運命という名の魔法 子供の頃、俺は家族と一緒に、地元・横須賀の海へよく出かけて行った。
ある年の夏に、その海で出会った、黒髪で色白の、憂いを含んだ表情がやけに印象的な男の子のことを、今でもよく覚えている。
横須賀の港は軍港として有名だから、観光客もたくさん来ていた。その中で、その子は周りの様子を気にすることもなく、食い入るように、ただ海の方を見つめていた。
邪魔をしてはいけないと思ったけれど、俺はどうしても、彼と話をしてみたいと思った。それで俺は、意を決して彼に話しかけた。
「軍艦、好きなの?」
「えっ……? あ……うん。好きだよ。カッコいいからな。……お前も好きなの?」
突然話しかけられたことに、戸惑いを隠せないようだったけれど、彼は俺の質問に答えてくれた。おまけに彼は、俺に質問をしてくれた。だから俺は「うん、好きだよ」と返事をした。彼は何処となく照れ臭そうにして「そうなんだ」と返した。
海や軍艦から、俺に興味を向けてくれたことが嬉しくて、俺は更に質問を投げかけた。
「ぼく、黒沢優一って言うんだけど。君、名前なんて言うの? あと、何歳?」
「清だけど。年は8歳」
「えっ、そうなんだ! ぼくも8歳だよ。ねえ、名字はなんて言うの?」
すると、彼はほんの少し表情を曇らせた。
「おれ、もうすぐ名字変わるんだ。新しいの、母さんに聞いても忘れちゃった。だから、教えても意味ないと思う」
「名字が変わるって……」
「親が離婚したんだ。あいつと……母さんが」
あいつ、というのは、父親のことを言っているのかもしれない。突き放すように、ぶっきらぼうに言った彼を見て、俺は猛烈に申し訳ないことをした気持ちになった。
「ごめん。ぼく、聞いちゃいけないこと聞いて」
俺が頭を下げて謝ると、彼は途端に慌てだした。
「えっ、いや、別に。お前は、おれのこと、何も知らないんだし。そんな謝ることないだろ」
「でも……」
俺が俯きながら口籠ると、彼は幾分大人びた声で「おれは気にしてないから、気にすんなって」と言った。
「っつうか、お前ってさ。横須賀に住んでるの」
落ち込みを引きずりそうになったところに、彼は俺に質問をしてきた。だから、俺もなんとか気持ちを切り替えて、すぐに答えた。
「あ、うん。そうだよ。家はここから、割とすぐ近く」
「いいな。いつでも軍艦見れてさ。うらやましい」
「えっと、清くんはどこに……あっ、ごめん。名前を呼んじゃって」
「だから謝るなって。おれのこと、好きに呼んでいいし」
「……うん、ありがとう」
「おれはさ、この海の向こう側の千葉に住んでるんだ。今日も、あそこからフェリーに乗ってきてさ。だからお前みたいに、すぐには見に来れない」
「そうなんだ……」
俺は彼が指さした方向を見た。
今なら彼の言っていたフェリーは、東京湾フェリーのことだと分かる。神奈川県横須賀市と千葉県富津市の道のりを、約40分で結ぶ連絡船。
でも、あの頃の俺にとっては、海の向こう側の県が、遥か遠い外国のような気がして、隣にいる彼が急に遠い存在に見えて、悲しくなった。
すると、彼が「なんでお前が、泣きそうな顔するんだよ」と言った。
俺は自分が、そんなひどい顔をしていることに、彼に言われるまで全く気が付かなかった。
「しょうがないじゃん。おれは千葉に住んでて、お前は横須賀に住んでる。ただ、それだけの話だって」
諦めたように、どこか達観している彼の横顔を見ているうち、俺はどうにか、彼に笑ってほしいと思った。
「ねえ。清くんがこっちにいられれば、いつでも軍艦を見られるでしょ? ぼく、お母さんにお願いしてみようか?」
あの時は、彼の事情も深く考えずに言ってしまったけれど、それは俺の素直な、精一杯の気持ちだった。
すると彼は、俺の顔をまじまじと見つめ、「お前、優しいんだな」と言った。
「普通、出会ったばかりのやつに、そんな親切出来ないって」
「えっ……と」
何と返せばいいか、俺が口籠もっていると、彼は苦笑いをこぼした。
「それにおれ、軍艦は好きだけどさ。たまに見に来たほうがいいことも、きっとあるよ」
「そうなのかな」
「ああ。だって、お前みたいな変わったやつに、突然出会えたりしてな」
その後も、彼との会話のラリーが続くのが嬉しくて、つい話し込んでしまった。けれど、彼はこの港に軍艦を見に来たはずだ。邪魔をしては悪いと思い直し、途中から俺は、彼の隣で黙って海を眺め始めた。
すると突然、彼が「海ってさ、いいよな」と言い出した。
「え?」
俺は思わず、驚いた声を出してしまった。だけど構わず、彼は言葉を続けた。
「見つめてると、なんか落ち着くっていうか、沈みそうになった気持ちも、平らになる気がするから」
俺は訥々と話す、彼の横顔を、ただただ見つめていた。
「あと、キラキラ光った水面がすごく綺麗だと思う。大人ってさ、いや、子供も……綺麗なフリして汚かったりするから、あんな風にもっと綺麗だったらいいのに、って、おれ思うんだ」
彼は海を見つめたまま、言葉では上手く言い表せないような、おおよそ子供らしくない表情をしていた。だけど、何故か俺は、その横顔がとても美しいと思ってしまった。
場違いだとは思ったけれど、俺はありのままに思ったことを彼に伝えた。
「ぼく、海を見つめる清くんの横顔、すごくきれいだと思う!」
すると、彼は俺に顔を向けながら、呆けた顔をした。
「そんなこと、生まれて初めて言われた」
そして彼はくすくすと笑い出した。
「えっ、なんで笑うの」
「いや、だって。お前って……、やっぱり変わったやつだよな」
この後は、特に何を話す訳でもなく、二人でただ、海の水面を見つめていた。
黙ったままでも、不思議と気まずくなくて。むしろ、この時間がずっと続けばいいなと、その時の俺は思っていた。
だけど、そんな時間は、突如終わりを告げる。
「あ、清! まだここにいたのね」
「……母さん。どうしたの」
どうやら、彼の母親が探しに来たらしい。彼は母親の元に駆け寄って行った。
俺はやや遠巻きにその様子を伺っていた。
「ごめんね。もう少し付き合ってあげたいけど、和也がこれ以上は……」
彼が母親の言葉を聞いて、側にいる小さな男の子に顔を向けた。あれはきっと、彼の弟だろうか。
「いいよ。おれ、もう十分見たから。……ごめんな、和也。兄ちゃんに付き合わせて。フェリーに乗って、みんなで一緒に、うちに帰ろう。な?」
「にいちゃん……」
母親に向かって屈託のない笑顔を見せ、くずっていた弟の頭を撫でながら、優しく語りかけていた彼の姿に、俺と同じ年のはずなのに、ずっとずっと大人びて見えて、何故だか俺は、とても切ない気持ちになった。
「ねえ、母さん。おれ、今度名字、何になるんだっけ」
「……だけど。母さんと同じ名字よ」
「そっか。……あのさ、ほんの少しだけ、待っててくれる? 和也もすぐ戻るから、待ってろよ」
彼は俺に向かって走ってきた。こちらに振り向いた瞬間の、ほんの僅かに見せた切なげな顔が、俺と同じ男のはずなのに、やっぱり綺麗だと思ってしまった。
「ごめん。おれさ、もう行かなきゃいけないんだ」
「うん……」
「えっと……少しだけだけど、お前と話せて、楽しかったよ。あとさ、いま母さんに聞いたけど、今度、おれの名字、安達になるんだって。だから、おれの名前は、安達清だ。……まあ、もう会うことはないだろうから、忘れてくれて、いいんだけどな」
ほんの少し、苦笑いを見せた後、彼はふわっとした笑顔になり「優一くん、ありがとう。じゃあな!」と言った。
不意に彼に名前を呼ばれ、おまけに、これまでに見たことのない笑顔を見て、俺は思わず固まり、呆けてしまった。そのうちに彼は、母親や弟と一緒に、あっという間にこの場を去ってしまった。
「あっ……、まって……!」
俺は彼に、話をしてくれたお礼が言いたかった。千葉県の何処に住んでいるのかも、ちゃんと聞きたかった。そして、彼と友達になりたいと思ったことも。だけど、その場に立ち尽くすことしか、その時の俺には出来なかった。
「優一!」
ふと後ろから、聞き慣れた女の子の声がした。振り向くと、そこには俺の姉が立っていた。
「アンタ、こんなところにいたの」
「お姉ちゃん」
「ほら、そろそろ帰るって、お父さんとお母さん言ってたわよ」
「……」
「どうしたのよ? まさか優一、帰りたくない訳じゃないわよね」
姉に向かって俺はううん、と首を振った。
「友達にね……なれそうな子がいたんだけど、あの海の向こうに行っちゃったんだ」
俺は、彼が向かった方向を見つめたまま、しばらくその場から動くことが出来なかった。
その後俺は、彼にまた会うことが出来ないかと思い、親や姉にせがんで、何度かこの港に足を運び続けた。けれど、俺が彼と再び出会うことはなかった。
小学校を卒業し、中学生、高校生、大学生と進級し年齢を重ね、たくさんの人々と出会ううち、いつしか俺は、彼の名前を忘れてしまっていた。
けれど、あの日に見た彼の、黒髪で白い肌、綺麗な横顔、年の割に、やけに大人びた印象、そして名前以外の交わした言葉が、俺の中に深く残り続けた。
それから更に時が流れて、大学を卒業した俺は、株式会社豊川に営業職員として就職した。
入社して間もなく、俺は地味で要領が悪い同期、営業事務の安達と出会った。外見の印象は特に残らず、強いて言うなら、やけに肌が白い奴だなとは思った。けれど、新入社員の名簿を見た時、何処かで聞き覚えのある名前だなと俺は思った。
数年後。俺が接待の席で失態を犯し、悪酔いをした日。その帰り道、安達に介抱されて、俺は生まれて初めて、自分から人を、安達のことを好きになった。
あの夜に見せた、安達のふわっと笑った顔、それが何処かで見覚えのある表情だと思ったんだ。
安達のことを、俺はもっと知りたくなって、色々とリサーチを始めた。その際、どうしても安達の名前が、俺の中で引っかかっていた。
豊川に入社した当時から感じていた、安達の名前に対する既視感。遠い昔に聞いたような名前。そう、俺があの軍港で出会った、黒髪色白の男の子の名は――
その時、俺の中に突然、ずっと忘れていた、あの日彼の言った言葉が、鮮明に蘇ってきた。
『おれの名字、安達になるんだって。だから、おれの名前は、安達清だ』
まさか。……いいや。
そこまで考えて、俺はそんな都合のいい話はあるはずがないと思った。同姓同名、それは十二分にありうる。
「安達」って名字の人には、これまでに何人も出会ったことがあるし、「清」って名前も、俺より年代が上の人に多いけれど、それでも割と聞く名だとは思う。
でも確か、安達は軍艦が好きだと言っていた。
そして、あの夏に出会った彼も……。
その年の社員旅行。メインは鎌倉だったけど、自由行動の時間に、俺は安達と、横須賀へ軍艦を見に行くことになった。そこで安達の言ったこと、見せた仕草に、俺は思わず息を呑んだ。
「俺さ、子供の頃から、海を見つめるのが好きなんだ。水面を見ているとさ。どんなに心がざわざわしていても、気持ちが沈まないで平らになりそうだから」
海を見つめる安達の、憂いを含んだその横顔が、あの幼き日に見た、彼の横顔と重なった。そして、その言葉を耳にした瞬間、俺の中に残っていた昔の記憶とがっちり紐づいた。そう、あの彼も同じようなことを言っていたのだ――
『海を見つめてると、なんか落ち着くっていうか、沈みそうになった気持ちも、平らになる気がするから』
この時、俺は確信した。ああ、そうか。やっぱりあの時、この港で俺が出会ったのは、今、目の前にいる安達だったんだって。
俺はこの奇跡的な巡り逢わせを、運命だと思った。
それからまた時が流れ、紆余曲折の末、俺と安達は恋人同士になり、将来を誓い合う仲になった。
お互いの家へ挨拶に行くことになり、事前にカップル履歴書という形で、それぞれの家族の情報を交換し合った。
その際、安達が千葉県富津市の出身だということ、8歳の時にご両親が離婚し、安達が社会人になるまでの間、母親と弟さん、安達の3人で暮らしていたことを知って、俺はいてもたってもいられなくなった。
安達は完全に忘れている様子だったけど、俺が8歳の時に、あの港で俺は、安達と出会っていて、千葉に住んでいること、両親が離婚したばかりで、弟がいることも、はっきりと聞いて、見ていたから。この事実を何としても伝えなきゃと思ったんだ。
「ねえ、安達。ずっと昔にさ、横須賀へ来たことはなかった?」
俺の質問に、安達は怪訝な表情を見せた。
「ずっと昔って、いつ頃だよ?」
「小学生の頃。例えば、8歳の時とか」
少し思案した後、安達は「ああ」と口を開いた。
「母さんが離婚した年の夏に、……確かに行ったな」
「ほんと?」
俺の問いかけに、安達は「うん」と頷いた。
「あの頃のこと、俺、ほとんど記憶に残ってないんだけどさ。母さんと和也と俺の3人で、横須賀まで軍艦を見に行ったことと、その日見た海が綺麗だったこと、それだけはよく覚えてるよ」
安達の言葉を聞いて、俺は胸が熱くなった。けれどやはり、俺と出会ったことを覚えてはいなかったようだ。……当たり前か。なにせ20年以上も前のことだ。事細かに覚えている人のほうが少ないと俺自身も思う。だけど――
あの年の夏の何処かで、俺と安達は、確かに同じ場所にいた――その事実を安達から聞けただけで十分だった。俺は安達に伝えようとしたことを、静かに自分の中へ仕舞い込もうとした。
ところが。安達は俺に、思いがけないことを言った。
「あのさ。ひとつ今、思い出したことがあるんだけど。言ってもいいか?」
「うん」
俺は頷き、黙って安達の次の言葉を待った。
「俺が横須賀へ行った日に、港で軍艦を一緒に見た、やけに顔が綺麗で、変わったことを言う……まるで黒沢みたいな奴がいたんだ。でも、話した内容やそいつの名前は覚えてない。だけど……家に帰ってから、そいつと友達になれば良かったかな、って思ったのは確かだよ。俺、昔も今も、友達少ないからな」
そう言って安達は、俺に向かって苦笑いした。
そんな安達とは対照的に、俺は湧き上がってくる嬉しさを抑えきれず、思わず笑みをこぼすと「やっぱり」と口に出した。
「ん? なんだよ黒沢。突然笑ったりして」
彼に伝えてもいいだろうか。まるで物語みたいな、真実の話を――
「ごめん、笑って。安達の言う、その変わった奴のことなんだけどさ。実は――」
「えっ……?」
例え夢見がちと言われようが、魔法のような運命の出会いは本当にあると、俺は信じている。