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    raindrops_scent

    @raindrops_scent

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    raindrops_scent

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    死ネタです!!!
    1の!!!死ネタ!!!!です!!!!
    べったーと一緒なんですが、スマホとpcの互換性??か何かのせいで10,000字消えるというホラーを体験しました。もう二度としたくないのでこっちに保険として一度出来上がったものを上げさせてください。

    痛みには気づかないで「余命半年です」
     重苦しい空気の中、言いにくそうにそう話す医師は一織の職業を知っている。初めて会った時にファンだ、と言われて思わず仕事中では? なんて思ってしまったのはいい思い出だ。
     そんなことを不意に考えてしまうほど、言われたことが理解できなかった。
     言葉を咀嚼できなくて、医師の口元ばかりを目で追ってしまう。けれど、冷静な自分は年を経て少し冷めてしまったらしい。命の宣告をされているというのに、心のどこかで納得していた。
    『あぁ、やっぱり』
     そう思ってしまうほど、最近の自身の体調はおかしいものだった。
    「緩和ケアを、お勧めします」
     目の前に晒された自身の脳画像は、医療ドラマにかかわることが増えたために、少しだけとはいえ理解ができて、一織は薄く笑ってしまった。
     もう、本当に永くないらしい。
    「治療は」
    「出来ないこともありません。ですが、今の和泉さんの状態ですと、初めから強い薬を使用することになります。体も弱らせてしまうので、お勧めはできかねます」
     なんとなく予感できた治療は終末期のケアで、これ以上自分の状態が悪くなる前に少しずつ感覚を鈍くして、最期の瞬間に備えることだった。
    「それは、拒絶することもできますよね」
    「!? 和泉さん?」
    「緩和ケアも、治療も。しない、という手段も、もちろん取れますよね」
    「…………死に急ぐ気ですか」
     顔色を失った医師は、初めに一織がすべて真実を、と口にしたために歯に衣着せぬ物言いをする。他の医師に比べると些か年若いものの、優秀であることは知っていた。その彼がこういうということは、本当に一織に残された道が少ないのだろうことも。
    「いえ。ただ、私は私のままに、と」
     心臓が痛いほどに脈打つ。こんな風に言葉を交わしている今もなお、頭の痛みは消えず思考を覆う靄は一織の言葉を邪魔する。
    「ッ」
     引いているのかもしれない。目を見開いて瞳孔まで開いたその医師の顔は、今までどんな無茶をお願いした時よりも呆気に取られていた。
     一織は、真剣だった。自分を一つも損なわないまま、死にたかった。
    「正気ですか。今はまだ我慢できるかもしれません。ですが、近いうちに我慢できなくなるますよ」
     当然と言えば当然すぎるその言葉に、一織はなおも微笑みながら続ける。
    「でしたら、痛み止めだけ処方してください」
     とうとう医師は、絶句してしまった。信じられないものを見たと言いたげな視線を向ける医師は、声を震わせながら一織に問いかける。
    「生きることを、放棄されるおつもりですか」
    「いいえ。ただ、私は、私を一つも失うことなく死にたい。ただ、それだけです」
     そう話したのに、医師はまた後日きちんと話しましょう、今度は、誰かを連れてきてください、と一織の決断をまるで余命宣告の動揺でおかしなことを口走っているように扱う。どれもこれも、一織の本心だというのに。
    「マネージャー、お話があります。近日中……できれば、今日のうちに予定を空けることはできますか?」


     そう言ってマネージャーである紡を連れて再度病院を訪れた時も、一織の決心は変わらなかった。紡には泣かれ、医師には何度も否定されたそれも、一織の意志が揺るがないことを明確に示すと、二人は渋々ながら一織の決断を応援してくれることになった。けれど、何度も気持ちが変わったらいうように、と言いつけられてしまった。
     一つ言うのならば、その決心が鈍ることはこの先一度だってなかった。

     少しずつ体の感覚が鈍くなって、麻痺や痙攣が出てきた。怪しまれないようにマネジメントで自分の仕事を減らして、その分大学に通っている風を装いながら通院する日々が始まった。誰にも怪しまれないように、と細心の注意を払うつもりが、ちょうど忙しくなり始めたIDOLiSH7の活動のおかげか、今のところ誰かに怪しまれるといった事態には陥っていなかった。
     だから、なんて言い訳がましく言ってしまうのを、どうか許してほしい。もともと、もう一人くらい共犯が欲しいと思っていたところなのだ。
     歌番組の収録のあとは特によく腕や足が麻痺して、うまく動かないことが多かった。痛み止めは今のところ効いているのか、日中に痛みで動けない、なんてことはなかった。けれど、体そのものの不調は一織本人にはどうすることもできない。
    「、すみません、大学からの連絡のようです」
     マネージャーに持ってきてもらったスマートフォンを見せて、そう返事をするとメンバーたちは先に楽屋へと向かってくれる。ゼミの仲間や、教授、そのほかにも大学だ、と言えば少し寂しそうな顔をしながらメンバーが黙って見逃してくれることを一織は知っていた。
    「っく」
     がたがたとみっともなく痙攣する腕がうっとおしくて仕方ない。今はまだこうして動いたときだけに現れる症状だが、これ以上酷くなったらどうやって隠せばいいのだろう。いつ、自分は踊れなくなるのだろう。もしも、もしも運動神経が侵されてしまったら? うまく動かない手を無理やり動かして、最近は持ち歩いている錠剤を手のひらの上に出す。この薬が、効かなくなったら。自分は一体、どうなってしまうのだろう。
    「? 和泉一織? こんなところで何してるの」
     かつん、とヒールが床を蹴る音がする。
     眉を寄せた天は、一織が錠剤をのみ込むのを見ていたらしい。
    「……何を、飲んだの」
     それは確認のような形をとっているものの、ただの詰問だった。
    「九条さん。………………あなたは、私の共犯になってくださいますか————?」

     連れていかれたのは、天の家だった。薬のおかげか、右腕の麻痺はだいぶ楽になっていた。とはいえ、初めて症状が出たあの日よりもずっとずっと症状は頻繁に出るようになっていた。
     …………あと、どれくらい自分は自分を保っていられるのだろう。
    「それで? 全部洗いざらい吐いて」
     鋭い視線を投げかける天は、昔から何一つ変わらない。年を重ねたのに変わらないその姿勢は、純粋に尊敬できた。
    「、絶対に、誰にも話さないと約束してくださいますか」
    「何? 犯罪を犯してるならボクは、」
     薬を飲んでいる姿を見て心配してくれたのかもしれない。厳しい人ではあるけれど、同じくらい、いや。それ以上に優しい人だ。
    「あと、半年です。あぁ、もう少し少ないですかね。4か月、くらいですかね?」
     時間だけを告げると、天は不機嫌そうに顔を顰めた。何を言っているの、と言われるより先に一織は決定的なその言葉を吐く。
    「九条さんの口の堅さを信用します。……もって、4か月の命です。私は、脳腫瘍に侵されている」
     一織がそう口にすると、天はマグカップを中途半端に持ち上げたまま固まってしまう。開かれたローズクォーツは、恐怖に顔をこわばらせていた。
    「手術はできないそうです。神経を複雑に絡ませあって形成しているそうで、手術の成功率は驚くほど低い」
    「、って」
    「先ほど飲んでいたのは、腫瘍に圧迫されてしまった神経がその信号を受け取れなくなって、痙攣したり麻痺したりするのを改善するためのものです。5分から10分程度で効き始めるんですが、それもいつまで使えるかわかりません」
    「まって、」
    「痛み止めも処方されていますが、これもいつまで有効か、先生にもわからない、と」
     捲し立てるように言葉を並べ立てると、懇願するようだった静止の言葉が強い意志を伴って一織にぶつけられる。
    「待って!」
    「はい」
     天の言葉に口を弾き結ぶと、まだ混乱の最中にいるらしい天は片手で頭を押さえながら思考を整理するように口を開く。
     それは、天自身の動揺を何より表していた。
    「いつわかったの」
    「数ヶ月前です。頭が痛くて、脳神経外科を受診して。偏頭痛だと思っていたんですが、思っていたよりも重症でしたね」
    「誰が知ってるの」
    「マネージャー、それから両親には伝えてあります。あ、社長や他にマネジメントを担っている方には伝えてあります」
    「……メンバーは?」
    「わかっていて聞いているでしょう?」
     穏やかに、静かに。淡々と事実だけを伝える。そこに、自分の意志はいらない。
     けれど、天は何が気に入らないのか鋭い視線を向けて、聞こえるようにかわざとらしく大きな舌打ちをする。
    「治療は?」
    「私の衰弱の方が早いでしょうね。先生には、今立って動いているのが奇跡に近いことなのだ、と昨日の診察の際に言われました」
    「そんな状態で仕事をして、ファンに悪いと思わないの」
    「ちっとも」
     その言葉に、天はとうとう音を立てて椅子から立ち上がる。
    「キミがしてることはファンに対する裏切りだよ」
    「どうして? 九条さんだって十さんだって、キャラづくりをしているでしょう。それと同じです」
    「同じじゃない! 第一、そんな体調で保つわけないでしょう」
     その言葉を、待っていたのだ。
    「ええ。ですから、九条さん」

     協力、してくださいませんか

     見開かれた瞳から目は逸らさない。一織は、真剣なのだ。
    「今はまだ幸いなことに病気の進行具合のおかげでそこまで不調を感じません。ですが、これから先寮で暮らしていくのは、リスクが高すぎる」
    「嫌」
    「お願いします。九条さんしか頼めないんです」
    「あのねぇ、ボクはキミが仕事をしていることにも怒ってるんだけど?」
     わかりやすいほどに激怒している天だが、まだ理性はあるらしい。淡々とした言葉の裏には、一織に対する心配が多分に含まれていた。
    「治療法はありません。臓器提供をすることも叶わないんです。このまま無期限活動停止を発表して、数か月後に治療の甲斐なく、と報道されろ、と?」
    「そこまで言ってないでしょう。手段だって、」
    「もうないんです。尽くせる手も、治療する方法も薬も。私に残された道は、穏やかな死かアイドルとしての死しか残されてはいません。そんなの、選ぶまでもないでしょう」
     診断を受けた日、涙がこぼれるかと思った。けれど、どうやらそれくらいのことで泣けるほど自分は純情ではなかったらしい。一番に出てきたのはため息で、そのすぐ次には自分が居なくなった後のIDOLiSH7のプロデュースのことが頭には浮かんだ。そんな薄情な自分に自嘲的な笑みを浮かべつつ、一織は今フリーな時間を全て今後のIDOLiSH7の方針のために使い込んでいた。
    「……本当にできることはないの。緩和ケアだって、やりたいことだってあるでしょう」
     その言葉を聞いて、不思議なほど心は凪いだ。それまでずっと居座り続けていた頭の痛みも、束の間忘れてしまうほど清涼感に包まれた。
     天が純粋にただただ一織の体調のことを気遣ってくれたからかもしれない。
    「いつだって、私が一番にやりたいことは一つだけです」
     本心から口にしているのに、天の顔はアイドルとは思えないほどに歪んでいる。きっと、一織のこれから吐く言葉を予期しているからだろう。
    「私の夢は、IDOLiSH7をトップアイドルにすることです」
    「命が惜しくないの」
     まるで九条天らしくない言葉に、それほど自身を惜しんでくれているのだな、とどこか他人事じみた感情が浮かぶ。最近は自分自身のことが一番他人事で、診察のたびに増やされる薬も痛み止めも、どうしても自分のことに思えなかったから不思議だ。
    「どうして? 私は今、この上ないほど幸せです」
     自分でも思っていた以上に穏やかな笑みを浮かべられた。だって、これが一織のどうしようもない本音なのだ。天が息を吞んだのがわかって、少し目を伏せる。
     どうしても、天には味方になってほしかった。
    「……九条さんに、七瀬さんのことをお願いしたいんです」
    「…………キミ、それがどういう意味か解ってる?」
     視線が一段と鋭くなって、一織に槍のように突き刺さる。けれど、これだけはどうしても天にしか頼めなかった。
    「私と七瀬さんは、どちらもおいていかない、おいていかせない、と約束しています」
     一織の言葉に、天の眉間に刻まれた渓谷が深くなる。続く言葉を予測したからだろう。
    「もし、本当にもしも。あの人が私の後を追うことがないように、見ていていただきたくて」
    「キミが言い聞かせるべきでしょう。メンバーに話して、」
    「できません」
    「どうして」
     きつい口調は、それだけ天の優しさを感じられた。天は、優しい。そんな天を利用しようとする自分はどれだけ残酷な人間だろうか。
    「彼らは、優しい。優しくて、甘い。きっと私が病気だと知ったら、最期の時間を過ごそうとアイドル活動を停止することだって厭わないでしょう」
    「だろうね。ボクだってそう提案するよ」
    「えぇ。だから、言わないんです。波に乗っている今、活動を停止するなんてありえません。そんなこと、他の誰が許しても私が許しません」
     せっかくトップを目指せる位置にいるのに、そんな無駄なことがどうしてできようか。
    「私は、誰にも悟られないまま、IDOLiSH7の一員の和泉一織として最期を迎えることが一番の望みです。そのためなら、何だってします」
    「ッ」
     天の息を呑む音がやけに大きく聞こえる。同情を乞うた方が有効だっただろうか。いや、きっと演技のうまい天にはそんなつけ焼き刃の演技など秒殺だろう。自分たちの関係を考えると、これが一番だった。
    「お願いします」
     深く頭を下げて、天へ許しを乞う。
     どれだけそのままでいたのか、一織にもわからない。永遠にも似たその沈黙は、天の大きなため息によって破られる。
    「キミ、ボクがうん、って言うまで、諦めるつもりないでしょう」
    「はい」
    「これだから本当に弟って厄介」
    「おほめに預かり光栄です」
     にこりと笑みを返すと、忌々しいとばかりに舌打ちを返される。どこか懐かしささえ感じる天の態度に、どうにもならない感情が一織の胸を燃やす。
    「……はぁ…………。仕方ないから、キミの逃げ場所になってあげる」
    「! ありがとうございます!」
    「その代わり」
    「? なんですか」
     声のトーンを落とした天は、今日一番の強い目で一織を射すくめる。そんな目で見られたら、何を言われてもはいと言ってしまいそうだった。
    「この家に来た時は何も隠さないこと」
    「、え?」
     思いもよらない言葉に、本当に目の前の人から放たれた言葉なのか瞬間的に疑ってしまう。
    「ずっと隠し続けるのは辛いでしょう。ボクがそばにいないほうがいいなら、キミがうちに来た時はキミのことを放っておいてあげる。でも、ここに来た時は辛いも痛いも、隠さなくていいから」
    「どうして……、どうしてそんなことをいうんですか?」
     握りしめた拳は感覚がない時もあるのに、今はその本当に細かな産毛の一本一本までわかりそうなほどに神経が張りつめていた。
     それくらい、天に対して警戒をしていた。
    「……ボクだって、キミのこと心配してるの。何か悪い?」
     微塵もそうは思っていなさそうな顔に、どんな反応を返していいのかわからなくなる。まさか、あの天がそんなことを自分に対していってくるとは思わなかった。
    「いえ、悪い、というか……純粋に、驚いて」
    「そりゃ心配くらいするでしょう。目の前で顔色の死んだ後輩を見て、家に連れて帰ったら末期です、なんて言われて心配しない先輩がどこにいるの?」
    「……まぁ、そうですね」
     冷静に言われると納得するしかない。確かに言われてみれば随分とひどい状況だった。
    「すみません」
    「何急に。しおらしい君とか、明日にでも死ぬの?」
    「、それ、割と今の私だと洒落にならないんですが……」
     まだ笑って流せるからいいものの、と苦笑いすると少し気まずそうな天が顔を逸らす。
     
     一織の死は、決して遠くないところにあるのだ。

     いつ、この心臓が動きを止めるのかわかったものではない。
     最期の瞬間はいつ迎えてもいいように、最近はずっと自身の意志が書かれたメモを持ち歩いていた。
     それは、誰にも打ち明けていない一織一人だけの秘密だった。

    「……これ、あげる」
     呆れたような顔をした天は、そう言って一織に向けて手を差し出す。無機質な銀色は、おそらく一織の想像通りのはずだ。
    「鍵……いいんですか?」
     あまりにもパーソナルなものを渡されて、一織はさすがに動揺する。
    「いいも何も……毎回ボクがいるわけじゃないでしょう。勝手に入ってていいから」
    「……私が何かするとか、考えないんですか」
    「キミが? ボクに? できるの?」
     挑発的な笑みは天使なんかではなくて、どちらかと言えば悪魔的な美しさだった。まるで誘惑するよな視線に、一織はため息を零す。この人も、あのセンターの血縁なのだ、と嫌でも認識させられる。
    「言ってみただけですよ。できませんし、しません」
    「そう。まぁ、もし仮にキミがしたとしても、ボクはキミのことを告げ口するくらいだから、安心していいよ」
    「絶対にしません」
     ふるふると首を振ると微かに頭が痛む。これくらいはいつものことで、薬を使うまでもない。
    「大丈夫?」
    「えぇ。これくらい、いつものことなので」
    「……それ、大丈夫じゃないでしょう」
     顰められた眉はどこまでも一織の身を案じていて、自身の判断は間違いじゃなかったな、と苦い笑みがこぼれた。

     それから症状は一気に進んだ。視界が翳ることも、瞬間的に意識を飛ばすことも。
     ……痛みで、訳が分からなくなってしまうことも、出てきた。痛み止めは弱すぎるのか痛みが強すぎるのかはわからなかったが、3分の1ほどの確率で効かないこともあった。そんなとき、一織は決まって天の家を訪ねた。居るときはひたすら声をかけて一織を宥めてくれて、ずっとそばで一織の痛みに寄り添ってくれた。居ないときでも、天の部屋は一織の過ごしやすいように、と随分と一織のために整えられていて、体を預けるためのクッションや、冷やさないために毛布であったり、タオルであったりといろいろなものが増えていた。
     その日は、天がいなかった。
     訪れた家のカギは閉まっていて、それでも寮に帰ることが困難なほどの症状に、一織は考える間もなく天の家を頼った。
     症状の悪化のせいか、薬が効きづらい日が多くなってきており、鍵を開けるために握りこむ手は薬を飲んだにもかかわらず、震えて鍵穴に鍵を差し込むのも一苦労だった。
     そうしてなんとか鍵を開けても、今度は靴を脱ぐのが難しい。しゃがみこむのも辛くて、でも立ったままで脱ぐのも大変だ。それでも座り込むよりましだろう、となんとか足をあげるが、グラグラと体が揺れて倒れそうになる。
    「ッ」
     惨めだった。
     どうしようもなく無様で、消えてしまいたくなる。情けない自分に、らしくなく舌打ちをしたくなった。
     断続的に襲い続ける頭痛に、思い通りにならない体に。苛立って気持ちがさざ波だってしまう。
    「、ふ」
     痛みを逃すように、天に教えてもらった呼吸法を試すが、いつものように痛みは薄れていってくれない。
    「~~~~ぅ」
     頭がカチ割られそうな痛みが、ひとりでに動き出しそうなほどの激しい痙攣が。一織の日常を奪っていく。
    「く、すり……」
     一番強い薬ではないが、今処方されている薬はかなり強いものだと教えられている。あまり乱用していいものではない、とも。けれど、この痛みはひとりでこらえられそうにない。他の方法で痛みを逃せるのなら、もともと天の家になど逃げ込んでいなかった。
    「は、は、ッ~~」
     暴れだしたいような、もう心臓を止めてもらいたいような、衝動が一織の頭の中をかき混ぜて訳の分からない状態にしようとしてくる。
     そんな時。
     プルル、と電話の呼び出し音がした。
     幸いスマートフォンの入った鞄は手元にある。何かあったときにすぐに取り出せるように、と最近は片時も離れることがないのだ。痙攣してうまく動かない腕を無理やり伸ばして、鞄を引き寄せる。着信画面に示された名前は、この家の主人のものだった。
    「はいっ」
    『和泉一織? ……? 何かあった?』
    「い、え……なにか、?」
     荒くなった呼吸を押し込めて、いつもの自分を装う。痛みを我慢すれば、あとは腕の振るえだけだ。
    『今日は誰かに連絡した? さっき、和泉三月から連絡が来たんだけど』
    「!」
     痛恨のミスだった。外で醜態をさらさないように、と気を張っていたせいか兄に連絡を入れることを忘れてしまっていた。
    「、忘れてました……」
    『ボクの家にいるってことでいい?』
    「は、い……っ」
    『発作? 大丈夫? 薬は? 手元にタオルはある?』
    「、だい、じょうぶ、ッです」
     嘘だった。
     頭は痛んで、体は力が入らない。スマートフォンは取り出しこそできたものの、震える手では持ち続けることが難しくてスピーカーにして話していた。
    『なるべく、早く帰るから』
    「大丈夫、ですから」
    『早く帰るよ。それまで、我慢して?』
    「すみません、」
    『どうしてキミが謝るの。ほら、前一緒にやったでしょう? 呼吸』
    「ん、っく」
     刷り込みに近いのかもしれない。天がそうして声をかけると、どうしてだか息ができるようになった気がした。
     少しして、先ほどまでのひどい状態からある程度落ち着くと、天もまた電話の向こうで息を吐く気配がした。
    『ごめんね、着いててあげられなくて』
    「どうしてあなたがそんなことを言うんですか? 逃げてきたのは、私の方なのに」
    『……どうして、だろうね。キミがあんまりにもしおらしい態度でいるから、放っておけなかったのかもしれないね』
    「そう、ですか?」
    『そうだよ。ほら、ちょっと動けるようになったならちゃんと毛布をかぶって。水分補給もすること。ごはんは?』
    「…………」
    『だめじゃない。薬飲んだんでしょう?』
     窘める声はいつもと同じで、一織は唇をかんだ。
     自分は、いつまでこの関係を続けていけるのだろうか、と。
     最近は平気な時間の方が少なくなってきている。だんだん、寮にいる時間より天の家にいる時間の方が長くなってきているのだ。メンバーたちには勉強を教えてもらっている、と言っているが、それもいつまでもつかわからない。
    『和泉一織?』
    「はい」
     不思議とクリアになった思考でそう返事をすると、大きなため息を落とされる。
    『すぐ帰るから』
    「もう、大丈夫ですよ」
    『全然大丈夫じゃないでしょう。まだ息整ってないよ』
    「、大丈夫、です」
    『まってて』
     天はそう言うと一織の返事を待たずに、ぷつりと電話を切ってしまう。
    「……どうして、そんなに心配するんですか」
     苦い声は家主にとらわれることなく消えていく。
     天は言っていた通り早く帰ってきた。もともと雑誌の撮影は折り紙付きで早い天だ。本気を出せばこれくらいなのだろう。
     クッションに寄りかかってだらしない姿をしていると、天はほっとしたように笑って一織の元へやってきた。
    「今日はひどくなかったんだね」
    「はい。もう少し落ち着いたら、今日はお暇させていただきます」
     頭の発作にも酷い時とそうでない時がある。 酷い時は眠ることも意識を失うことも叶わない痛みがずっと続いて、薬を飲んでも効かない時がたまにある。
     だが、基本的にはそこまで酷いのは稀で、今日のようにある程度痛みが続けばこうして落ち着いて会話ができるほどには回復する。回復する、と言っても痛みはずっとあり続けて、とにかく我慢できる程度になる、というだけなのだが。
    「泊まらなくて平気?」
    「はい。多分、大丈夫です」
    「そう」
     短く言った天は、何か迷うように視線を彷徨わせる。珍しい仕草に、一織は大きなクッションの中で首を傾げる。
    「九条さん?」
    「……キミは、知ってる?」
    「何を、ですか?」
     やや深刻そうな顔をした天は、まるで口が鉛にでもなったかのようにゆっくり口を開く。
    「ボクと、キミが、付き合ってるんじゃないかって思われてる、ってこと」
    「なんだ、そんなことですか」
     もしかして病気がバレたのか、と身構えていた一織は、拍子抜けして強張っていた体の力を抜く。それだけの動きでも頭は痛んだ。
    「それだけ、って……」
    「予測していたことですよ。九条さん相手だからこれほど長い間不審に思われなかっただけです」
    「……どういうこと?」
     全く話が読めないとばかりに眉を寄せた天は、本当に混乱しているらしかった。
    「普通、何もない後輩が先輩の家になんなに入り浸ることがありますか? しかも別グループで。十さんはきっと騙し切ることができないでしょうし、八乙女さんはすぐに伝えてしまったでしょう」
    「あぁ、うん。それはわかる」
    「百さんの家は人の出入りが激しいですし、千さんの家もマスコミが張っているかも、と思うと易々といけません」
    「……なるほどね」
     頭のいい天は途中からなんとなくわかっていたのだろう。一織は、相手が天だから、と色々な条件を付加して頼んだのだ。
    「今日、キミのお兄さんにうちにいるよ、って伝えたら覚悟を決めた顔で付き合ってんのかって言われたんだよね」
    「ッ!? 兄さんに!? っぅあ」
    「ちょっと、大丈夫?」
    「ふ、っ……続き、教えてください」
     大きな声を出したせいで頭が痛む。それでもその言葉の続きを自分は知らなければならない。
    「本当に? 薬は? もう飲んだの?」
    「効きません。平気です。九条さん、あなたはなんと返したんですか」
    「!? ちょっと待って、効かないって」
    「大丈夫です、もう慣れました」
     そんなこといいから、早く教えろとばかりに目に力を込めると、天は大きくため息を吐く。
    「そんなに生気のない顔で、よくそんな虚勢が張れるね?」
    「私は最後まで私でありたいんです。そのために鎮痛剤で私を損なうことも、私は許しません」
     顔面全体に力を入れて、天に笑いかける。全ては、その目的のためなのだ。
     末期になればより強い薬で意識を奪わなければ、痛みで人はおかしくなるのだと言う。だとするならば、自分はその痛みすらも制御してしまうしかない。
    「……最近、うちに来ることが多いでしょう」
    「、え、ぇ……っはぁ」
     相槌を打ちながら、一言も聞き漏らさないように耳を澄ます。目を開けているのすら辛くて、自然と瞼は閉じてしまう。
    「ちょっと、本当に大丈夫? 病院行く?」
    「いえ。そう何度も通うわけにはいきません。あれは、仕事の時に使うものです」
     あまりの痛みにどうにもならなくなって、時折病院で強い薬を使ってもらうことがあった。半強制的に意識を落として、その間に体力だけでも回復を、と行っていたそれは、よく天に付き添いを頼んでいた。
     強い薬故に、覚醒した時の体調は最悪で、吐き気やめまいが治らなくて、しばらく立ち上がれないのだ。そのために天に力を借りて、なんとか仕事に向かう、なんてことを何度かしていた。
    「……無理しないで」
    「えぇ」
     流れるように嘘をつくのも慣れたもので、最近は寮内でも最近の一織は調子がいい、なんてことまで言われていた。もしかすると、それも付き合っていると勘繰られる理由なのかもしれない。
    「あんまりにもうちにいるから、何かしてるんじゃないか、って心配してたよ」
    「流石兄さん、気づいてしまいましたか」
     異変に気がついてくれた嬉しさと、それを欺かなければならない不誠実な自分に、どんな顔をすればいいかわからなくなる。
    「ねぇ、そろそろ、いいんじゃない?」
    「…………? 何が、ですか?」
     覚悟を決めたような顔の天は、クッションに全体重を預ける一織の前に座り込むと、いつからか痙攣している手を包み込む。血の気がない見た目と同じで、その手の感覚はずっと遠くにあった。
    「そろそろ、公表して、……活動、停止しても」
    「……、何度も言ったでしょう?」
     やはり、この人は。
     甘いのだ。
    「私は、IDOLiSH7の和泉一織です」
    「知ってる、知ってるけど、」
    「最期まで、私はIDOLiSH7の一員でいたい。私の願いは、いつだってそれ一つです」
     例え、私がいなくなってしまっても
     一織が真っ直ぐ天の瞳を見つめてそう言うと、天は途端に泣き出す寸前のような顔をする。
     本来、天も人の死に関することが苦手だからだろう。それすらも理解しているのに、こうして死期の近くなった今でも天の家に居座る自分は、やはり人として欠落している。
    「、いつまで、うちに来るの?」
    「九条さんが、赦してくれるまでです」
    「……随分、図太くなったね」
    「誰かさんのおかげです」
     少しずつ痛みが引いていくと、ほっとして笑みが溢れる。ようやく、私は私に帰ってこれたのだと、安堵する。
    「今日は、これでお暇します」
    「送ってく」
    「帰ってきたばかりでしょう、貴方。大丈夫です、もう」
    「送る。タクシー呼ぶから、ちょっと待って」
     一織が平気だと言っているのに、頑なな天はそう言って勝手にタクシーを呼んでしまう。これもまた、最近よくある流れだった。
    「きっと、私がタクシーで帰ってくるから兄さんも邪推したんじゃないですか?」
    「何?」
    「貴方と、……所謂、そういうことをして、念のために送られた、みたいな……」
    「実際に今の君は産まれたての子鹿みたいなものじゃない。足が震えてる」
     それは、まだ症状が治まりきっていない証拠だった。歩けないほどの麻痺ではなく、走れるほどの元気もない。本当は、タクシーで送ってもらえるのはありがたかった。
    「また酷くなった?」
    「もうこの後はひどくなる一方ですよ。まだ立てているだけで御の字です」
    「……そう」
     目を伏せた天は、言葉に迷っているようだった。
    「そろそろ、タクシーも着く頃ですかね」
    「そう、だね。下まで一緒に行くよ」
    「エレベーターですよ?」
    「それでも。ほら、立てる?」
     震える足を叱咤して、ゆっくりと立ち上がる。立ち膝のような形で一度休むと、天の心配そうな声が降ってくる。
    「帰れる? 泊まってもいいよ」
    「帰りますよ。兄さんたちが心配します。それに、あまり邪推されては九条さんも迷惑でしょう?」
    「迷惑じゃないよ、別に」
    「そうですか?」
     深く息を吸って、吐く。歩こうと決断しなければ、揺れる視界に耐えられそうになかった。
     前後左右に揺れそうになる顔を気力だけで持ち上げる。視界に見えた天の顔はいつものように心配そうで、少し笑ってしまった。
    「大丈夫ですよ、九条さん。歩けます」
    「、でも」
    「平気、ですよ」
     寮に帰れば、一人で歩かなければならない。きっと、こういう気遣いも勘違いの原因になるのだろう。
    「それに、こういうことは貴方の弟にしてあげてください」
    「可愛くない」
    「それはどうも」
     ふふ、と小さく笑うと、天は眉を顰めて不本意そうにする。それがおかしくて、さらに笑いが深くなる。
     天の眉間に刻まれた皺は、一織がタクシーに乗り込んでもなお消えることはなかった。


    「和泉さん」
    「何度言われても返事は一緒です」
    「ですが!!」
    「私の意思は変わりません。私は、私のままに」
    「もう限界なのは和泉さんが何より感じているはずです。その腕、動き辛くなったでしょう。右足だって、顔の筋肉だって、…………痛みだって」
     医師はそう言って一織の体を例に挙げて入院を薦める。
     もう、どんなに足掻いたって遅いのに。
    「動きます。動かします。痛みなんて、感じていません」
    「……和泉さん」
     不快そうに、不安そうに、殊更心配そうに寄せられた眉に、どうしてか口角は上がっていく。
    「ありがとうございます、気遣っていただいて。ですが、私はこのままでいいんです。これ以上は、もう望みません」
     万策尽きているのは知っていた。これ以上の痛みで自我を保っていられるわけがないのも、もう、終わりが近いことも。
     本当に最期なら、自分の願いをどうにかして叶えたかった。
    「先生」
    「……………………なんですか」
     嫌そうに硬くなった声は、きっと一織のわがままをなんとなく察知したのだろう。これ以上苦くなることはないだろうとわかるほど苦い顔の医師は、何とか返事を返してくれた。
    「私から、最期のお願いがあります」



     その日もまた、一織は天の家に逃げていた。最近は休んでいても楽にならず、何か別の感覚で痛みを頭の中から追い出すなんて無茶苦茶な方法をとっていた。
     珍しく家に在していた天は、息もままならない一織を慣れた手つきで迎え入れると、壊れた呼吸を治してみせた。
     消えない痛みと激しい吐き気を堪えるために、タオル片手に今日も一織はクッションに全体重を預けていた。

     自分の命の残りは、あと、どれくらいなのだろう。

     焦点の定まらない視線を泳がせていると、天から声をかけられる。
    「……聞いたよ」
     虫の息と言っても過言ではない一織から必死に視線を逸らした天は、消えそうな声で話しかける。
    「何を、ですか?」
    「ホールで、ライブするんだってね」
    「あぁ……はい。そうです」
    「できるの?」
     それまでの心配そうな顔から一転して、先輩アイドルの九条天の顔つきになる。
     さっきまでは一織と幼い頃の陸を重ねていたはずなのに、今はただIDOLiSH7の和泉一織として一織を見ていた。
    「できるできないじゃないです。やるんですよ」
    「そんなボロボロの体で、まともにパフォーマンスが出来るって?」
    「…………もう、無理なんです」
    「……?」
     口走った言葉に慌てて口を抑えるが、既に放ってしまった言葉は消えてくれない。
     墓場まで持っていくつもりだったのに。やはり、頭の回転が落ちているのかもしれない。
     少し不安になりつつ、鋭くなった天の視線と口調に誤魔化すことを諦めた。
    「何? どういうこと」
    「、……最初に言われた、余命はもう、過ぎてるんです」
    「嘘」
     反射的に口にしたように、天は自分で口にしたその言葉に驚いているようで、少し微笑ましくなった。
     ここまで想ってくれていたのだと思うと、やはり少し嬉しい。
    「こんなことで嘘を吐いてどうするんですか……。貴方の家に二度目に来た時には既に残り一月と言われていました」
    「っ!?」
     始めに天に告げた余命は全くの嘘だった。少し前の通院でもうほとんど手はないと言われて、それでも生き汚く生にしがみついて。
     それほどまでしても、夢を叶えたかったのだ。
    「もしかしたら、ライブまで保たないかもしれない、なんて……すごいでしょう?」
    「……ッなんで君はそうやって笑うの!?」
     一織よりもよほど真っ白な顔の天は、とうとう怒りを露わにした。腹の底から震えるような怒りは、天が本気で激怒していることを伝えてくる。
     ローズクォーツから滲み出た涙は、いつかの陸を思い出しているのだろうか。
    「泣いたって……どうにもならないからですよ」
    「……!」
    「泣いても喚いても、私の明日は変わりません。神様が助けてくれますか? 世界の名医がどうにかしてくれますか? そんなことはないんです」
    「ッ」
     冷静に淡々と告げるつもりが、天の怒りに煽られてだんだん言葉がヒートアップして、熱を持っていく。
     ずっと心に溜めていた言葉に火がついて、消えないまま周りすらも焼き尽くそうとする。
    「泣いても笑っても、私の明日が来るか来ないか、誰にも分からないんです!! わかりますか!? 毎朝ちゃんと目が覚めるか不安になりながら布団に入る私の気持ちが!! これが最期かもしれないなんて思って、目を瞑る私の気持ちが!! あなたに、ッ貴方にわかるんですか!?」
     毎日祈るように目を瞑って、痛みがひどい時は怯えて、どうか明日が来てくれますようにと希う自分は、ずっと心にしまって誰にも見せないつもりだった。
    「眠ったまま、意識が消えていくかもしれない。誰にも看取られることがないまま独りで死ぬかもしれない!! 気がついたら、息をしていないかもしれない!! そんな恐怖、わからないでしょう!?」
     無茶苦茶なことを言った自覚はある。天だって、同じ思いを何度もしたことだろう。けれど、ひとりきりで抱え込んでいた不安も恐怖も、一織独りで持っているにはあまりに大き過ぎた。
     強い自分で、いたかった。
     酸素が足りなくて、頭が揺れる。久しぶりに大きな声を出したからか、喉が痛んだ。
     そんな体力もないのに、火事場の馬鹿力とでもいうのか、起こした上体はまたクッションに沈み込む。
     ライブに向けて体力作りだってしているのに、これだけで息が切れる体に絶望で目の前が暗くなる。
     自分は、あと、どれだけ歌って踊れるのだろうか。

     いつも通り、振る舞えるのだろう。



     いつまで、和泉一織で、いられるのだろう。



    「ごめん、……ごめん、泣かないで、ごめん……ッ」
    「ないて、ません……!」
     頬を伝う熱い液体を雑に拭う。
     泣いてなど、いない。
     自分は、怒っているのだ。
     怒って、いるのだ。
    「…………ごめん」
    「謝らないでください……。別に、謝ってほしいわけじゃないです」
     自分はただ、いつも通り自分を扱ってほしいだけなのだ。
     消えていなくなる、その日まで。
    「今日、は……泊まる?」
    「……………………は」
     思いもよらぬ言葉に、閉じていた瞼をこじ開けて天の方を見る。美しい顔にできた涙の路は、まだ乾いていなかった。
    「泣いて、目が腫れちゃったら困るでしょう?」
    「っ、そ、れは……」
    「それで、寝るまで、起きるまで、ボクがずっとそばについて手を握っててあげる。おはよう、って明日の朝一番に言うよ。キミが息を忘れてたら、引っ叩いてまで思い出させてあげる」
     手を震わせながら天もまた祈るように、一織の手と自身の手を繋ぎ合わせる。
     目を閉じた勢いで、ビー玉のように透き通った雫がまた一つ二つおちていく。
    「ね」
     懇願するようなその声に負けて、一織は結局天の家に泊まることになってしまった。兄である三月に連絡を入れた時の妙な返信の遅さには気が付かなかったことにして、スマートフォンを閉じる。
     流されるままお風呂に入ってご飯を食べて、念の為に持ち歩いている薬を放り込む。
    「、薬あるんだ?」
    「えぇ。と言っても、これは栄養剤のようなものです。根本的な解決法はありませんし。今はただ、痛みを誤魔化しているだけです」
     最近はダンスも辛くて、極力振りのない歌をお願いしていた。その度に向けられるマネージャーの目が痛くて、苦しかった。
    「…………おいで」
    「狭いです」
    「これでもクイーンサイズなんだけど」
    「……………………せまいです」
    「そう」
     広いシーツの海に、わざわざ向き合って手を繋ぐ自分達は一体いくつなのだろう。
    「手、震えてる」
    「あぁ……最近はもう意識しない限りずっと震えてます。なんか、その辺の神経を巻き込んでるみたいで。震えるだけなので、最近は手袋をして誤魔化しています」
     今更緊張している、など仕事中は通用しない。今震えているのが緊張なのか、症状なのか、一織自身わかっていなかった。
    「冷たいね…………」
    「それは……もともとです」
     昔より白く紫がちになった手を興味深そうに揉む天は、冷たい手を温めようとしているのか、吐息を吹きかけたりしている。
     寝室だからかどうしても小声になって、密やかな声になってしまう。
    「寝て、いいよ」
    「そう簡単に寝られていたら、苦労しません」
     冷え切った指先から伝わる天の手は温かくて、天の方が眠いのではないかと疑ってしまう。
    「こわい?」
    「……それ、聞く意味ありますか?」
    「ごめん」
    「こわいですよ……こわい。だって、明日の朝には、私は物言わぬ骸に成り果てているかもしれない」
     メンバーに隠し事をしている悪い自分は、きっと天国にだっていけない。
    「……」
    「死ぬときは食欲がなくなるだとか、瞳孔が、とか。色々と話は聞きますが、どうやら私は老衰ではないので、関係ないようですね」
     最近ずっと悪かった寝つきは、隣に人がいるくらいで簡単には変わらないらしい。全く眠気が襲ってこず、独り言のように言葉を落としていく。
     相槌はあってもなくても、ただ沈黙が怖くて話し続けた。
     途切れることなく話す一織を気にしてか、それとも寝る前の言葉通り一織が寝るまで待っているのか、天は静かに一織の話を聞いていた。
     時折返される相槌以外、天からは何も返ってこなかった。それが心地よくて、話しやすくて眠気が来ないのを良いことにしばらく話していた時、不意に話が途切れた。
    「……泣かないで」
    「えっ?」
    「ごめん。意地悪言ったつもりは無かったんだ」
    「ないて、ないですよ」
     握られていた両の手から、利き手の右手を離した天は一織の眦をなぞる。確かに、少し濡れていた。
     天の言葉が一瞬理解できず、少し眠気に閉じ始めていた瞼を瞬かせた。
    「こうして、会話して、息をしてるキミが、そんなに…………死に近いなんて、思って、なかったんだ」
    「当然でしょう? 文字通り、墓場まで持っていくつもりだったんです。まぁ、もうそれも、無理ですけど」
     ふわ、と小さく欠伸をすると、天は一織の頭へ手を伸ばしてゆっくり撫で始めた。
    「キミを、独りにしないで済んで本当によかったよ」
    「…………」
     慈しみに満ちた表情を向けられると、どうして良いかわからなくなる。
     自分は誰よりも大事だと言って憚らないメンバーたちを欺いているのだから。
    「……わたし、は」
     何か伝えたくて口を開いたのに、それまでの眠気のなさが嘘のように、今は瞼が重くて仕方ない。言いたいことがあったのに、口にできないまま意識が闇に沈んでいく。
    「ひとりに、しないで…………」
     天の息を呑む音が、聞こえた気がした。


     それからはライブの準備で忙しくて、中々体を休めることができなかった。
     さすがに大学だ、と言って抜け出すにも無理が出て、それでも体の不調は悪化していくばかりで。どうしたものか、と今日もまた震えの止まらない腕をなんとか振り回して、ダンスを覚えていた。
    「あれ、一織、スマホ鳴ってるぞ」
    「、すみません、マナーモードにしてなくて」
    「いや、いいよ、一旦休憩にしよう」
     息の切れた自分を見た三月は、大丈夫か? と心配そうに問いかけてくる。嘘をつく罪悪感と、すぐそこに見える死の影を心にひた隠して、今日も笑顔を作る。
    「最近あまり運動していませんでしたから………こんなことでは七瀬さんにとやかく言えなくなりますね」
     誤魔化すように笑って、スマートフォンの表示を確認する。
    「……くじょう、さん」
    「九条? なんで」
     目を見開いて驚いた三月は、訝しげに一織の方を見る。
    「まさか、本当に」
    「っと、すみません、出てきますね」
     藪をつつかれる前に、わざとらしく廊下へ出る。立ちくらみがして眼前は真っ暗だったが、これくらいはもう慣れたものだった。
    「もしもし?」
    『もしもし。和泉一織?』
    「そうですけど……? 何かありましたか」
    『ううん。ただ、そろそろライブの準備が始まる頃かな、って思って。最近、家の方にも来てないから』
     心配そうな顔をしているだろうことは、声だけでもわかった。
    「えぇ、まぁ。ですが、なんとかして見せますよ。ご心配なく」
    『本当に?』
     きっと、陸のようにまっすぐな目をしているのだろうな、と思う。それだけ、心配してくれているのだろうけど。
    「……ふふ」
    『何』
    「いえ。随分と、気にしてくださっているのだな、と」
    『当たり前でしょう。相変わらず、ボク以外には言ってないんでしょう』
     それほど長い間ではないのに、この数か月で天は自分に対して甘くなったと思う。表面上は前と変わらないものの、ふとした瞬間に向けられる視線は、彼が弟に向ける出来合いの目に哀れみが混ざっていて、それが耐えられない。
    「当然です。憐れみは、ごめんですから」
    『症状は? 大丈夫なの?』
    「、大丈夫、と言えたらいいですが……本当は、大丈夫ではないです」
     当然だった。医師からはもう入院しろとせっつかれていて、体調は安定していることがない。普通に生活していても頭が痛くて顔をあげるのが辛い。歌って踊るなど以ての外で、息をするので精一杯だった。
     それでも、それでも。
    「大丈夫です。……大丈夫ですよ」
    『……ねぇ。ボクがキミのこと、呼び出してあげようか?』
    「? はい?」
    『——スマホに、連絡入れておいて。そうしたら、ボクが呼び出してあげる。そしたら、夜だけでも逃げてこれるでしょう』
    「そ、れは……」
    『夜、ちゃんと寝てる? ご飯だって……寝て、食べて。そうじゃないと、ライブまでもたないよ』
     優しい先輩のようで、厳しいことをいう天はずっと一織のことを案じていた。
    「そこまで、していただくのは、申し訳ないですよ」
    『ほら、息が切れてる』
     耳ざといな、と苦笑いしながら一織はまだ悩んでいた。
     ここまで迷惑をかけてもいいのだろうか、と。散々迷惑をかけている自覚があるために、これ以上を望んでいいのかなんて今更ながら思ってしまう。
    「……私のこと、弟みたいに思ってます?」
    『どうだろう。手のかかる子だな、とは思ってるよ』
     思っていたよりもずっとずっと甘くて柔い声に、うっそりとした笑みが浮かぶ。
    「、そろそろ戻らないと」
    『そう。呼び出してほしくなったら何か連絡しておいで。それらしい理由で呼び立ててあげる』
    「……怖いですね」
    『怖い先輩だからね。倒れないでね』
    「はい」
     怖い先輩だと冗談めかして言うものの、こうして一織のことを逐一気にする天はどう見ても怖くはなかった。
    「…………すみません」
     あなたの、優しさに甘えて。
     暗くなった画面に、届かないとわかっているのに謝罪を載せる。
     きっと、遠くないうちに頼る羽目になるのだろうと確信して。

     その次の日には、一織は天の家にいた。練習終りに呼び出された、と言って天の家に来たものの、天本人は不在だった。もう慣れたものではあったけれど、やはり申し訳なさで胸が苦しい。今日だって本当あhメンバーと夕食に行く話が出ていたのに、酷い吐き気のせいで食事も彼らとの会話すら楽しむことができそうになかった。
     昨日あれだけ渋ったのに、今日こうして天にお願いする自分は随分と面の皮が厚い。
     もう慣れ親しんだといっても過言じゃない気がするのは、回数よりも毎回の密度が高いせいだろう。
    「ッ」
     湧き上がってきた嘔気は、あまりにも急すぎてトイレまでは間に合いそうにない。
     仕方なく身を起こしてキッチンのシンクに身を乗り出す。きれいに掃除されたシンクを汚すのは申し訳なかったが、もう我慢できそうになかった。
    「……は、ぅえ」
     ぱたぱたと受け止めきれなかった血が手のひらから滴る。まさか、天の家でこの症状が出るとは思っていなかった。
    「あと、もう少しですから…………」
     鮮やかな血に、口の中からも手からも血の匂いがする。
     壊された体細胞が悲鳴を上げて、これ以上は無理だと喉や胃を裂きながら、それでも生きようとする一織を嗤う。
    「おねがい…………ッ」
     血にまみれた手のひらからは、命の匂いがした。
     口の中に残った血も全て吐き出して、水道の水を出しっぱなしにする。水道の水で血が薄まって、排水溝へと吸い込まれていく。
    「……消えるかな」
     濃厚な血の匂いが、張り付いて消えない気もする。小鳥遊寮よりも気にする必要はないものの、それでもこれ以上余計な心配はかけたくない。もう何度も嗅いでしまったせいで、血の匂いそのものに麻痺してしまった気がする。
    「はぁ……」
     命の零れた掌に、ため息しか出てこない。ボロボロの体に鞭を打って、否。鞭どころではないかもしれない。すり減った雑巾のような体で、さらに突っ走る自分は、既に限界どころではない。
     丁寧に丁寧に、死の間際に向けて自分を飾り立てて、一番ありたい姿を、作っていく。
     幸せに見えるように、悲しくないように。
     自分の死は、悲壮に見えないように、悲哀に満ちないように。
    「まだ、だいじょうぶ」
     綺麗に血の痕を流して、換気扇を回して匂いの痕跡をできる限り消す。数日前に嘔吐したこともあったから、何か聞かれたら気分が悪くなったと答えれば十分だろう。
    「これくらいで、十分ですかね」
     粗方血の匂いも形跡も消えてほっと一息を吐く。吐き出した分何か水分を、と思うものの、少しずつ飲食すらも拒みだしたこの体は緩やかだが確実に死へと向かっていっている。
    「、あと、少し」
     普段はいるかどうかもわからない、死神や神様と言った存在に向けて、内心で深く頭を下げて手を合わせる。
     どうか、あと少し。ほんの少しでいいから。
     自分の命を刈り取るのは、待ってください。
     どうか、お願いします。
    「けほ、げほ、っごほ」
     咽るたびに広がる血の匂いには気が付かないふりをした。
     それから数時間後に帰宅した天は、ソファーの下に敷かれたラグの上に横たわる一織を見つけると、眉間の皺を深くした。
    「、くじょうさん。おかえりなさい」
    「ただいま。そんなところにいたら体が休まらないでしょう。せめてソファーベッドにして」
    「……そうですね」
     肯定こそ返したものの、動く気にはなれない。そもそも、耳鳴りがして天の言葉もまともに聞き取れてなどいなかったのだから、反応をしただけでも褒めてもらいたい。
    「? どうしたの」
    「いえ。お疲れですか?」
    「ちょっとだけね。……ちょっとだけ動かせる? せめて下に毛布だけでも敷こう。体痛くなるでしょう」
     荷物を下したらしい天は、一織が体を動かせないことに気が付いたらしい。言葉を探すように数秒黙ると、そう言って寝室へ向かう。持ってきたのは、既に一織が何度も使ったふかふかの毛布だった。
     体を動かすのは億劫で、でもわざわざ持ってきてくれた天の好意を無に帰したくもなくて。震える腕で体を支えると、天は素早く下に毛布を敷いてくれた。柔らかな感触に息を吐くと、天が静かに首筋に手を伸ばしてくる。初めは何をしているのか気になっていたが、触れるあたりがいつも同じことで気が付いてしまった。
     天は、一織の脈拍を確かめていたのだ。
     徐々に遅くなってきている心拍は、ライブの練習をするときと仕事に精を出している間だけ規則正しいリズムを刻む。けれど、こうして横になっているときや眠りにつこうとする瞬間なんかは、ぐっと心拍の数が減る。
     どうやら、心臓すらも仕事を放棄し始めたらしい。
    「苦しくない?」
    「大丈夫ですよ」
     やりたいことをして、自身の望みをかなえて。
     これ以上に楽しいことはない。
    「ライブまで、あと数日だね」
    「えぇ」
     待ち望んだライブの日は、すぐそこだった。今回のライブに限っては、自身の体力の関係もあって一日だけの開催になってしまった。おかげでチケット争奪戦がすごいことになったのだと聞いている。本来であれば数日かけて行うはずのライブだ。おかげで当落発表の日はらびったーが随分と賑わいを見せていた。
    「来てくださるんですよね」
    「当たり前でしょう。キミの、一世一代なんだから」
    「そう言われると恥ずかしいですが……」
     横になったまま口元を隠すと、天の意識が全て自身に向いたのがわかる。似た者同士の子の双子は、自分に向ける視線もまた似ていた。
    「絶対に見に行くよ。ちゃんとやり遂げなさい、って喝を飛ばしてあげる」
    「それはそれは、頼もしいことですね」
     湧き上がる嘔気と咳を押し殺しながら、苦笑いを浮かべる。血生臭ささが天にまで伝わってしまわないかが不安だった。
    「でしょう。だから、絶対にアンコールまで立っててよ」
    「はい」
     それまではかすれた声だったのに、その返事だけは芯を通すことができてほっとした。
     何があっても、ライブだけはやり遂げるつもりだった。


     ライブ一週間前の今日、一織はもう何度も訪れた病院にやってきていた。
     ひとつ、お願い事をするために。
    「和泉さん、もう無理です」
    「先生、何を言われようとも、私の気持ちは変わりません。わかっていらっしゃるでしょう。今日は診察のために来たわけではありませんし」
    「一織さん……」
     ついていく、と言ってきかなかった紡を連れて訪れた病院で、通されたのは診察室ではなくて病状を告げるための小部屋であった。だんだんと険しい顔をし始めた主治医のその人は、一織の姿を目に映すや否やそう口にした。
     今日の目当ては、診察ではないのに。
    「マネージャーまで…………。何度言われても私は同じことを繰り返します。このライブが終わるまでは絶対に入院はしません。たとえライブのあとに私の命が尽きてしまったとしても、それは本望です」
    「一織さんッ!!」
    「何度も言っているでしょう。話が進まないので、一度この話はあとにしてください」
     なんだかんだとあまり一織とともに病院にやってくることがなかった紡は、顔色を失って一織を見つめた。現状に関して細かい話をしてこなかったから、当然の反応なのかもしれない。社長や万理には告げていたのだから、十分だと思っていた。紡は腹芸ができないと判断したためだったが、もしかするとそれもよくなかったかもしれない。
    「お願いが、あります」
    「なんですか」
     無力感に苛まれたような、痛みを飲み込むような、悔しさを滲ませた瞳は、それだけで一織の勇気になった。きっと断られることはないとわかっていても、ここまで無茶を続けてきたのだから、断られる可能性がないわけではないと心臓が暴れていた。
    「私たちIDOLiSH7のライブに、きていただきたくて」
    「、」
     目を見開いたその人は、息を止めて一織を見つめ返す。口もとに笑みを這わせて続ける。
    「私の、”和泉一織”としての、集大成ですから」
     自分がいつも見ている景色を見てほしかった。
    「……もう、チケットはとっていますよ」
     想像の斜め上の言葉に目を見開くと、医師は誇らしげに笑う。
    「ファンですから」
    「アイドル冥利に尽きますね。ありがとうございます」
    「……ッ」
     嬉しくて、自分でも驚くほど柔らかな笑みがこぼれたのがわかる。静かに息を呑んだ目の前の先生は、机の上で組まれた手に力を込めて口を引き結ぶ。
     目元に光る雫は見えないふりをして、口を開く。
    「先生が主治医でよかったです」
    「医師としてこの上ない誉、と言いたいところですが、あなた一人救えなくて、何が医師なんでしょう」
    「少なくとも私は助かっていますよ、本当に」
     自嘲的に、自身に向けて侮蔑するような眼をした彼にそんなことはないのだとわかってもらいたくて、言葉を紡ぐ。実際、彼が協力してくれなければ自分はきっともっと早くに潰れてしまっていただろう。
    「先生のおかげで、今も私はIDOLiSH7の”和泉一織”として今も笑っていられる。きっと、先生が担当ではなかったらこんな風に今も立ってはいられなかったでしょうから」
    「っ」
     それまで静かに座っていたマネージャーがとうとう耐え切れなくなったように、小さく嗚咽を零し始める。押し殺してもなお小さな室内で響く声に、謝罪が混じり始める。
    「、貴方に泣かれるとどうしていいかわからなくなるんです。困ったな」
    「ふふ、あなたでも困ることはあるんですね」
    「ありますよ。マネージャーを泣かせたなんて社長や二階堂さんにバレたら私はただで済まないですよ」
     茶化すように、大袈裟に取られないように、敢えて軽い調子でそう話す。あまり軽口の類は得意ではなかったけれど、それでも泣いているマネージャーを笑わせたくて、なんとかおどけてみせる。悲しい顔は見たくなかった。自分が悲しい顔をさせている自覚はあったものの、それでもこれだけはどうあがいても避けることができない。
     それだけは、決まった未来だった。
    「ライブ、楽しみにしています」
    「会場中に、虹の橋を架けて、……流れ星を降らせて見せますよ」
     そう告げると、医師は下手くそな笑みを浮かべた。

    ☆☆☆

     神様、どうかお願いです。
     あと少し、あと数日でいいから、私を生きながらえさせてください。
     あと、数日だけでいいから。
    「一織?」
    「ゥ、っ」
    「大丈夫? どうしたらいい? どこか摩る?」
    「い、ッ、です、となりに、いてっ」
    「、」
     ライブ直前に体を傷つけるなんて、と思いながらも、気を失うことすら叶わない痛みに、手のひらに傷を作るほどの強さで握りしめる。モザイクがかかったような視界では天がどんな顔をしているかもどこにいるのかも判別がつかない。ライブは明後日に迫っているというのに、体は全くと言っていいほどいうことを聞いてくれない。全身が強張って、動かすなんて芸当できそうもなかった。
    「ぁ、う……ッく」
    「ごめんね、何もできなくて……」
     天の苦しそうな声に、申し訳なさが募る。天はただ巻き込まれただけだというのに。自身の方こそ謝らなければ、と思うものの、耐えがたい痛みに歯の根が震えて言葉を発することはもちろん、話すなんてとてもではないができそうになかった。
    「ふ、ッ、ん、」
     そろそろ握った手の感覚すらなくなってしまいそうで、あまりの痛みで自分が自分ではなくなってしまいそうな恐怖に涙が溢れた。
    「……辛いね」
     冷たい指が涙を掬って、痙攣して麻痺してしまった手を解くと天のものと繋がれる。傷をつけてしまう、と一瞬怯むものの、それ以上の痛みに訳が分からなくなって、気にするどころではなくなってしまう。
    「あ、ぇ」
     いっそ意識さえ飛ばすことができたらいいのに、自分の体の防御機構はどうなっているのだろう。
    「ふ、ふ、ッ、」
    「落ち着いてきた?」
    「は、ぃ」
     激しすぎる痛みの波に、体はまだ震えて止めていた息のせいで全身が痺れていた。涙だけはぼろぼろとこぼれ続けるものの、しばらくすれば止まるだろう。
     このまま本番を迎えることができるのだろうか、という不安が静かに胸の内を焼き尽くす。痛み以外ではもう泣くことなどなかったのに、体調のせいか精神も悪い方向へと引きずられて、涙は止まりそうもない。さすがに天も不審に思ったのか、窺うように顔を覗き込んでくる。
    「どっかおかしい?」
    「わ、わか、わかりません、涙、とまらな、」
     震える手で顔を覆おうとしてもうまくいかなくて、顔を覗き込んだ天は静かに口を噤む。
    「え」
    「泣いていいんだよ」
    「どう、いう」
    「キミは、もうずいぶん頑張ったんだよ」
    「!」
     喉が、震えた。
     唇が戦慄いて、空気が漏れる。
     涙腺が壊れてしまったように落ち続ける涙は、ひたすらに一織の頬を濡らしていく。
    「恐くて当たり前なんだよ。……死にたくなくて、当然なんだ」
    「ッひゅ」
     天からかけられる声に、息ができなくなる。足りない酸素に頭がくらくらして、視界がカラフルに彩られる。
     涙だけは止まらずにずっと流れ続けて、頬に川を作る。
    「ずっと我慢してて偉かったね……」
    「、」
     我慢などしているつもりはなかった。だって、天の前では幾度となく情けない姿をさらした。醜態も痴態も数えきれないほど見せて、弱音だって天にはぶつけた。
     それでも、まるで天の言葉が正しいのだと裏付けるように、涙は止まらずに頬を濡らし続けた。
    「ボクにも言ってないこと、あるでしょう」
    「……」
    「血を吐いてるでしょう」
    「!」
     隠せているつもりだったのに、いつ気が付かれたのだろうか。強張った背中を宥めるように摩る天は、苦みを乗せた声でなおも続ける。
    「顔色が悪いとは思ってたんだよね。確信したのはこの間。ライブの練習が始まったあたりから、明らかにキミの体調が悪化したでしょう。何か原因があるはずだってずっと思ってたんだよね」
    「げほ……」
     詰まっていた息をしようとすると、数回連続して咳が出る。混じる血の味はもう慣れ親しんだものになってしまっていた。
    「すごいね。ここまでやってきたんだ」
     感嘆の息を吐く天は、ぽつぽつ一織を褒めながら言うことを利かない体を摩ってくれた。もう、痛みも感覚もわからなくて視覚で見ているから手が触れていると言えたものの、目をつぶっていたらそれすらもわからなかったかもしれない。

    —―もう、本当に永くない。

     自然と弾き出されてしまった答えに、静かに目を閉じる。
     願うことは、たった一つ。
     ライブの、成功だった。

    ☆☆☆

     何人もの協力を借りて出来上がったライブは、間違いなく過去最高のものだと自負できる出来だった。これまでの不調が嘘のように体は軽く、声は何処までも届きそうなほど自由だった。マネージャーの全身全霊を込めた演出はもちろん、自身の発揮するパフォーマンスは体調を考えれば万々歳の代物だったように思う。無茶だとわかったうえで、これが最後だからと何度も体に言い聞かせて軋む関節も嫌な音を立てる気管支にも、金槌で殴られるほどの激痛も笑顔の下に隠して歌って踊る。
     それが、アイドル”和泉一織”の仕事だからだ。
     普段はしないようなファンサも、メンバーとの絡みも少し多くして。
     楽しくて、いつまでだって歌って、パフォーマンスができそうだった。

     それでも、始まりがあるから終わりが来るのもまた当然のことで。
     少しずつ、終わりの時間が迫ってくる。
     アンコールで飛び出して、歌って、歌って、踊って話して。
     楽しい時間は、あっという間だった。

     ステージの真ん中に立って一人ずつ挨拶をする。
     夢のような時間は、終わっていく。
     流れ星は、もう少しで燃え尽きてしまう。
    「じゃあまずは一織!」
    「はい」
     乞われるままに一歩前に進み出る。途端にあちこちから一織ー! いおりん! と言った声がかかって、ついつい笑みが浮かぶ。
     やはり、自分の居場所はここなのだ、とそう思えた。
    「はい。皆さん、今日のライブはいかがでしたか?」
     楽しかった、よかった、泣いた、いくつもの声が上がって少しずつ、コップがたまっていく。
    「よかったです。……、」
    「い、一織?」
    「どうした~?」
     珍しく言葉に詰まったからだろうか。メンバーたちが不思議そうに自身を見るのがわかる。
     自分でも、どうしたらいいのかわからない。胸が詰まって、うれしさや愛おしさ、苦しさと痛みで声が出ない。
    「今日ライブをして、皆さんにたくさんの愛を届けて、愛を受け取って、…………」
     なんとか思いを届けたくて、言葉を探す。黙ってしまったら、もう何も言えなくなってしまうと思ったから。
    「……私の居場所は、ここなんだ、と。ここまでやってきて、」
    「イオリ」
    「一織君?」
     堪えよう、我慢しよう。そう、思っていたのに。
    「え、大丈夫!? どしたん?」
    「わ~!! 泣かないでよ一織~!!」
    「、泣いてません」
     人は嬉しい時にも涙が溢れるのだと言う。
     今自分の目から溢れる涙は、嬉し涙なのか、何もわからない程の痛みのせいなのか、彼らを置いていく後悔のせいなのか、はっきりとはわからなかった。
    「一織ぃ~!」
    「わ、兄さん?」
     背中にとびかかって来た兄を受け止めると、驚きで涙が止まった。自分よりもよほど激しく泣いている兄を見ると、愛おしさで胸が溢れる。満足感で、頬が上がる。
     ひとつ深呼吸をして、震えそうになる喉を叱咤すると、微かに滲む視界をリセットするために一度瞬く。
    「私がやってきたことは、一つも間違っていなかったのだと、改めて実感させていただきました」
    「なんか〆っぽいこと言うのやめて? これからあと6人話すからな??」
     大和が頬を引きつらせている間に、三月はなぜか涙の量を増やして、陸や環もつられたように泣きそうな顔をしている。
    「……、その」
    「エ、まだ続く?」
    「これでさいごにしますから」
    「あ、ハイ」
     本当? と疑うような視線を向けてくる大和を黙らせると、一度目を閉じてゆっくりと開く。
    「私たちを、愛してくれてありがとうございます。たくさん、伝わっています」
     どこかから啜り泣きがする。もしかすると、三月につられているのかもしれない。そう思うと、自身の鼻の奥もツンと痛む。折角、こらえていたのに。
     わざとごくりと大きな音をたてて唾を飲み込むと、一度マイクをはずす。
     これは、肉声で届けたかった。
    「ありがとうございます」
     ぱちぱち、拍手に包まれる。異様な空気になっているのはきっと誰もが感じているように思う。けれど、ライブ中に本心を聞いてくる人間などいない。
    「どうか、これからもIDOLiSH7の応援をお願いします。和泉一織でした」
     深く深く頭を下げて、落ちていく汗を見送る。

     もう、終わりの時間は近い。

     最期の曲、自分たちの最初で原点のあの曲を全力で歌って、ステージからはけていく。ふわふわしているのは、高揚感のせいだと言いたい。
    「一織、今日は珍しく感傷的だったじゃん」
     まだ赤みの残る目元をやわらげて話しかける兄に、そうですね、と告げようと思ったのに、言葉はいつまで経っても口から出てくることはない。

     あぁ。

    「一織?」


     時間が、きてしまった。


    「ッ一織!!」
     
     三月の声がして、メンバーたちが驚いたように意識を二人の方へ向ける。
     がん、と強い衝撃がして、意識が飛んだ。

     真白の中を揺蕩って、ぼんやりとした意識の中を泳ぐ。
     自分は死んでしまったのだろうか。
     否、それにしては痛みは薄まっていないし、誰かの泣き声が良く聞こえる。
     まだ、生きているらしい。

     重たくて重たくて仕方ない瞼を無理やり持ち上げて目を開く。
     白い天井が目に入って、6色の髪色が目に痛い。
    「、みなさん……」
    「一織!!」
    「イチッ!?」
    「い、いおりッ」
     ばらばらと名前を呼ばれて、見回せばだれもが赤い目をしてこれでもかというほどに泣いていた。

     もう、ばれてしまったのだろう。

    「ばか、馬鹿ッ!! なんで、なんでもっと早く言ってくれなかったんだよ!!」
    「イオリ、頑張り屋です。ですが、これはさすがに頑張りすぎですよ」
    「一織君……」
     そんな場合ではないとわかっていながら、口元には笑みが浮かぶ。だって、想像していたよりもずっとずっと、彼らは一織のことを惜しんでくれていたのだから。
    「ありがとう、ございました。私は、みなさん、と、あいどるができて、ッ、ほんとう、に、」
     本当に、楽しかった。うれしかった。どれだけ感謝をしても足りないくらい、大きな感謝を抱いていた。
    「しあわせ、でした」
     これ以上ないほどの、幸せな最期だと思う。
     待ち望んでいた、”終わり”の形に、一番近かった。
     もう頭の靄がひどくて、意識は今にも落ちそうだった。
     近くのモニターが異音を立てて、自身の息がもうすぐ止まりそうだと悲鳴を上げている。
    「!!」
    「い、お、」
    「……だいすき、です」
     煩わしい酸素マスクを取り払って、精一杯の笑みを浮かべて、愛を伝える。
     たくさんたくさん、分けてもらったから。
     いっぱい、ありがとう、と、伝えるために。
    「オレ、オレもいおりんのこと大好きだから!」
    「イオリ、ワタシもアナタが大好きですよ」
    「お兄さんも、イチのこと大好きだからな」
    「一織君、いっぱいいっぱい、ありがとう。大好きだよ」
    「一織、お前は俺の誇りだ」

    「一織、俺も一織のこと、大好きだよ、ずっと、ずっと」

     体は動かなくて、もう意識も半分は飛んでいた。そんな中聞こえてきたメンバーたちからの愛の言葉に、大好きな、大好きな音楽に、頬が自然と笑みを作って、もうどれだけ流したかわからない涙が溢れていく。

     さようならはいらない。いつか、会える日が来るから。
     またねの約束もいらない。きっと、歌声を頼りに見つけるから。

     でもどうか、その日はずっとずっと先であって。

     私は先にリタイアしてしまうけれど。




     どうか、その痛みには気づかないで。

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