ビー玉と真葛3「祭りってさ、誰かと行くからいいんだよね。1人で行ったら『今ってひとりぼっちなんだ』って寂しくなるだけだもん」
曰く、凛月。それはそれでとても意味のある言葉だと思う。俺も思い返せば、祭りは誰かといった思い出しかない。家族や友人、恋人になり損ねた女の子。羽風薫。
大人になってからだと少し考えが変わっていく。誰と行ってもいいし、誰とも行かなくてもいい。窓から小さく聞こえる音を見つけて、その遠くで光る瞬きを携帯に収めるだけで、そう言うお祭りに行った気分になれる。
後から気づく。きっと寂しいと言う気持ちは、誰かと居たことがあるからわかる痛みなんだ。初めから1人なら、その痛みを知ることはない。勝手に隣にいたはずの誰かを想像して、勝手に痛むもの。
痛くなって初めて、その人が自分にとってのどんな存在だったのか知る。これからもそうやって、後から誰かの形を知ることになるんだろう。
「ここにいてよ」
羽風薫に突然呼び止められたのはちょうど夏の始まり。やっと大学初めての試験が終わり、夏休みが始まろうとしていた頃。大学中で話題になる程、羽風薫が全試験満点を取ったことは有名となり、彼には連日たくさんの人が話しかけていた。
「ここ、座って」
入ったことのない彫刻科の教室にある、その椅子を指さすと俺のことを強引に座らせた。彼以外には誰もいない。しんと静まり返ったところへ連れて行かれる。今日の授業も終わり、試験の開放感から何もする気が起きないので帰って寝てしまおうと思っていたのに。強くない口調でも、人のことを離さない言い方で、羽風薫の言葉にすっかり乗せられてしまった。
「これ終わらせたいの」
彼の前には大きな木の幹が立ちはだかっていた。何とも形容し難い形をしている。周りに木屑が落ちていたから、それが制作途中の作品だということがわかった。
「卒業課題なの、俺もう単位足りているからこれ終わったら確定なんだけど」
もうこちらには目もくれない。背中を向けながら俺に話しかける。「晃牙くんは大きな作品作ったことある?」
「まだない」
「楽しいよ、大変だけど」
「そうか」
「俺、こういうのが作りたくてこの学校入ったんだ」
誰にも言ってないんだけど、と付け加えた。
それから、羽風薫は何も言わずに黙々と木を削り始めた。
なぜあそこで俺のことを呼び止めたのか分からなかった。彼のことはまだ何一つわからない。
夕日が射す小さな教室で、俺はずっとその得体の知れない彼のことを考えていた。
目が覚めた時、最初に感じたのは腕の痛み。受験勉強の時に何度も机に突っ伏して寝てしまった時と同じ痛みで、またやってしまったのか、少し後悔した。このあと腕が痺れてしまってペンが握れなくなる。その小さな時間経過が、なんだか自分の首を絞めるようで嫌いだったのだ。
「あっ、起きた」
蛍光灯の明かりと、覗き込んでいる顔をみて、どんどん意識が覚醒していく。
「おれ…」
「あ〜付き合わせちゃってごめんね、気づいたら夜で」
指をさした先の窓は真っ暗で、夏の始まりでこの暗さということがどれだけ俺が寝てしまっていたかを示していた。
「起こそうと思ったんだけど、いや、思っていないか。夢中で作業してたら気づいたらこの時間だったって感じ」
そう言って羽風薫は、申し訳なさそうに頭を掻いた。そう言っても寝てしまったのは俺で、途中で帰ろうと思って仕舞えば帰ることもできたのに、ここにいたのも俺だった。
「とりあえず帰ろっか」
暗い、と言っても学校はまだ閉まっている時間ではない。もうすでに帰るための準備をしている羽風薫は、俺の腕を引っ張られる。この人にかき回されるのも、少し慣れてきたな。コロコロと変わる表情を見ながら少しずつ覚めてきた頭をフル回転させ、家路を必死に思い出していた。
羽風薫は、校門前にタクシーを呼んでいた。御用達のようで行き先も告げずに走り出そうとしたが、すぐに俺の家がわからず住所を聞いてきた。
話すこともなく、ただエンジン音だけが響く。クーラーの効く車内が息苦しくなって少しだけ窓を開けると外の熱気が流れ込んできた。もう夜で外は真っ暗なはずなのに、街中の明かりで月も見えないほどだった。
小さくぴかり、と光が瞳の奥に届いた。しばらくして、ドン、という音も。
「花火だね」
羽風薫が呟いた。
「晃牙くんは、お祭り行ったことある?」
「…おまえは」
窓の外から目を離すことはない。その姿を見られていると思った。
「ないよ」
そっけないその答えを言ったあと、少し考えた風にして、羽風薫は話す。
「ないっていうか、仕事では行ったけど。誰かと一緒にまわって焼きそばを食べたり、花火を眺めたり手を繋いだりしたことはないかなぁ」
子供の頃に行った祭りを思い出していた。家族で行った祭りにはしゃいでたくさんの食べ物を買ってもらったこと、射的で欲しい景品に弾が当たらず泣いたこと、河原で見た花火が一等綺麗だったこと。
「ね、晃牙くんは?」
「…もう着くぞ」
言いたくなかった。
「そうだね」
羽風薫がゆっくりと俺の方に体を預ける。肩へ頭を乗せると、そのまま目を閉じる。驚いて彼の方に視線をやる。
「おい」
「人混みでね」
その唇が動き出したのをみて、言うのをやめた。すぐに窓の外にある花火を見ているふりをした。
「人混みに紛れてたら、きっとどこかで手を離す気がするんだ。そうやって本当に俺が必要なものなのかどうか試してしまう」
小さい、小さい声でそう言う。「それで見つけてくれない人を勝手に見限って、その人のせいにして。傷つけるだけ傷つけて、おわり」
小さな子どもに見える。今にも泣いてしまいそうだと思った。抱きしめて、頭を撫でてしまいたいと思うけど、それは俺の役割ではないとも思う。代わりに膝に置いてある手に自分の手を重ねる。
「誰のことも拒んでいるみたいで、誰かが見つけてくれることを待ってる」
「うん」
「そんなことしなくても、きっとどこかに俺の手を繋いでくれる人はいるはずなのにね」
アパートにはすぐに着いた。花火も終わってしまって、夜が少しだけ近づいていた。
「ありがとう、また学校でね」
扉を開けている運転手がこちらを見ている。お金はいらないと言われたので、出ようとしたけど、考えて、やめた。座り直した俺を不思議そうに見る。外から風が車内に入ってくる気配がする。
「羽風…先輩」
羽風薫が驚いていた。実際、俺は外を見ていたし、彼の表情をまじまじと見たわけではない。だけど、そうだと思った。
何も不思議なことではない、彼は先輩で俺は後輩なのだから。そう呼ぶのが少し遅かっただけで、何かが変わるわけでもないし。
「うん」
「どっかにいるよ、きっと」
さっきの会話の続きだった。うまく伝わっただろうか。相変わらず視線は合わない。
羽風先輩が、ふ、と小さな声で笑う。
「そんなこと言ってくれるなんて、いつか雪でも振りそう」
降るかよ、俺がそう言った。
「いつかってなんだよ」
「じゃあいつか雪が降ったら、そしたら」
言葉に詰まる。聞いてしまうのが怖い、怖くてゆっくりと立ち上がる。やっぱり羽風先輩の方は見ない。
「会えるかな…」
扉の閉まる瞬間に、彼が少し泣いているのが見えた。