魔法使いと黒猫戦場を蹂躙した黒くて丸い、新月の夜よりも暗く深い闇。
何百人ではきかない数の敵兵を喰らいつくして今度は、人型の黒い影としてその主人の周りを浮遊し、敵の刃が届く前に、影だというのに鋭利だとわかる鎌でその首を落として回っている。
中心の赤い衣の子供はただ、戦場をゆるりと物見遊山が如く歩いているのみだと言うのに、だから生き残りは望むべくも無かった。
目撃者は一人とて逃すまいと思っていた者達も、その光景にどうか誰か生き延びていてはくれまいかと思う始末。
「やり過ぎだよ、馬鹿」
随分と過激に変質したソウルイーターの、一度その腹を満たしてやらねば誰の命をつまみ食いするかわからないと放り込んだ戦場で、それは必要以上に戦果を上げ命を狩り尽くし蹂躙した。
あれを虎と呼んだのはシーナか。
虎の方がまだ御しやすい。
ルックがそう苦々しく思っていると、そのシーナが背後に現れ、いきなり馴れ馴れしくも肩を組み顔を近づけ、ひそりと話かけてきた。
「なあ、首輪は付けられそうか?」
「始末しろと言われた方がまだ容易い」
「そう言うなよ。あれはまあ確かに傍若無人だけど、それ以上に懐いたらかわいい」
「……頭、沸いてるの?」
女性に対し、だらしなくも誠実なシーナの、この光景を見てもまだ「かわいい」などと口走る神経の太さがルックにはとても信じられない。
「まるで黒猫。確かにそうだったんだ、あの城の屋上で」
懐疑の目を間近で向けられているにも関わらず、荒ぶるリオ・マクドールから視線を逸らそうともしないシーナは。
「頼む」
いつになく真剣な顔と隠し切れない懇願を含む声で、短くルックに、そう願った。
「貸しだからね」
「何日かかろうと責任もつ」
大きな舌打ちと共に姿を消したルックが、ずっと見据えていたリオのすぐ前に現れたので。シーナは魔法兵団長の不在をどのようにごまかすか埋めるか、悩み事の内容を瞬時に切り替えた。
「ロッテ…手伝ってくれないかな」
目の前に現れたのがルックだとわかり、思わず警戒態勢を取ったリオもその体から力を抜いた。
リオがそのように無防備な様を見せても浮遊する死神はそれを怠らず、それほど開いてはいない互いの間にぬるりと入り込みゆらりと揺らめき刃を向ける。
ルックはちらりとそれを確認し、この戦場から転位するためにどうこの死神を引き剥がしてやろうかと、声も出さずに思案する。
こんなむき出しの荒ぶる魂と、共に空間を越え無事でいられると思える訳も無い。
死神が離れようとしないのならば、リオからこちらに寄ってもらうしかないが、さて。
「いい加減満足しなよ」
口火を切ったルックに、思いがけない事を聞いたというような顔をしてリオは答えた。
「満足する、しないの問題ではない気がする。でもここにはもう命が無い。全部食べ尽くしてしまった」
「魂喰いの紋章は、常時発動するような類の紋章じゃないはずだ」
リオとルックと間の漆黒の刃を睨みつけて、ルックは忌々しげに言い募る。
「そうなのか」
「だからこれは、この死神は君と君に喰われた魂の問題だ。テッドはこんな影を見せなかっただろう?」
テッドの名前に反応したリオは、反応せざるを得ない彼は、無意識にその身を一歩引いた。
その名前は、それに続く言葉は、きっと今でも自分を打ちのめすのに十分なのだと知っているかのように。
リオの怯えに反応して、顕現していた全ての死神が集まってくるのがルックの視界の端で見て取れるので、死んで迄なんとも過保護なことではないかと可笑しく思えて少しだけ笑ってしまう。
あれは僕を狩るものだろうか。
このがらんどうの、器ばかりのこの身の、一体何を。
それからふと、それに思い至ってしまい。
至ってしまったら口から出ていたのだから仕方ない。
「ねえリオ。父親と駆ける戦場は、楽しかった?」
背中から落ちた久しぶりの塔の中の自身のベッドの上。
反動で跳ねるルックの胸の上には、戦場で赤い虎か死神かと言われたリオ・マクドールが、夏の終わりの蝉のように弱々しくも決して放そうとしないそぶりでルックの法衣にしがみ付いている。
ルックの言葉に、一番近くに漂っていた死神が即座に大鎌を振り上げたのだが。
やはりお前がテオ・マクドールかとルックが思った瞬間に、その胸に衝撃を受けた。
それは鎌などではなく鎌振り上げる死神の大切な一人息子で。
後ろに倒れる僅かな間にルックは、湧き上がる勝者の笑いの衝動を堪え自分の巣穴に転位して今、こうしてここに居る。
死して尚、彼に縋る命より優先されたのはなんて、心地好いものなのか。
「ルックの馬鹿」
「なに、きみ、泣いてるの?」
「泣いてない。ルックの…バカ」
「悪口の語彙だけは今の天魁星の方が百倍は優れているね。弟子入りしたら?」
「うー、……ばか」
「はいはい」
涙さえ見せなければ泣いていないのだと言いたげな、今はとても猛獣とは言えない元天魁星の、小さく震える背を適当にあやしながらルックはシーナの言葉を思い出していた。
なるほどこれが、黒猫か。
包帯を巻くのならばそこに封印の紋を書けと、ルックに言われてお手本に書いてもらった美しい幾何学模様と、シンダルの遺跡で見る文字に似たその図形を真似て書き写すリオの右腕は。
肘のあたりまで魂喰いの紋章に浸食され真黒く炎のような紋様に染まっていた。
受け継いだばかりにしては執着が根深い。
解放戦争が起こるまで、身体ばかりを鍛えていて魔法は見様見真似だったリオが制御に慣れていないのだとしても、それはあまりに異常だとルックには解る。
魂を喰らうのだという紋章。
屋上庭園でリオを守った4人の魂。
その力を発動した時だけでなく、常時戦場を共に行く、死神。
猛獣から小動物に豹変するその宿主。
全部が全部やっかいで「頼む」のひと言ではとても足りなかったとルックは盛大にため息を吐きながら、目の前で描かれる紋様について改善点をあげつらう。
あんな紋章なんかに、浸食されたままで良い体ではないだろう君は。
「ここ、大事なのは対称であること。破片で捉えないで。向き合うひとつの相称であることが必要最低条件」
「はい。…ルック、それはひと模様ごと?」
「全体であればある程好ましい。この世界の根源には、美しいものほど届きやすい。エルフのように」
「エルフ。うん、彼らは在り方が美しい」
「見目と言わなかったって事は、君は本能で理解出来ている。この世界のことわりを。
エルフでも強い弱い、優劣があるのは、それらがぶれているからだ。
だから無機物は美しい程、精緻であればある程良いとされるし目に見えて効果が違う。
これが有機物となると、見目以外では、強い魂、通る言葉、揺るがない心、精霊好みの響きを持つ、声」
話している内にルックは。
ふとその条件が揃っているのではと思い至り目の前の人物の、自分の手元に向けられた目を見たくて無駄に伸びた長い前髪をおもむろにかき上げた。
「わ。ルック、ずれた」
「どうせ描き直しだよ。ねえ、君。なんでこんなに前髪が長いの」
「……。」
かき上げた髪の隙間から覗く、こちらを斜めに見上げるその目を代弁すると「だってグレミオがいないのだ」だろうか。
見た目以上に手触りだけは良いその前髪をなんとなく弄んでいると、何を思ったのかすんすんと、目を伏せ鼻を近づけ、おもむろにルックの手の匂いを確かめられた。
「は?犬?」
「シーナには猫と言われた。
ルックの手、このインクとどこか同じ匂いがする。他で売っているどれとも違う、とても独特の…それと、なんだろう他にも…」
これは本能で生きている獣なのだと思う事にしても何やら気恥ずかしい気がしてルックは、全てを一度停止させることにした。
まだその口から続きそうな言葉も、自分の感情の、知らない部分をするりと撫でられるようなこの感覚も。
そう、全部。
「おいで」
言われて素直に後ろに付いて歩くリオを引き連れて、ルックは塔の屋上まで跳ばずに自分の足で階段を一段ずつ登り。珍しくも横着しないその行動は、全部を白紙に戻すには十分な距離と時間を稼ぐのに大いに役立った。
「座って」
夜に星を見る時などに使われる備え付けの椅子にリオを座らせると、バンダナを無言で剥ぎ取り鋏を取り出して、本人の同意無く前髪を切り始める。
反射的に閉じられたリオの目に更に落ち着きを取り戻し、ルックは自身ではわからない指先や爪に染み着いているらしいインクの匂いの、正体を話してやるとこにした。
「インクにも物を混ぜている。長く残したい書き付けには植物の。魔に通じる、さっきの封印紋なんかには鉱物を混ぜたものを」
「知っていたのは植物の匂いかな。ルックの部屋の、窓際の香り」
乾ききらない、干している最中の薬草の事か。
「シーナはこう、ひとつの香りにすぐなるのだけど、ルックは指先と髪と服と、それにそう、君の部屋も窓と、机と、本棚と…全部違って、全部他には無いもので、うん、なんだかとても楽しい」
「人の臭いで遊ばないでくれる?」
「臭いじゃなくて、香り」
「…服の匂いなんていつ覚えたの」
「ルックが、雑にあやしてくれた時。この塔で」
ふふふと笑う口元に、雑なのは気付いているのに笑うのかとまた、自分の知らない内側を撫でられた気がして。
ルックは取り戻したはずの落ち着きを少しばかり、見失う。
手元が狂ったらどうする気だと、口には出さずに心の中で勝手に罵りながら、それでも鋏を動かし続け。
「服は、本と似た印象がする。なんだろう、こう、少し落ち着くような」
「本と一緒なら虫除け。自分で作るし。籠るし。書斎に」
「虫除け。除けるかな?どちらかと言われれば、寄ってしまう」
「寄るな」
そうルックは言い捨てながら、切り終わった前髪を混ぜるようにかき上げて細かな切り屑を払って除けた。
そのままふと、手でリオの目線を覆うようにして遮り、ではお前はどうなのだと顔を近づけつむじの辺りとそれと、耳元に限りなく近づいて嗅いでみたりしたのだが。
油断しかしていなかった割にはよく逃げる。
「…僕にはさっぱりわからない」
耳元に気配を感じた瞬間にきっちり10歩分、椅子を蹴倒しながら後ろに逃げたリオに真顔でそれだけを告げるのだった。
逃げた黒猫は食べ物で3歩。
本で2歩。
紅茶では1歩だったのでとっておきの風呂できっちり4歩分。
距離を詰めたので今度はどこを嗅いでやろうとじっと観察されている。
そんなことを淡々と、耽々と、思われているなど迂闊な猫はまだ、知る由もなかった。