友と毒「テオ、私は。生まれて幾日かの頃の。あの子の頬の柔らかさを忘れることが出来ないでいるのだよ」
それはもう、なにかと比べることすらたやすく出来てしまえるほどに。
艶やかに笑うこの男に。
支配の紋章などというものを与えた人間は実に愚かだ。
操る事などせず自由に思考させた方が、確実に敵の脆い場所を見抜き、的確に突いて崩すのだから。
そう、このように。
見落としてやる方が難しい色味を纏う男が、その毒々しさに目を奪われ思わず見落とされてしまう色の旗を持ちながらたった一人で悠然と歩いてくるのを。
百戦百勝のテオ・マクドールの部下ですら戸惑いを持って上に報告するのが精いっぱいだった。
これが都市同盟のどこかの市長であったならば、首を落とさないまでも五体満足ではいられない状態にした上で簀巻きにし、将軍の御前へ引っ立てるくらいの自己判断をしてしまえる軍だというのに。
これを演出したのはシルバーバーグか。ならば血族蠢く屋敷に残る誰がしかをバルバロッサ様の軍師として早急に迎えるべきだと、無表情を取り繕うことには成功しながらテオ・マクドールは珍しく内心で毒づいた。
城に残る有象無象では、マッシュ・シルバーバーグに対抗できる悪辣さなど持ち合わせていないであろうことはあまりに明白。
ため息を零してしまわぬよう注意しながら口を開き、テオの言葉をじっと待つ部下へと短く命じる。
「わたしのテントへ」
衆目に晒すにはあまりにあれは、毒が強すぎると思いながら。
「やあテオ。久しぶりですね」
「正気の貴殿とは確かに」
口賢い相手の話術に取り込まれぬ様にと先制を取るテオに、細く整えられた片眉を大袈裟に上げてみせたミルイヒは。
「なるほど私のおかしさに気付いていた、と。そして貴公は正気でしかない。このような戦場で」
困ったものだと、幼子をどう叱ろうかと考える年長者のような顔をして、テオ・マクドールの傷一つ見られない体を上から下まで鷹揚に眺め回した。
彼の元来よく回る口が再び開かれる前に、テオは追撃の手を休める事をしない。してはいけないことを、彼はよく知っている。
「要件を伺おう。ああ、白旗まで持ちここに現れたその理由だけで良い」
「捕虜の交換を」
「捕虜だと?あの状況で何を言う」
大言壮語にも程がある、とテオが続ける前にその言葉は被せられた。
「ねえテオ、貴方の息子は優秀ですね。実に」
名を呼び親しさで踏み込み、優秀と言祝ぐ。
そして、戦場にあるというのに美しく整えられた指先をひとつ、己の唇にあて再び嫣然と笑った。
だからこの男は厄介なのだと、正気に戻したであろう息子に初めて。解放軍の首領になったのだと聞いた時よりもずっと、なんてことをしでかしてくれたのだとテオは苦々しくもまた、強く思った。
「あの状況と貴方は言いましたが、それはもう本当に。
彼は猛進し追撃する貴方の兵達を一瞥すると、狙いを定めて馬を狙っていきました。鉄鋼騎馬隊の、多分一番の新入りの乗るその馬を。
どうやったのかは遠目過ぎて解らなかったものですから省かせてください。
ただ馬をいなし、目を合わせ、そうして速度を落としたそれに飛び乗り元の主人を気絶させた。そのようにしか見えませんでした。
だから本当の事なのですよ。捕虜というのは」
良く回る口で、勝手に座り込んだ天幕の椅子の上。足を組みながら飲み物は持参したのだと優雅にワインを開けながら口を挟む暇を与えようともしない。
「これは軍師殿の依頼でしてね、戦がはじまる前に。勝てぬは必定、なれど捕虜をひとり、と」
軍師、の単語に眉間に皺を寄せるテオを、はじめて見せたその感情の揺らぎを楽しむように言葉を続ける。
「リオ殿が馬を奪うと同時にその背に温存していた魔法兵団長が現れ、特大の風を起こし、そうして我らは無事逃げおおせたのですよ。
ええ、無事といえる程度の損害では決してありませんでしたが」
「ミルイヒ」
「もちろん我ら解放軍が置き去りにするしかなかった者達の方がいかに多いかは把握しておりますとも。人数で比べられては到底敵わない。
私もこのような敗戦、圧倒的な負け戦、生まれてこの方はじめて経験させていただきました。人生何があるかわかりませんね。
ですがテオ・マクドール。帝国の守護将軍。貴方でしたら」
「ミルイヒもういい」
「グラスを2つ」
そう結局テオは、ミルイヒに口で勝てた事など一度たりとて無いのだ。
舌戦に対し早々に白旗を上げたテオに対し、今度は必要以上に端的に望みを口にするミルイヒを前に、グラス2つで口を閉ざすと言うのならば出してやる以外に選択肢など無い。
そして部下が居ないここでは堪える必要など少しも無いのだとテオは盛大に、この国に戻ってからはじめてのため息を吐いた。
「さあ、はやく」
そのような暇すら十分には与えずテーブルをたしたしと手の平で叩きながらテオをせかすミルイヒは、そう言って金色に光る懐中時計を懐から取り出しテーブルへと置くのだった。
ワインに相応しい洒落たグラスの用意などこの質実剛健な軍ではある筈もなく。
出された無骨なコップを前に鼻息だけで抗議したミルイヒは、それでも自ら持ち込み開封したワインを優雅な手付きでそれへと注ぎテオへ手渡した。
「乾杯の音頭はこちらではいりません。時間だけあわせてさあ、3,2,1」
言葉と手ぶりでさあ飲め、今飲めとテオをせかしたミルイヒは、もはや抵抗すら億劫だと大人しく口を付けるテオを見守るだけで自らはワインを口にすることをしなかった。
「…毒か?」
「いいえ。そんな愚かなことは」
目的は達せられたと言わんばかりに騒がしさばかりだけでなく声の高さすら抑えたミルイヒは、くるくるとコップを弄んでいた手を止めうっすらと微笑みのようなものを浮かべながらワインを口へと運んだ。
「シルバーバーグの目を盗み足止めしてまでこれを運んだのですよ。さあ、飲んでください我が友よ」
「友と呼ぶのか」
「ええ、貴方の息子に、目を覚ましていただきましたからね。そう、私はひとつ、貴方に謝らねばならないことが」
口元は笑いながらもわずかに目を伏せ、テオのコップにワインを足しながら静かに出方を待っているミルイヒを眺め。
この男はこのように、待つことも忍ぶことも出来る男だったなとテオは思い出す。亡き皇后を、いつまでも敬愛し偲ぶ、そのような男だったと。
その昔小さな砦に籠城し、来るとも知れぬ援軍を待つその間もこうして、目を惹く色の、眉1本まで整えられた無駄の無い姿の、絶望を知らぬ高らかな声のこの男に、何故だか皆が勇気付けられてしまっていたのを。
それがいつの頃からか変わってしまっていたことを自分は、手遅れになるまで見逃してしまっていた事すらもついでに思い出してしまったからこう言う他は無かった。
「伺おう」
「リオ…」
グレミオを殺めたのだと、それもひとかけらの身、1滴の血をも残さぬやり方でと。
言われて口から漏れ出たそれは、殺められた家人ではなくテオの最愛の息子の名だった。
華奢なグラスであったならば砕けて散っていただろう手の力の入り具合をちらりと見てミルイヒは、軽さと丈夫さが取り柄のコップで良かったとそれだけを思った。
この先いつか対立するのであろう親子の、勝負にたかが無機物の付けた外傷が入り込むことなどミルイヒには到底許せるものではない。
そうして少しの間目を閉じていたテオが、その目を再び開いた時には既に冷静さを取り戻してしまっているのを見て取りミルイヒは先に口を開いた。
「私はただ一人、リオ・マクドールに許されてこうしてまだ生きているのです。周りの者達は首を落とせとまあ至極真っ当な怒りに燃えていました。
ずいぶんと、愛されているようですね貴方の家族達は」
「…そうか。詫びるためにここまで来たと言うのならばもう充分だミルイヒ。去るが良い」
「おや、安いものですね。
しかし私は貴方のためだけにまかり越したわけではありませんよテオ。残念ながら」
そう言いながらミルイヒは、一度もテオに触らせなかった赤いワインの。
僅かに中身を残すその瓶のラベルを、テオに見えるように静かに彼の眼前へ、ことりと音を立てながら置いた。
「毒と花粉にまみれた私に、生まれた子を抱かせる母親などいませんでした。貴方に抱かせたがる人は列をなしていたものですが」
話をがらりと変えるミルイヒを止める事も出来ないでラベルを見つめてしまうテオの、外には出さぬ動揺をそれでもその長い付き合いの中で感じ取り。
「唯一あの子だけ。貴方の奥方だけが私にそれを望みました」
ミルイヒは僅かな憐れみの感情をその胸に抱く。
私の持つ毒は、目に見えるものだけではないとよく、知っているであろうにテオ、と。
「将軍達の守っているたくさんのものの中の一つです。そのように」
「……。」
「テオ、私はあの時の。生まれて幾日かの頃の。あの子の頬の柔らかさを忘れることが出来ないでいるのだよ。他を知る事がなかったから余計に」
「……ああ」
「だから戯れに、あの子の3つの誕生日にワインを。子供の苦手なこの私が生まれた年のワインを贈ってしまったのですがテオ。
あの時の我々の会話をあの子は。覚えていましたよあんなに小さかったのに」
「この子が無事成長し、帝国軍人となり。初の任務を無事終えたその時に開けるとしよう」
「私も呼んでくださるのでしょうね。無骨な貴殿の代わりに相応しい花を携えるとしましょう」
「花が必要か?息子に」
「奥方に送れと、私に言われた程度には」
「…そうか」
「ええ、覚えておきなさい」
「…そうだな」
「正気に戻り降伏し、落ち着いたころにあの子へと詫びようとした私に、何を詫びるべきなのかそれでも迷う私にリオは言ったのです」
『ミルイヒ様。せっかく頂いた、あの時のワインを。飲む事は叶わなくなってしまいました。
初任務は簡単なもので、無事終えられたのですが』
申し訳ありませんと言いながらもひそりと笑い、遠くへ向けられた透明で静謐な目はやけに大人びたもので。
そのまだ微かにまろい頬を触ればあの頃の、滑らかさと柔らかさをどこかに見つけられる年なのであろうことはよく知っていると言うのに。
「そんなやり取りを越えて。遂に貴方と一戦交え。あの子が捕虜を捕まえてみせた時に決めたのです。
解放軍に潜入している陛下の腹心を捕まえて、この年のワインを2本。
そのかわりこの先なにが起ころうとも私がスパイを告発することは無いでしょう、と。
ワインは彼の趣味ですが、この状況下では期待していなかったのです。本当は。
ですがまあどうしたものか本当に手に入れて差し出されたものですからシルバーバーグだろうと欺かずにはいられなかったのですよ。
彼の計画を知ってしまう前に行動を起こしました」
あまりに透明で清潔すぎる泉には生き物は住めぬのだと聞く。
微かな汚れに。僅かな異物に。我々はなろうではないかテオ。
「今ごろリオは、解放軍の同じような年ごろの、いつも行動を共にする友人らとこれと同じワインを味わっているでしょう。
もう少し華奢な、グラスを合わせながら」
音頭は要らぬとやたら急かされた事を、それでテオは思い出した。
「転位魔法とは便利なものですね」
くすりと笑いながら残るワインをテオのコップに注ぐミルイヒに。
ああ、これは。
胸の内を焼く、劇物だと思いながらテオ・マクドールは。
コップ中の赤い、少し澱の混じるそのワインを一気にあおり、飲み下した。
貴方はどうせ、あの子を亡くしてまともには生きていけないのだからテオ。
私の毒を言い訳に、鈍る剣先があれば良い。