吸死中華奇譚中華パロ
──、左目の中に虫がいる。
違和感に気付いたのは、瑞々しい藤が咲く春の頃だった。眼球の表面を節足が這いまわる……、言葉にするにも異常な違和感。乾き目か、目玉の毛細血管が詰まったのか……。
ピクピクと瞼が痙攣する合図とともに、瞳の中に節のある黒い影が現われて。左目をゆっくり動かすと、ソレは端に切れることなく中心に向かってゴロリと動くのだ。……、まるで、自分を見ろと言うかのように。
棘のある足と、開閉する口……。その黒い影が『百足』に似ていると気づいた頃には。黒い影は、昼夜を問わず私の視界に現れるようになっていた。
医師に尋ねると、気鬱だろうと言われ薬湯を出された。目玉に傷は無く、気が滞って心の病を発症しているのだろうと。
そんなはずはないと思いながら、私は医師から出された薬をしぶしぶ飲んだのだ。──、当然、百足の姿は消えることなく、嗤うように尾を揺らした。
ごろりと、目玉の中で黒い影が蠢く……。とうの昔に藤が散り、暑さがじくじくと肌を蝕む夏が過ぎて。金木犀の濃厚な香りが立ちこめる秋になり、それでも私の視界からは蟲が消える事が無い。
何やら、化生に憑かれたのかと。──、ふと、馬鹿らしい考えが過ぎったのは。
仕事にも手が付かず、気が病み始めた矢先のこと。西都の中街に腕のいい祈祷師が居るという、風の噂を頼りに足を運ぶくらいには、私は気が参ってしまっていた。
奇しくも新月、寒風吹きすさぶ夜の街に、私の溜息は溶けて消える……。
青磁と紅珊瑚が取引される港の近くに作られた繁華街に、目当ての祈祷師の店はすぐに見つかりはしたけれど。腕利きだという店主は、やれ壺だ香木だと、物を売りつけてくるばかりで話にならなかった。それでも、狐狸を封じる竹筒だという、一番安い代物を買ってしまったあたり、己の気の滅入りようが分るというもの。
竹筒を手に、繁華街の雑踏をとぼとぼと歩けば。好奇の視線が、一つ二つと突き刺さる。
嗚呼、さっさと家路につこうとした。──、それは、矢先のことだった。
足元を、茶色い何かが駆けてゆく。
丸く、茶色い、鱗のようなものに覆われた生物……、穿山甲にも似た、未知のソレ見た時に、最初は左目の蟲がついに別の姿に化けたかと思ったのだ。
凝視すれば、茶色いソレは私の視線に気づいたようにこちらに身体を向ける。……、嗚呼、これは実在していると思う。百足は、このように反応を返すことはない。
「ヌ、」
それは、私を見て鳴いた。
それから、短い手を振ると、まるで付いてこい来いと言うようにもう一度鳴く。
「ヌ、ヌーヌ」
細長い顔と、鱗のある球状の身体、短い尾……。名も知らぬそれの背を、私は追いかけたいと思った。焦燥に駆られるような、言葉にならぬ感情が私にそうさせる。
この奇妙な生き物に、人々は気づいていないのだろうか。ソレはまるで水流に身を任せた枯葉のように、雑踏の中を澱みなくすいすいと歩いていく……。
足元の茶色ばかり見るせいか、誰かとぶつかっても可笑しくはないのに、すれ違う人々はまるで霞のようで。まるで、水の膜を通したように明瞭でないと……。
気づいた時には、あたりから人気が消えていた。
街灯の明かりの向こう側、路地裏へと続く暗がりの方へと生き物の姿が消えていく。
「あ、」
蛍光灯が描く筋の外側の闇は、光に目が慣れてしまったせいか、とても暗いものに感じた。眩んだ視界のような明瞭さの無い闇の中で、こちらに背を向けた茶色い生き物が何かを見上げている。
「──、此処に居たか、」
その垂れ目の視線の先に、より暗い影の溜まった脇道が続いていて。その底なし沼のような虚ろから、人の手が生える所が見えた。
低い声を伴った、枯れ枝のような手が茶色を掬い上げる。食虫花が虫を飲み込むような光景に、止まっていた足が一歩前に出る。
【カンッ】
──、拍子を鳴らす音がしたような気がした。もしくは、背負子を下ろした時に似た、足が羽根のように軽くなる感覚。
暗転と明転、何かと何かの明確な区切り。脳を覚醒させる、夢と目覚めの間際に広がる幕間を抜ける感覚に近いもの。
飛び出した足が地に着いた時、私は何かを乗り越えていた。妙に冴え冴え澄んだ夜の帳に踏み込めば、そこは灯火がぽつぽつと奥へと誘う細道の手前。
繁華街の中である筈なのに、橙に浮かびあがるのは盧家屋敷に似た門構え。
遠く明かりの灯った格子窓を背景に、人の形の輪郭がひとつ浮かび上がっている……。
「嗚呼──、お客さん?」
片手に茶色い何かを抱き上げて、柳のような男がひとり立っていた。
口元で遊ぶ片手に、雁首に金細工の龍が飾られた煙管を。
色硝子を嵌めた縁の細い丸眼鏡、その奥で流し目気味にこちらを捕える白目がちの眼。
性別の分かりにくい、けれども男だと分る痩躯。金糸で大きな綾模様を描く濃紫のアオザイと、祥雲紋が描かれた白い羽織が風に揺れている。
微かな明かりの下で、この男の姿がどうしてこうも定かに見えたのか分からない。
けれども、衣装の細工さえも明朗に見えるほど、明るい闇の中に男は立っていた。
「やぁ、」
呆然としていた私に、その男は再び語り掛ける。
「良い夜だね」
ふぅっと、紫煙が舞う──。細くたなびく煙が、私の長く伸ばした髪に少しだけ絡みつく。ふわふわと散る渦を、目の中に居た百足が避けるように動いた。
すらりと、煙管が私を差すと。いつも視界の真ん中に居座ろうとしていた蟲が、うろうろと落ち着かない様子で蠢いて。──、ツキリと、蟀谷が痛む。
「──、お嬢さん、名前は?」
「ヒナ、イチ」
得体の知れない存在に、名を打ち明ける事は危険だと解っていたはずだ。答えてしまったのは……、思考が鈍ったから。左目を押さえた私に対し、その男は色眼鏡の奥に潜む目を糸のように細くして、口の端を弓のように引き結んで笑った。
「そっか……、そうか、うん。ヒナイチ君。──、いらっしゃい」
何処からともなく風が吹く……、か細い灯火の中に浮かびあがった男の言葉に引き寄せられたかのように、背後から吹き寄せた強風が私の背を押して思わず踏鞴を踏む。
トンっと、意図せず足が前に進む。
私を誘うのは、鼻先につく紫煙の香り……。
一歩、二歩と、まるで子供に手を引かれるように。──、いいや、実際に手を引かれたのかもしれない。
とんっと、男の細腕から茶色い生き物が飛び出して。するりと、男の空いた片手が私の手を握り。ととっと歩く、小動物を供に屋敷の中へと。
「ようこそ、我が店に」
気づけば、玉砂利を敷き詰めた広い庭。
縁側の奥には、開け放たれた丸障子と、真紅の長椅子が置かれた寝殿が見えた。月の光と石灯籠の明かり、やはり夜にしては冴え冴えと明るい闇の中に男と私は立っている。
──、煙をくゆらせる男の手が冷たそうで、私はようやく我に返った。
乱れていた呼吸を正せば……、湧き上がった違和感に思わず腕を擦る。
男の屋敷はとても広いのに、人の気配がまるでしなかった。そもそも、繁華街の細道が、こんな場所に通じていることが腑に落ちない。
もしやこの目の前の男こそ、狐狸変化の類いかと。
「さて、ヒナイチ君」
だから私は、当然の顔で名を呼んでくる男を睨みつけて。腰の刀を抜き──、問いただすつもりだったのだ。
けれども男は飄々と、剣呑な気配を漏らした私に再び煙管の先を向け。
「君の困りごとは、その蟲かな?」
──、柄に手をかけた手が止まる。
是、と素直に言うには、男はあまりにも胡散臭い。
けれども、私の左目の違和感を言い当てられ。気勢を削がれるほどには、私はもうこの左目に参りきっていた。
「分かるのか」
「うん、分るよ。──、なかなかに、大きいものに憑かれたねぇ」
そう言って、男は肩を竦める。
男と同じように私の目を見上げた茶色い獣もまた、私を見ながら不憫そうにと言いたげに鳴いた。
もしかすれば、この男はあの祈祷師と繋がっていて、私から金を巻き上げるつもりかもしれない。──、そう思わなかったわけではない。
ただ、やけに、百足が騒ぐ。
二つの視線から逃れるように、百足が左右に身を揺らせば。二つの視線も、それを追って左右に動く……。
「祓ってあげようか」
じゃり……、男が踏みしめた玉砂利が鳴った。
男は色眼鏡を外し、隠していた双眸が露わになる。
その目には、黒真珠のような艶があった。
「対価はそうだねぇ、縁にしようか。──、これから、私達と仲良くしてくれたらそれでいいよ」
「……、名前も知れない相手と、仲良くはなれない」
得体の知れなさに、気圧されなかったのは、己にもそれなりの矜持があったから。はっきりと言い切れば、男は「それもそうだ」と柔らかく笑う。
細い腕が茶色い動物を再び抱え、濃紫のアオザイと白い羽織がゆらりと揺れた。
「私はドラルク、この子はアルマジロのジョン……、そして、彼はロナルド、」
己と動物を示しながら名乗る……、音の響きは西洋の物だった。聞いたことのない、けれどもやけにしっくりとくる言葉。二人の名を頭の中で反芻しかけた時に、ドラルクと名乗った男は屋敷の縁側を一瞥して。──、もうひとりぶんの、名を示す。
そこには、男がひとり長椅子で寛いでいた。
黒い糸で両側に十字が刺繍された真紅の旗袍を纏った、体つきの良い銀の髪の男……。まるでずっとそこに居たかのように、天藍色の目でじっとこちらを見つめている。
目が合うと、ロナルドという人物は慌てたように視線をさ迷わせる……。まるで、名を呼ばれることは予想して居なかったという態度。もしかしたら、ドラルクという男から『居る』と示されなければ、最後まで気づく事が無かったのかもしれない。
ひどく奇妙な……、けれどもドラルクほど、得体の知れない印象の無い男は、諦めたようにのっそりと身を起こした。
「おい、ドラ公、どうして、」
真紅がぶれたと思えば、文字通り瞬きの合間に……。アルマジロを抱くドラルクのすぐ傍に、ロナルドは不服そうな表情で降り立って。
「いやぁ、私だけだと大変だろう? ──、あれ」
「──、ああ、あれ」
左目を示す龍の煙管、青い目が再び私を見て小さく頷いた。まるで、畑を荒らす猿を見つけたような顔。ロナルドは片手を上げて、ドラルクを己の背後に護ろうとしたように見えた。けれど、ドラルクは片手でロナルドを軽く制して。
じゃり……、玉砂利を鳴らしながら、私の方へと近づいてきて。その黒真珠の目の中心、瞳の部分が明けの明星のように光っていることさえも分かる場所で。
「じゃあ、祓っていい?」
「え、あ、……、あぁ、」
「うん。じゃあ……、ごめんね」
今度は、気圧された。──、童のように頷けば、ドラルクは謝罪の後に煙管を咥え。──、吸うと。
私の左目に向かって、──、紫煙を細く吐き出す。
≪■■□□□■■!!!!!!!≫
痛みというより、目の血管を指で撫でられるような違和感があった。
ピクピクと瞼が痙攣する合図とともに、瞳の中に節のある黒い影が濃ゆくなって……、身をくねらせていた黒い影が左の視界を覆い隠し……。
果実が潰れる、湿った音がした。
その光景を、私の右目は捕えている。──、己の左目から、大蛇のような巨大な墨色の百足が飛び出したのを。ギチギチと咢を鳴らしながら、百足は節足を震わせて怒れるようにドラルクに飛び掛かろうとして……。
真紅が翻り、凄まじい怪力で百足の頭を殴り付け、玉砂利に踏みつける男の姿があった。
それは、鋭い眼光を私に……、いいや、私の左目から出きっていない百足の躰に向けると、手近な胴を握って手繰り寄せる。
ずるり……、犬の赤子が産道を通り抜けるような音がした。
「悪魔蠕虫だね、」
──、声が、する。
倒れ込む私を抱きとめた、誰かが耳元でそう言った。
【カンッ】
──、拍子を鳴らす音がしたような気がした。もしくは、背負子を背負った時に似た、足が泥のように重たくなる感覚。
明転と暗転、何かと何かの明確な区切り。脳を鈍麻させる、目覚めと夢の間際に広がる幕間を抜ける感覚に近いもの。
「粥と一緒に、人や動物に憑りつく……。はてさて、こんな古いもの、誰が使ったのか」
「──、こいつ、喰える?」
「う──ん、やめとこっか」
夢見心地の中で、旗袍を着た『赤い眼』の人物が黒い異形と戦っている。
絶叫と共に、百足の形をしていたものは、雨ざらしの泥のように。膿んだ死体が爆ぜるように、節足が剥がれた内側から覗いたのは人の腕。数え切れぬ、人形のような腕が長く伸びた人間の女の胴に生えている。
長いざんばら髪を残した髑髏が頭となって、カチカチと歯を鳴らし眼窩からは血涙を流す。
気味の悪い化け物を、男は顔色一つ変えず拳で打ち据える。その木乃伊のような喉が、怨嗟を叫ぼうと、慟哭を叫ぼうと、怒りを叫ぼうと──。ヒナイチと、私の名を──。
「視なくて、いいよ」
そっと、目を塞がれた。
「それくらいでいいよロナルド君、あとは、術者の下に返してしまうから。……、おや、ちょうどいい竹筒が」
ポケットに入れていた、ひとつぶんの重さが無くなって。
「──、さあおいで、此処がお前の巣だよ」
たっぷりと水の満ちた甕に、口の狭い容器を逆さまに入れた時の、≪とぷん≫という音がした。
ちらちらと、玉砂利の庭に雪が降る。
ついひと月前の記憶を呼び起こしたのは、七輪で焼いていた餅が爆ぜる音が似ていたからだ。いけない、ぼぅっとしてしまったと、私は少し焦げ目のついた餅を皿に移す。
「ヒナイチ君、焼けた?」
「うむ!」
ちょうど、甘酒を用意していたドラルクが帰ってきたので、私は元気よく彼に返事をした。悪魔蠕虫に憑りつかれていた、という事件のあと、私はドラルクの屋敷で介抱され……。結果として、この怪奇ある【店】との縁を結んでしまい、何故か一緒に餅を食べる仲になってしまっている。
私は、妖怪という存在を認識できるようになってしまったので、護るためにも縁があった方がいいのだという。──、よく分からないが、ドラルクの用意する甘味と甘酒は美味しいから善し。
「ヒナイチ、俺のぶんは?」
「ヌー!」
餅を食べていると、ドラルクの手伝いをしていたロナルドとジョンが帰ってきた。あの日、微妙な雰囲気だったロナルドは、それが嘘のように気さくに話しかけてくれるようになっていた。ジョン……、アルマジロのジョンも、良いマジロである。動物と意思疎通ができるのは、少し不思議な気もするが。
「そのあたりが食べごろだぞ」
「お、ありがと」
金網の上の餅を差すと、ロナルドは餅を二つ取り、一つをジョンの皿に置いた。
そして、自分の分を食べ始める。
そんな二人を横目に、ドラルクが注いでくれる甘酒を待つ。期待しているのが伝わったのか、目が合うとドラルクは目を細めて笑った。
「はい、どうぞ」
「ありがとう!」
うん、ドラルクの甘酒は美味しい。……、私が飲む様子を見ながら、ドラルクはいつものように煙管を咥える。
「どうかした?」
その姿を、じっと見ていたらしい。ドラルクの問いかけにはっとして、思わず言葉を探した。
「そ、そういえばドラルク、私の竹筒を知らないか?」
思いついたのは、別に気にしてもいなかった、あの日の竹筒の在処。さっき思い出したから、記憶の片隅に引っかかっていたのだろう。
その所在を聞くと、ドラルクは目を瞬かせた後。
「もう無いよ、──、この世の何処にも」
そう言って、紫煙を吐き出し……、ぷかりと、笑った。