名前はもうある「……私、茨に名前を呼ばれるのが好きみたい」
唐突に落とされた言葉を拾い上げた茨は、返す言葉を探して目を瞬かせた。
翌日の予定を告げて、さてこの後は夕食でもと思っていた時分のことである。己の言葉にうんうんと頷いていたかと思えば、全く違う言葉を返されるのだから茨の頭も痛くなるというもの。どうせ『時間になったら茨が迎えに来る』とでも思っているのだろう。その通りなのがまた癪であるが、ひとまず何かを返さねばならないだろうと、思考がまとまらないままに口を開いた。
「恐れながら、自分のような者が閣下の尊名を口にするなどという愚行を犯したことはないかと」
「……うん、茨は日和くんのように名前で呼んでくれたことはないね。それは少し、不満」
「……呼ばれたことがないなら好きかどうかもわからないのでは?」
いまいち要領を得ない凪砂の言葉に、茨も思わず首を捻る。呼ばれたことがないのに、好きだとは思っている。その意図を掴みきれず困惑する茨を見かねたのか、凪砂は言葉を続けた。
「戸籍に記されたものだけが、私を示す名前ではないから。アイドルが名乗る芸名のように、人が愛を込めて相手を呼ぶための名前も、等しく大切」
凪砂が先程から弄んでいた本を机に置く。国内でも有名な純文学を見ながら、まるでそこに何か大切なことが記されているかのように指先で撫でた。
「……だから、茨が私を呼ぶための名前はもうある。──『閣下』と、愛を込めて長く呼びかけられてきたその名も、私は愛おしく感じているよ」
凪砂の言葉を聞いて、まるで強い目眩に襲われたような心地になって、思わず目を覆った。
名前を呼ぶ行為は、相手との距離を縮めるのに最も効果的な方法である。だからこそ意識的に名前を呼ばないようにしてきたというのに、なんて後悔しても手遅れのようだった。あらゆる場面で凪砂には常識が通用しないと思い知らされてきたというのに、常識に当て嵌めて考えていたのが敗因かと、小さくため息を落とした。
「……戸籍も大事ですけどね」
おそらく人生で最も多く呼んできた名前を口にするのが今さら恥ずかしくなって、気付けばそれだけを言い残して夕食の準備を口実に部屋を出ていた。