水平線に沈む恋プロローグ
人心が病んでいようとも、この国の海だけは美しい。
波の音だけが鼓膜を揺らす窓辺で、ベッドに横たわった母親は静かな口調でそう言った。すっかり食欲が落ちて弱った身体は、何日も前から起き上がることができず。もはや医者からは、幾ばくもないだろうと言い渡された女の、恨み言と呼ぶにはあまりにも愛おし気なその声に。
なにかしてやれることはないかと、彼女の小さな一人息子は両手を握り締めてじっと母を見上げる。泣くことを堪えたその横顔は、皮肉にも死の淵に居る女を見舞おうともしない男と同じ色彩で。
彼女はただひとりの血縁をじっと見つめると、唇をゆうるりと吊り上げて哀し気に笑った。
「波の音が聞こえる、貝殻を拾ってきて」
耳に当てれば、潮騒を傍に感じる。ありもしない、そんな魔法のような貝殻を。女は息子に強請って静かに目を閉じる、まるで何も見たくないと言いたげな。
女の拒絶は、見るからに明らかだった。けれども、息子は愚直に、波の音が聞こえる貝殻を探して、たっと矢のように砂浜へと駆けていく……。
彼らの住む国は、白い砂浜と、複雑に入り組んだ海岸線に囲まれた、古くからの街並みを残す海辺の王国だった。
女の居る離宮からも、石の階段を駆け下りれば、すぐに砂浜に降りる事ができる。
靴も忘れて海辺へと駆け下りた子どもは、波打ち際に落ちている貝をひとつひとつ手にとっては耳に当て、波の音が聞こえるものがあるか探して回った。
当然、波の音がする貝などある筈がない。それでも子供は、とっぷりと日が暮れるまで長い時を、水面が暗くなり自分の顔が見えなくなる時間まで、母親が望む貝を探して歩いたのだ。
本当の、母の望みが、なんなのか感じ取ってしまっていたから。
「母様は、俺の顔が見たくないんだ」
水平線が太陽を食べてしまったあとも、帰ることなく、かといって母の望む貝を探す事も無く。波打ち際で膝を抱えていた子どもは、ついにしゃくりを上げながら泣き濡れた声でそう言った。
「どうして?」
そんな子どもに問いかけたのは、海からちゃぷりと上半身を覗かせた誰かだった。……、その誰かは、昏い闇の中にいるせいで人の形の輪郭以外何もわからない。けれど、子どもはたまに海から出てくる誰かのことを少し前から知っていて。
波に紛れて少しだけ泣くだけだった、胸の中の秘密を打ち明けられる、いつの間にか唯一の存在となっていた。
だって、それは人に言いつける間にすぐに消えてしまうから。ただ大人の気を引きたくて嘘をついたと思われるような、困った子になるくらいなら、黙っていたほうがマシだった。
「父様にそっくりだから」
そして、どうせ黙っているのなら、こうやって押し殺した気持ちをぶつける相手にした方がずっと楽だった。
「ふぅん、」
こどもの言葉に、それは適当な相槌を打った。どれだけ深刻に言ったつもりか、全く分かっていなさそうな口調だった。だから、ちょっとだけ気が楽になる。
分らないことを、分かった風に扱わない。偽りの共感を向けない、なにかの態度は新鮮で。薄っぺらい笑顔より、ずっとマシだと思えたから。
「私は、君の顔が好きだけどなぁ」
「───、あっそ、」
今日もほら、少し見当違いな、けれども好意的な言葉を紡ぐ。波間で揺れるそれは、きっと笑っているのだろう。人の好意に飢えているこどもにとって、好きという言葉には、それだけで喜んでしまいそうな響きがあった。胸のあたりがくすぐったくなって、けれど素直に受け入れることもできず素っ気ない返事を返す。
ふいっとそっぽを向いたこどもの耳に、水音とともにくすくすと笑う声が届いた。
「おいで、」
振り返れば、夜に似た色彩が広がっている。藍色から紫紺へとグラデーション描くゆらゆらとした何かが、海の中からこどもに向かって伸びあがっていて。それはまるで、いくつもの手を伸ばされているかのようだった。……、けれど不思議と、恐ろしいとは思わない。
思わず立ち上がって、その濃紺の色彩へと近づけば。ひんやりとしたものが伸ばされて、頬の輪郭を優しく撫でられる。
「どんな人間より、私は君が好ましいよ」
そのナニカの言葉に、こどもの目から涙がほとほとと溢れて落ちる。母親に拒絶されたこと、その苦しさを飲み込もうとしていたこどもにとって。誰よりも好ましいという言葉は、まるで甘い甘い蜜のように求めてやまぬもので。
たとえ、それを紡いだモノが何であろうと、縋りたくなるくらいにはこどもは好意に飢えていた。
ざぶざぶと、足首まで海に使って。闇の中で正体がよく見えない、ひやりとした何かに抱き着けば。───、するりと、髪を撫でられた。
「波の音が聞こえる貝殻だっけ、………、あげようか?」
誘うように、落ちてきた言葉が示したのは、病床の母が求めた筈のもの。全てを拒絶するように、目を閉じた人がこどもに向けた言葉。
波の音が聞こえる貝殻、手に入ったならば、もしかすれば母は笑ったかもしれない。
けれど。
こどもは、得体の知れないなにかに、縋りつくように抱き着いて。
「──、いらない」
いやいやと首を振り、その冷たい感触に縋りつく。すると、小さく息を呑む音が聞こえた。
「じゃあ、何が欲しい?」
その言葉に、こどもはゆっくりと顔を上げる。
きらきらと輝く星空の下、闇に融けるようにして輪郭をとらえきれない得体の知れぬ何か。濃紺から紫紺へとグラデーションを描く巨体の、それがもつ、宝石のように赤い目をじっと見つめて。
「───、─────、」
「───、いいとも、あげよう」
求めれば、答えはすぐに得られた。そして、冷たい感触が唇にひとつ……。思わず目を閉じたこどもの身体を、心地よい冷たさがゆっくりと包み込む。息ができるのに、まるで海に呑まれたような不思議な感覚。
「いつかかならず、君に贈ろう。だからそれまでは、どうか……、」
……、ぱっと、目を開ければ。
そこはただの、静かな静かな夜の海だった。こどもは、暗い海に足首まで浸かって、ただ茫然と立ち尽くしているだけだった。
身体に、何かの印を受けたわけでもなく。その手に、波の音がする貝殻を持つこともなく。
しばらく、こどもはぽかんとした顔で夜の海を見つめていたのだが。
やがて、漸く迎えに来た従者たちに発見され、手を引かれて離れへと戻っていく。
その小さな背中を、月がじっと見つめていた。