     ソファに腰かけるカブ、その前にはローテーブルがある。ローテーブルの上には、一枚の何処にでもありそうなハンカチが置かれている。
    「今日は、何時に来てくれるかなぁ……、」
     つい、口をついて出る。最近の彼は、毎日のようにこの家を訪れてくれる。体調が悪くて、外出が制限されて気が滅入るが、彼が来てくれると思うと心がとても安堵する。
     気づけば、ハンカチを手に取っている……。もはや、なんの香りもしないそれを。
     その白色から、安らぐ気配が消えていることに気づいたのは。無意識のうちに、求めるようにハンカチを顔に当てて息を吸い込んだから。
    「ぁ、」
     鼻孔に染み付いたその香り……、ハンカチから安らぐ香りがしないことに気づいた時。
     ちゃりりっ、という音がした。───、首筋に、違和感を覚えた。
    「ぁ、」
     ぞくりと、心が粟立つ。ぞくりと、お腹の奥が熱くなる。
    「ぁ、」
     無意識に、首触れる、そこにあるはずのない、固い金属の感触に気づいてしまう。
    「ぁ、」
     積み上げてきた一つ一つの出来事が、日常という名の歯車となって回り続ける……。ベータとして築き上げてきた日常の中に、あるはずのないモノがカブの歯車を狂わせる。
     清潔な白い壁、カーテン越しの太陽の日差し。目に眩しい白の背景……。鉄格子が嵌められた窓、点滴の痕が残る腕、内鍵がない扉。
     善意と信じて疑わないベータの視線と、首に巻かれた群青色のオメガの証。
     森の向こうで、笑う───。
    「……、ぼくは、ぼくは、」
     気づけば、目には涙の膜が張る。急に気配が緊張し始めたカブの様子に、マルヤクデが心配そうにそっと寄り添う。庭での食事を終えたポケモンたちが、皿を咥えて戻ってきて。取り乱したカブの様子を見て、心細そうにくぅんっと鳴いた。
    「ガウッ!!」
    「うわっ!? ……わぁ!?」
     動いたのはウィンディだった、ウィンディはカブにのしかかると、ペロペロとその顔を嘗め始めた。さすがの衝撃に、虚ろになりかけたカブの目に光が宿る。ウィンディは、その瞬間を逃さないと言わんばかりにいっそうカブの頬を舐めた。
    「わっ……、ぷは。わかった、わかったよ、ウィンディ、」
     そう、言葉を発した時……。カブの意識は、現実にあるように思えた。ポケモンたちが、嬉しそうに鼻を鳴らす。そんな彼らに囲まれながら、カブはよろよろと立ち上がろうとする。
     日常の歯車は、軋みつつも再び回り始める……。ただ、カブは調子が悪そうに、下腹部をそっと撫でた。腹が疼いて、たまらなかったのだ。そういった違和感は、退院してからたびたびカブの身におこる。
    「ぼくはどうも、調子が悪いみたいだ……。ロトム、アオキ君に連絡してくれるかい?」
    「ロトッ!」
     そうしなければいけないから、カブは【彼】に連絡するようにロトムに請うた。スマホロトムが、自動でショートメッセージを送る。調子が悪くて会話も億劫な時、簡単な連絡方法で済むようにスマホロトムを設定してくれたのはアオキで。この簡単な方法を、カブはとても重宝していた。
    「……、あれ、」
     立とうとしたけれど、うまく立てずにカブは眉を寄せた。しかたなく、そのままソファに横になる。だらしのない体勢は好ましくないが、そうも言っていられなかった。
     カブの手が、再びハンカチを握りしめ、そっと鼻先に当てる……。そこにあったはずの残り香を探すように、足りないものを埋めるかのように……。
     そうやって、くったりとして……、どれくらい経ったことだろうか。いいや、本当はもっと早かったのかもしれない。カブの身体が焦れて、焦れて、求めていたから。
     安らぐ香りがして、カブの意識が浮上する……。どうやら、少し眠っていたようだった。
    「───、カブさん、」
    「……、ぁ、」
     アオキが居た。そこには、自分を助けてくれる人がいた。
    「アオキくん、」
     ソファに横たわり、うっとりと笑う。その時、カブの意識は朦朧としていて。ただただ、自分を見下ろす彼が、案じるように見つめてくれていることだけが現だった。
    「アオキくんだぁ……、」
     その時の声は、本当に待ち望んでいた者が現れたことへの、歓喜の形に濡れていた。熱い息を零すカブに対して、アオキはそっと手を伸ばすと頬を撫でてくれた。
     その時、鼻孔を安らぐ香りが擽って、カブは、くふくふと幸せそうに笑う。
     思い出すのは、夕日の中で歩いた幸せな記憶。夢か現か、安らぎの中で、天秤が傾いだ今だけは、その思い出はただただ愛おしい。
    「アオキくん、」
     切なそうに呼びかける、赤い唇は禁忌の果実か。とろりと溢れる唾液は、食肉花の甘露だろうか。
    「───、すき、」
     夢うつつの世界で、カブはアオキにそう告げた。それはいつかの告白に対する、はじめてのカブからの返答のようで……。けれどそれは、本能に蝕まれた心が紡いだ偽りであるかも。はたまた真実であるかも誰にも判別がつかない。
    「──、ぼくも、すき、」
     嗚呼……。
     伸ばされた掌を、攫ってしまって、組み敷いて。
     その熟れた首筋を阻む邪魔な玩具を壊して、牙を剥きだしにがぶりと噛みつく。
     それができてしまえば、いったいどれだけ良かったろうか。
     けれど、そんなことをしてしまえば、この【ベータ】は悲嘆に暮れてきっと死んでしまうから。そして、その行為は、アオキにとっても決して本意ではなかったから。
    「ありがとうございます、」
     アオキにできた事と言えば、我を失ったカブの傍に近づいて、傍にいてやる事だけ。せめてもと、アオキはスーツのジャケットを脱ぐと、それで熱に浮かされたカブにそっとかけた。
     自分が僅かに放つ香りこそが、カブが正体を無くす原因になるとはいえ、他にどうしてやれるか思いつかなかったのだ……。
    「んっ、」
     カブが、嬉しそうにジャケットの端を握りしめて、すんっと鼻を寄せる……。胸を満たす香りは、けれども足りなかったようで、カブは不服そうにアオキに手を伸ばしてくる。
     抱擁を求めるその腕を、アオキはそっと抱き返した。そのまま、覆いかぶさるように抱きしめる。
     まるで、キスをするかのような体制だった。……、ただ、違いがあるとすれば、アオキは、カブの咥内に抑制剤を一粒押し込んだこと。指の腹の感触はキスの感覚に似ている……。カブは無意識に、舌の上で溶けるそれをごくりと飲み込む。
     偽りの口付けの余韻に酔っていたカブは、ゆっくりと瞬きをすると、そっと手をもたげて、自分の上にいる男の顔の輪郭を指でなぞる。
     その緩慢な動作に、アオキは擽ったそうに目を細めた。そして、カブの爪の伸びた指先に唇を寄せると、可愛らしい音を立てて口づけを贈る。
    「自分も、あなたに、恋しています」
     そう言えば、カブは嬉しそうに笑った。
     様々な葛藤を忘れた、あどけない表情で。カブは幸せそうに、嬉しそうに笑った。
    「いつか貴方と、貴方と共に積み上げてきた、あの日常の先の恋がしたい……。」
     男の、嘘偽りない告白は、カブの耳に届いたのだろうか。
     抑制剤が効いてきた、カブの目がとろんと蕩けていき。───。やがて重たそうに瞼を閉じて、緩やかな寝息が聞こえだす。
     その刹那、彼の形のいい耳元に口を寄せて、まるで内緒話をするように語り掛けたアオキは。ずっと言いそびれている本当の事を囁いて、最後にその額へ口づけを落とした。

     幸福を望む、二人の心には疵がある。

     積み上げたかった日常は、第二性も関係のない平凡な日々。
     積み上げてきた一つ一つの出来事が、日常という名の歯車となって回り続ける……。狂ってしまった二人の日常から、幸福の二文字はまだまだ遠かった……。



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