Two of us6
積み上げてきた一つ一つの出来事が、日常という名の歯車となって回り続ける……。
ときどき体調を崩しはしたものの、カブの日常は平穏に紡がれていく。
カブの朝は早く、そして日常の中でポケモンたちのケアは欠かさない。いつものように手持ちたちのために切った野菜や果物の残りでサラダを作り、ヨーグルトと、マルヤクデの頭でこんがりと焼いたパンと共に食べる。そのまま洗い物をし、ポケモンたちを庭で遊ばせながら簡単に部屋の掃除を行う。ウィンディやキュウコンの換毛期であれば大変な掃除も、すっかり夏毛に変わった今はさほど毛が落ちることもない。とはいえ、二匹へのブラッシングは、欠かすことの出来ない毎日のイベントなのだが。
「おいで、キュウコン」
ブラシを手に呼べば、嬉しそうにカブの前で伏せをするキュウコン。そのきらきらと美しい白い毛並み沿うように、カブは丁寧にブラシをかけていく。
「コォン……、」
気持ちいいのだろう、極楽極楽と言わんばかりの声で鳴くキュウコンの。その頭を撫でれば、くるるるっと喉を鳴らしてくれた。その形の良い耳から、胸元、そして尻尾まで……。時折、取れた毛をブラシから外しながら、丁寧にブラッシングをすれば簡単に時間は溶けていく。終わりに差し掛かってくれば、外で遊んでいたウィンディが自分の番はまだかとそわそわとし始める。そんなウィンディに対し、キュウコンがまだ自分の番だと言いたげに鼻に皺を寄せるものだから面白い。
「大丈夫、順番、順番だよ」
そう声をかけて、気難しいキュウコンを尻尾の先まで綺麗にしてやる。そのあとは、ウィンディだ……。と言いたいところだが、先にエンニュートやコータス、マルヤクデの身体をポケモン用のワックスを用いながら拭いてやる。そうすると、ウィンディは残念そうに尻尾を垂らすが、あとでねと声を駆ければすぐに気を取り直してボール遊びに興じ始める。
エンニュートの身体は柔らかめのタオルで、コータスの身体は固いタオルで甲羅は特に念入りに。マルヤクデの身体は、二匹の中間くらいの触り心地のタオルでマッサージすると喜んでくれる。彼らの世話をする中で、気づくことができたそれぞれの個性。彼らのために用意したジェルやワックスで、丁寧に表皮を噴き上げれば気持ちよさそうな顔をする。当然ながら、そんなことをしていれば時間はどんどん過ぎ去って。気づけば、時間は正午も間近になる。けれどまだ休めない、最後にとびっきりの仕事が待っている。
「ウィンディ、おいで!」
「ウォン!」
呼べば、嬉しそうに駆け寄ってくるウィンディ……、は、当然ながら、はしゃぎまわったせいで、砂埃で汚れている。
カブが、真剣な表情で庭に降りる。すると、すっかりケアを終えたほかの手持ちたちは、心得ているかのように、ウィンディとカブから距離をとりだした。
そんなポケモンたちを確認して、カブは庭のホースリールからホースを伸ばし始めた。
「ウィンディ、いくよ、」
「ウォン!」
炎タイプでありながら、水遊びもウィンディ。その大きな身体を洗うときは、庭のホースを使うのだ。ちなみに、身体は秒で渇く。……、流石の炎タイプである。
嬉しそうにはしゃぐウィンディと、水をかけるカブの間に小さな虹ができる。その光景を、他の手持ちたちは、それぞれの場所で寛ぎながら遠目に眺めている。
そうこうしていれば、時間はもう13時を過ぎていた。ポケモンたちに時間を費やして、カブの午前中は瞬く間に過ぎていく……。
「ふぅ、終わったね」
昼寝を始めるポケモンたちを尻目に、カブは濡れた頭をタオルで拭きながら、ごくごくと水を飲んだ。庭で幸せそうにお腹を見せて寝転がるウィンディを見て、カブも思わず嬉しそうに目を細める……。
「こんな風に過ごす時間も、悪くないかな、」
思わず独りごち、カブはひとつ伸びをした。
カブが退院して、1ヶ月が過ぎ、もうすぐ2か月が経とうとしている……。体調は良好とは言えないが、波があることを除けば穏やかに過ごすことができている気がする。
医者から、養生するように言われていることもあり、外に出ることや仕事はできないが。こうやって、一日の大半の時間をポケモンたちのためにかけることができる。
そのほかはトレーニングをしたり、復帰した時に向けてバトルの戦術を立てたり……。
不思議と、外に出る気は起きない。今までは、ランニングに付き合ってくれていたポケモンたちも、カブのことを心配してくれていているのか、外出をおねだりするようなことはない。
経過は良好らしい、この前やってきた医者は、同じような薬をいくつか処方していった。困ったことに、ポケモンたちはその医者に対して警戒するので、ボールに戻している。正直、カブも何故か不安な気持ちになるのだが、ありがたいことに医者と一対一で会うことはない。
頼りになる彼らと同じくらい、頼りになる人物が傍にいてくれるからだ。
───、アオキ君。
「っ、」
その顔を思い出したカブの頬が赤く色づく……、アオキのことを考えると、カブは何故か落ち着かない気分になってしまう。そわそわと、心が疼いて、何故かお腹の奥がぞわぞわするのだ。
顔まで赤らむその感覚を、けれどもカブは嫌いになれないでいる。
すべてはきっと、カブが体調を崩した時に、必ずアオキが駆けつけてくれることだろう。カブが退院する手配を整えてくれたのはアオキで、その時の約束事の中にそういった内容が含まれているらしい。申し訳ない気もするが、あの不調の波がくるとカブはなにもできなくなってしまうので、気の置けるアオキが駆けつけてくれることは本当にありがたい。
『カブさん、』
苦しい時に、あの優しい声をかけられると、ふわふわと頭が多幸感に包まれる。いつもアオキが駆けつけてくれたあとは、記憶は朧気になってしまうのだが、彼はずっと自分の傍に寄り添っていてくれるらしい。
カブが目を覚ました時、アオキはいつもカブの手を握ってくれていたり、ただ静かに傍に腰かけていてくれたりする。室内は間接照明になっていて、カブの上にはだいたいアオキのスーツのジャケットがかけられている。
どんな柔軟剤を使っているのか、この時、アオキの服からはとても良い匂いがする。起きた時、アオキのジャケットは、カブが握りしめた痕で皺が寄っていて。申し訳なくなるのだが、それを伝えれば、アオキが柔らかな表情でそっと首を振るのだ。
『かまいません』
その言葉に、カブは嬉しくなる──、幸せになる──、アオキのことを好きになる。自分はベータなのに、アルファの彼とは釣り合わないはずなのに。アオキに告白されたから、降り積もる恋しさはもう無視しようがなくて……。
恋してみたくなる、愛されてみたくなる、あの優しい安らぎをくれるアルファに。でもそんな言葉を、口にすることは本当に難しかった。
『貴方はベータだから、運命がいないのよ』
カブの中には、バース性に対してかけられた呪いがあって。幼い日、木漏れ日の森の中で、オメガの少女からかけられた言葉の重さは忘れがたく。運命でもないベータが、アルファに恋することなど許されないのだと信じてしまっていた。
『自分は、貴方に恋愛感情を抱いています』
思い出す、夕暮れ色の光の中で、アオキから告げられた言葉を。あの告白から、ずいぶんと時間がたってしまった。──、わかってる。あの言葉に、返事をすることができないまま、彼に甘えている自分は卑怯だ。このままではいけないということは、本当は分かっている。
焦燥感が、ある……。日に日に近づいてきて、カブの背を叩こうとする得体の知れない何かが。夢の中ではありありと姿を見せるソレは、意識が明朗な時は姿を見せない。
何かを忘れている気がするのだ、何かとても大切なことを。それを忘れたままでは、きっと自分だけでなく、なぜかアオキも駄目になってしまう気がする。
忍び寄る焦燥感……、その正体は、果たしてなんだろう。
【───、すき、】
ぼくはほんとうに、アオキ君に何にも告げていないのだろうか。──、カブの表情に、ふと影がおちる。
掛け違ったまま、軋みを上げながら回り続ける歯車がある。それに気づくことは、積み上げてきた日常が崩れる合図で。すでに狂ってしまった歯車は、少しずつ少しずつ現実との乖離と、齟齬を伝えるように不安となって忍び寄る。
「ぼくは、ベータなのになぁ……、」
カブがいる場所は、まどろみのゆりかごだ。ひとりのアルファが望んだ、嘘という名の優しい世界。彼がそこに埋められたのは、人々の善意で紡がれた地獄故だった。
──、はたして。
善意で舗装された道が、時に地獄となるのなら。悪意によって築かれた地獄は、どれほどに深い味わいがするのだろうか。
その答えは、スマホロトムの軽やかな着信音によって紡がれる。
───、ロトロトロト、ロトロトロト。
久々に鳴った電話に、カブは不思議そうに首を傾げつつ画面を見た。表示されていたのは、ガラルでスポンサー契約中の、とある企業からの着信の表示。ガラルリーグによる采配のよるものか、療養中のカブには企業からの連絡は全てシャットアウトされているはずで。
善良なカブは、その企業からの着信を、よほどの火急の用事なのだろうと捉えた。カブは、気さくで気のいい人物だ。だからこそ、何のためらいもなくスワイプし、呼び出しに答えてしまう。
『カブさんこんにちは~!』
表示されたのは、ワックスで髪の癖を強調した、こんがりと日に焼けた軽薄そうな男だった。記憶にあるかぎりだが、確か彼はスポーツ用品を扱うこの企業の、取締役の息子だった気がする。在りし日、社長の隣でかしこまっていた彼は、かっちりとしたスーツを身に纏っていたものの。今日は軟派な恰好を身に纏っていて、胸元がはだけている。
「こんにちは?」
『あぁ~~、まいったなぁ、あの話は、本当だったんですね?』
軽薄そうな挨拶に、律儀に返事を返したカブを。その若い男は画面の向こうからじろじろと見ると、すぐにカブの首元に視線を止めてにやりと笑った……。その笑い顔は、相手を軽んじるような、人を下に見るような顔で。カブは、怪訝そうに眉を顰める。
「どうしたのかな?」
何の理由もなく、人を貶めるような態度は気に食わない。他者にそのような態度を向けることは、カブの信条的にも許される行為ではなかった。もともと、自分は今、療養中なのである。こと次第によっては、しっかりと説教してやろうと身構えたカブに対して。
その男は、人を馬鹿にするように唇を曲げたまま。とんとんっと、片手で自分の首を触って見せる。───、まったく、訳が分からない。
「だから、なんだい?」
明確にしない男に対し、語気を強めて問いかければ。男は、今度はわざとらしく、顔を歪めてみせる。
『本気で言ってます? うちの広告塔としての自覚あるのかな』
男の態度は、完全にカブを見下しきっていた。まるで、路傍に転がった石でも見るような、これほどまでに人を蔑むことができるのかと、驚かずにはいられない態度。
「?」
ただ、心がジクジクする……。この男の言葉を、聞いてはいけないと頭の中で何かが警鐘を鳴らす。
『スポンサー契約、見直さないといけませんよねぇ、』
「なにを、言って、」
『あ、本気だわこりゃ……。だから、嫌いなんですよねぇ──、』
それでもカブは、狼狽を押し殺し、最後まで毅然とした態度をとろうとした。燃える男の、凛とした姿勢で、向けられる理解不能の悪意に真っ向から向き合った。
男が、わざと焦らし続けた、最後の言葉を口にするまでは。
『オメガは、』
──、はたして。
善意で舗装された道が、時に地獄となるのなら。悪意によって築かれた地獄は、どれほどに深い味わいがするのだろうか。
悪意の紡ぎだす地獄は、善意の地獄に増して心が痛むか? それは、分からない。なぜならば、そのふたつの地獄を味わったのは、カブだけであり……。
『オメガになったなんて……、カブ選手、うちからしたら、とんだイメージダウンですよ』
男の向ける明確な差別意識は、カブの感情をかき乱すよりも先に理性を優先させた。狂えた方が、よっぽど幸せだったろうに。首筋を束縛する、群青色の首輪の存在を思い出したカブは。過呼吸になることもできず、意識をまどろませることもできず。
「ぼくとしても、願い下げだね、」
ただ、普段のカブからは想像もできない、冷えた声を紡ぎながら。カブに赦された行動は、湧き上がる激情をひたすらに押し殺して、どこまでもカブらしく在ろうとすることだけ。
非道な言葉に、泣き崩れるわけにはいかない。カブが甘えられるのは、気を許したほんの一握りの人間に対してだけだ。
「残念だよ、君がそんな、差別主義な人間だったなんて……、契約を破棄したいならすればいい、君のその態度が正しいと思うならね」
『なっ、』
その言葉は、滑らかにカブの口を突いて出た。相手が逆上する前に、カブは躊躇いもなく通話を切ってしまう。画面は一瞬だけ真っ暗になった後、泣き出しそうなロトムの表情が浮かび上がった。自分が繋いでしまった相手が、どれほどに悪しい存在であったか理解している知性あるポケモン。彼らの方がよっぽど、道徳を理解しているのではないかと思うほどに。
「……、っ、───、フゥ────、」
気づけば、不安そうに傍に寄り添っていたポケモンたち。カブは、彼らの眼差しに答えようとした。……、けれど、湧き上がった動揺が、正常な受け答えを阻害する。
カブは、狂うことができずにいた。──、そう。
あの退院の日から、2ヶ月近くなってようやく、自分がずっと微睡みのなかにいたことを自覚した。
思い出す……、打ち込まれた謎の液体と、それに伴って自分の身体がオメガ化したこと。ベータの医者たちの善意による地獄、そのなかで現実を直視できずにいたことを。
夢を見たのだ、夏の森で笑う彼女の夢を。カブの中に根付いたまま、麗しい女性へと変貌したオメガの彼女が、ベータであるカブを嗤っていたことを。
きゃらきゃらと、笑い声がする。──、彼女はカブの中の、暑い暑い夏の森にずっといる。
『酷いわ』
『オメガになるなんて、』
───、耳元で、声がした気がした。
「っ~~~~、っ、っ、」
思わず息を詰める、どうして忘れていたのか、どうして自分をベータだと信じることができたのか。
それは、薬の力か? ……、毎日3回の舌下錠を、カブは欠かさず飲むことができていた。
それは、この家にいるからか? ……、ポケモンたちがいつもカブに寄り添い、その心を案じてくれていたことが今ならわかる。
それは、それは──、それは────。
「……、アオキくん、」
名前を、呼ぶ……。あの白い部屋から連れ出してくれた人の名を、オメガ化の作用で体調が不安定になるたびに駆けつけてくれた彼の顔を思い出す。
思い出す、思い出す、思い出す。
───、二人並んで歩く、黄昏色の帰り道。傍らを歩く彼が、仄かに微笑みながらカブに目線を向ける。
『貴方は、この世にただ一人だから、』
彼は、いったい何度、カブに向けてそう言ってくれたのか。オメガ化の熱に浮かされたベッドの上で、ソファに座って頭を預けたこともある。そのたびに、自分はなんど第二性に侵されたか、そのたびに何度、彼が抱きしめてくれたのか。
不意に、扉を乱暴に開く音がした。……、カードロックキーの反応に焦れて、その勢いのまま扉を開けたような音だ。その音の主は、見ないでもわかった。
だって、その扉が開いた瞬間……。カブの鼻孔に、心安らぐ香りが届いたから。
カブは、ゆっくりと背後を振り返る。
「ロトムから連絡を受けました、カブさん、何が……。」
───、彼だった。どこか焦った表情で。その人は、当然のようにカブの傍に駆け寄ってくる。
───、嗚呼。カブの目から、一滴の涙が零れ落ちた。
「アオキ君、ぼくはオメガになったんだね、」
「っ、」
その言葉に、アオキは大きく息を飲んで。それから恐る恐るといった様子で、そっと距離を詰めてくる。アオキの目が、涙を零すカブの双眸を覗き込んで。
その手が、そっと、たからもののように、カブの頬を包んだ。
──、それは。あの白い病室から、カブを連れ出して2か月が経とうとする頃のこと。微睡んでいたカブの心を、呼び起こしたのは他者の悪意で。
まるでベルを鳴らしたように、眠り人を突然引き起こした様は。なにかの事件の始まりのように、不穏な空気を孕んでいた。
久々に澄んだ目で見たアオキの表情は、ボロボロにやつれていた。
それはもう、ちゃんとご飯を食べていないのではないかと疑うほどに。そのことを指摘しても、アオキは「自分のことはあとでいい」と言って聞かない。
だから、とりあえずソファに腰かけて、カブは先ほどの出来事をぽつりぽつりとアオキに語り聞かせる。……、ポケモンたちは、一度ボールに戻ってもらっている。スマホロトムだけが、チカチカと光りながら空を漂っていた。
スポンサーから電話があったこと、その男がカブがオメガだと知っていたこと。そして、差別的な発言……。
話を聞くうちに、アオキの表情がだんだんと険しいものになっていく。その表情から察するに、カブがオメガに転化したことは極秘事項であるらしかった。
そして、アオキは重い口を開く……。カブの転化については、委員長であるダンデが直々に戒厳令を出していることを。全てを知っているのは、ダンデと、パルデアリーグのオモダカだけで。アオキは直々に、彼女から指令を受けてカブのために動いていた。
カブの体調が戻るように、その心が壊れないように。
全ては、パルデアリーグと、ガラルリーグが話し合いをし決めたこと。
だのに、そのスポンサーの男は、カブが転化したことを知っていた。
「自分は今から、委員長に報告します……、」
「待って、」
そう言って、スマホロトムを操作しようとしたアオキの手を、カブがそっと制して止める。
「その前に、少しいいかな」
「しかし、」
「ずっと護ってくれてたんだよね?」
カブの要請に、アオキは少し難色を示した。けれど、カブが続けたその言葉に、彼は口ごもり、少しだけ恐れるようにカブの表情を見つめてくる。彼は、そっとカブの頬に触れる……。その表情が、微睡んでいないことを確認して。そうして、──、こくりと頷いたアオキに対して、カブは少しだけ目線を下げながら尋ねた。
「それは、ぼくがオメガだから?」
カブの問いは、少し残酷だった。答えようによっては、心は千々に乱れてしまう。それでも、口に出せたのは、アオキを信じていたから。
「……、いいえ、」
緩慢に頭を振る、この男の心は、この2か月の間にたくさんたくさん浴びてきた。
「貴方が、貴方だから、」
「───、うん、」
アオキの言葉に、カブは少しだけ微笑んだ。想像していたよりも、ずっと情熱的な言葉を向けられた。パルデアの男は、ガラルの男よりも情熱的なのかもしれない。
カブはそっと、ソファに置かれたアオキの手に自分の掌を重ねる。正直なところ、心はずっと惑っている……。ベータだったはずの心が、オメガの本能に蝕まれて揺れている。
いったいいつ、自分はまた逃げたくなるかわからない。だから、そうならないために楔が必要だった。
それは、あの日の、アオキからの問いに答えるために。
アオキの言葉と共に思い出される、バース性に紐づいた呪いに負けないために。
この心に宿る恐怖、その全てに終止符をうつことは難しい。けれども、ひとつだけ、アオキの心に応えるためにできることがあるとするならば。
「少しだけ、話を聞いてくれる?」
そうして、カブは話し出す。
12歳になる前に、木漏れ日の森でオメガの少女に言われた言葉を。彼女の冷めた笑顔を、カブの心を呪った言葉を。理不尽に、かわいそうと言われたあの日の子どもは。今もまだ、あの森に囚われている。囚われてしまうほどに、あの日のオメガの少女は美しかったから。
悲しくて、狂っていて、恐ろしくて、美しかった……。あの日のオメガの少女は、冒険に出ることが赦されなかったあの子は、いつまでもカブの心に突き刺さる……。
『ねぇ、貴方かわいそうにね』
無垢で、無邪気で、悪意に満ちた言葉と共に。あんなに可哀そうな彼女が存在するのなら、そんな彼女を幸せにする【誰か】が現れて欲しかった。
彼女を救い出す、自由にしてくれる誰かが。そして、それがアルファと呼ばれる存在であるのなら、ベータであるぼくはけっしてその邪魔をしてはいけない。
バース性は怖い、運命とはなにか、恋とは何か。それに囚われた、彼女に幸福はあるのか。
『貴方はベータだから、運命がいないのよ』
───、あれは。
運命を呪い、自暴自棄になった人間から、無知で自由だったぼくに与えられた【呪い】だったのだと──、今でもそう思っている。
だからぼくは、恋をしなかった。ポケモンバトルだけに全てを注いだと、そう言い切れる人生の中には確かに彼女の影があった。
───、カブはもしかしたら、彼女が唯一、思い通りにできた人間だったのかもしれない。けれど、カブは出会ってしまった。貴方が恋しいと、そう言ってくれる人に。
「アオキくん、すきだよ、」
カブがそう言えば、アオキの手がぴくりと動いた。そっと見上げれば、アオキの黒い目と目が合う……。誰かはきっと、彼を凡庸だというだろう。けれど、カブにとって、彼は甘えさせてくれる人だった。心が壊れた時、縋らせてくれた人だった。
ベータである自分に恋してくれた、そのままのカブを愛し続けてくれた人だ。
こんなにも深く愛を伝えられて、泣きそうなほどに嬉しい。
けれど、それでも、呪いは根深いのだ……。
「心がベータのままでも、幸せになる権利はあるんだろうか。ぼくは誰かから、運命を奪ったんじゃないかなぁ」
「……、その女の子のことは、お気の毒に、」
誰に向けたともつかないカブの問いに、当然ながら答えたのはアオキだった。お気の毒に、という軽い言い方は、それでもカブの感情を柔らかく揺すった。
貴方が、囚われる必要がないと、そう言われているようだった。
どこかにあった悲劇、だれかが知らなければいけなかった悲劇。それを、カブがいつまでも背負う必要はないと。───、その眼差しが、語っている。
「奪ったとかも、わかりません。自分は運命なんて信じてなかったから」
アオキの言葉は、いつだってシンプルだ。ともすれば、傷つくものもいるだろう。ポケモンバトルならば、対戦者の心を折る牙にもなっただろう。けれど、カブはやはり、その言葉が嬉しかった。
「ただ、自分は、恋をするなら貴方がいい」
アオキが、そう言ってくれるなら……。どこまでもシンプルに、言葉を伝えてくれるから。
乗り越えられる気がした、愛されていいという赦しを得た気がした。
「とりあえず、普通の恋をしませんか?」
「うん、うん──、そうだね、」
アオキの問いに、カブは三度頷く。オメガ性になったとはいえ、オメガであることを求められることは恐ろしかったから。だから、カブはアオキの提案に頷いた。
アオキから発される……、安らぐような香りはきっとアルファのフェロモンなのだろうけれど。
ほんとうは、その香りが欲しかったけれど。
アオキが言うならば、このままで居ようと思った。ベータだったカブにとって、アオキの言葉は魅力的で、自分たちならばこのままでもいいという気がしたのだ。
アオキは、アルファ性に引きずられず。
カブは、オメガであっても、噛まれることなく……。
その未来は、確かに二人の意思で選ばれたモノであったのだ。
アオキが、スマホロトム越しに誰かと語り合うのを聞きながら、カブはすこしだけ落ち槌ア様子で掃き出し窓の傍に居た。語り合っている間に、いつの間にか空が曇って、今にも雨が降り出しそうになっていたから。
「(そういえば、お昼食べ損ねたなぁ)」
すこしだけ、現実的なことを考えながら。カブは、ちらりと後ろを振り返り、スマホロトムに向かって険しい表情を向けているアオキを見やる。
ソファに座ったアオキの、その顔色はやはりずいぶんと悪くなっている。きっと、カブの世話を優先して、食事をちゃんとしていなかったの違いない。あんなに、食事が大好きな人なのにと、カブは少しだけ申し訳なくなる。
「はい……、はい、……、ガラルでも、調査をしてもらって、」
難しい表情をしながらも、その身体からはふわふわと安心する匂いが漂ってきていて。ああ、オメガは、こんなに幸せな香りが嗅げるのかとカブは思った。
アオキが居るからか、ポケモンたちもボールから出てくる気配がない。きっと、安心して眠っているのだろう。自分の手持ちからも、信頼されていることは喜ばしいことだと思う。
───、これからの、ためにも。
「~~~~~っ、」
思わず頬が赤らんでしまう、年甲斐無くなんてことを想像したのだと思いながら。
遠くで、雷が鳴った気がして、カブはもう一度窓の外を振り返る。───、オーベムが居た。
「───、ぁ、」
発光を纏った、一匹のオーベムが居た。暗くなった空と、光る身体のコントラストは人の心を不安にさせる。そう、オーベムが、居たのだ。
「ぁ、」
カブが、小さく声を漏らす……。俊敏さもなにもかも、人間はポケモンには敵わない。
「ムクホーク!!!」
背後で、アオキの怒号が聞こえた。聞いたことのない、大きな声だった。赤い光からポケモンが飛び出してくる、それはコンマ数秒の出来事。
「っ、アオキ君!」
反応できたのは一瞬だった、カブは俊敏に踵を返し、アオキの方へと駆け寄ろうとして。
────、全てが遅い。
【テレポート】
ボールから繰り出されたムクホークが、燕返しを繰り出すより先に、そのオーベムはテレポートを発動していた。ぴかりという光と共に、消えたのは一人と一匹……。全ては、ほんの数秒の間に……。
カブが攫われたという事実は、受け入れがたい現実であった。
スマホロトムの向こうで、オモダカが何かを叫んでいる……。その声はもはやアオキの耳に届かず、ただ太陽の日差しが絶えて暗くなった室内で、全ての表情が抜け落ちた顔で立ち尽くしたアオキの目だけが光っている。
雨が降り始める……、予定調和のように降り出した雷雨は、まるで男の心を現したかのように大地を叩いて……。
はっと我に返るとアオキは、太い声で絶叫した。
それはまるで、番を求めて鳴く猛禽類の絶叫のようだった。