オメガバースパロ凪茨「──ねえ一昨日のことなんだけど、凪砂くんって、もしかしてラットになってた?」
雑誌の撮影を終えた翌日、ミーティングのために事務所へ訪れた日和が開口一番に問いかけてきて、茨はその耳慣れない言葉に目を丸くした。
「ラット……とは?」
「あれ、知らない? じゃあ茨に聞いても仕方ないね」
日和の言葉をそのまま返せば、彼も茨がピンときていないことに気付いたようだ。それなら用は無いと言わんばかりに首をすくめると、サッと踵を返して立ち去りかける。
「殿下、閣下の様子に心当たりがあるんですか?」
慌てて呼び止めると日和はまず茨の顔を見て、それからミーティングルームの入り口と時計へと順に視線を動かした。まだ来ていない凪砂や、日和の使いで紅茶を用意しに行ったジュンが入ってこないかどうか確認したのだろう。近くに人の気配を感じない事を確認した日和は、小さく息をつきながら茨の向かい側に腰掛けた。
「ラットというのは、αの発情期みたいなものだね。変な誤解があっても嫌だから、後でちゃんと自分で調べてね」
日和が言うには、ラット状態のαは一時的に番のΩに対する庇護欲や執着心が高まり、普段よりも周囲に対して威嚇的な行動を取るようになるらしい。多くはヒート状態でひどく無防備になったΩを守ろうとする防衛本能が発端になるが、ヒートと同じく周期的に現れることもあるという。
「……まあ、だから凪砂くんもそうじゃないのかなって思ったんだよね。じゃないとあの凪砂くんが茨にああいう反応するわけないね」
「それはまあ、確かに……」
そう言われて、茨も先日のことを思い返す。あの日はほぼずっと様子がおかしかったが、何より違和感を抱いたのは凪砂が己と日和を天秤にかけさせるような問い掛けをしたことだ。彼にとって巴日和はあらゆる意味で特別な存在であり、日和が誰かに構いっぱなしなことに不満を抱くことはあっても、日和に対して嫉妬を抱くはずがない。
凪砂は、もしも茨と日和が同時に崖から落ちそうになっていたら「茨なら大丈夫だよね」と言って迷わず日和を助けるような男なのだ。それくらい別枠の存在である日和を引き合いに出した時点で、だいぶラットの症状が強かったのだと窺える。
撮影時のトラブルについても、確かに凪砂は茨に現場へ戻ってほしくないと最初から言っていた。後から思い返せば、あれは身を害する危険のある場所に相方を行かせたくないという気持ちの表れで、ラットのことを知った今にして思えば、番に手を出されたくないという独占欲の現れでもあった。
現場から離れた後は不満を募らせた凪砂にそこそこ酷い目に遭わされたし、その時に彼が噛み付いたうなじは今でも痛いが、そういう事情であれば軽率な行動をした茨にも非はあるだろう。
あくまでも、双方が正式な番同士だったらの話ではあるが。
「そうなるとわからないのが、なぜ本来は番になれない自分を庇護対象として認識しているのかという点なんですよね」
「そんなのぼくが知ってるわけないね! というかそもそも、お医者さまの見立て違いなんじゃないの?」
巴日和にしては珍しいくらいの正論である。たしかに聞いていた話と違いすぎて誤診を疑う気持ちもわかるが、果たして本当にそうだろうかと茨は内心で首を傾げる。
凪砂が精密検査を受けたのはおよそ半年は前になるが、それから今日までの間に体質が変化したという仮説の方がしっくりきてしまうのだ。常人が相手ならば荒唐無稽な仮説を立てているのは茨の方であるが、相手はあの乱凪砂。彼の体質が環境に適応する速度は目を見張るものがあるため、検診を受けた当時はまだ残っていた異常も今は修復済みという可能性だってゼロではないだろう。
「その可能性もありますし、改めて検査してみましょうか」
「おひいさん、紅茶いれてきましたよぉ」
茨の言葉に同意した日和が頷いたタイミングで、ジュンが紅茶を持ってミーティングルームに入ってきた。あまりのタイミングの良さに、もしや部屋の前で機を窺っていたのではと勘繰ったが、そうではないらしいとすぐに知れた。なぜなら入室して第一声が「あっ砂糖忘れた」という間抜け極まりない言葉だ。いくら舞台の主役を務めた経験があると言っても、ジュンに平然としらを切れるほどの演技力はない。
「ジュンくん! もう!」
先ほどから茨の相手をし続けた日和は、ついに彼のウッカリで不機嫌を爆発させたようだ。ジュンに責任は無いが、ここは運悪くちょうどいいタイミングで入室した自分を恨んでもらう他ないだろう。
とはいえ、八つ当たりされながらも大して気にした様子を見せず「なに膨れてんすか」と言いながら紅茶をテーブルに置いているのだから、相変わらず日和相手だとだいぶ図太い。
「茨、凪砂くんはまだなの?」
「もうじき来ますよ。送迎車にはお乗りになったようですから」
まだご機嫌がよろしくない日和にせっつかれるが、これに関しては茨もどうしようもないため苦笑に留める。ミーティングの前に単独で仕事が入っていた凪砂は二人よりも到着が遅れているが、現場で待機していた送迎担当から予定時刻通りに出発したと連絡が来ているため、急かさなくてももうじき来るだろう。
「さっさと終わらせて凪砂くんとお茶しに行きたいね!」
「……うん、私も行きたい」
日和がことさら大きな声を出したかと思えば、まさに今話していたばかりの人物がひょっこりと顔を出した。こちらはジュンと違って自然に話に入ってきたが、あの音量ならば部屋の外まで声が筒抜けだっただろうことも想像に難くない。日和が会いたがっていると知ってウキウキしながら入室したと顔に書いてあるので、その辺りは間違いないだろう。
「凪砂くん、お疲れ様! 茨にこき使われてない?」
すっかり気を良くした日和に促されるまま腰掛けた凪砂は彼の話をうんうん頷きながら聞いており、先日の様子は影も形も見えない。別のαを見ていたからという理由であれだけヘソを曲げたのだから、もしかしたら二人きりで密室にいたという理由でさらに面倒なことになるかもしれないと危惧していたが、どうやら杞憂のようだった。漣ジュンのこともしっかり目に入っているし、日和と茨が同室で過ごしていることをまるで気にした様子がない。日和に嫉妬するどころか、二人でのほほんと茶を楽しんでいるではないか。
ここまで凪砂の反応に違いが現れると、やはり先日の一件は日和の言うラット状態だったと考えた方が筋は通る気がした。
「閣下、お話中に恐縮ですが、殿下とのお茶の後に時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「構わないよ」
ミーティング用の資料を用意しながら声をかけると、こちらを見上げた凪砂と目が合った。獰猛な様子も支配者の風格もない、いつも通りの毒が一切含まれていないような視線に、茨は無意識のうちに小さく息を詰まらせた。
普段は改めて意識することは少ないが、こうして立て続けに変化の様子を目の当たりにして初めて、ラット状態だったと疑われるあの日に見た瞳の正体に気付く。あれは周囲を警戒する動物のものであったし、なによりも、茨を獲物として見ているものの瞳だった。
(……あ、“喰われる”)
瞬時にそう感じて、資料を持つ手をわずかに強ばらせた。情緒不安定な凪砂にホテルへと連れ込まれ、普段の様子とはいっそ正反対なほど理不尽に身を暴かれたあの夜が、明確に思い起こされる。気にしないよう努めてはいたものの、目の前の男が普段通りの凪砂であると認識すればするほど、その差異が脳裏に蘇った。
それもそのはずで、茨は本人が自覚している通り生まれついてのβである。αやΩと違い、周期的に訪れる強烈な欲求に晒されるどころか、目の当たりにする機会すら無かったのだ。それが急に、あらゆる段階をすっ飛ばして最上級とも言える衝動を向けられてしまったのだから、彼自身も無意識のうちに支配者への畏れを抱いてしまっていた。
「茨?」
「──いえ、なんでもありません」
急に手を止めたのを不審に思ったらしい凪砂から声をかけられ、茨は思考を追い出すように軽く首を振る。取り繕うように笑顔を作って資料の用意を再開したものの、動きは普段よりもどこかぎこちない。常にない様子を見て首を傾げていた凪砂だったが原因自体には全く思い当たっていないらしく、心配そうな目線を寄越すだけでなんらかの行動を起こすことはない。まだ気付いてない今のうちだと、茨は咄嗟に表情を取り繕って資料を他の面々に渡していく。
恐ろしく察しのいい彼にこれ以上の情報を与えてはならないと頭の冷静な部分が本能の部分で尻込みする体に警告を出していて、その警告に従って笑顔を浮かべたまま資料を渡す茨を、凪砂は静かに見つめていた。
「……本当に大丈夫?」
「ええ、もちろん! コメツキバッタのようにあくせく働いてこその茨であると重々承知しておりますが、体調管理の重要性も心得ておりますとも」
問いかけに答えながら念押しするように笑顔を浮かべると、それ以上の言及はせずに凪砂は資料に目を落としたので、茨も内心で小さく息をつく。それに込められていたのは凪砂が興味を失ったことに対する安堵と、ほんのわずかな不快感。彼は自分に興味を持たなくていいのだと思う反面、それをどうしようもなく腹立たしく思ってしまう自分がいることをこの数日のうちに自覚した故のものだ。
下々の人間を気遣う必要は無いというのは紛れもない本心だが、ここまで心身の反応を変えられてしまったことに対する憤りもやはり本物であるのだと、そう思えば思うほど自分の思考に不快感が募る。
「ではでは、お待たせしました! パパッとミーティングを済ませてしまいましょう!」
資料を配り終えて空いていた席に腰を落とし、努めて普段通りの声を出しながら三人に声をかける。日和と凪砂が並んでその向かいにジュンと茨が座るのはいつもの並びであるが、今は正面に座る凪砂の視線が微妙に痛い。観察するようにじっくり見つめるのではなく、茨が息をつくタイミングで時折顔を上げる程度ではあるが、どのみち気を抜いたタイミングを見計らっているようなので精神的な疲労としては大差ないだろう。
あまり重要な内容が無かったのもあり、ミーティング自体は数十分かそこらで済んだ。そんな事で呼び出すなんてと日和はややご立腹だったが、大きな仕事が入っていない時のミーティングではたいてい嫌な顔をするので茨も今更気に留めることはない。深く考えなくても並べられるお世辞と賛辞を投げつけているうちに日和がジュンを連れて退室し、残った凪砂に軽く連絡事項の補足をするのがいつものパターンだ。
とはいえこの後お茶をしに行くと言っていたので、今日は凪砂も彼についていくのだろうが。
(先日の撮影について今のうちに根回ししておきたかったし、ちょうど良かった)
やるべき事はいくらでもあるのだから、早めに手をつけられるのは助かる。そう思いながらミーティングの後片付けをしていると、ふと頭上に影が差したことに気付く。
誰か忘れ物でもしたかと顔を上げると、ちょうど声をかけようとしたのか中途半端に口を開いているジュンが立っていた。
「スマホですか」
「いや忘れ物じゃねえっすよ」
十中八九忘れ物だろうと思い声をかけるが、ジュンは呆れたように笑いながら首を横に振る。ならばなんの用だと見つめていると、外を気にしたような素振りを見せてからおそるおそるといった様子で口を開いた。
「──ナギ先輩となんかありました?」
「……なぜ?」
気付かれるとは思っていなかった人物からの質問に虚をつかれ、咄嗟に上手い返しができずに言い淀む。気付かれるなら当事者である凪砂か、ああ見えて他人の機微に一番鋭い日和だと思っていた茨にとって、彼らをやり過ごしたと思っていた矢先にジュンからのこの問いかけは動揺が大きい。
かろうじて笑顔は貼り付いていたので、動揺を隠して言葉の続きを促す。
「なんかナギ先輩、今日はちょっとそっけなかった気がして」
「いつもあのくらいのような気がしますが」
「や、一昨日と比べるとだいぶ違いまよ」
いちおう茨を気遣ったのか、ジュンが気休め程度のオブラートに包みながら話している。先日のレッスンであれだけ茨にべったりだったのを見ている彼にしてみれば、茨そっちのけで日和とお茶をしに行った凪砂の様子は不思議なものなのだろう。
「この間だいぶイチャついてたんで、てっきりオレは二人が付き合ってんだと思ってましたけど、今日はなんか距離あったっていうか」
「今の発言だけで訂正箇所が三つありますが」
言葉を選んでいるらしいジュンだったが、そのどれもが茨にとっては不本意なものだった。イチャついていたわけでもなければ付き合っている事実もなく、今日の距離感が普通なのだと眉を顰めながら言葉を返せば、「あ、自覚無かったんすね」と笑われる。
あまりにも癪に触ったが迂闊に言い返して誤解を深めるのも問題ではある。無言で椅子から立ち上がって、ミーティングルームの空調を切るためにジュンに背を向けた。
「……閣下の不安とやらが解消されたので、普段通りに戻っただけですよ。ジュンが思っているようなことは何もありません」
ラットを起こしていた可能性があると説明しようかと一瞬迷ったが、ヒートと同じような現象だとしたら相当デリケートな問題だと判断して言葉を濁す。そもそもジュンは先程の茨と同じようにラットを知らない可能性もあるので、不確定要素をわざわざ告げる必要はないだろう。
空調の稼働音が消えて先ほどよりも音が減った室内は、茨の口数が少ないこともあって静まり返ったような雰囲気がある。場の空気からなんとなく踏み入ってはいけない雰囲気を感じたのか、ジュンはそれ以上は追求せず小さく苦笑いを浮かべるに留めたようだ。
「ならいいんすけど。大変っすね、お互い」
同情を含んだジュンの言葉に反射的に言い返しそうになるが、言外に様々なものが含まれていることに気付いて口を閉じた。その言葉には茨と同じく目上の者に振り回されている立場としての同情と、同じ性を持つ者としての労いが含まれている。
一昨日のレッスンで、凪砂は「茨がβだから不安なのでは」というジュンの言葉に頷いていた。おそらくラットのことを知らない彼はその言葉を信じていて、先ほどの一言はそれを踏まえての発言なのだろう。
『αに振り回されて大変ですね』。その言葉は、数えるのも嫌になるほどかけられてきた。
βはいつだってαとΩの尻拭いが回ってくる。ヒートが来たとなればどんな重要な案件でも日程の調整を余儀なくされ、ロケバスの手配だって気を使う。先日の撮影のように、αをヒートから遠ざけようと思えば全ての対応はβに回ってくることになるのだ。茨はそれを利用して何度も利益を掠め取ってきたが、もちろんそうではない人間が大多数であり、一般的にαやΩに対してβは既に諦め気味である。
なので、ジュンの反応もβとしては当たり前の反応だ。発情期に襲いくる衝動の強さもαやΩの感情の動きも理解できない身としては、彼らの理解不能な行動に対しては『ああ、いつものか』と流してしまうに限る。
茨はそれをよく理解しているはずなのに、なぜかジュンの言動に言いようのない不快感を抱いた。彼が何か失言したわけではないはずなのに、まるで引き絞った輪ゴムが弾けるかのように不快感が脳髄を殴りつけてくる。カッとなった、というのはこういう時に使うのだろう。
「閣下はそれでいいんですよ」
何に憤っているのか自覚もできないまま、気付けばそう口走っていた。それ以上の言葉を拒絶するかのように冷たく切り捨てる声音だったと気付くのに、数秒。
「なに怒ってるんです?」
ぽかんとしたジュンから不思議そうに問いかけられて我に返った茨は、無意識のうちに握り込んでいた掌から力を抜く。
「……すみません」
「いいっすよ、べつに気にしてないんで」