良薬は口に甘し オロルンが大根を抱えてイファの診療所を訪ねた時、多忙で知られる竜医は、デスクの上に何冊ものカルテを並べて、代わるがわる読み込んでいた。デスクの横の作業台には色々な薬草や薬品、薬剤が置かれ、カクークがちょんちょんと遊び半分につついている。
「こんにちは」
「ああ、きょうだい。ちょうど良かった。ついさっき帰って来たところなんだ」
長い付き合いの気易さから、イファはカルテから目を上げずに、片手を上げて簡単に挨拶を返した。
「今、豊穣の里で治療中の竜がいるんだが、ようやく容態が落ち着いてきてな。似た症例を思い出したから、カルテを調べようと思ったんだ。そんで、幾つか試したい薬もあるし、これから合成台に行こうかと――」
「ずいぶん忙しそうだ」
適当な所に大根を置いて、オロルンはイファに歩み寄った。居ると判っていたから訪ねてきたのだ。このタイミングを逃せば、またしばらく診療所が無人になることも、そして、イファが寝る間を惜しんで治療に専念していることも、ちゃんと判っている。
「峠を越えたところさ。竜の頑張りに、俺も応えてやらないと」
オロルンの声音に非難の色を感じとったイファは、カルテから顔を上げて弁明した。その目元にはくっきりと隈がある。
――ほら、やっぱり。
オロルンは眉をひそめた。
「がんばってるぞ、きょうだい」
カクークがそう言って、作業台にあったマグカップを持ち上げ、パタパタ羽ばたいてイファの元に運んできた。いつも大事に使っている、丸みを帯びたピンク色のマグカップ。
「おう、ありがとうな」
イファは一口飲んで、それをデクスに置く。オロルンは、その中身をじっと凝視した。ショコアトゥル特有の滑らかで濃い茶色。少なくとも牛乳は入ってなさそうだし、恐らくは砂糖も入っていない。
種を砕いてスパイスを混ぜたという、古来の製法に近いものだろう。
オロルンは何の前置きもなく手を伸ばすと、断りもなくマグカップを取って勝手に口をつけた。
「おい!」
「苦い」
「そりゃそうだ」
独特な苦味を持つショコアトゥルには様々な効能があり、昔は主に薬材として使われていた。砂糖で甘さを加えられ、今や菓子の代表格ともなっているが、その健康効果は今でも変わらない。
イファは普段、子供たちにも仔竜にも親しみやすいように甘いショコアトゥル水を作る。クッキーを添えたりして、それがまた美味しいと評判だ。しかし、治療や研究に集中したい時、無理をしていると自覚のある時は、甘さを加えない昔ながらのショコアトゥル水を飲むのだ。
「人のを勝手に飲むな」
当たり前の文句を言うイファに、オロルンは真剣な眼差しを向けた。
「……」
澄んだ青と紫の瞳に見据えられ、イファは言葉を飲む。綺麗な輝きに見惚れているうちに、その瞳が、というか顔が、いやオロルンの身体が、ぐっと近づいて来た。と、思う間もなく、彼の唇が自分の唇に触れた。
片手が髪を撫で、頭を少し上向きにするように支えてくる。イファはつい自然に唇を開き、キスに応じる態勢になってしまった。
このところ、オロルンのリードが妙に上達している気がする。優しげなのに強引なのが何となく悔しい。先に舌を入れて優位を取ってやる、と思った瞬間。
コロン。と、舌ではない、何か小さい固いものが押し込まれた。
――何?
それが何かを確かめる前に、オロルンの舌がするりと滑り込んできた。柔らかく唇を塞がれ、目をしばたいている間に、何かと共に舌がロ内をまさぐる。
――飴?
すっと清涼感のある、慣れ親しんだ甘み。喉を潤す爽やかな風。花翼で人気の飴に違いない。コロコロと飴を追いかけるように舌が動く。イファも応じなければ、飴が溢れ落ちそうになる。互いの舌が飴を奪い合って絡まる。しっとりとした、得も言われぬ感触。甘くて温かい。気持ちが良い。
オロルンは包み込むようにイファを抱きしめ、より深いキスを求めた。呼気まで絡めてしまいたい。蕩かしたいのは飴ではなく、この腕の中にある魂だ。
「ん……」
腰の辺りがぞわっとする感覚が堪らない。イファはうっとりしそうになる自分を何とか律して、無理矢理に手を突っ張って身体を離した。
「……あ、甘い」
ようやく息を継いだイファは、恨めしげにオロルンを見上げる。
「そう。甘い方がいい」
オロルンは口付けの余韻を感じさせるような、優しい声音で囁いた。
「糖分の方が、脳の働きを助ける」
「そりゃ、まあ、そうだが」
オロルンの妙な正論と熱っぽい囁き方に狼狽えて、イファは目を逸らした。
「こんな、その、カクークの前で」
言い訳するように視線をさまよわせても、肝心の小さな助手は何処にもいない。オロルンとのアイコンタクトで、とっくに別の部屋に飛んで行っているのだ。
「今の君は、土の状態を見ずにショコアトゥルの種を撒こうとしてるようなものだ」
自業自得の諺を引き合いに出し、オロルンは熱心に口付けた相手に真顔で説教を始めた。
「せっかく良い種を持っているのに、水はけの悪い、日差しの強い、痩せた土にそれを放り投げて、それで芽が出る訳がない。発酵させて焙煎して砕いた食べちゃった方が、まだマシだ」
「――判った」
降参だ、とイファは両手を上げる。キスの後に叱られるのが、どれだけ恥ずかしいか思い知った。余韻、戻ってきてくれ。
「判ったよ、きょうだい。とりあえず仮眠を取って、合成台に行くのはその後にする」
「うん。それがいい」
真顔から一変、ふわりと嬉しそうに微笑んだオロルンは、今度はイファの額に軽くキスをした。
「……っ」
イファは慌てて、椅子に引っ掛けておいた帽子を被る。あまりに照れくさくて、これ以上目を合わせていられない。
「じゃあ、寝るから」
ヤケクソ気味に宣言して、ぎゅっと目を瞑った。ドキドキしている、その心臓の音も頬の熱さも、不思議なことに眠りの邪魔をしそうにない。
「寝るまで見張る」
了承されずとも、オロルンは椅子に座った。カクークにだけ見守りを任せるのは、やはり面白くない。
「ああもう、勝手にしてくれ」
呆れて応えるが、イファは目深に被った帽子の下で、満更でもない笑みを浮かべていた。
優しくて温かい、穏やかな気持ちが満ちてくる。
――甘いのは飴でも口付けでもなく、この想いなのだろう。
柄にもないなと思いながら、ほどなくイファは心地良い眠りに落ちていった。
END