歯ブラシ 皿洗いの水を止めた途端、うたひめー、と間延びした声で呼ばれた。いつのまにかダイニングからいなくなっていた五条の声だ。何の用かは知らないが、洗面所にでもいるのだろう。手に持った小皿の水を切りながら、何よ、と庵も大きめの声をあげた。
「歯ブラシ、どこ置いたらいい?」
「は?」
「歯ブラシ」
歯じゃねえのよ。
庵が思わず振り返ったのと、五条が廊下からひょいと顔を出したのは同時だった。五条はその片手に歯ブラシのパッケージを握っている。どこから出てきたんだ、その歯ブラシは。
「ちょっと何、話が見えない」
「歯ブラシどこ置けばいいか聞いてるんじゃん」五条は手にしたパッケージを庵の目の前で振る。
「なんで歯ブラシの置き場を聞かれてるのかって聞いてるのよ」目の前でブンブン揺れる歯ブラシを払い除けて、睨み上げた。
「やっぱり食べた後は、歯、磨きたいじゃん?」
「そうね」
「磨くじゃん?」
「そうね」
「しまうじゃん」
「そうだけど」
淡々とした問答のあと、しばらく沈黙が流れた。沈黙の中で庵は、五条がこの部屋の洗面所で歯を磨くさまを想像した。歯を磨いて口をゆすぐ。使った歯ブラシを片付ける。
「……アンタまさか、それ、うちに置いていく気?」
「まさかも何も、そのつもりだよ」
答えながら、べり、と五条がパッケージの裏紙を剝がしだした。おい逸るな。
「歯を磨きたいだけなら、別にうちに置いていく必要ないでしょう」
五条が中身を取り出そうとするのを、パッケージごと握り込んで阻止する。今気づいたが、庵の歯ブラシと色違いのものだった。偶然か狙ったのか、どっちなんだこの男。
「携帯用の歯ブラシセットとか、そういうの持ち歩けばいいじゃない。それともアンタって、行く先行く先に歯ブラシ置いて回ってるわけ?」
「ここだけだよ」五条は握る庵の手を剝がし、パッケージを剝がし、ついに取り出した歯ブラシを再び振る。「ここでおやつ食べたあとに歯を磨ける、この部屋には男が出入りしてるって匂わせもできる。一石二鳥」
「デマ匂わされるとか、私はたまったもんじゃないんだけど」
男が出入りしているというのは事実であるが、誤解を生む表現だ。歯ブラシを置いていくと言い張る庵の目の前の男が、おやつどきをなぜかここで過ごすことはある。しかし二本の歯ブラシが並ぶ光景から連想するような、夜を明かして朝の身支度をしていくなんてことはない。そんな仲ではないのだから。
「僕がここに出入りしてるのは事実だろ?」
「誤解を与えようって魂胆が気に入らないんだよ!」
呆れたように肩をすくめた五条に、呆れるのはこっちだと庵の腹の底で火柱が立った。
(2111222018)