仕上げに手間を大さじ1 料理に愛情は不要である。凪砂の食事を用意するようになって一週間が経つ頃にそう悟った茨は、目の前に鎮座する食材を見ながら腕まくりをして気合を入れた。
愛情は不要だと判断した茨とて、なにも最初からそう思っていたわけではない。どうにも統計などで表すことのできない分野に関しては理解に苦しむ部分が多く、愛情が云々と言われてしまうと鼻で笑うしかないのだが、これでも凪砂の食事を用意することになった当初は少しばかり考慮する努力はした。そして料理に関する情報を集めるうちに“何らかの手順”を指して愛情というものにカテゴライズしているのだろうと確信した瞬間は、まさに幽霊の正体見たりといったところだ。愛情とは、言ってしまえば“手間”そのものなのだと。
食材の選定から下拵え、調味料の配分から料理の温度まで、食べる人間の好みを最大限に反映した食事を作る手間こそを、人は愛情と呼んでいるのだろう。
(今日はカルボナーラと……そういえばサラダは先日のドレッシングをお気に召していたようですし、それを出すとして──)
食材を一口大に切りながら凪砂の好みを思い起こし、以前『美味しい』と言っていた時のレシピを再現していjy。一般人ならばこういう、ドレッシングを手作りしたりだとかチーズ感よりクリーム感の強い方が好みだからとレシピをアレンジするといった手間は惜しむのだろう。むしろ、それが面倒なことだと思われているからこそ、そこに手をかける事を愛情という曖昧なものに変換しているのだろうが。
そういう風に表面上は綺麗な言葉で飾り付けただけのものをいい感じに解釈されるというのだから、こんなにもチョロい戦はない。
茨は細々とした準備を欠かさず、然るべき時にきちんと確実に標的を仕留める手法こそを好む性根である。下手に出て媚び諂いながらじわじわ毒を仕込んで、わずかでも油断を見せた瞬間に一思いに首を落とす快感に勝るものはない。つまりその快感を知っている茨にとっては、凪砂の機嫌を取るために一手間も二手間もかけるのは全くもって苦にならないのだ。先に待つ快感を得るために丁寧に相手へ尽くす行為を、人は打算と呼ぶ。
そういった打算にまみれ、胃袋から掌握して彼をいいように扱ってやろうと目論む人間の料理に、愛情など篭っているわけもない。
(うーん……マンネリ化してきましたかね)
昼のうちに手配しておいた生パスタを茹でながら、生クリームに卵と粉チーズ、そして各種調味料を加えて卵液を準備する。もちろん入れるのは卵黄のみだ。当初は卵白の処理に迷って全卵で作っていたが、レシピのレパートリーが増えた今は残った卵白を翌日の朝食でホワイトオムレツにして提供している。今では『カルボナーラが出た翌朝はホワイトオムレツ』という方程式が凪砂の中で確立しつつあるようなので、近いうちにレパートリーを増やさなければと思ってはいるのだが。
(そういえば、閣下は最近よく食事の感想を伝えてくるようになった)
フライパンでベーコンを炒めながら、ふと凪砂の様子を思い起こす。秀越学園に在籍していた頃は情緒が未発達な部分が多かったためか、出された物を口に運ぶだけといった様相であった。思い返してみれば、茨が調理に手間を惜しまなくなったのも凪砂の表情が豊かになってきた頃だ。
(……まあ、成果が数値に反映されない分野ですし、反応があるに越したことはないんですけど)
万全のコンディションを保つためにも、食事量に直結する満足度には常に気を配らなければならない。そういった点を踏まえると、やはり手間をかけることは茨の目的のためにも大切なのだ。他の人間が惜しむような手間を惜しまない程度で凪砂の満足度が1パーセントでも高くなるのなら、時間が許す限りは手間暇かけてやろうというもの。今は「美味しい」と言って顔を綻ばせるなどの反応も見せるのだから、満足度も把握しやすくなって張り合いがある。
せいぜい他より一歩でも二歩でも抜きん出て最終兵器様のご機嫌をとってやろうではないかとほくそ笑んだ茨は、サラダの上に凪砂が最近ハマっているというクルトンを気持ち多めにばら撒いた。