ヤング・クロウリー ~始まりの物語~ 第二部⑪話「王妃、生い立ちを語る」 隣国の王が穏便に帰っていってからのこと。
ディアヴァルは今では城のあちこちに出入りして、時に姿を見せつけ、時にひっそりと物陰に隠れて聞き耳を立てて人々の噂を集めていた。それをグリムヒルデに伝えることは出来なくても、いつか役に立つこともあるかもしれない。それに何よりも、愛する人がどう評価されているのか気になってしまったのだ。
人々の噂は、はっきりと変化していた。
いまや王妃は、一日の多くを地下室で過ごすようになった。寂しがる姫には、おかあしゃまは大事なお仕事があるから、と言い聞かせて乳母に任せ、ディアヴァルを伴って地下へと降りてゆく。そこで秘薬の調合の研究に没頭するのだった。
そんな日が続くと、城の中には「王妃は魔女だ」という噂が再び囁かれるようになった。ただ、以前とは違って、その囁きは畏れこそ含んではいたが、悪意は含まれていなかった。
城の人々は、堂々と征服者を出迎えて上手く追い返した王妃をしっかりと見定め、その胆力を認めていたのだ。今や噂は「王妃は魔法を使ってあの男を手玉に取り、国と操を守った。凄い女傑ではないか」という好意的な物に変わっていた。そして、自然と彼女のことを「王妃」と呼ぶ代りに「女王」と呼ぶ者が現れ始め、その数は日を追って増えていったのだった。
そんな人々の変化を知ってか知らずか、王妃は日々地下室での研鑽に励むのだった。しかし幸いなことに、地下で過ごす時間が長くなっても、そしてその時間をカラスと共に過ごしていても、人々は「また近隣の国に無理難題を吹っかけられてもなんとかできる様に準備をしているに違いない」と受け取って悪く言うものはいなかった。
王妃は地下室でディアヴァルと二人きりになると、ディアヴァル相手にいろいろなことを話してくれた。
それは、薬の調合のコツだったり、いま試行錯誤している秘薬の素材の候補のことだったり、近隣の国々の情勢だったり、あるいは城の中の人々の話だったり、その時に王妃の気がかりなことを話してくれるのだった。
そんな王妃の研鑽の日々にお供することは、ディアヴァルにとってこの上なく嬉しいものだった。自分だけがお側仕えをを許されている、という想いは、愛を伝える術のない彼にとって特別大切なものだったのだ。
王妃ははディアヴァルが話を理解しているとは思ってもみなかったろう。けれど、ディアヴァルはすべて理解して、大切に記憶していたのだ。
ある日、王妃は自分の生い立ちについて語ってくれた。
「お前、これまでどんな世界を見てきたのかしらね? さぞかし広い世界を飛び回ってきたのでしょうね。私はね、あの小さな村の小さな家で生まれ育ったの。ずっとずっとあそこに居たのよ」
ディアヴァルが小首をかしげて王妃の顔を見上げると、彼女はディアヴァルの喉をその細くたおやかな指で撫で上げた。ディアヴァルはその感触に恍惚となって身を震わせた。
王妃はしばし想いに耽りながら彼のベルベットのように短くなめらかな羽毛に覆われた顎を撫でていたが、やがて手を離すと鍋の火加減を調節し、また話し始める。
「私の母はね、とても優秀な薬師だったのよ。私の薬草の知識の基礎は母に教わったもの。あの頃は幸せだった。母も父も可愛がってくれて、毎日が楽しかった……」
王妃は手を止めると、遠くを見つめ、それからふっとため息をつくと視線を落とした。
「でもね、母は早くに亡くなってしまったの……」
眉根を寄せてうつむく王妃の横顔はたいそう苦しげに見えた。ディアヴァルの胸はそれだけできゅっと締め付けられ、悲しみに満たされる。自分が人間の姿なら、この御方を抱きしめて慰めることも出来たろうに……。そんな夢想が脳裏をよぎる。鴉の姿では、こうして喉を撫でて貰って、せめてもの癒やしになって差し上げるしか出来ない。そのことが身悶えする程もどかしかった。
「母はね、私の弟を産むときに大変な難産でね。産褥熱で亡くなったのよ。命がけで生んだ弟も、まもなく母の後を追ってしまった。私は一生懸命母と弟を看病したわ。でも……」
グリムヒルデは、口を噤むと、鍋をかき混ぜ、ため息を付いた。
「……私の作った薬湯では、二人を救うことは出来なかったの」
そしてまた、鍋をかき混ぜ、満月の晩に集めた夜露をひとたらし追加する。
「父には、お前のせいだ、と罵られたわ。殴られこそしなかったけれど。父は母をとてもとても愛していたの。世界中で一番ね……」
ディアヴァルは、彼女が涙を流さずに泣いているような気がした。ああ。胸を締め付けられるようだ……。話を聞いているだけの俺がこんなに辛いのだ。幼かった彼女は、どれほど辛かったろうか?
「父は変わってしまった。仕事には前以上に励んでいたけれど、家に帰ると酒ばかり。そして私を罵るのよ。『この魔女め! お前のせいだ! お前が毒を盛ったのだろう!!』ってね……」
暗い過去の記憶を振り払うように、王妃は顔を上げた。そして、ディアヴァルを見ると、にっこり微笑んで喉を撫でた。ディアヴァルは心臓が止まりそうなほどの多幸感に包まれた。思わず嘴が緩み、呆けたような顔になってしまう。
「ええ。そうよ。私も父が大嫌いになったの。お互い様よね? ……だから、あの男が死んだ後で、家中の鏡を、あの男が作った作品たちを、家から持ち出して木に吊るしたのよ。欲しい人が好きに持っていってください、ってね。おかげさまで清々したわ」
あの日、初めてディアヴァルが彼女を見つけた時の光景が思い出された。例えようもなく美しい光の群れには、そんな悲しい背景があったのか……。
「親に忌まれた『魔女』が、今やこの国の王妃! ……人生はわからないものね。でも私には愛する人がいない……。運命の人と出会えたと思ったのに……失ってしまった。クロウリー、お前だけよ、私の側にいてくれるのは。愛しい子。ずっとそこに居ておくれ」
ディアヴァルの胸に、彼女の孤独が深く突き刺さった。
なんとかしてこの方をお慰めしたい。せめて自分が人間の言葉を喋れたら。そう思ったディアヴァルは、こっそりと人間の言葉の発音を練習し始めた。
ほどなく彼は、人間の言葉を幾つかしゃべることが出来るようになった。朝夕の挨拶。彼女の美しさを称える言葉。それはすぐに口にすることが出来た。そして彼女は彼の人語をことのほか喜んでくれた。
けれど、真っ先に覚えたのに使えなかった言葉があった。
それは、愛の言葉。彼女に自分の想いを伝える言葉だった。
だって! そうではないか? モノマネ鳥が愛の言葉を話したとて、それを心からの言葉だと信じる人間がいるだろうか? ただのモノマネと思われる位なら、言葉になどしない方がいい。
そうしてディアヴァルは、ついに彼女に愛を囁くことはできなかったのだった。
後に、彼はそれを深く後悔することになる。
だがそれは、もう少し先のお話……。
【豆知識】
魔女の大釜について。
錬金術や魔女につきものの大釜。あのイメージはどこから来たのでしょうか?
ファンタジーが好きで、なおかつ歴史や神話に興味のある人ならとっくにご存知だと思いますが、あの大釜にも元ネタはあります。
ゲームや小説に登場する魔女の大釜の主なイメージソースは、いわゆる「島のケルト*」の神話に登場する大釜でしょう。
この大釜、実は島のケルトだけでも三種類あるのです。
一つはドルイド教の神・ダグダ(またはダグザ)の豊穣の大鍋。尽きること無く食べ物が出てきて誰もが満腹になる大鍋です。
もう一つは、ウェールズの古い物語「マビノギ」に登場する再生の大釜。こちらは死者を投げ込むと翌日には生き返るという物です。
そしてもう一つは生贄を捧げるために使われる実在の大釜。この大釜を使うときには、生贄はただちに偉大な英雄に生まれ変わるとされて、死を受け入れやすいように仕向けられていたそうです。
こうした大釜の伝承や供犠(=生贄を捧げる儀式)は世界に広く見られ、西洋における大釜のイメージはアーサー王が探し求めたという聖杯や、錬金術の大釜のイメージに結実していったのです。
*島のケルト(島嶼ケルト)は、近年の研究によると、実は「大陸のケルト民族とは無関係」という説が有力になっているそうです。それでは何と呼べばいいのか?まではまだ決まっていない模様。
・参考にした書籍
「スィールの娘」 (マビノギオン物語2) (創元推理文庫)
ここで描かれる「再生の大釜」は闇属性です!
・参考にしたHP
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/cauldron.html
全部読むのは大変ですが、とてもおもしろいHPなので興味のある人はてっぺんから最後までどうぞ!いろいろな神話の大釜について語られていて、九姉妹やカルデア人の宇宙論も出てきます。
・下記リンクからは各地域の大釜の要約に飛びます。豆知識で紹介したのはこの要約の中の「ケルト・ウェールズ」をさらにかいつまんだものにチョイ足ししたものです。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/cauldron.html#36
※ポイピクはコピペ出来ないので、自力検索される方は「ケルト・ウェールズ 大なべ(Cauldron)」でググってみて下さい。
※「ケルト・ウェールズ 大釜」でググると、Wikipediaの「アンヌン」(もしくは「アンヌヴン」。島嶼ケルト神話の異界)がHITします。こちらでも簡単に「死者を復活させる魔法の大釜が存在するが、大釜を守る9人の乙女(アヴァロンに棲む9姉妹と共通)の呼吸が必要である」と言及があります。