Recent Search
    Create an account to secretly follow the author.
    Sign Up, Sign In

    sari

    @sa_ri108

    @y5Pur8Pbp88171I

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 22

    sari

    ☆quiet follow

    あれが黒猫ならこれは白猫

    こんな世界も名で人が死ぬのならば。
    そんなものなど必要無い。
    生きろとは言われたけれど名を守れとは言わなかったから。
    それでいいと言って。ねえどうか。


    「毒味にぴったりの人物がいる」
    シーナのこの。
    内心を悟らせない常に浮かべられる薄い笑顔に騙される凡人の多さを、ルカはいつもため息と共に静観していた。
    こちらに近づかぬ限りは、その法規的立ち位置に踏み込むような面倒をするつもりなどない。
    だというのにこれは何だ。
    「……貴様は、誰に、何を聞いた」
    「頑固な猫の引き取り手を探していた俺にオニールが耳打ちしてきた。なんでそんな奴が必要なのか詳細はなんも聞いてないからそんな目で見んなよ」
    早口で事を構えるつもりは無いと状況説明するシーナに、ルカは沈黙をもって答える。
    「あんたの縄張りにぎりぎり入っている場所で、このままだと疫病の原因になり兼ねない厄介ごとが起きている。
    何であんたの耳に入ってないか不思議でならないが、全員猫を守りたかったのかも。うん、それだ。
    な、わかったらその重い腰を上げてくれ」
    口元だけはへらりと軽薄に、それでいて周囲をルカの配下に取り囲まれた状況に少しも油断は見せないまま。
    沈黙は肯定と同意。と、説明とさらに要求を突きつけるシーナに気の短い者が「切りましょうか?」とルカの顔を窺うが、捨て置けとゆるりと首を横に振る。
    こいつはこいつで役には立つのだ。面倒な事に。
    毒味。猫。疫病。
    「予定は?」
    「本日の内容でしたら変更可能です。全てこちらで対応しておきます」
    傍らに控えるクラウスに短く問うと。優秀過ぎる男はいつもの様に取り計らうと請け負うので、それで仕方なく諦めた。
    シーナの首を切ってしまうことも、無視を決め込むことも。
    「案内しろ」
    立ち上がった途端にコートを羽織らされストールをかけられ、恭しく帽子を捧げられるルカに。
    シーナはここに来てから初めて心からの安堵の笑みを、その黙っていれば整っていることが分かる端正な顔に素直に浮かべた。


    その青年がどこから来たのかは誰も知らない。
    辺りに山と積まれた、彼の敵であろう男達の死体の山も同じく。
    「追われてここで戦って、連れを殺された。追手は自分で全部殺して回ったみたいだ。何日かは新しい追手が現れたが、死亡日の違う死体が無駄に増えただけだったな。
    それでもたぶん、また次の追手が手配される。これはただ俺の勘だけど。
    問題なのが、連れの死体を離さない事。
    離れない事。
    自分が敵だと判断した者をぜーんぶ殺してしまう事。
    汚れているけどよく見ると顔の出来がよろしくてな。
    ちょっかい出そうとした奴らも全員あそこで冷たくなっている」
    車の中で勝手に説明するシーナを放っておいたルカだが、そこで初めて口を挟んだ。
    「待て、そいつはずっとそこに居るならどうやって生き延びている」
    「飲まず食わずじゃないからだ。連れの最後の言葉を盾に、俺が交渉した。食べ物飲み物を運ぶ女は殺さないでくれってな。
    1回の食事で、1体死体を持ち出させてもらう事に同意を得た。
    携帯している武器やら着ている物やら、当たり外れの差はでかいがかなり上等な死体で助かる。
    女達は面白がって水やら食事やら菓子なんかまで、手ずから与えて楽しんでいる。
    着ている物を見ても育ちは悪くないはずだけど今は獣だな。
    名乗らないから俺たちは勝手に猫(マオ)と呼んでいる」
    「何故生かす」
    「殺すには、いろいろと惜しい」
    へらへらしていた目を、そこだけは鋭くして随分と入れ込んだ返事をするシーナを。
    どう判断するかルカは片手でワインを転がしながら考える。
    「拳銃の玉も避ける。正確には、動き回られてなかなか当たらん。
    動体視力の化け物だな。
    で、服やバンダナや多分あの長く編まれた髪にも、やたらと切れる刃が仕込まれている。
    あれがくるりと回ると血の花が咲く。
    なかなか…見ものだ。
    でもまあ、さすがに死体は腐るし気温も下がってきている。
    見兼ねた奴らが食事に睡眠薬を盛った。
    寝ている間にきれいさっぱり片付けようとな。
    それを、全部見分けて変なものが入っている時は食べようとしない。
    どんなに量を減らしても、薬と名の付くものを混ぜるとそっぽを向く。
    面白い事に、ビタミン剤のたぐいは口にしてあまつさえ礼まで言う。
    あとは、あれだな。
    最初に何語が通じるのかわからなくて俺が話せる分だけの言葉で話し掛けたが、全部聞き取って理解していた。
    無口だから全部喋れるかまではわからん。
    どうだ?面白い奴だろ?」
    高い戦闘力、機動力。
    育ちの良さを裏付ける、追われる程度の立場と服。
    食べ物の鑑定。
    情報と交渉を糧とし生きるシーナと、同等の言語能力。
    「ふん」
    疫病の蔓延を防ぐために口車に乗ってやったルカだが、初めてそこで、その人物に興味を抱いた。
    「何故自分で口説かない」
    「そこを聞いてくれるなよ。ヤな奴。
    俺は振られた。
    今はもう物言わぬ、連れの方が大事なんだと」
    シーナのその、珍しく感情の乗った表情を見て。
    真剣に口説いたのだとそれで解った。
    いつも一人で、気の向くままにやりたい事だけをやりそれでも敵を作らない。
    そんなシーナが肩入れする、猫。
    少なくとも退屈はしなそうだと、止まった車から降りながらルカは酷薄に、笑った。

    「お前、近づく前からめっちゃ警戒されてるじゃねーの…。
    ちっとはその剣呑な雰囲気を和らげようとは思ってくれないわけ?
    俺の話、聞いてた?
    ねえ実はバカなの?壊れた蛇口?」
    「黙れ」
    良く回るシーナの口はルカのその一言で配下の一人が塞いで止めた。
    ルカの視線の先。
    白い布で覆われた何かの傍らに立つ、黒い服と黒い髪、長く垂れるバンダナを風になびかせて立つその姿は、廃墟立ち並ぶこの場にあっても妙に姿勢が良い為か薄汚れてはいても確かにどこか気品を感じさせる。
    「シーナ」
    「なんだ?」
    「あれの連れの、最後の言葉とは?」
    「……代金は後払いな」

    『俺の分まで、生きろ』

    こちらを睨みつける大きな瞳は、なるほど猫のように獣のように。
    あれは見定める為の目だ。
    人より獣である方が、しつけのし甲斐もあるだろう。

    「ルシア。鞭を」
    使った事の無いはずの武器を所望するルカに、ルシアは逆らわず黙って自分の獲物を差し出した。
    「ちょっと待て殺すなルカ・ブライト。あんたに話を持って行った俺の期待を裏切るな」
    「黙って殺される程度の猫ではないのだろう?」
    「あーもう!!
    マオ!他はともかくこれは殺してくれるな!
    さすがにこの通りごとハチの巣にされる。そいつも巻き込んで!」
    シーナから掛けられた言葉に、マオと呼ばれた青年は。
    真っ直ぐこちらを見ていた視線を外し、足元の白い布をじっと見る。
    それだけで、その表情が。
    見ている者に「いたわしい」と思わせるのだから、なるほどシーナも惑わす程かとその性質に、くくっとルカは声を洩らした。
    「面白い」

    殺さない様にと言われた為か、ただただその布から離れるのを嫌がっているのか。
    自分からは近づこうとしない猫に、ルカは容赦なく長くしなやかな鞭を振るった。
    うねり近づくその鞭を、難なく避けた猫だったがそれだけではなく。いつの間に拾ったのかわからない石を投げ当てその軌道を若干変えた。
    鞭に当てる規格外ぶりも、きっちり足元の布にあたらない分だけ変えたられた軌道も、どちらにも余裕が伺えてルカはすこぶる面白くない。
    二撃三撃と追撃するが、全て避けてから逆に、何時の間にか解かれたバンダナでその鞭を絡めとられた。
    力で負けないのは体格差を見るまでもなく一目瞭然だったのだが、ルカが邪魔なバンダナごと引く前にシーナの言っていた刃とやらで絡めた先から鞭は切って落とされた。
    ならばとルカは二歩踏み込み、短くなった鞭を横に薙ぎ払ったが、おそろしく低い姿勢から目で追う間もない内にルカの懐にぬるりと滑り込まれ、除ける間も無く胸に掌底をくらう。
    踏み込んだだけ咄嗟に後ろに下がり衝撃を殺したルカが、それでも手首だけで返してみせた鞭で足元を掬い転がそうと試みるが地に手を付き跳ね上がり、側転から後転を繰り返しまんまと布の傍まで逃げられた。

    「なるほど猫だな」
    掌底を当てた時だろう。
    ルカの懐から抜き盗ったと思われる銃を、両手で構え真っ直ぐこちらに向けている。
    「手癖が悪く」
    その際ついでの様に横一線に切られた腹から伝う血を、親指で拭い。
    「爪も長い」
    にやりと笑う。

    「シーナ」
    「俺が殺すなって言ったから腹から内蔵が飛び出てないんだぜ?
    俺に対する感謝と賞賛の言葉以外、聞きたくない」
    「あれを止めろ。話がしたい」
    「1ミリも感謝が無い!
    さんざん自分で煽り倒しておいて!
    俺、あんたの部下じゃないんだからな」
    ぶつぶつルカに対する罵詈雑言を並べ立てながらそれでもシーナは「撃たないで欲しいんだけどなー無理かなー」などと口にしながら猫へと無防備に近づいていく。

    拳銃を使っているのを見た事が無いのが、シーナが素直にルカに従う理由のひとつ。
    もうひとつは、本当にここまでルカを殺していないから。
    自分なんかの言葉が届いたのかを、届くのかを試したかったのだ。

    警戒心しか持たない猫の目は、ルカだけを真っ直ぐ睨みつけていたので。
    それはそれで哀しいものがあると思いながらもシーナは、あっさりとその構えられたままの銃に手が届く所まで辿り着いてしまった。
    どうしたものかと思いながらその銃口に人差し指を突っ込んで、取り敢えず一撃でルカが死なないような措置をとる。
    「なあ、マオ」
    静かに呼びかけるシーナを、やっと見上げた猫の目にはルカに向けていた敵愾心が無かったので。
    うん、自分はやはりこれを守ろうと。
    シーナは他の誰にも抱いたことの無い庇護欲というものを、生まれて初めてその身に抱えてしまう。
    「もう、限界だ。お前、いつまでもこんなところに居たらダメだ。
    な、わかるだろう?」
    「……シーナ」
    「名前、憶えてくれてたんだな」
    これまで一度も口にしてはいなかったシーナの名を、こんな時に呼ぶのかと笑えたから指が吹き飛ぶ事は無いなとちょっとだけ安心する。
    「後ろの体も態度も気配すらやたらとでかいのは、この通り乱暴な男だけれど、きっとお前を守ってくれる。
    生きなくちゃいけないんだろ?
    それならさ、もっと温かいところで息をしよう。
    ずっと寄り添っていたから温かくなったあいつも、ここに居たらまた凍えてしまう。な?」
    毎晩口説く女性たちにだって、こんな声を向けるだろうかと自分でも思えるくらいに精一杯の柔らかさと熱を含ませて本気で説く。
    それなのに。
    「貴様なかなか気色悪い声を出すな」
    「あーもーお前台無しだよ……俺に何の恨みがあんの?人の心ちゃんと持ってる?
    性根が悪いにも程があるってもんだろ」
    いつの間にか背後まで寄ってきていたらしいルカが、全てを台無しにしてくれた。

    『お前は何故この場所にしがみついている』
    【ここでなくてはいけない理由などあるまい】
    〈あるのならば話してみるがいい〉

    わざと様々な言語で問いかけるルカを見上げる猫と呼ばれ続けた青年の、邪魔はしてはいけないとシーナは行儀よく沈黙を保つ。
    猫がこの距離に人を寄せるのは稀であるし、多分、これが最後の機会だろうから。
    説得の。
    待つことを知らないルカが、それでもよく我慢したと思えるくらいには時間が経過したその時に、おもむろに猫は話し始めた。

    ≪ここまで手を引いてくれていた、温かかった彼が冷たく固くなってしまった。
    ずっとそばにいたら柔らかさと、少しの温かさが戻った。
    今離れたらまた冷たくなってしまう。
    ……それはもう、いやだ≫

    ルカが話したどの言葉とも違うそれは、この地域の古い古い言語で。
    魔法のような抑揚の、通常使われるものよりずっと優しく聞こえる語尾が耳にするりと入り込む。
    そんな言葉を選んだのだから、話し合いに応じる気があるのだと他の二人は理解した。

    「仕方あるまい」
    死に別れるとそういう事だ、とにべもなく言い放ったルカは、けれどもそこで言葉を終わらせたりはしなかった。
    「自分とは別の命に、寄り添いたいなら生きている奴にしろ。
    貴様にはそれだけの能力があるだろう。
    生き残る。敵を倒す」
    「……人を、殺めたのはここが初めてだ。はじめから、そうしていれば良かった」
    彼が冷たくなってしまう、その前に、と。
    寂しそうに呟く猫の周りにはまだ、一人で対峙したとは到底思えない量の元人間が不釣り合いに折り重なっていたけれど。
    「後悔などなんの役にも立たん」
    初めてにしては殺し過ぎていると、この街ではそんな事など問題にならない。
    「役に立たない後悔など捨てて、熱が欲しいのならこれにしろ」
    そう言ってルカは、萎れた顔の猫の手を取り。
    彼が切り裂き僅かにしろ流れ続ける、自分の腹の、血に押し付けた。
    「この身はそいつに比べたら、火のように熱いだろう?」
    猫を引き寄せその耳元でささやき、歯を向き出し笑うその顔は。
    地獄の釜の番のような、聖職者を誘惑し惑わすような。
    「悪魔だな」
    少しだけ。
    選ぶ相手を間違えたかもしれないと。
    シーナは思ったがそれは既に、後の祭りでしかなかった。

    それから猫と悪魔は互いにしか聞こえない距離と音で、暫くその場で問答を繰り広げていたので結局。シーナは何が決め手だったのかを知る事も出来ないで。
    それでも情報を金と換える彼にしては珍しく、その顛末を見守るに留めて佇んでいた。


    これだけは激しく抵抗した、布の中の人物の移送作業も。
    自分の身に付けていたストールを外し猫の口にぐるぐると巻き付け言葉を封じたルカが、
    「貴様が一生寄り添える姿にしてやるだけだ。大人しくしろ」
    あの状態は死者への冒涜でしかない。
    そのような事を言い含め黙らせたから、その後は粛々と進められた。

    車に乗せる前にと、シードとクルガンによって全身を改められようとした時にも抵抗し、自分で武器という武器を体からひとつずつ取り外していった。
    無手のように見えた体からは、糸の様な刃、数十本の針、願い三つ編みの中からは小さな刀が山の様に、帯からは柔らかく身に巻き付く、これもどうやら刀のようである。
    バンダナや服の裾のブレードは外しようも無く、車や人を傷付けないという言質を取られることで猫は裸にされるのを免れた。
    「……これで、人を殺めた事が無かったって?」
    シードは極限まで首を捻り、クルガンは沈黙を守って全ての武器を記録した。

    外せる武器を落とし切った後、手当もさせずに腹の血を触り続ける猫に、車を汚さないでいる事を早々に諦めたルカは。
    特殊な懐かせ方をさせたのは自分だと流石に自覚がある為に、ため息と共に指示を出す。
    「そもそもこいつの体の死臭が酷い。全部諦めた。車のシートは後で剥いで捨てろ」


    今度はどんな言葉を尽くしてもルカから中々離れようとしなくなった猫は、風呂と聞いてあからさまにそわそわしだしたので。
    これ幸いとルカの手で湯舟に叩き込み効率を考えクラウスを一緒に入らせ、女達に全身を清めさせながらついでに知能の程度を測らせた。
    低くない。
    むしろ高い。教養もある
    高等教育を、受けていた事に間違いはない。
    鉱石や鉄の知識はまた別に特化している。
    ひょっとしたら他の事も。
    過去の事は話そうとしない猫から、それでも辛抱強く十分な情報を引き出したクラウスの報告を聞きながら。
    汚れが落ちてシーナ曰く整った顔をさらけ出した猫を眺めてルカが呟く。
    「髪を切り落とせば印象は変わるだろうが……整形させるか?」
    これの出自に興味は無いが、追われる身であることが厄介だ。
    護衛として連れ歩くならば、問題は少ない方が良い。
    「お待ちくださいお兄様」
    そんなルカの思考を、後ろから回された白くたおやかな腕が遮り止める。
    「私、このお顔が好きですわ。髪を切るだけで十分でしょう。
    そう、前髪は長く、真ん中を分けて印象を変えましょう。
    後ろは短く、その華奢な首が存分に見えてしまうくらいに。
    きっとそう、お兄様も気に入ります」
    後ろから抱き付き中空に指で形を描き、ジルは兄の連れてきた正体不明の青年の姿を整え飾るのは自分だと主張する。
    兄のものは私のもの。
    そうでしょう?と微笑んで。
    「……好きにしろ」
    「ありがとうございます。ねえお兄様。あの子のことは何と呼べば?」
    猫(マオ)はあくまで仮称でしかない。
    「貴様、名は?」
    「人が死ぬ。名は捨てた」
    「ジル、好きに付けろ」
    「まあ!そうですね、それでは哪吒と」
    「………正気か?」
    好きに付けろと言ったのはルカだが、そのあまりにも尊大な名付けに頭の回路の不具合を疑うのも無理は無い。
    「お兄様と同程度には。
    たくさんの武器を持ち、一度死んでここで生まれるのでしょう?
    乾坤圏に斬妖剣、砍妖刀に降妖杵…取り上げてしまった武器は返してあげて欲しいわ。全部使うところを見たいもの。
    それから蓮の花の模様の、美しい布で寝間着を作りましょうね。
    毎晩殺めたとしても、毎朝また生まれてしまえるように。」
    哪吒だとて。自害を含めても死して生まれ変わったのは2度ほどでは無かっただろうかとルカは思うが、正論を聞く妹ではない。
    殺された、ではなく殺めたと言った事から、もしや矛先をこの兄からこれに移したかとも思ったが楽観は出来ない。
    まあ、名などなんでも良かろうとその戯れの思考を許す事とした。
    「貴様の名は今から哪吒だ」
    「わかった」
    クラウスは。このような組織にいても捨てきれない常識を大事に持ち続けているクラウスは、その流れのあまりのひどさに眩暈を覚える。
    名付けられた本人が納得しているのだから問題ない。
    あるわけがない。
    名が無いのはあまりに不便だ、きっとそうだ。
    そう、だからこれは仕方のないことなのだと自分に言い聞かせ、3秒で頭を切り替え自分の仕事をする。
    「哪吒、わかった、ではありません。ルカ様の護衛にふさわしい言葉遣いを」
    切り替え冷静に指摘するクラウスの言葉に。
    哪吒はソファーに沈むルカまで歩み寄りひざまずき、先ほど自ら切り裂いた腹に服の上からそっと触れ。
    「承知しました」
    ただの猫だった時の鋭い眼差しを捨て、蜂蜜を混ぜたような艶を湛える瞳でもってその様に微笑んだ。
    「なんだ、躾ける手間もいらなかったか」
    鷹揚に答えるルカに。
    クラウスは再び、護衛とはどの様な職であったかなど、そのような常識を捨てる作業を3秒で済ませるために目を閉じ天井を仰ぎ、一つ大きく息を吐いた。


    哪吒は実際良く気が付き警戒心も強く、ジルが気まぐれでルカのワインや食べ物に混入しては騒ぎを起こしていた様々な薬や毒を的確に察知した。
    「……俺の可愛い猫がこんな仕上がりになるなんて、誰が予見できたよ」
    自ら持ち込んだ豪奢な箱を弄びながら、シーナのぼやきは底をつかない。
    ルカの横に座りその顔をじっと見上げる哪吒が、こちらを見たのは全身を目視で検分した1度きりだ。
    あれは飛び道具を隠し持っていないか確かめる目だなーあの路上でよく見た目だから俺知っているんだ、等と絶え間なく念仏のように唱えている。

    「そんなことはどうでもいい。早くよこせ」
    ルカはルカで哪吒を見ようともしないのが実に腹立たしい。
    いや、目の前で見つめ合われていたのならダメージはこの比でなかった事は火を見るよりも明らかなのだが。
    それでもさあ!とシーナは中々納得出来ない己を慰めるために請求額を撥ね上げた。
    「報酬は倍よこせ。そのくらい急いだ」
    「がめついな」
    うるさいわボケぇ!とは言わないで持ち込んだ箱を素直にルカに渡した自分を心の中で盛大に褒め称えながら、否定はされなかったとシーナは請求書の0を2つばかり増やすことを決めた。

    箱の中には真っ黒なチョーカー。
    ルカが持ち上げると大きすぎるダイヤがひとつ、真ん中でゆらゆら揺れてきらりと光る。

    「お前の連れだ哪吒。これでいつでも体温を分けてやれるだろう。
    お前が俺を守り死んだ時は、一緒に灰にしてやろう」
    ダイヤは良く燃える。

    そう言いながらルカは自ら、短くなった髪に邪魔される事なく、その細い首へとチョーカーを付けてやる。
    骨から作られたその人工ダイヤは、哪吒によく、とてもよく似合い。
    他の者に見せたくないとの哪吒の要望に応え選ばれた中国服の布の下、その首を生涯守り、共に焼かれるまで美しく輝き寄り添い続けた。





    優秀だけれどおいたもする。だって猫だから

    ナタクの朝は早い。
    太陽が昇り切らぬ明け方に、目覚まし時計も使わずに丸まった毛布の中。
    幸せな温かさに包まれながら目を開く。
    まだ頭がぼうとする中、ナタクのいつでも冷たい指先は無意識に喉元を探り。
    テッドがちゃんと今日も自身の指より温かいのを確認して、うん、と頷き小さく笑う。
    それからようやく毛布から頭を出すと、本当は苦手な朝という時間。
    ちゃんと目が覚めるように、全身にシャワーを浴びながら顔を洗う。
    顔だけを洗うのは苦手で、洗面台を床まで水浸しにしてしまうから。
    いっそシャワーを浴びてしまえ。
    半眼でシャワー室を指さした、いつかのテッドの教えは今朝もこうして生きている。

    髪からぽたぽた水を垂らしながら、経済、政治、一般に専門。
    何紙もとっている新聞を全部回収して自室に持ち込み、全てを速読したその後に。
    シーナの持ち込んだ噂話や、ルカの部下達が集めた情報をプリントアウトしたものを切り取り、対応する記事にぺたぺた貼り付ける。
    ついでに自分が読んで欲しいと感じた記事には付箋を。
    過去、ルカが読んでいた新聞を横から見ていたナタクが、暇つぶしにゲノム解析成功の記事に付けた「?」の文字で一時跳ね上がった関連企業の株価の暴落を予見し…それは結局研究者の勇み足でしかなかったのだ、片隅の、もはや見慣れた小さな暴動の記事に×印を付けて政変を察知した事に対して、頭をルカが撫でたから。
    こんな事でいいのかと、先に目を通すことを日課とした。
    ずっと長かった髪を切った直後は、バランスのとり方が良くわからなくて首を必要以上に動かしてしまっていたし、その軽さが寂しくて心細くて、胸の真ん中が、すんとしてしまっていたのだけれど。
    ルカのあの、大きな手が頭を乱暴に撫でた時。
    髪がしゃらしゃら動くのは、少し乱れてしまうのは。
    なんだかとても、とても良い。
    首をふるりと振るだけで、さらりと元に戻るのも楽で、それも今となってはすごく良い。
    だって丁寧に髪を梳いては編んでくれた、あの手はもうここには無いのだから。
    服の上から首元の彼にそっと触れ、そうして良い事ばかりに目を向ける。
    新技術開発の記事に、昔読んだいくつかの論文を頭に思い描き実用の可能性を考え。
    付箋に猫の、肉球を書いてぺたりと貼った。

    新聞を、読んで欲しい順番に並べ替えてから食堂に向かう。
    今朝は何を作ろうか。
    業務用の冷蔵庫の、銀色の大きな扉を開けて少し考える。
    朝食はナタクの領域だ。
    以前は作り置きもしたのだけれど、夜仕込んだコールスローを、朝に見た時何故だか嫌だと感じた事があった。
    薬や毒なら「ダメ」だと思うのだけれど、「嫌」だってなんだろう。
    自分でも理解に苦しむその勘に、ことりと首を傾げながら結局ルカに運ばず放置したそれを。
    つまみ食いしたシードが正しく七転八倒して悶え。
    その姿に「あらあら」と楽しそうにジル様が。
    「ザクロの皮って、想像以上にきいてしまうのね」
    笑いながら小さく透明に輝く赤い実を、つまんでナタクの口に入れてきたのでそれで止めた。
    兄妹のコミュニケーションは斯様に一事が万事、バイオレンスが過ぎる。
    ルカに拾われた理由をきちんと理解しているナタクは、別にそれを悪いことだと思ってはいない。
    世の中は広くて理解が及ばない事ばかりなのだと、ちゃんと自分は親友に聞いていたから大丈夫。

    ルカは昨晩、たくさん飲んでいたから温かい粥にしよう。
    米を洗い水気を切り、しばし放置。
    鍋には水と、朝から鳥ガラをとっている時間はないのでスープの素で代用することにした。
    それを中火で煮立ててしまう。
    食材のそばを離れたりせず、くつりくつりと鍋に熱が回っていくのをじっと眺める。
    今日もきっと慌ただしいであろう1日の、とても無駄で贅沢なこの時間がナタクは嫌いではない。
    十分に煮立ったのを確認して、先ほど放置した生米を加えてくるりとひと混ぜし。
    再度煮立たせた後、ごくごく火を弱めてさらに、煮込む。
    ふつふつと軽く沸くスープに、くるくる舞い踊る米から目を離さない。
    何故ならだって、ほらこのように。
    「おはよう、ナタ」
    「おはようございます、ジル様」
    いつ何時ジルが現れるのかがさっぱり読めないからだ。
    名付けた名を何時でも好きなように呼ぶジルの、自由さをナタクはとても好いている。
    「良い匂い。それ、私も食べたいわ」
    ナタクの背中にしなだれかかりながら腕を回し、紫色をした液体の入る小瓶を持つ手で鍋を指差すジルに頷き「諾」の意を伝える。
    ルカ以外にはあまり言葉を発さないナタクの。
    その姿勢を何故だかジルは好ましいと思っているようなので、挨拶以外は彼女であってもそのように通すことにした。
    「ありがとう。後で運んできてちょうだい」
    礼のついでに自分好みに細かく注文を付け切らせている黒い髪におはようのキスを落とした後、一緒について回っている御付の一人をそこへ残し、ナタクが目を離さなかった謎の瓶を使わずに持ったままジルは消えた。
    彼女に分けて足りなくなってしまう分は、蒸らしている間に果物でも剥こうとそれだけを思い。
    ナタクは鍋の火を止めそっと蓋をする。
    これだから朝食は、ナタクの領域なのだ。

    朝食と新聞。
    用意したそれらを携えルカの部屋のドアの前で佇む。
    しばし気配を探り、どうやら今朝も一人だと確認してからノックもせずに扉を開けて中へと侵入してしまう。

    他の気配がする時は中に入ったりしない。
    外で待って、あまりに待つ時間が長いと手慰みに磨いた鉄糸の切れ味を新聞で試し始める。
    細く、長く、美しく。
    自分のその技は廃れていないか。切れるかどうか。
    室内をあまり汚すなと言われて、人をそれで切ったりはしなくなったから。
    時間つぶしに試して衰えていないかを確かめる。
    昼過ぎまでルカではない気配がその部屋から出てこなかった時は、紙が足り無くなって部屋の前のカーテンまで5㎜間隔で裂いてしまった。
    乾麺の吊るし干しをしているかのようなその光景に、クルガンは頭を抱え深く重いため息を吐き、いつの間にか現れたシーナは腹を抱え大いに笑い転げた後、自分のところに巣を変えようぜと執拗に誘った。
    最初に声と手と食べ物をくれたシーナの事は嫌いでないけれど。
    むしろあの軽やかな魂をとても好んでいるのだけれど。
    ルカ程頑丈に出来ていないから失いたくなくて、イヤイヤと首を振る。
    好いた体温が、冷たくなるあの感覚はもう、知りたくもない。
    「なあルカ。マオ、持って帰って良い?」
    そんな事をしている間にやっと起き出してきたルカが、大きく開けた口で何事かを言う前に…それは間違いなく叱責の類だった筈…シーナがナタクをぎゅうぎゅうと抱えながらそんな事を言ったので。
    怒気を払い、少しの沈黙の後。
    「それはナタクだ」気だるげで重く深い声で。
    ルカはそれだけを言って、それからの朝を、一人で迎えるようになった。

    入り込んだ室内で、大きな窓に掛かる重くて少しも光を通さないカーテンを端から順に開けて回る。
    ここでルカ以外の匂いがしていたら、極寒の冬だろうと灼熱の真夏だろうと容赦なく窓まで全開にするのだが、ここしばらくはそのような事態も起きていない。
    それから浴槽まで点々と続くルカの抜け殻、シャツやネクタイ、靴にカフスを拾い集め仕分けてからベッドへと向かう。
    乗り上げた大きなベッドの上。
    温かな蒸しタオルで、寝ているのによくそんなに深く刻めるものだと感心する眉間の皺を、ほぐすように顔を拭いている間にゾンビのような呻き声をあげてルカが起きるので。
    タオルを捨てて、持ち込んだ朝食と新聞を恭しくルカに捧げる。
    そこまで終えてからやっと、今朝も早くから良く働いたご褒美をよこせと、ルカにしなだれその腹にぺたりと手を置き心臓に耳を当て。
    ルカがナタクの用意した朝食を食べ、新聞を読む間中ずっとそのまま。
    その強くて頑丈で丈夫な命を、思いのままに堪能するのだ。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    ❤❤💗😭😭👏👏👏👏👏💖👏
    Let's send reactions!
    Replies from the creator