月の宴・壱【嚆矢】
宮中は夜でも人の気配が途絶えることはない。
帝やその妃たちや御子を守るために詰めている近衛や、宮中に住まう高貴な者のお世話のために控えている者たち。
しかし宮中の端に位置するこの建物はそう言った物とは縁遠い。
まだこの時代では。
この建物は、陰陽寮。
その名の通り、陰陽師達が日々勤めている。
近衛の夜の勤めの刻が終わりはしたが、勤めが終わっても夜明けまでは宮中に詰めている決まりだ。
近衛の夜勤は前後半制である。
前半だった時は、この建物で夜明けまでの刻を潰すことにしている。
この陰陽寮には、自分の兄弟である騒速(ソハヤ)が所属している。
それと。
「お前は毎回ここで俺と飲んで…飽きないな」
ふ、と笑みを漏らす蘇芳の髪の男。
酒を注がれた白の杯から目線がこちらへと向く。
鋼の様な色をした目がこちらを眺めている。
「…あんたと飲めるのはここだけだからな」
つ…と、杯を持たない手が側に置いている自らの太刀を探し当て軽く触れた。
その目の色は、自分が最も信を置き好ましいと感じている太刀と同じ色だ。
蘇芳の男は酒を口に含み、そうして一箇所開かれた蔀の向こうに広がる静かな夜の庭先へと視線を向けた。
「…相変わらず物好きだな」
陰陽寮に所属するものは皆黒い衣で身を固めている。
この蘇芳の男ももちろん陰陽寮に勤めているためその身は黒衣に包まれている。
「あんたの顔が見たいからな…大包平」
「そう呼ぶのはお前の兄弟の騒速(ソハヤ)とお前くらいだぞ、大典太」
「俺をそう呼ぶのも…あんただけだ」
大包平と呼んだ蘇芳の男が、尚酒を飲もうと白い酒瓶に手を伸ばそうとしたのを手で制し、少しだけ距離を詰めて自分が注いでやる。
「なあ、…あんたは何時になったら俺の想いに応えてくれるんだ?」
酒瓶を太刀と逆側に置き、更ににじりよる。
「さあ?…ああ、そうだお前も貴族の一員を名乗るのであれば、歌の一つも詠んでみろ」
くい、と一気に酒を呷りそのまま至近距離でにい、と一つ笑みを浮かべられる。
まるで挑発するように。
嗚呼、そうだ。その目で見つめられると、何時も煽られる。
「俺が詠んだら、あんたからの返歌を貰えるのか?」
じい、とこちらも至近距離のまま焦げ付きそうなほど熱の篭った眼差しを向けると、
「歌の出来次第だな」などと憎たらしい事を言う。
それでも、今はその鋼の目は楽しそうにじっと自分を見つめている。
他を見ることなく、自分だけを。
「…わが命の全けむかぎり忘れめやいや
日に異には思ひ益すとも」
「ふ、『命』か。…武官のお前らしく直情的で情緒がないな」
「…どうせ…」
面白そうに、くつくつと声を挙げて笑う蘇芳の男の態度に、先程まであれほど煽られていた気持ちが萎んで落ち込んでいく。
いっそ滑稽なほど。
相手の一挙手一投足に心は振り回される。
「いや、お前らしくていい歌だったぞ?大典太」
「では、返歌を…?」
「【次】を期待している」
さらり、と流されそうして視線もつい、と逸らされる。
これは、今回はこれで終いだ、と言う合図だ。
自分は時間が空けば夜更けにここを訪ねる事をずっと繰り返している。
一部開かれた蔀の先の庭先からは宮中の中に引かれた小川の水音が絶えることなく聞こえるのみだった。
【意味】 わたしのが命がある限り、あなたのことは忘れません。日ごとに想いが増す事はあったとしても。
詠み人・笠女郎(万葉集より)