汝、罪と呼ぶことなかれ 凍てつく冬の夜よりも冷たく、深く昏い場所で眠ってしまえ。
己の抱いた感情が、恋と呼ばれるそれなのだと知った時、男は握り締めた掌の内側に血がにじむほどに爪を食いこませて、今すぐにも消えたくなる衝動を耐えた。
「クラージィ?」
突然黙り込んだ男の名を訝しそうに呼んだのは、200年という月日を越えて再会し、今では懇意にしている人物だった。かつて、やせ衰えて飢えていたクラージィに自分の食事を分け与え、そしてクラージィが身を挺して野犬から守り抜こうとした吸血鬼。あの日に比べて老いた見た目をした、ヨセフという古い血の吸血鬼は、黙り込んだクラージィを気づかわしそうに見つめ。
「クラージィ」
白くなるまで握りしめた掌から、血が滴っているのに気づいて、今度は宥めるように名を呼んだ。
「……、こら、血が出ているよ」
「っ、ぁ、」
手を掬い取られて、ゆるゆると撫でられて、クラージィは漸く我に返った。ぱっと掌を開けば、爪が食い込んで肉の抉れた、痛々しい皮膚が露わになる。
ヨセフは、困ったように眉を寄せると、ポケットから取り出したハンカチをクラージィの掌に当てた。
「いけない、血がついて……、」
「いいよいいよ、これは君にあげる。……、まったく、どうしたんだい?」
ぎゅっと傷口にハンカチを押し当てられて、その薄い白布が己の血を吸いこんで赤く染まっていく。クラージィが慌てるも、ヨセフはどこ吹く風で。
「こんなお店でするような顔じゃないよ、クラージィ」
カフェの椅子に腰かけ、差し伸べた両手でテーブルの上のクラージィの片手を包んだまま。彼はゆっくりと、何処か愉しそうな顔で小首を傾げてそう言った。
「っ、」
とたん、周囲の情報がクラージィの中に戻ってくる。そう、そこはシンヨコハマの、吸血鬼達が利用するブラッドジャムサンドが有名なカフェで。
クラージィは、かつて食事を恵んでくれたお礼にと。街中でばったちり会ったヨセフに、紅茶を御馳走するためにこの店を訪れたのだった。
そして、──。そして。
ヨセフは、クラージィに問うたのだ。200年後の世界はどうだと。
素晴らしいと、クラージィはそう答えた。
吸血鬼と、人間が手を取り合う世界を見る事ができた。あの日の自分が間違っていなかったのだと、そう教えて貰えているようで幸福だと。
200年という月日を越えて、目覚めてしまったクラージィ。言葉も、何もかも分からない、やせ衰えぼさぼさの髪と無精髭の不審な男に、親切にしてくれる人々の話を。
悪魔の幼体からは見違えるように成長したドラルクと、そんな吸血鬼である彼と手を取り合うロナルドの話を。
そして……、クラージィを迎えに来た、吸血鬼となった己の『親』であるヒトの話を。
ノースディン、かつて己が吹雪の悪魔として討ち果さんとした存在。吸血鬼を憎むことしか知らなかった己に、彼等にも誰かを想う心があることを教えてくれた。
クラージィに命を与えてくれた、200年もの月日の間、忘れずにいてくれた。
再会した今では、見捨てることなく、親を名乗りクラージィに吸血鬼としての生き方を教えてくれる。
かつては、悪魔祓いとして、何も疑わず、同族の命を屠っていたというのに。
──、こんなどうしようもない男を、甘やかしてくれる。
200年前、悪魔祓いだった日々においても、教会から破門にされ、放浪していた期間ではなおさら感じる事ができなかった安息を与えようとしてくれる。
……、素晴らしいヒト。
ノースディンといると、何故か祈りたくなるのだと。
彼への感謝の締めくくりにそう紡いだクラージィに対し、ヨルマは紅茶のカップを手に暫く沈黙した後。
「君、恋してるんじゃない?」
口元に笑みを刻み、ヨルマは何故か意地悪な顔でそう言った。きっと、ヨルマからすれば、不器用な朴念仁を揶揄ったつもりだったのだろう。
けれどクラージィは、雷に射抜かれたように、ヨルマの言葉に心が痺れたのだった。
ノースディンを見ていると祈りたくなる、この幸福に胸が高まる感情には名前があって。それは、恋なのだと……。人が誰かを愛する、その感情そのものなのだと。
しっくりときて、だからこそ、次の瞬間には絶望していた。
同性だからではない、かつてクラージィが人として生きた時代であれば禁忌だが、この現代と呼ばれる世界では男同士で愛を育む人々が居る事を知っている。
クラージィが絶望した理由は、恋した相手に対して、自分があまりにも不相応な存在だったからだ。
『嗚呼、私のような、何にも成れない者が思慕していい相手ではないのに』
だから、恋という言葉の甘美さに浮足立った、次の瞬間には後悔が湧き上がった。
掌に、爪を食い込ませるほど。
古き血の吸血鬼に、親としてクラージィを導いてくれる、素晴らしいものに。
懸想するなど、なんと、醜いことだろう。
「クラージィ、大丈夫かい?」
「──、あ、あぁ、」
ヨルマに声を掛けられ、クラージィは自分が再び物思いに耽っていたことを知った。
ヨルマの、無花果色の目の中に、憔悴した表情の男が写っている。
まるで、破門でもされたかのようだ。
そして、此処は教会でもないのに、罪人の告解を聞き届けようとする存在が目の前にいる。
「あぁ、やっぱり。君は、ノースディンが好きなんだ」
何時の間にかカップを置いたヨルマが、頬肘をついて人の悪い笑みを浮かべていた。
とても柔らかな口調で尋ねられた筈なのに、クラージィにはその言葉が鋭い杭で胸を穿たれたような衝撃があった。青白い顔色がさらに悪くなる、明らかに取り乱して、取り繕うような器用さは無くて……。
「……、忘れたい」
クラージィが紡いだ言葉は、叱られた子どもの宵に弱々しくか細いものとなった。
こんな不相応な感情など忘れてしまいたいと、神に懺悔するようにクラージィは願ったのだった。
「こんな感情、忘れてしまいたい」
もしかしたら、忘れられたのかもしれない。
そう言って、顔を両手で覆う。今にも泣き出しそうな顔の雛鳥の前に居たのは、自身も古き血を宿すあらゆる物の精神に作用する催眠使いであったから。
ヨルマが良い人であれば、もしかしたら忘れさせてくれたのかもしれない。
けれど、そこに居るのは、悪意の男。
「忘れるなんて、勿体ない」
「……、え?」
クラージィが顔を上げた時、ヨセフは何処から取り出したのか、その手に球体がついた杖を手にしていた。そして、それはもうご馳走を前にした子どものような喜々とした顔で、クラージィの顔の前に杖を突きつけると。
「どれ、少し素直にしてあげよう」
ぴかりと、一筋の邪な光が、クラージィの目を晦ませた。
※※※※
愛し子が、帰ってこない。
氷笑卿の通り名で、婦女子の心を手中に納める男は、買い物に行ったきり連絡を寄越さない子どもの帰りを今か今かと待っていた。
子どもとは、本当の意味で子どもではなく。一応成人男性なのだが、なにせ200年の眠りから覚めたばかりの、アンデルセンもびっくりな眠り姫である。
吸血鬼としてのいろはを教え込み、最近では一人歩きも赦した所ではあるが、それでもやはり心配は尽きない。
過保護になる過ぎるのはいけないとはいえ、お守りにと渡していたスマートフォンのGPSを見るに、以前己と共に訪れた吸血鬼用のカフェに滞在しているようであるが。
電話をかけてみようか、あまり過干渉だと拗ねられてしまうか……。
「む、」
悩んでいた矢先に、ブルリとスマートフォンが震えた。
愛し子からの電話に、長い指先が、すぐさまフリック操作を行う。
「……、クラージィ、どうした?」
務めて穏やかな、秋の夜のような穏やかな口調で尋ねた、古き血の吸血鬼氷笑卿ノースディンは。
「っ、……、っぅ、のーす、のーすでぃん、」
「───、待っていろ」
電話越しでもわかる、タダならぬ気配を放つ愛しい子に。ぐすぐすと、泣き濡れた声で名を呼ばれ、次の瞬間には数多の蝙蝠となり屋敷から姿を消したのだった。
ノースディンにとって、クラージィは愛しい愛しい我が子である。
200年前の、酷寒の冬。己の呼びかけに答えたからこそ血を与えた、唯一無二のノースディンが転化させた人間である。
悪魔祓いという、吸血鬼を滅する立場にありながら、ノースディンとドラルクに心を見出してその手を止めた。崇高で清らかな、美しい魂の持ち主である。
その清廉さは放浪しようと汚れることなく、骨と皮の身でありながら吸血鬼を護るために杖一つで獣の群れに立ち向かった。
「逃げなさい」と言い放った、その気高さが、失われるのが惜しくて。気づけば、身体が動いて生きたいかと問いかけていた。
牙を突き立て、望む転化が起こらず。──、それでも手放し難くて、氷の棺で眠らせて。
失われたと思っていて、けれども、長い月日の後に手に入れる事ができた。
200年間、忘れる事ができず。遥かな時を越えて手に入れた男に対して、ただならぬ感情が芽生えるのは道理だと言えるだろう。
そう、ノースディンは、クラージィに懸想している。氷笑卿として婦女子たちを篭絡しながらも、彼等に対して真に心を動かした事のない男は、常で在れば口説きもしない同性に対し本気の想いを抱いていた。
そして、虎視眈々と、クラージィの真心を狙っていた。
我が子と呼び、囲い込み、親身に、手づから、全てを教えて。──、精練で愚直な男の中に、ノースディンに対する情が芽生えるのを待っていたのだ。
ノースディンは、待てる男だった。何故なら吸血鬼には長い長い時があり、自分に自信のない可愛らしい雛鳥を、ゆっくりとゆっくりと育んでやりたかったから。
だから、待っているつもりだった。
いつかお前が、無意識にその目に浮かべる、思慕の情に気づくまで。
それまでは自分は親として、可愛らしく完璧なお前と言う愛し子を護るとも。
そう、考えていたのだ。
「クラージィ!!!」
それが。
「ひっく……、ぅ、のーす、のーすでぃん」
あんな邪魔者の娯楽のために、乱されてしまうだなんて!!
「どうか、私と間違ってくれ」
数多の蝙蝠となり、疾風のように訪れたシンヨコの街。そこで気配を頼りに探せば、クラージィは公園で一人我が身を抱きすくめて泣いていた。
すぐさま傍に降り立って、その身体に触れようとした……。
名前を呼んだその瞬間に、クラージィが予想もしない事を叫ばなければ、ノースディンはその腕の中に彼を招き入れていたことだろう。
「なに……?」
間違いと言う、その意図が読めず戸惑えば。クラージィはゆっくりと顔を上げて、縋るようにノースディンを見つめてきた。
紅玉のような眼からぽろぽろと涙がこぼれて、頬にいくつもの涙の筋を作る……。
「どうか、私と、間違って欲しい」
再び、同じ事を言って。
ついには、口を押さえて泣きだした男。その憐れな姿に、ノースディンはきっと何者かの悪意にさらされたのだろうと思った。
「クラージィ、」
きっと、シンヨコの吸血鬼の、トンチキな術でもかけられたのだろうと。だからノースディンは、努めて優しくクラージィの名を呼んだ。
「もっと落ち着いて話してみなさい、私はお前を否定したりしないから」
そう言って、クラージィに一歩近づいて。その口を閉ざした両手を、ゆっくりと引き剥がしていく。一本一本、すっかり冷えて、縮こまった指を引き剥がして促す。
「言いなさい」
「……、愛しいんだ、貴方が!!!」
そうすると、クラージィは、血を吐くような声で叫んだ。
「貴方が、自分のような者を選ぶなんて本当はおかしいことだ、わかっている。それでも、」
思わぬ言葉に、呆気にとられるノースディン。その間にも、クラージィから、堰き止められていた言葉が溢れて、愛の告白の形をとっていく。どうしたことだろうと、ノースディンは思った。いったい何が、この子にこんな自分に鞭打つような告白をさせるのか。
「それでも、自分は貴方といっしょにいたい……!!」
ただ、傷ついた顔で希う、クラージィの言葉が真心であることは痛いほどに伝わった。
愛と呼ぶには、あまりにも自罰的な告白をノースディンは知らない。
こんなにも切実に、求められたことは、はたしてあっただろうか。
「──、私を、選んで……、」
最後にそう言って、ゆっくりと膝から崩れ落ちようとした愛し子を。
ノースディンは漸く、腕の中に攫った。
「……、クラージィ、」
「っ、ぁ、」
かつては鍛えていた、今では漸く肉がついてきた身体。それを容易く抱きすくまれば、クラージィは怯えたようにノースディンを見上げてくる。……、本当は、舌打ちの一つでもしたかった。
誰が何をしたか、全て察した。
けれど、そんなことをしてしまえば、二度とこの子の心は手に入らなくなるだろう。
だからノースディンは、全ての不機嫌を飲み干して。
クラージィ……、愛しき氷棺の君の唇に、恭しくキスを捧げた。
「────!?」
今まで、旋毛や頬にはしてきたものの。初めての唇へのソレに、クラージィが身を固くする。それでも、ノースディンはクラージィの唇を優しく啄むと。
不器用な男の、その眼を優しく見つめて。
「200年前から、私はお前しか選んでいない」
そう、甘い甘い言葉で、告げた。
それから、驚いたように目を丸くしたクラージィの。その目元の涙を啜り、鼻先を掠めて、再びその薄い唇へ。
暗い夜の公園で、人目を憚ることなく、むしろ見せつけるように。
愛し子の涙が枯れて、擽ったそうな甘い声で鳴き始めるまで。
ノースディンは、クラージィにかかった催眠がとけるまで、甘い口づけを続けた……。
「離すものか」
婦女子を甘やかす声よりも、ずっとずっと執着に満ちた声が云う。
「お前が間違えと言うのなら、再び神にだって挑んでやる」
傲慢ささえ感じる声で、ノースディンはそう宣言して。
大切な大切な、己の宝を抱きしめるのだった。