Two of us8
ガラルのダンデは、平凡を愛する自分とは真逆の、アルファらしい男だった。
『例のカブさんのスポンサーから、丁重に話を聞いてきたぜ』
どの口が、とアオキは思った。丁重にと言いながら、その目の光は苛烈さを増すばかりである。けれど、流調にそんなことを言う時間はない、何故ならアオキの目の前で大切なヒトが奪われて危険に曝されているのだから。
『優生サロン』
遠く落ちた稲妻が空を照らす大雨の中、その声はするりとアオキの耳に届く。
「なんです、それ、」
『ガラルにある、団体の名前だ。そちらの理事長からカブさんの転化の話を聞いたらしい、ひどく思想の偏った団体だが詳しいことなんて聞かなくていい、それより』
「はい、」
『カブさんを頼む』
太陽の如き男は、そのロトム越しにも分かるアルファ性でアオキにそう凄んだ。いつもそうだ、オモダカから連絡先を教えられて以来、この男はアオキがどれだけ、カブに忠実かを問うてくる……。そんなこと、聞かれるまでもないのに。
けれども、それがカブの人徳なのだと思いながら。アオキはちらりと横目で、水滴のついたスマホロトムの画面を視認した。
『泣かせたら、赦さないぞ』
「言われるまでもないですね、」
返答に、思わず棘が滲んだのは──。アオキ自身、苛烈になっているからだろう。今だけは傍若無人にふるまう一人のアルファとして、愛する人を護るためならば羽ばたこう一匹の猛禽の如く。
ざあざあと降りしきる雨と、びゅうびゅうと、風を切る音の合間に。
アオキは通話を切り、体勢を立て直す……。目の前で、手持ちも連れることができず攫われたカブ。平和ボケした自分の頭に怒りがわくが、自らを罰するのはまだあとでいい。
絶望はあった──、目の前で愛しい人が消える、あんな思いは二度としたくない。
希望もあった──、それはカブのポケットの中に。カブのポケットの中で息を殺したスマホロトムが、アオキのスマホに位置情報をずっと伝え続けていた。
すべてはカブのために、アオキがロトムに付け加えていた新機能がある。短縮で通信ができるように、カブもまた不調の際はその機能を使って連絡をくれていた。
だから、その大きな屋敷に舞い降りながら、アオキは冷静に指示を出すことができた。
「突入します。……、ウォーグル、ブレイブバード。ムクホーク、インファイト」
いや、冷静ではなかったかもしれない。白大理石がふんだんに用いられた屋敷の、その側面になんのためらいもなく大穴を開けてしまったのだから。アオキを背に乗せて飛んでいたウォーグル、それに並走していたムクホーク。2匹のポケモンは、主人からの命令に対して遺憾なくその力を発揮したのだ。
傍に人がいたかもしれない、だとか。そんな余計なことは考えない……。アオキはどこまでもシンプルに指示を出し、ウォーグルの背から、ポケモンたちが開けた壁の穴へとジャンプする。
高所からの着地も、身体は負担を覚えない……。アオキの身体はもう、そういった限界を超えていた。
「何者だっ!」
砂煙の中、すっくと立ちあがる。ずぶぬれで、髪は乱れて前髪ができていた。それだけ早く、アオキが空を駆けた証でもあった。
アオキが連れ込んだ激しい雨音の向こうから、人間たちの声が聞こえた。砂煙の切れ間から、突然の乱入に、慌てふためく仮面姿の者たちを視認する。【優生サロン】彼らが、ダンデから聞かされた団体の構成員なのだろう。凪いだように冷静な思考の中で、アオキの鼻孔が愛しい香りを嗅ぎ取った。
ほろ苦さを感じる、まるで砂糖のような……。熟れきった香りは、その人が切羽詰まった状態にあることを運命のアルファに伝えてきた。──、一歩、足を踏み出す。砂煙から出れば、靴の底が上質な絨毯を踏みつけた。アオキの姿が、優生サロンのメンバーたちの前に晒される。
土砂降りの雨に打たれ、水を吸ったスーツを纏った背の高い男が。前髪の隙間から、部屋の中央に据えられた天蓋付きのベッドを視認すれば。そこには、銀の髪の男と、その傍で横たわる愛しい人の姿がある。
アオキは、ぐっと、歯を食いしばる。そのうちに秘めた怒りを表すように、一つのモンスターボールを振りかぶった。
「皆さん、ポケモンを出しなさい! オーベム!!」
銀の髪の男は、いち早く冷静さを取り戻すと、構成員たちに声をかける。自らのオーベムを指揮し、アオキに向かって技を繰り出させようとする。……、ノーマルタイプと、ひこうタイプ。本来のアオキの手持ちと技構成であれば、すでに繰り出されているオーベムの行動に先手を打つことは難しいはずだった。
けれど、今──、アオキが繰り出すのは、ノーマルタイプでも、ひこうタイプでもない。
「ウィンディ、しんそく!」
「ガウッ!!」
アオキが繰り出したのは、怒りに燃えるカブの手持ち。主人が攫われたことに憤然とした彼らは、一時的な同盟関係をアオキに望んだのだ。「ついてきますか?」アオキの問いに、是と答えたカブのポケモンは、いかんなくその力を開放する……。
「ぐぁ!」
鍛え上げられたウィンディのしんそくは、オーベムもろとも男を吹き飛ばした。天蓋の薄絹に絡まりながら、男とオーベムがベッドから外へと弾き飛ばされる。ベッドの上に着地したウィンディは、ぐったりとしたカブの匂いを嗅ぐと、牙を剥きだしに周囲を威嚇する。
「ウィンディ……?」
耳なじみのある声に、カブが反応する……。カブはベッドの上で、何かを庇うように身を丸くしていた。その時に乱暴にされたのだろう、髪が乱れて肌には鬱血が刻まれている。
ウィンディは、カブを護るようにその上に立つと勇敢に吠えた。
その姿は、まるで守護獣のようで猛々しい。
そして、その声に呼応するように、まっすぐと進んでくるのは選ばれし一人のアルファ。
「ムクホーク、キリキザンにインファイト。ウォーグル、オーベムにブレイブバード」
構成員たちがオーベムやキリキザン、ブロロロームを繰り出す中で。アオキは四方に手持ちを散らせ、的確に指示を飛ばす。同時に、モンスターボールを繰り出して。
「マルヤクデ、ブロロロームにかえんぐるま」
現れたのは、カブのマルヤクデ。アオキと同様に、静かな怒りに燃えた目で、マルヤクデはブロロロームに必殺のかえんぐるまを繰り出す……。
シンプルを好む男は、ポケモンたちに余計な指示は飛ばさない。けれども、彼らのポテンシャルがいかんなく発揮できるよう、選択される技はどれも冴えていて一撃の力を秘めている。
構成員が、シャンデラを繰り出せば。
「カラミンゴ……、アクアブレイク!」
アオキは動揺する様子もなく、カラミンゴを繰り出して応戦する。ムクホーク、ウォーグル、ウィンディ、マルヤクデ、カラミンゴ……。ノーマル・飛行、そしてほのおタイプで構成されたメンバーに、歯をぎりぎりと鳴らしたのは銀髪の男だった。
「私の、邪魔を、するなぁ……!!!」
男は、ヨロヨロとよろけるオーベムを突き飛ばし、鬼の形相でアオキとそのポケモンたちを睨みつける。
「オメガを噛めもしないアルファが、いまさら何をしに来た!!」
「……、」
「くそっ、カブは私のものだ……、渡さない、」
男の罵倒に対し、アオキは言葉を返さなかった。ただ、乱れた髪の向こうから、炯々と光る眼差しで男を見据えていた。
その無言の圧には、十分な迫力がある。男は、いっそう顔を歪めると、ぶつぶつと呪いのような言葉を吐き出す。男の、カブに対する執着はきっと本物なのだろう。ベータの時も、カブはとても魅力的な人物であったから。だからきっと、何処かのタイミングでこの悪い虫に憑かれたのだろう。
「カブは、私のモノだ……、」
「理解しかねますね、」
まるで、呪詛のように……。言葉を紡ぐ男に対し、アオキが向けた感情はため息一つだけ。その仕草は、妙に色気がある……。こんな、髪もぐちゃぐちゃな、濡れ鼠の男が……。
雷鳴が、壊れた壁から室内を照らす。稲妻の音が静まるまでの、ほんの1秒ほどの静寂のあと。アオキは顔を影にしたまま、ゆっくりと頭を振った。
「カブさんは、カブさんのもの。誰に支配されてもいけない、」
そう言って、アオキはモンスターボールを構える。男も同じく……、勝利を信じて疑わない横顔には、その手持ちはとっておきの秘策なのだろう。
「行きなさい、サザンドラ!!!」
男がくり出したのは、三首の黒竜……。知能が高いが、破壊のことしか考えていないという。あく・ドラゴンという、それは強力なポケモン。アオキが繰り出したのはノココッチ……、ノーマルタイプだ。勝利を確信したのか、男が邪悪な笑みを浮かべる。
サザンドラも咆哮を上げるが、アオキは決して怯むことはなかった。
「ノココッチ、ドラゴンダイブです!」
「なにっ!?」
それはまるで、運命がそう仕向けているかのように……。
育て上げられたそのノココッチは、ドラゴンタイプにとって弱点となるドラゴン技を有していた。そしてその一撃は、優勢を信じて疑わなかったサザンドラの急所にあたった。
崩れ落ちるサザンドラ、それを見たほかの構成員たちは、敗北を確信したのか出口に向かって逃げ始める。強大な組織も、頭が瓦解すれば弱いものだ……。
「くそ、くそ、くそ、出来損ないの癖に!!!」
銀髪の男は、それでもアオキへの敵意を捨てなかったのだから大したものだろう。それでも、正気を欠いているようではあったが……。男はポケットからナイフを取り出すと、アオキの方へと走り寄る。刺す、つもりなのだろう。
カチカチと、ムクホークが嘴を鳴らし、前に出ようとするのを、アオキは手で制した。
アオキは、まっすぐに男を見る。その視線は、ナイフの軌道を完璧に追っている。
平凡を望んではいるが、男の正体は非凡の天才である。アオキは、最小限の動きでナイフを避けると。
───、拳を大きく振りかぶる。
ゴッ、という鈍い音が響いて、どさりと重いものが倒れる音がした。それは、アオキの拳を横っ面に受けた男が、意識を飛ばして倒れた際に生じたものであった。
気絶した男を、カラミンゴがちょんちょんと嘴で突く。そんな手持ちに対し、アオキは小さく息を付きながら。
「放っておきましょう……、」
そう言って、アオキは……。水の染みの足跡を絨毯に刻みながら、悪趣味な赤いベッドに歩み寄ったのだった。
ぴちょん、ぴちょんっと、雨音が響く……。
見渡せば、戦闘不能になった敵のポケモンたちが取り残され、なぎ倒されたソファや調度品が、此処で行われたバトルの壮絶さを物語っている。
多対一の、不利な状況を不利とさえ思わず。鍛えられた手持ちで、なんなく制圧したアルファを。
運命のアルファと呼ばずして、いったい何と呼ぼうか……。
「カブさん、」
「……、ぁ?」
アオキの呼びかけに、カブは小さく反応した。ゆっくりと目が開き、アオキへと焦点を結ぶ。普段は後ろに纏めた髪もぼさぼさに、逆光になったその男をカブはどう認識するのか。
「アオキ、くん?」
「……、はい、自分です」
怯えられるかと思ったけれど、カブはアオキを【アオキ】だと認識した。錯乱していることも、アオキを新たな暴漢だと勘違いすることもなかった。ただ、カブはうっとりと息を吸って……、身体から力を抜く。そうすると、丸めていた身体をゆっくりと仰向けになり。
カブの身体によって護られていた、スマホロトムが姿を現した。
「えへへ、ぼくね、この子を護れたよ」
「……、はい、」
カブは笑う、夢見るように……。その肌に暴行の痕を残しながら、それでも満足そうに微笑む姿を責めることはできなかった。カブがそのロトムを護ってくれたから、アオキはいち早くカブの下に駆けつけることができた。それは事実だ、変えようのない事実である。
それでも、そんな風に微笑まれると、耐えがたい感情が噴き出しそうになる。
アオキが目を細めれば、カブは不意に手を伸ばして、ずぶ濡れのアオキの頬を触ろうとした。発情で熱のこもった指先は暖かく、冷え切ったアオキの肌を温める。
「ふふ、……、アオキ君、アオキ君、」
「はい、」
嗚呼、カブの掌は暖かい……。冷え切った肌に触れていた手を、アオキは濡れた掌でそっと包み込んで返事をした。すると、それまで微笑んでいたカブの表情がくしゃりと歪んで。
「ぼく、のために、いっぱい、抑制剤飲んだの?」
「……、……、」
「ぼくのせいで、そんなにボロボロなの?」
慟哭という表現が相応しい声で、カブはアオキにそう尋ねてきた。アオキが、思わず言葉を無くせば、カブは畳みかけるようにそう訪ねてくる。悪しき男に、いったい何を告げられたのか、アオキを見上げるカブの心は深く傷ついているようだった。憔悴したカブの様子に、カブの手持ちたちが落ち着かなさそうに身体を揺する。
「アオキ君、答えて、」
カブの目から、宝石のような涙がぽろりと落ちる。泣きながらも、カブの目は燃えていた。真実を求めて、その眼差しには誤魔化すことを許さない光があった。心は傷ついているのに、何処までもその心はアオキを想っている。こんな状況で、恐ろしい目にあっただろうに。
───、アオキは。
その炎を宿した黒い目を無言で覗き込んだ、まるでいっそうその熱に囚われようとしているかのようだ。掌で包み込んでいたカブの手を、アオキはそっと解放する。……、それから。
アオキが顔を寄せる様が、カブにはスローモーションのように見えた。水を吸って鬱陶しく垂れ下がった髪もそのままに、熱く熟れたカブの唇にアオキは触れるだけのキスをする。
その唇は冷たくて、雨粒が潤いの代わりになっていた。
それは、アオキからカブに贈られた、初めてのキスだった。
ぱちりと、カブは瞬きをする。まるで眠り姫に施すようなキスをされるとは、これっぽっちも思っていなかったから……。ただ、あの男に触られた時と違う、全身が上り詰めるような恍惚が電流のように身体を走って……。
「愛しい人なんです、貴方は、」
名残惜しそうに唇を離しながら……、アオキはカブの上にのしかかったままそう囁いた。
「格好つけたかったんです、赦してください……、」
そう言って、抱きしめる……。アオキの言葉が、全てを物語っていて。
カブも、たまらなくなる。
愛しているから、尽くしたかったのだと。抑制剤の過剰摂取という、カブが自身の罪と感じていた行為を、そんな風に昇華されてしまえばもう何も言うことはできない。
けっして彼の罪ではない行為を、赦してほしいとアオキは言う。カブが感じた罪悪感もなにもかも、感じる必要はないのだとその声は言っている。
「もぅ……、ばかだなぁ、」
そうして、今度はカブの方から、口づけをアオキに捧げた。雨の味がするキスだった、けれど、生まれて初めて自分から誰かに捧げたモノだった。
──、そうやって。
冷え切ったアオキの唇に、カブは己の熱をそっと分け与えたのだった……。