その画(え)の向こう今日も、この建物のメインホールへと足を踏み入れる。
この建物は国立の美術館。
外は憎たらしいほどの夏の晴れた空だが、建物の中はひんやりとしている。
重要な絵画や彫刻などを展示するための建物だからなのか、空調が行き届き日中なのに室内はどこか薄暗い。
メインホールはそれなりの人出ではあったが、ホールの真ん中にあるベンチタイプのソファにはまだ空きがあった。
真っすぐにそこへ向かい、腰掛ける。
視線を上げるとそこには、この展示会のメインである大型の絵画がある。
学校施設などの壁一面使ってではないと飾ることができない程のサイズ。
その絵画は夜の一面の草原、そこかしこから湧き上がる蛍の光たちをただ眺めている男の後ろ姿が描かれたものだった。
その男の後ろ頭の辺りを眺める。
ふわり、
空調とは違う風が頬を撫でていく。
草むらの中にいるような風の薫り。
それを合図に目を閉じる。
「きたか」
そういって、目の前の絵画の中の男はこちらを振り返るのだ。
暗い朱色の髪と銀の金属のような目を持つ男が。
最初にこの美術館に来ようと思ったのは、展示会ポスターが気になったからだ。
俺と共に見ていた同級生が、俺が読んでいた展示会タイトルとは違う物を口にした。
思わずポスターを見直したが、やはり俺には別のタイトルに見える。
ちなみに、同級生は【日本の原風景展】と読んでいた。
俺にはどう見てもこう読めた。
【本丸展】と。
同級生には違うタイトルが見えている事を伝えることはしなかった。
だがどこかでこの事が引っかかり続けていた。
今の自分の身分は、ある程度の時間に余裕のある大学生だ。
混雑を避け、平日の昼過ぎに一人で訪れることにした。
エントランスで館内は禁煙の旨の表示を見つけ、外の自動販売機側にある喫煙所で一服してから建物内に足を踏み入れた。
確かに同級生が読んだ【日本の原風景展】のタイトルを銘打っているだけに展示内容は季節の自然の風景画がほとんどだった。
ただし、全ての風景画には人物の後ろ姿が描かれている。
俺達のような今どきの服装ではなく、何らかの制服のようなものだったり、着物のようなものだったり。
ただし、全ての人物のパーツにそれぞれ防具のような物も描かれていて、これは一体どこの国の風景なのかと少々混乱しながらも先を進む。
そうして、メインホールに踏み入れた瞬間。
突風のような衝撃が自分に向けてぶつけられ思わず目を閉じる。
そろり、と目を開くと視線の先には大型の絵画があった。
真っ直ぐにその絵画へと足が向く。
他には目もくれず真っ直ぐに。
その絵画のタイトルは【蛍狩】。
初夏の頃だろうか。
夜がりでも青々としていることが分かる草原から蛍の光が湧き上がっている。
そして、それを眺めているだろう男の後ろ姿。
これだ、
この絵を見た瞬間そう思った。
何が「これだ」なのかさっぱり分からないが、俺はこれを待っていた?
ばしん!
顔を狙うようにまた突風が吹く。
思わず目を閉じ、そうしてまたそろりと開く。
目の前に広がるのは、先ほどまで穴が開くほどに見つめていたあの絵の世界。
やはり季節は初夏の頃の様で寒くも暑くもない夜と瑞々しい青の草原の植物の匂いが鼻をくすぐる。
全ての植物が景色が生き生きと美しく見える。
「きたか」
聞こえる声にそちらを見ると少し離れた場所に立つ男の姿。
あの絵画の後ろ姿の物と同じ少し制服のような…軍服のような不思議な服装をしている。
絵画では後ろ姿のみだったが、男はこちらを真っすぐに見つめている。
暗い朱色の髪と銀の金属のような目を持って、それを纏っても何の遜色も無いほどの恐ろしく美しい顔をした男だった。
「あんたは…」
「遅いぞ、■■■」
そうしてこちらには理解できない単語を投げられた。
それは、俺を指す単語なのだろうか。
「それは…俺の事か?」
相手と少し距離があるため普段よりも声を張る。
俺の足はその場に縫い留められたように一歩も動かすこともできない。
相手はそれに応えることはなく、少しだけ笑ったようだった。
「ここはどうだ?」
「…ああ、美しいな」
今の俺にはこの美しい夜の景色も、目の前の男を飾るための背景に過ぎない。
もっと見ていたい。
この男の顔を、声を、その存在を。
「…そろそろ刻限か」
ぽつり、と相手が呟いた声が耳に届いた。
嫌だ。
まだ、ここにいたい。
もっと、あの男の側に近づきたいのに。
「ではまたな、■■■」
ばしん、
また顔に衝撃のようなものを感じ目を閉じ、そうしてそろりと開く。
「…大丈夫ですか?」
学芸員の年配の男がそう声を掛け来たところだった。
「あぁ、はい…」
ちらり、と腕時計を見るともうすぐ閉館の時間だった。
視線を上げると、そこにはあの【蛍狩】。
そうして、あの男の後ろ姿。
狐につままれた気分のまま美術館から出る。
何気に上着のポケットを探ると煙草の箱が出てきた。
「…」
帰り道コンビニのゴミ箱へとそれを投げ入れる。
それなりのニコチン中毒だという自覚はあったが、今は全く吸いたいとは思えなかった。
あの場所に立つあの男に会うために、またあの場所に立ちたいと願う自分には紫煙の匂いなど余分な物だ。
それから、連日あの展示会へ足を運んでいる。
大学の講義の出席日数など後でどうにでもなる。
バイトも辞めた。
バイトなど展示会が終わればまた新しく始めればいいだけだ。
毎日、あのメインホールの絵画へと通い続ける。
毎回あの男に会える訳ではない。
無駄足だった事も何度もある。
だが、ふとした拍子にあの世界へと繋がり、
「きたか」
そう言ってこちらを見るあの銀の金属の目を向けられるだけで言いようのない感情が胸の辺りから湧き出てくる。
それにあの世界へとつながる度に、男との距離が一歩ずつ近づいている。
もしかしたら触れられるかもしれない。
いや、触られるかもじゃない、触りたい、絶対触る。
しかし、何故俺側から近づくことが出来ないのか。
相変わらず自分の足は縫い付けられたようにその場から動かすことは出来ない。
今日もつながった。
「…来たか」
ふ、と笑みが浮かべられる。
その距離はあと一歩で手を伸ばしても届く所まで来ている。
あと一歩、もう一歩。
「…あんたの名前を教えてくれ」
これも毎回の遣り取り。
相手の美しい男はふ、と薄く笑い口を開いて返す言葉もまた毎回の遣り取り。
「それは、お前がよく知っているはずだ」
それから数日あの世界へとつながることがなくなった。
企画展示としては、異例の長さで開催されていたこの展示会もついに明日で終わりを迎える。
明日。
明日、つながらないとあの男はどうなるのだろう。
あと一歩だったその距離は。
明日も開場と同時にあの画の前に向かおうと思い、早々に眠ろうとしたが今夜は何故か目が冴えてしまう。
安酒の力を借りてようやく眠ることが出来たのは、新聞配達員のバイクが部屋の前を通り過ぎる音を聞いた時分だった。
夢を見た。
自分が何かに囲まれている。
化け物のようななにか。
それが自分へと向け攻撃してくるが、自分の身体が勝手に動く。
右の手には何かが握られている。
しっくりと、自らの手に馴染むそれは一振の刀。
若草色の柄巻。
そこから伸びる刀身。
ぎらり、ぎらり、と輝くその刀身。
それが、化け物たちの身体に吸い込まれ斬られていく。
この刀の名は、
その名は。
【大典太光世】
最悪な事に、寝過ごした。
起きたのは昼過ぎ。
眠気覚ましにシャワーを浴び、急いで支度をして部屋から出る。
あの美術館へは電車を乗り継がないと辿り着けない。
ようやっとエントランスを潜ったのは16時。
「いらっしゃい、こんにちわ、本日は来られないと思ってましたよ」
何時の間にか顔見知りなった学芸員の年配の男に笑いかけられながらそう話しかけられる。
少し暗めの栗色の髪をもつ優し気な人間だ。
「本日は最終日なので、18時が退館時間になります」
「では、ごゆっくり」
足早にメインホールへと向かう。
最終日とあって、展示会は平日だがそれなりの人だった。
メインホールへと足を踏み入れ、そうしてあの【蛍狩】の前へと向かう。
かつん、
自分の靴の音がやけに響く。
ぶわり、
風が吹いた。
あの草原の匂い。
目を閉じ、そっと開くと
「きたか」
目の前にはあの美しい男が。
手を伸ばせば届く位置にいる。
「俺の名は…」
「思い出したか?」
ふ、と口許に灯る笑みが間近で見える。
「俺の名は…大典太光世か」
真っ直ぐに相手の目を見ながらその名を名乗る。
熱く柔らかい感触に包まれたのはほぼ同時だった。
「おかえり。…大典太光世」
目の前の男からその名を呼ばれると、胸元にこみ上げてくる熱い感情と衝動。
その衝動のままに、こちらからも相手を抱きしめ返す。
初めて触れることが出来たこの美しい男は、画の中だけの薄っぺらくお綺麗なだけの存在ではない。
温かく、細身ながらがっちりとした筋肉がついているのが服越しでも分かる。
そうして鼓動も。
この男は自分と同じで、確かにここに生きている。
「…お……おお…かねひら」
ひりつくような喉から無理矢理に言葉を絞り出す。
「おお、自分から良く言えたな」
よし、よぉし、
背に回された手がゆっくりと自分の背骨を辿るように撫でる。
「そら、見ろ」
促され視線をそちらへとやると、一斉に蛍が湧き上がった瞬間だった。
「お前を待ちすぎて、もう俺はこの画の中にしかいることができないからな」
「…すまない…こんなにあんたを待たせて」
名以外全てを思い出せた訳ではないが、義理堅いという記憶があるこの男の性質上、本当にずっと待っていたのだろう。
本体すらも手放して。
それでも尚。
「二振だけで蛍狩をしよう」
ふとした思い付きで放ったこちらからのその口約束だけの為に。
「今度は俺があんたの願いを叶える番だ」
「…俺は、この景色をお前と眺めたかっただけだ」
だから、もう叶っている。
間近でそう言って笑ったその男の頬に触れる。
「…大典太光世、お前はもう戻れ」
綺麗な笑みのままそう告げられた言葉は、到底納得できる内容ではなかった。
「…どこに?あんたの隣以外の何処に」
「お前は今は人の身だろう」
聞き分けのない癇癪を起した短刀を宥める時のような困った笑みを浮かべ、男もこちらの頬に触れた。
「俺の口約束を叶えてくれたあんたの願いを叶えたい。
…この景色を眺めていたいのならば、俺もずっとここにいる」
「…仕方のない男だな、相変わらず」
ふ、と笑みをお互いに零し合いその際漏れた息を食むかのように口を開く。
食んだ唇も、そこから漏れ出た吐息も。
ああ、暖かい。
この男は絵画越しでしか見えない整った感情の読めないお綺麗な存在ではない。
熱く、人と同じように欲を持つ、案外と俗っぽい付喪神だ。
そうして自分も、この男と同じ。
熱っぽくなった互いの吐息ごと食むよう、更に口を重ね合う。
「おや、あの学生さんはいつの間にか帰られたようですね」
年配の学芸員が閉館時間を告げるために見回りをしている。
ある日から、ほぼ毎日通うようになった目を引く精悍な長髪の青年の姿はメインホールにはない。
いつもぼうっとまるで魂が抜けてしまったかのような体で【ある画を】眺め続けていた。
その【ある画】の前に立つ。
学校施設の壁一面を使わないと飾ることができない程の大作。
タイトルは【蛍狩】
夜の草原の中に湧き立つ蛍の光達を描いたものだ。
「…おや?」
少し外れた辺りに描かれている後ろ姿の一人の男。
いや。
共に寄り添い湧き立つ蛍達を眺める二人の男の後ろ姿が、そこにはあった。